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 ここに囚われてから、いったいどれほどの時間が過ぎたのだろうか、とクザンはぼんやりと考える。食事や睡眠をとらない日はないのだから、時を数えようと思えば数えられる。だが、とくに変わりばえのしない毎日は退屈きわまりなく、それがどれほど続いているのかなど、彼はとくに知りたくもなかった。

 狭苦しい牢内の壁に凭れて座ったまま、クザンは石のひとつにこびりついた苔を爪の先で剥がし取り続けている。とうに気の触れた男のように見えるかもしれないな、と少しばかり可笑しくなり、しかし、こうして指先を動かすことに集中してでもいなければ、本当に気がおかしくなってしまうかもしれない、とも思う。


 シャニョンと別れたあと、自ら王太子の軍に捕らえられたクザンは、あれからいままでずっと、なにを尋ねられても口を閉ざしたままでいる。まともな声の出し方など、とうに忘れてしまったかもしれない。

 監察府による取調べのはじめに名前を告げた以外、クザンは黙して語らなかった。かつていわれなき罪で囚われたときのように拷問にでもかけられれば、悲鳴くらいは上げたかもしれないが、罪を認めぬ容疑者に対し、殺す以外のあらゆる苦痛を与えることを許されているはずの監察官らは、どうしたわけか、一向に暴力的な手段を用いようとはしなかった。

 むろんクザンとて痛い目になど遭いたくはないから、そこに不満などあるはずもないが、こちらが黙っている限り、あちらも根気強く待っている、といういまの状況は、どちらかというと彼にとって分が悪い。監察官にはいくらでも代わりがいて、任務に退屈すれば交代することもできるが、こちらは、ちょっと疲れたから代わってくれよ、というわけにはいかないからだ。

 それでも、クザンがこれまで監察官らになんら有益な情報を渡すことなく耐えていられるのは、彼が完全な沈黙を選んだからにほかならない。たとえどんなに些細なことであったとしてもひとつの質問に――これくらいならいいだろう――答えてしまえば、ふたつめ三つめを拒むことは――どうせひとつは答えてしまったのだし――むずかしくなる。

 取り調べるほうも取り調べられるほうもそのことはよくわかっていたから、わずかでも隙を作りたい監察官らはじつにさまざまな質問を投げかけてくる。クザン個人にかかわることから家族のこと、仲間のこと、政治のこと、民のこと、歴史、気候天候にいたるまで。

 だがクザンは、どんな問いにも決して答えなかった。今日はいい天気だな、と云われてさえ黙っていたときには、取調べの腕に自信がありそうに見えた監察官の額に青筋が浮かんだ。殴られても蹴られても、いつかのように爪を剥がされても、なにも云わぬと決めた男にとって、その苛立ちはいささか滑稽ですらあった。

 件の監察官は、それなりに力を持った男であったらしい。彼を虚仮にした翌日からしばらく、クザンは取調べを免除され、日がな一日地下牢に繋がれたままで放っておかれた。これは思っていたよりもずっとクザンの心を挫く罰となった。

 食事は日に一度、量に不足はないが、寝ているあいだに運ばれてくるため、一日中誰とも口をきくことがない。燭台の灯りが絶えることはないが、そよとも空気の動かぬ石室に閉じ込められたきりでいると、時間や空間の感覚ばかりか、身体感覚まで失われていくような気がして、クザンは何度か狂気じみた悲鳴を上げることとなった。

 いったいどれほどのあいだその罰が続いたのかはわからないが、脳内に渦巻く自らの思考に溺死させられそうになっていたクザンは、出ろ、とやってきた監察官をまるで天からの救いのように感じたものだ。

 あのときは危なかった。

 もしも、あの監察官がもう少し忍耐強い性格であったなら、いまごろクザンは、己の仲間たちのことについて洗いざらいを白状した上に、云わなくてもいいことまで云ってしまっていたかもしれない。

 話す気になったか、とクザンを牢から引きずり出した監察官は、その気になれば頬を舐められるほどの距離にまで顔を近づけてそう尋ねた。喉も裂けんばかりに悲鳴を上げ続け、意識を朦朧とさせていたクザンは、しかし、その問いかけにわれを取り戻した。

 これが狙いか、と彼は気づいた。

 何時間も何日も、誰にも会わせず、外も見せず、ただひたすら閉じ込めれば、人は必ず己の中に逃避する。いっさいの情報も刺激もない環境に、長く耐えられる者は存在しない。自らの記憶や思考と戯れる以外に刺激のない世界で、少しずつ歪み、少しずつ壊れていく。完全に自失するまでは長くかかるかもしれないが、理性を壊すまではそう長いことかからない。

 己を制御できなくなり、日に何度も悲鳴を上げるようになった俺は、そろそろ頃合いだと思われたのか、とクザンは思った。そして、――負けてなるものかと思った。

 どこか勝ち誇ったように笑う監察官を睨みつけ、クザンはわざとのように奥歯を噛みしめてやった。おまえに話すことなんかなにもねえよ。声にならぬ罵倒が聞こえたのかどうか、だらしなく開きっ放しだった唇の端から垂れた涎で汚れた顎を蹴り飛ばされたが、それでも呻き声ひとつ上げてやらなかった。

 相当に苛立ったらしい監察官が殴る蹴るの暴行をようやく抑えたときには、クザンはまるで襤褸布のようになって牢の床に転がされていた。格子の向こうにはこれまでにも何度か顔を合わせたことのある体格のよい監察官がしゃがみ込んでいて、呆れたような苦笑いを浮かべてこちらを見ていた。

 あんまり挑発してくれるな、と彼は云った。あいつはあまり我慢の利かない男なんだ。殺されるところだったんだぞ、おまえ。

 クザンは身じろぎひとつしなかった。痛む身体を動かしたくなかったせいもあるが、こいつはまずい相手だ、ということが察知できたせいでもある。これまでにも何度か自分の取調べを担当したことのあるその男が、ジュヴェ、という名であることをクザンは知っていた。ここに囚われてから知ったのではない。昔から知っていたのだ。

 セレスタン・ジュヴェは、クザンがまだ王城学問所に在籍していたころ、同僚だった男である。クザンの知る限り首席を譲ったことのない秀才で、もちろんクザン自身一度も彼より優秀な結果を修めたことはない。

 己の能力の高さを鼻にかけ、他者を近寄らせなかったクザンと違い、ジュヴェは友人も多かった。その大半が優秀な彼のおこぼれにあずかろうとする輩であるとしても、彼はそんな連中にすら親切だった。

 クザンは内心でジュヴェを莫迦にしていた。どれほど優秀だろうと、そんなふうに誰にもでも彼にでも心を許しているようだと、いつか足元を掬われるぞ、と。

 結果的に足元を掬われて――それも他人にではなく、自分自身の融通の利かなさに――学問所から放逐されたのはクザンのほうだったから、その後のジュヴェのことなど知る由もなかった。まさかこんなところでこんな形で再会するなんて――。

 だが、はじめての取調べで顔を合わせたときもいまも、ジュヴェはクザンが既知の人物であると気づいた様子はなかった。

 それもそうか、とクザンは自嘲する。ジュヴェはつねに首席にあった男だ。光の当たる場所にしか立ったことのない彼は、自分の背後に立つ男になど、興味も関心もなかったのだろう。身じろぎひとつしないクザンの様子をしばらく観察していたジュヴェは、さほど時間の経たぬうちに牢から出て行った。


 あのときの監察官――クザンに拷問まがいの振る舞いをした男――は、どうやらクザンの取調べ担当から外されたらしい。以来、顔を見ることはなくなった。

 その代わり、ジュヴェが以前よりも頻繁に顔を見せるようになった。

 あいつはいまも昔もまるで変わらないな、とクザンは一定の調子で苔を毟り取りながらそんなことを考えた。周囲にいる誰よりも賢いくせに、穏やかで親切で、人を気遣う余裕がある。

 俺には生涯縁のないものだ、とそこまで思ったところで、くそっ、とクザンは思わず毒づいた。毟った苔を壁に向かって投げつける。音もなくどこかへ消えたその苔が、まるで大切ななにかであったかのように、クザンは闇を睨み据える。

 クザンの取調べにジュヴェが現れるようになってから、その方法は大きく変わった。

 それまで、監察官らはクザンからなにかを聞き出そうと躍起になっていた。仲間の居所、隠れ家の位置、金の動きに黒幕の存在。どこにいる、どこにある、さあ、なにもかも吐け――。

 云え、云え、と迫る割に、しかし彼らは自分たちのことはなにひとつ明かそうとはしなかった。取調べの目的や現在の状況、果ては己の名や所属さえも。

 なにを云われたところで閉ざした口を開く気などないクザンだったが、監察官らの無能には笑いを堪えきれなかった。臍で茶が沸くぜ、と思ったこともある。自分たちだけが正義だと思っている連中に、誰がなにを話すものか。たとえ俺がなにもかもを白状する気になる日が来るとしても、告白の相手はおまえらじゃない。訊いたことになんでも答えてもらえるのがあたりまえと思っているのなら、監察官なんてやめてしまえ。

 だが、ジュヴェはそうではなかった。

 クザンに相対したとき、まず己の所属と名を告げた彼は、ことさらに笑顔を浮かべるでもなく、近ごろはずいぶんと寒くなってきました、と云った。国内はひどい不作で、貧民街の救難所には、炊き出しの粥を求めて連日長蛇の列ができるそうです。

 クザンは思わず片目を眇めた。言葉を発しないばかりか、表情を変えることさえしなかった彼にしてみれば、それは最大級の驚きの表れだったとも云える。驚いたのはジュヴェの云った事柄に対してではない。そうした情報を自分に与える行為、それ自体を意外に思ったのだ。

 しかし、悪いことばかりではありません、とジュヴェはなおも云った。しばらくの間行方不明となっていた王太子殿下から、ご無事を知らせる書状が届けられたとか。国王陛下や側近のルクリュさまをはじめ、城内の誰もがえらい浮かれようです。当然と云えば当然なのですがね。

 クザンは息を詰めてジュヴェの饒舌に耐えた。沈黙を誓った身に堪えるのは、口を割らせようとする圧力などではなく、会話を求める誘いなのだとはじめて知った。

 王太子が行方不明になっていたことすら知らなかったクザンは、そうやってわずかばかりに外の世界のことを知らされることで、己がどれほど情報に飢えていたのかをも思い知らされることになった。

 知りたい、とクザンは思った。

 ユベールは、仲間たちは、いまどこでどうしている。軍の手から逃れ、無事に潜伏し、再起に向けて動き出しているだろうか。

 アドリアン・トレイユはなにをしている。長い時間かけて目論んだ革命の成功を信じ、国のどこかを意気揚々と歩んでいるのだろうか。

 エヴラールはなにを喋った。叛逆の徒に与してなどいない。身分を利用されただけだと、ありのままを明らかにしただろうか。

 監察府は――、どこまで事実を掴んでいる。

 相手のことを知りたいと思うことは、相手に自分を知ってもらいたいと思うことと表裏一体だ。あるいは、それは、知られてもかまわない、ということにも通ずる。

 ジュヴェはもちろん、そんなことはよくよく承知しているのだろう。だからこそ、こうして俺に外の情報――あたりさわりのない範囲の――を与えたのだ。会話に飢えた俺が、なにかひと言でも発する隙を作ろうとして。

 夕刻まで続けられた取調べのあいだじゅう、ジュヴェは腹が立つほど饒舌にあれやこれやと喋りまくった。あともう半刻も延ばされていたら、危うく相槌のひとつも打ってしまうところだったかもしれない、とクザンは思う。

 決められた時刻を大幅に過ぎていますから、と部下に窘められ、今日の取調べを打ち切ったジュヴェが、結局はなんの成果も出せなかったことに落胆する様子も見せず、また明日、と云ったとき、クザンは囚われてからはじめての恐怖を覚えた。

 明日もまた、この誘惑に満ちた責めに苛まれるのか――。

 冗談ではない、とクザンは思う。穏やかに会話を求めるふりをする既知の人物が、見えぬ刃を振りかざした悪魔のように思える。心を許し、気を許し、口を開いたその瞬間にすべてを奪われ、持って行かれるだろう。

 そしてあとには、なんの役にも立たなくなった抜け殻だけが残される。

 そんなのはごめんだ、とクザンは思った。

 ジュヴェらがいまだに自分の取調べに手をかけているということは、ユベールらの行方に皆目見当がつかないせいだろう、とクザンは読んでいる。もしも、少しでも手がかりがあるのなら、手間の割に実入りのない自分の取調べなどとっととやめて、そちらを追うはずだからだ。

 だが、ジュヴェらはいまだしつこくクザンに食らいついてくる。――狙ったとおりに。

 ユベールはよほどうまく逃げおおせているらしい。その調子だ、とクザンは思う。その調子で官吏どもの目を欺き、地下に潜んで再起のときを待て。

 口を割っても割らなくても、俺はそのうち必ず処刑されるだろう。そのときが迫ったころに、適当な嘘でさらに煙に巻いてやる。仲間の行方は完全にわからなくなり、革命の芽は摘まれることなく生き延びることができるだろう。

 囚われたからといって、俺の心から革命の炎が消えたわけではない。その矜持だけがいまのクザンを支えている。

 だから、ここでジュヴェに屈することは、クザンにとって自身の死を意味する。肉体的なそれではなく、精神的な意味で――。だから、俺はなにがあってもジュヴェの取調べを耐え抜かなくてはならない。

 やつのやり方が、いまの俺にとってひどく堪えるものであることはよくわかった。明日もその先も同じことが続くというのなら、せめて休息だけはしっかりと取っておかなくては、とクザンは思う。体力を削られればそれだけ、心への負担も重たくなるものだからだ。

 さっさと寝ておくか、とクザンは苔を毟る手を止めた。

 硬い石の床の上に藁と布で作られた粗末な寝台がある。その上に身を横たえ、ふたつ三つと深呼吸を繰り返す。このまま深い呼吸を何度も何度も繰り返して、水に潜るように眠りに就く。かつて獄中で暮らしたころに会得した、どんな環境でも熟睡できる方法だ。

 だんだん深くなる呼吸に少しずつ思考が落ち着きはじめたころ、クザンの耳に、かつん、という硬い音が響いた。意識が一気に覚醒する。最大級の警戒に、首筋の毛が逆立つような感覚を覚えた。

 囚われの暮らしはよくも悪くも単調だ。眠る時間、食べる時間、湯浴みの時間、すべてが決められていて、狂わされることがない。時間や季節の感覚を失わずにいられるのは、そのおかげだ。あるいは、こうしてぎりぎりのところで正気を保っていられるのもそうなのかもしれない。

 いったい誰だ、とクザンは寝台の上で目を瞑ったまま忙しく頭を働かせる。この牢内に足を踏み入れる者はごく限られている。食事を運ぶ者、湯を運ぶ者、屎尿の処理をする者、そして取調べのために連れ出しに来る者。交代要員を含めても、総勢で十名にも満たない。

 クザンはそうした者たちすべての足音を記憶していた。特別な能力でもなんでもない。意識の向かう先の限られた環境の中、繰り返し聞かされる足音の癖を覚えてしまっただけのことだ。

 いま、牢内に歩みを進めてくる者の足音は、記憶にある誰のものとも一致しなかった。――いったい、誰だ。

「……リオネル・クザン」

 潜められた声にびくりと身が震えた。抑えることはできなかった。

「リオネル・クザン」

 もう一度呼ばれ、クザンは薄く目蓋を開けた。声の主のほうは見ない。それでも相手には、クザンが目を開けたことがわかったようだった。

「聞こえているなら、返事をしてください」

 頭を動かさないように眼球だけで探ってみたが、声の主は視界の外側にいるらしく、その姿を捕らえることはできなかった。誰だ、とクザンは思考する。監察官の誰かだろうか。ここに入れるのはやつらしかいない。だが、連中のうちにこんな声の者がいただろうか。――わからない。

 あるいは新たな策なのだろうか、とクザンは別の可能性を考える。あの切れ者のジュヴェが、クザンを落とすために考えた新たな策。いや違う、とクザンは眉間に皺を刻む。ジュヴェはこんなわけのわからないやり方はしない。また明日、と云ったからには、明日まではなにもしないつもりでいるだろう。

 では――。

「リオネル・クザン、返事を」

 声は焦ったような響きを帯びた。潜められてはいるが、そこに込められている感情がうるさく、下手をすれば近くにいるはずの見張りに聞かれてしまうかもしれない。

 そうだ、見張りだ。この牢の前には牢番がいるはずなのだ。侵入者などありえない。

 クザンが身を強張らせると同時に、声は思いがけないことを云った。

「返事をしてください、クザン。僕はジアン。ユベール・シャニョンの使いの者です」

 クザンは寝台の上に勢いよく身を起こした。急激に動いたせいで頭に血が届かなかったのか、くらくらと目がまわる。

 誰何する代わりに声のするほうへと鋭い視線を向けると、騎士の制服を着た若い男が、燭台を片手に格子にへばりつくようにして立っていた。やっと起きてくれた、と彼は云った。

「時間がないんです。近くへ来てください」

 クザンは動かなかった。ジアンは焦れて――いまにも地団太を踏みそうなほど――、クザン、と声を張った。

「お願いです、これを、この手紙を読んでください」

 シャニョンからの伝言です、とジアンが云い終わるより早く、クザンは格子に向かって突進した。まるで飛びかかるようにジアンの口許を掌で塞ぎ、自分よりも背の高い男を恫喝する。

「黙れ!」

 その名を迂闊に口にするな、と云ったクザンの声は極限まで潜められている。ジアンは大きく目を見開き、細かく頷いて解放を乞うた。

「これを……」

 震える手に握られた紙きれは細かく折りたたまれている。クザンはそれを一瞥しただけで、静かに首を横に振った。

 こんな怪しい男からそんなもの受け取れるわけがない、とクザンは思った。ジアンと名乗るこの騎士が、真実、シャニョンの意を受けた者であるとしても、あるいは監察府の手先であるとしても同じことだ。受け取ることはできない。

「お願いです、受け取ってください。そうしてくれないと僕は殺される。だからお願いです、ねえ……」

 帰れ、という代わりに、クザンは顎を持ち上げてジアンの背後にある牢の入口を示した。こんな頭の悪そうな男が、城内でも所在を明らかにされていないはずの地下牢を見つけ出し、牢番の目を欺いてここに立っていると考えることはできない。間違いなく監察府の息がかかっている。

 いや、待てよ、とクザンはすうと目を細めた。監察府がこんな莫迦を、たとえ使い捨てにすることを前提にしたとしても、雇ったりするだろうか。もう少し、否、だいぶましな者は掃いて捨てるほどいる。――考えにくい。

 となると、この男は本物のシャニョンの使者か。だが、あのシャニョンが、邪悪とは無縁で人が好く、だからこそ人を見る目にも優れたあの男が、こんなやつをこんな危ない仕事に使うとはとても思えない。

 いずれにしても相手にしないことだ、とクザンは思い、もといた寝台に戻ろうと踵を返そうとした。

「シャニョンはあなたのために僕を寄越したんですよ。早く受け取って、でないと、牢番の休憩が終わってしまう。早く」

「黙れ」

 ジアンは引っ叩かれでもしたような顔をして口を噤む。なおも押しつけようとしてくる紙切れを、クザンは頑として拒んだ。いいか、と彼は云った。

「誰になにを頼まれたとしても、もう二度とここへは来るな。次は牢番に知らせ、おまえを捕らえさせる。わかったな」

 ほら、とクザンはもう一度顎をしゃくった。牢番が戻って来るぞ。早く行け。そう云って今度は完全に彼に背を向け、寝台に戻ってしまう。

 受け取ってもらえぬ手紙を握りしめたままのジアンは、しばらくのあいだ、真っ青な顔でクザンの背中を見つめていた。しかし、ここにいてはまずいということだけは忘れなかったのか、長い逡巡ののちにクザンの前から姿を消した。

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