70

 ことさらに厳しかった冬の寒さが少しずつ緩みはじめていた。

 エリシュカは厚手の生地で仕立てられた外套を着こみ、白い息を吐きながら王城の裏手にある厩へと急いでいる。行く先にはヴァレリーが待っているはずだった。

 エリシュカがふたたび王城に住まうようになってから、すでに数か月の時が流れていた。王太子の伴侶候補としての暮らしは戸惑うことばかりで、いまだに慣れたとは云い難い。それでも、こうして早朝に寝所を出て、テネブラエに会いに行くことができるくらいの余裕を持つことはできるようになってきていた。

 凍りつくこともなくなった道を急ぎながら、エリシュカは白みはじめた空を見上げた。――これからはじまる今日は、アランさまとわたしにとって特別な日。でも、大丈夫。いつもの空がちゃんと見守っていてくれる。


 王城へ戻ってからのエリシュカの暮らしは将来のための勉強と修業の日々であったが、ヴァレリーにとっては辛苦と忍耐の日々だったといえる。

 父である国王ピエリック・ロラン・ラ・フォルジュから任された叛乱事件の裁きは、すでに捕らえた者たちの断罪がむずかしいばかりでないばかりか、首謀者のひとりであるユベール・シャニョンをとうとう捕縛することができないままに判断を下さねばならぬ、最悪の事態を迎えていた。むろん、いまもなお彼の者の追跡には多くの人手を割いてはいるが、その身柄に迫っているかといえば、それは疑問の多いところである。

 その身を捕らえて長いリオネル・クザンは、いまだにひと言も口を利かない。あの監察府長官ガスパール・ソランがあの手この手を講じてもなんら動揺することがないというのだから、その胆力たるや相当なものだ。厄介な罪に身を投じた男でなかったら、うちで使いたいくらいだとソランがぼやいたとかぼやかなかったとか――。

 彼らに利用されたエヴラール・ジェルマン・ラ・フォルジュは、自身が積極的に叛乱に加担したわけでもなく、人質を取られた事情などを考慮すれば、さしたる罪に問われることもないのだろうが、王家の体面を考えれば無罪放免というわけにはいかない。

 そして、病床にあるアドリアン・トレイユである。今回の件の黒幕でありながら、しかし、その心に叛意の欠片もなかった国王の友。彼の罪が奈辺にあるのか、ヴァレリーには見極めがむずかしく、しかし父に彼を裁かせるわけにはいかない。あるはずもない手心を疑って、大臣や民らが黙ってはいないだろうから。

 父は、はじめからなにもかもを承知のうえで、息子にすべてを任せると云ったのに違いなかった。

 クザンとともに捕らえた叛乱勢力に加担した若者たちや、騎士という立場にありながらシャニョンの脅しに逆らえず、彼に与したギャエル・ジアンらの処遇についても定めねばならず、それぞれに抱えている事情を考えれば、むずかしい判断を迫られることになるのは目に見えていた。

 ヴァレリーがこのように困難かつ重大な判断を急ぎ迫られている背景には、叛乱勢力の蜂起によって動揺させられた国を――民の心を――、一刻も早く落ち着かせたいと考える王城――そこには、王家だけではなく、大臣らや議会に名を連ねる議員たちも含まれている――の意向が存在している。国の平穏を願う心は、対立する利害を凌駕するということなのかもしれない。

 ヴァレリーはオリヴィエ・レミ・ルクリュとともに寝食を忘れて、己が責務を果たし、周囲の期待に応えるべく努力した。

 そのころのヴァレリーの苦悩を、エリシュカはじつはあまりよく知らない。彼女から王太子を訪ねることはまだ許されていなかったし、かといって彼が訪れてくることもほとんどなかったからだ。

 あの夜は本当に稀な、そして貴重な機会だったのだわ、とエリシュカは思う。あのときのお話がなければ、わたしはまたもやアランさまを誤解してしまうところだった。

 あの夜、とは、ヴァレリーが、父王とともにトレイユと会った日の夜のことだ。

 父から与えられた使命に対し、ヴァレリーが下した答えはとても厳しいものだった。

 ――それはあるいは、彼自身にとって。

 学生たちを扇動し、王家転覆を企んだリオネル・クザンおよびクザンらに資金と情報を提供し、また無断で王都へと兵を向けた北部守備隊将軍アドラン・トレイユは斬首刑に処された。

 彼らに従った者たちはみな等しく服毒による死刑を命じられ、とくに、王城付騎士でありながら叛徒に与したギャエル・ジアンは鞭で打ち据えたのちに毒を与えられることとなった。

 高位の王位継承権を持ち、その身分を叛徒らに利用されたエヴラール・ジェルマン・ラ・フォルジュは、すべての地位を剥奪のうえ、王都からの追放を、エヴラール・ジェルマンの父である王弟ギヨーム・ジャン・ラ・フォルジュは、領地での蟄居謹慎をそれぞれ命じられた。

 重たい罪を犯したとはいえ、ふたりの人間を処刑台へと送り、近しい身内の者を王城から追放し、さらに両の手で足りぬ数の者たちに毒を含ませたヴァレリーの決断は、この先長らく民の記憶に刻まれ、恐怖とともに語られることとなるだろう。そして、そこには必ずや、王家への不満も付加されることとなる。

 現に、決して世情に敏いとはいえぬエリシュカの耳にすら――侍女らの口を介して――、ヴァレリーの冷酷を詰る声は届いている。

 エリシュカはそのことをとても寂しく、悲しく思う。すべてはアランさまのお立場がなさしめたことだというのに、と。

 東国がもとどおりの豊かで平穏な国に戻ったことを――あるいは、これからも乱れることなどないのだということを――民に示すためには、叛乱を企て、叛徒を主導した者を生かしておくわけにはいかなかった。そこにどんな想いがあろうとも、どんな事情があろうとも、王家に逆らうことは許されないのだと、民の意識にしっかりと刻み込む必要があった。善悪はさておき、いま現在東国を統べる王家が揺らぐことは許されない。

 そして、たとえ本人の意志にかかわりのないことであったとしても、その身分を不用意に利用された者を、王家の中に残しておくわけにもいかなかった。王族としての自覚に欠ける者に王城に住まう資格はない――少なくとも、王太子自身はそう考えている――ということを周囲に示さねばならなかったのだ。

 それゆえ、クザンとトレイユ、ジアンらは死刑に処され、エヴラールとギヨームは王城から追放されることとなった。

 なにもかもヴァレリーの望んだことではない。

 とうとう最後までなにも語ることのなかったクザンや、その話を聞く機会もなかったジアンは別にして、ヴァレリーは、トレイユやエヴラール、ギヨームの心に触れている。彼らの言葉を聞いてなにも感じなかったはずはない。

 彼らに心があるように、ヴァレリーにだって心があるのだ。

 けれど、彼は自身の心を押し殺してでも、冷酷をなさなければならなかった。

 王太子であるために。国王となるために。

 ――いま、このときの国を守るために。

 辛く苦しい日々の中、ほんの時折エリシュカの元へとやってきたヴァレリーは、しかし以前のように彼女に耽溺することはなかった。身体を重ねることもほとんどなく、ただひたすらに穏やかな眠りを求めていた。

 エリシュカの手を握り、ときに肩を抱きしめ、きつく目を閉じて眠るヴァレリーは、このまま目を覚ますことがなければいい、とでも思っているかのように、深く深く眠った。

 彼の眠りを守るようにそばにありながら、王であるとはなんと苦しいことなのだろう、とエリシュカは思った。

 やはり、人の身には過ぎた重荷なのではないだろうか――。

 いつか思ったことと同じことを思い、エリシュカは溜息をついたものだ。アランさまをお助けするために、わたしにできることはなんだろう。

 いまのエリシュカには、ヴァレリーにふさわしくあるために、周囲に云われるまま学ぶ以外に――それも、ほんの少しずつ進むのが精一杯だ――できることはない。


 エリシュカが厩舎へ到着するのを待ちきれなかったのか、朝靄の向こうから二頭の馬を引いてヴァレリーが現れた。空は暁に染まり、朝を告げる鳥が呼びあうように高く鳴きながら飛んでいく。

「お早いですね」

 ヴァレリーの手からテネブラエの手綱を受け取り、エリシュカは微笑んだ。

 神ノ峰から神ツ国、神ツ国から東国と長い旅をともにして、テネブラエは少しずつヴァレリーに心を許しはじめているようだった。さすがに背に乗せることまでは許さないが、こうして手綱を引いたり、厩に足を踏み入れたりしても歯を剥き出しに威嚇するようなことはなくなってきている。

「おはよう、テネブラエ」

 自分よりも先に鼻面を撫でてもらえる馬に羨ましそうな目を向けながら、ヴァレリーは、今朝は裏を少し駆けるだけにしておこう、と云った。

「今日はなにかと気忙しくなるからな」

 エリシュカは、はい、と答え、自分に向かって伸ばされたヴァレリーの指先をそっと握った。

 ふたりはともに空いたほうの手で馬を引いてゆっくりと歩き、やがて王城の裏に広がる草原へと足を踏み入れた。かつてはここを無限に広い大地のように感じたものだけれど、とエリシュカは思う。いまのわたしには、ここが誰かの手によって丁寧に整えられた箱庭のようなものだということがよくわかる。

 ヴァレリーは以前より少し大人になった感のある月毛馬ルナに跨り、エリシュカ、と恋人を急かした。テネブラエもこんなときばかりはヴァレリーに同調し、早く早く、と鼻面を二の腕に押しつけてくる。

 エリシュカはふたりに苦笑いを向けながら、はい、と応じた。支度を調え、テネブラエの背から遠くへと視線を投げれば、もうまもなく陽が昇る時刻となることが知れる。

「夜明けですね、アランさま」

「ああ」

 ヴァレリーは目を細めてエリシュカを見遣り、そういえば、と呟いた。

「叔父上とジェルマンは無事に北の領内へ到着したらしい。昨日、カスタニエが知らせてきた」

 自分たちを照らす初春の朝陽が、遥か遠き地に身を置くこととなった従弟にも同じように降り注ぐようにと、ヴァレリーは祈っている。そのことを感じたエリシュカは、そうなのですか、と頷いた。

 かつて自分を支えてくれていたモルガーヌ・カスタニエが監察官となったことを知ったのは、つい最近のことだ。デジレが言葉を濁し、なかなか教えてくれかったものを、傍らに控えてくれることがつねとなっているサラ・デュラフォアが教えてくれたのである。

 現在のモルガーヌの立場を知ったエリシュカは、己の過ちを彼女に詫びる機会を永久に失ったことを悟った。王太子の恋人であるわたしは、モルガーヌの監視を受ける立場となった。たとえどのような形であったとしても、旧交を温めることは互いの立場が許さない。

 現に、モルガーヌはこれまで、ただの一度もエリシュカに会いにこようとはしなかった。

 監察官である彼女がエリシュカの帰城を知らぬはずはなく、また、その気があるのならば、たとえ厳しく禁じられていても、彼女ならばなんらかの手段を用いて会いにやってくるはずだった。

 それがないということはつまり、モルガーヌはエリシュカに会いたくない、もしくは会う必要を感じていないということなのだ。

 そして、エリシュカもまた立場ある身となった以上、いまやひとりの官吏にすぎなくなったモルガーヌを呼び出すような真似をすることはできなかった。

 それでも、こうして彼女が元気にしていることがたまに知れるのだから恵まれている、とエリシュカは思う。願わくば、モルガーヌもまた、わたしが元気でいることを知っていてくれているといいのだけれど。

 エリシュカはその思いを口にはしなかった。モルガーヌがギヨームの領地まで彼ら親子に従って行ったのは、それが刑の執行であるからだ。彼女の身を案じる言葉は、いまはふさわしくない。

「北の地はまた冷え込みもきつかろう。叔父上が健康を損なうようなことにならなければよいのだが」

 蟄居謹慎を命じられたとはいえ、ギヨームの身分はいまだ王族である。領地を所有し、位もある。生きていくのに困ることはない。

 だが、エヴラールは違う。彼はすでに王族でも貴族でもない。学問しか知らぬ心やさしい男が、身ひとつで生きていくすべを見つけるまで、彼を庇護する叔父に健やかであってもらいたいと願うのは、ヴァレリーにとってはあたりまえのことだった。

「王弟殿下はまだまだお若くていらっしゃいます。なにかと身を動かさねばままならぬ鄙の暮らしは、存外お身体にはよいものかと」

 慰めるようにエリシュカが云えば、ヴァレリーは、そうかもしれないな、と頷き、そういえば、と可笑しそうに続けた。

「ジェルマンのやつは王籍を離れ身軽になったことを喜んでいるらしくてな。これでどこへでも行ける、西国にも神ツ国にも行ってみたいとこっそり張り切っているらしい」

 エリシュカは頬を綻ばせ、まあ、と云った。

「それもモルガーヌが?」

 ああ、とヴァレリーは頷き、気楽なものよ、と小さなため息をついた。

「おれの悩みなど知ったことではないと、そう云わんばかりだ」

 そして、苦笑いとともに恋人を促した。

「行こうか」

 ふたりは手綱を取り、ゆっくりとした足取りで馬を進めはじめた。

「そなたの友も、じきに神ツ国へ向かうとか。厳しい道行ゆえ、無事に故郷まで辿り着けるとよいな」

「はい」

 国内の治安が一時乱れたせいで、帰途に着くのが遅れていたベルタ・ジェズニークも、仮の主であったエヴラールが城を出ると同時に王城付侍女の任を解かれ、神ツ国へ帰国することが決まっていた。エリシュカもクロエ・クラヴリーも、そしてなんとデジレ・バラデュールまでもが慰留を試みたが、ベルタの意思は固く、覆すことはできなかった。

「そなたも寂しくなろう」

 いまのベルタはエリシュカの客人として王城内に暮らしているが、それもあと数日のことだ。

「はい」

 エリシュカの正直な答えにヴァレリーは薄く笑んでみせた。彼女の素直さが愛しい。

「でも、ベルタのことは心配しておりません。オリオルさまがご一緒だと伺っておりますから」

「あの堅物がな」

 エリシュカは楽しげに笑ってみせ、彼女につられるようにヴァレリーも笑い、ふたりは同時に歳の割に初々しい彼らの姿を思い浮かべる。

 ひょんなことから旅をともにし、いつのまにか惹かれあったベルタとベランジェ・オリオルは、オリオルの一世一代の大告白によって想いを通わせあっていた。

 実を云えば、オリオルの告白は、いい歳をして色惚けた晩生の騎士を、周囲の連中がおもしろがって焚きつけたというのが本当のところである。――朴念仁のおまえにできるのは、どうせ指を咥えて見ていることだけだろうが。ああいう気だてのいい娘はな、白馬に乗った王子さまと結ばれると相場は決まってるもんなんだよ。馬には乗れても白髪交じりのおっさんが相手じゃあ、笑い話にもならねえよ。

 東国で王子と呼ばれるような男たちは――たいへん残念なことに――、いずれもおおいなる難を抱えているためベルタの好みではなかったが、オリオルはそんなこととは知らない。実際、エヴラールの傍らに仕えていた彼女のこと、もしやそんなこともあるかもしれないと慌てた武骨な男は、自分の半分ほどの歳の娘に向かい、大酒でも飲んだのかと云わんばかりの赤い顔で想いを告げることとなったのだった。

 いい年になるまで独り身を貫いていた朴念仁の純情は奇跡的に通じたが、しかし、では、すぐにでも所帯を、と焦る中年にベルタは非情だった。私もオリオルさまのことはお慕いしております。でも、やはり故郷のことや両親のことが気がかりでならないのです。

 そして、オリオルはベルタとの結婚の許しを得るべく、未来の妻とともに神ツ国へ向かうこととなったのだった。

「ベルタはきっとオリオルさまとともに戻ってまいりますわ。ですから、寂しいのはほんのひと時のことです」

 教主や高位神官の娘が他国の有力な貴族に嫁ぐことは別として、神ツ国の娘が他国の男を夫とした例はない。ベルタ・ジェズニークの婚姻は、彼の国に新たな波紋を投げかけることとなるだろう。

 ヴァレリーはそのことを知っていたが、エリシュカの希望に水を差すこともあるまいと思い、黙っていた。それに、と彼は思う。

 それに、あの国はいままさに変わろうとしている。

 神ツ国から戻ったのち、ヴァレリーは元妻シュテファーニア・ヴラーシュコヴァーから一度だけ書状を受け取っていた。

 あれがおれになにかを寄越すなど、天変地異の前触れかと思ったが、書状には挨拶もそこそこにエリシュカの様子を尋ねる言葉が連ねられており、彼女の心が知れた。ようは、うちの娘を蔑ろにしてはいないでしょうね、という脅迫めいた問合せである。まったく極端から極端へ走るものだ、とヴァレリーは苦笑いした。育ちのよい彼女は、己の突然の変化に周囲が狼狽えることをまるで理解していない。

 エリシュカの様子を尋ねる、それだけではどうかと本人も思ったのか、そのあとには、彼の国の現状について少々長めに綴られていた。

 ヴァレリーとエリシュカが旅立った直後の祭祀の場で、派手な演説と演技とをぶちかましたシュテファーニアだったが、それからなにもかもがうまくいったかといえばそうではない。

 国を変える、という漠然とした話を具体化するため、シュテファーニアはあらゆる立場の者たちと話し合わねばならなかった。曖昧な理想は鋭い言葉で切り裂かれ、高尚な理念は厳しい現実に平伏しそうになった。容易く屈服することを決して自分に許さなかった彼女が、涙を飲んで妥協しなければならないことも多かった。

 父や兄、あるいは母や姉たち、家族との融和にも時間がかかっている。いまだ関係は修復されたとは云えず、これについては諦めなくてはならないかもしれません、とシュテファーニアは書いていた。

 けれど、シュテファーニアたちが思うように動けずにいたことも、そう悪いことばかりではないのかもしれなかった。そうこうしているあいだに、中位以下の神官たちにある動きが見られるようになったのだ。

 彼らは、まずは、とばかりに自身が抱える賤民たちを解放した。

 解放したとはいっても、明日から自由だといって賤民たちを屋敷から追い出したのではない。出て行きたい者には出て行く自由を保障しつつ、仕事を仕事としてあらためて与え、わずかばかりとはいえその対価を支払うようになったのだ。

 神官といえども中位以下ともなれば、財政的に豊かな家ばかりではない。支払う対価は金銭ではなく、自由に使用できる私的空間であったり、清潔であたたかな衣類であったりすることも多かったが、それでもこれまで満足な食事にすらありつけなかった賤民たちにとってみれば、驚くほどの待遇改善だった。

 わたくしの考えは間違っていなかったと、嬉しく思いました、とシュテファーニアは綴っていた。だが、そうした動きが、幾人もの神官たちの家で同時多発的に起きるはずがない、とヴァレリーは思う。誰か、指揮している者がいるはずだ。シュテファーニアと同じような、あるいはもっと進んだ考えを持ち、息を潜めて時機を待っていた者が。

 そう、なにかを考えているのはおれたち――国の頂点に立つことを定められた、生まれながらの為政者――ばかりではないのだ。

 誰にだって、考えることのできる頭と動かすことのできる身体がある。いずれか、あるいはその両方が。

 つまり政治とは、その志ある者であれば、誰が動かしてもよいものなのだろう。

 己の意志をはっきりと示した中位神官たちは、次にその意思を高位神官あるいは教主へと向けることを躊躇わなかった。

 その事実に対するシュテファーニアの筆はとても正直だった。血が統治する時代は終わったのだと、この国はおまえたちだけのものではないと、同じことを考えていたはずなのに、彼らにそう云われたとき、わたくしが感じたのは恐怖でした。閉じられた部屋で、よく知る者たちと、長い時をかけてあれこれと話し合うことは、それはつまりなにもしていないのと同じことだと、そう思い知ったのです。

 わたくしたちは変わらねばならない。自分たちが意識しているよりももっとずっと早く、ずっと大きく変わらねばならない。

 ――それは、あなたも同じではないでしょうか。

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