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 世の中には阿呆がいるものなのだな、と心底呆れたように云い放った上司をちらりと横目で眺めやって、モルガーヌはとくに返事をすることもなく、買ったばかりのサンドイッチにぱくりとかぶりついた。

「そうは思わないか、カスタニエ」

 手にしていた書状をモルガーヌに向かって差し出した上司は、自分もサンドイッチを齧りながら、な、ともう一度云った。

 監察官としては駆け出しの下っ端にすぎないモルガーヌにとって、監察府長官であるソランは雲の上の存在だったはずだ。あちらだって私のことを、足元を這う蟻ほどにも気にかけていなかっただろう。にもかかわらず、この気安い態度の裏にあるものはなんなのか、と勘繰らずにはいられない。だが、もとより虫からに等しいモルガーヌにソランの腹など読めるはずもなかった。

 トレイユの一行は以前よりもぐっと速度を落として、王都に向かって南下していた。トレイユの病状はあまり思わしくないようで、同じ場所に二日もとどまることがあるかと思えば、これまでは決して利用しようとしなかった街の宿に部屋を取ることもあった。

 それでも追跡の旅路には拭いがたい緊張感が漂っている――むしろ歩みの速度が落ちたことによって、こちらの存在に気づかれる危険性は増している――し、おまけに道中はソランとほとんどふたりきりだ。堅苦しいよりは多少ゆとりがあるくらいのほうが、モルガーヌとて気楽であることには間違いない。でもね、その、多少、の程度が問題なのよ、と彼女は思う。

 エリシュカを追う旅に出る前、監察官となったばかりのモルガーヌに密命――叛乱勢力の背後に潜む貴族の正体を暴け――を課したときのソランは、こんなふうではなかったような気がする、と彼女は思い出す。あのときのソランは、もっとこうなんというか、よく云えば有能な、悪く云えば傲慢な上司だった。

 自分の能力に絶対の自信があるソランは、その実力に見合う大言壮語を厭味ったらしく吐いていたものだ。そんな彼が王城に忍び込んだ羽虫一匹に愚痴をこぼすとは、この旅路がよほど堪えているのか、あるいはなにか別の理由があるのか――。

「なんだ、カスタニエ」

 私の顔になにかついているか、とソランは首を傾げた。醜くはないが別段可愛らしくもない男のこどもっぽいしぐさなど気持ちが悪いだけだ、とモルガーヌは思ったが、元侍女らしい鉄面皮を毛ほども動かすことなく、いえ、別に、とそっけなく答えるにとどめておいた。

「別に、という顔ではないように思えるが」

「気のせいですよ」

 サンドイッチを食べ終わったモルガーヌは、ソランがしつこく押しつけてくる書状を受け取り、ざっと目を通した。

 この上司は基本的に自分の思いどおりに人を動かす。たとえモルガーヌが読みたくないと思っていても、彼が読ませようとしているのならば拒むだけ無駄である。逆に、どんなに知りたいと思うことがあったとしても、ソランが知らせないと決めたことを知ることは至難の業だ。

 このままではだめね、とモルガーヌは文字を追う頭の片隅でふとそんなことを考えた。こいつの手の内で知りたい知りたくないとじたばたしているあいだは、監察官として一人前だと認められることは決してない。自分に入ってくる情報を自分で制御できるようにならなくては。

「な、阿呆だろう?」

 モルガーヌが書状を読み終えると同時にソランが声をかけてきた。これだからこの男は侮れない、とモルガーヌは思う。サンドイッチを頬張り、くだらないことを云いながらも、その目はしっかりと私を観察しているのだから。

 手渡された書状は、王城に戻ったソランの秘書官セレスタン・ジュヴェが認めて寄越したものである。ジェヴェの整った文字に目を落とし、モルガーヌは、ええ、まあ、と曖昧に答えた。

 そこに記されていたのは、ソランが、泳がせておけ、と命じた羽虫――叛乱勢力の一味ギャエル・ジアン――の近ごろの動向を中心にした城内の諸々についてであった。

 ほかの質問にはろくに答えてくれないくせに、ジアンのことだけを即座に、かつつぶさに知らせてくれるのは、きっとソラン一流の厭味に違いない、とモルガーヌは不機嫌になる。一度でもその存在を身近に感じておきながら、ジアンの腹を読み切れなかった私を、彼は内心で莫迦にしているのだ。

 ジュヴェの筆によれば、ジアンは監察府がその身柄を拘束しているリオネル・クザンとの接触を図ろうと四苦八苦しているらしい。クザンが囚われている牢は王城の地下にあり、監察府の厳重な監視下にある。部外者が入り込むことはとてもむずかしい。

 ソランに阿呆と呼ばれるギャエル・ジアンが、クザンのもとへ辿り着ける日はいつまで経ってもやってこないだろう、とモルガーヌは思った。

「どう思う、カスタニエ」

「どう思う、とは?」

「この羽虫、どうするのがいいと思う」

 その声音だけでジアンを叩き潰せるのではないかと思うほど冷たい調子でソランが云った。

「このままぶんぶん飛び回られても鬱陶しいだけだ。かと云って、はいどうぞと餌を与えてやるのも業腹だ。とっ捕まえて脅しをかけても、俺たち以上に怯える相手がいるのでは無意味だろうしな」

 答えははじめからひとつしかないではないか、とモルガーヌは思う。

「餌と見せかけた針に食いつかせる、ということですか」

 よくできました、とばかりにソランは口もとだけで笑ってみせた。有能な長官は部下への気遣いも怠らない。

「リオネル・クザンはもうふた月近くもだんまりを決め込んでいる」

 あの手この手で揺さぶりをかけても、すべてを引き受けると決めた男の覚悟はそう容易く挫くことはできないものであるらしい。

「とはいえ、クザンも沈黙に苦痛を感じているに違いない。ジアンは阿呆だが、阿呆には阿呆なりに使い道がある。せいぜいこちらの思うとおり役に立ってもらうことにしよう」

 自分で自分の言葉に頷いているソランに、今度はモルガーヌが尋ねた。

「長官はクザンからなにを引き出せると思っておいでなのですか」

「なにを、とは?」

「叛乱勢力の背後にいたのはトレイユでした。その本意はどうあれ、将軍が学生たちを扇動し利用したことはほぼ確実です。資金の流れもじきに明らかになるでしょう。トレイユの罪もクザンの罪も、すでに明らかになっている。これ以上クザンからなにを聞き出したいのかと、そう思ったものですから」

「ジアンに情けをかけているのか」

 違います、とモルガーヌは眉をひそめた。

「そういうわけではありません。ですが、すでに罪の明らかな者、しかも頑なに口を閉ざしているような者に揺さぶりをかけたところで、新たな事実が判明するとは思えないのですが」

 すでにトレイユにも逃げ場のないいま、ジアンを野放しにしてまでつかみたい獲物とはなんなのですか、とお訊きしたいのです、とモルガーヌは云った。

「ユベール・シャニョン」

 ソランの答えは明確にして簡潔だった。

「叛乱勢力の指導者であるシャニョンを捕らえねば、今回の件に決着はつけられない。シャニョンはジアンの近くにいる。だが、その居所はまだとんとつかめていない。よほど用心深く姿をくらませているのに違いない」

 他者の秘密を探り出すことをその使命とする監察官らが束になってもまだ居所が把握できていないとは、とモルガーヌはひそかな驚きを覚えた。世間知らずの学生だとばかり思っていたけれど、叛乱勢力を組織するほどの男を侮ってはならないらしい。

「ジアンを泳がせるのは、やつ自身を油断させるためなどではない。やつの背後にいるシャニョンを油断させるためだ」

「そううまくいくのでしょうか」

 自らを追う監察官の目を誤魔化し、王都に居座り続けるような男だ。そう簡単に油断などするとは思えない。

「まあ、分の悪い勝負ではあるな」

 だが、勝ち目がまったくないわけではない、とソランは云った。

「シャニョンはたしかに用心深い男だ。騎士であるジアンの身分を利用するあたり、計算高くもあるのだろう。だが、やつにはひとつ大きな隙がある」

「隙?」

 ああ、とソランは頷いた。

「焦りだ」

 焦り、とモルガーヌは首を傾げる。その姿を見たこともなければ、声を聞いたこともないシャニョンの焦りなど、どうして感じることができるのだろうか。

「用心深く、計算高く、要するに決して莫迦でないはずの男が、なぜジアンなんぞと手を組んでいるのだと思う?」

「王城への伝手が、それしかなかったのでは?」

「伝手などなくとも城内を探る術はいくらでもある。城で働く大勢の人間すべてが清廉でない以上はな」

 ジアンよりよほど動かしやすく、よほど有能な人間が掃いて捨てるほどいるだろう、とソランはさしておもしろくもなさそうにそう云った。

「現に、あの王太子付側近オリヴィエ・レミ・ルクリュ政務官が厳重に囲い込んでいるエヴラール殿下に宛てた書簡が、あわや彼の手元に届かんとしたこともある」

 もちろんこの私がしっかり阻止したがな、とソランは嗤う。あのときはトレイユの仕業に違いないと思ったものだが、あれもあるいはシャニョンらの企みであった可能性もある。

「だが、いまのシャニョンの目的はクザンだ。それははっきりしている。相棒が囚われたことを知り、やつを救い出そうとでも考えているのに違いない」

「なんのために?」

 さあな、とソランは肩を竦める。篤い友誼を交わしてでもいるんじゃないか。

「動機なぞなんだっていい。シャニョンはクザンを救いたい。だが、やつには時間がない。王太子が戻り、トレイユやエヴラールが自白し、外堀が埋まれば、いくら本人がだんまりを決め込んでいたところで、クザンは処刑を免れない。一刻も早く牢から救い出さなければ、大事な友は哀れ刑場の露と消えることになる」

 ジアンの騎士という身分は、そんなふうに切羽詰まっていたシャニョンの目に大きな希望と映ったはずだ、とソランは云い、違うか、とモルガーヌを見遣った。

「おっしゃるとおりだと思います」

「シャニョンはジアンを利用することにした。少々使いでの悪い道具でも、手入れを怠らなければ、それなりに使うことはできる。しっかりと脅しつけ、密に連絡を取り、余所見などしないよう手綱を握って、な」

 シャニョンはむろん、ジアンが阿呆だということなど十分に含んでいるだろう。ソランの言葉がモルガーヌの背中を粟立たせる。まただ。また、あの感覚――。

「やつが知らせてくる情報をなにもかも鵜呑みにはするまい。ことあるごとに送られてくる知らせも十分に吟味しているはずだし、あるいは、ここのところはうまく行き過ぎていると警戒心さえ抱いているかもしれない」

 われわれもわざと見逃しているようなところがあるからな、とソランは低い声で付け足した。

「もしもシャニョンが、ジアンがすでにわれらの監視下にあることに気づき、さらにこちらの意図を見抜いていたとしても、こちらの手の内にクザンの身があるうちは、やつは動かざるをえない」

 やはり、とモルガーヌの胸の裡が黒く苦く染まっていく。

「クザンを餌にジアンを躍らせ、シャニョンをおびき寄せると、そういうことですか……」

「おまえにしては答えが少し遅かった」

 気に入らんようだな、とソランは唇の端を持ち上げた。ええ、まあ、とモルガーヌは隠しても仕方がないとばかりに内心を吐露した。

「この仕事に就いてから、誰かを陥れる手助けばかりしているような気がするのです。罪人を捕え、裁くのですから仕方のないことなのかもしれませんが、気分はよくない。トレイユを泳がせ、ジアンを躍らせ、最後になにもかもを一網打尽にしようというのは、少し……、その……」

「卑怯、か?」

 ソランはいまにも笑い出しそうに声を揺らした。てっきり怒りを露わにするとばかり思っていた上司がどこか愉快そうに云うのを聞いて、モルガーヌは不思議な呪文でも聞かされたような気分になった。――さっぱり意味がわからない。

「卑怯上等、と云えば、話が早いか」

「卑怯、上等……」

「国にとっての悪を追い、捕らえ、裁くこの仕事を、おまえはいったいなんだと思っている?」

 正義の体現だとでも考えているのか、とソランは皮肉っぽく笑った。

「監察官を正義の使者だと思っているのなら、おまえはこの仕事には向いていない。俺の目が節穴だったということにしておいてやるから、さっさと辞表を書いて実家に帰れ」

 モルガーヌは無言で奥歯をぐっと噛みしめた。正義の使者だと。そんなこと、間違っても思うもんか。

「俺たちは正しい。正しいことをしている。法の定めに従い、国王のために務めを果たす。どこにも間違いはない」

 だが、俺たちに正義はない、とソランは云った。

「この国の正義は常に国王の上にあるものだ。国王のために動く者でもなく、国王の周囲を守る者でもなく、ただひとり国王にのみ正義がある。それが東国という国のありようだ。国に仇なす罪人を捕らえるためになにか罪を犯せば、たとえ、それがひとえに国を、国王を思ってのことであったとしても、俺たちは罰を受ける」

 法は私たちを守ってはくれないのだ、とモルガーヌは思った。東国の法が守るのは東国国王ただひとり。私たちの国は――、そういう国なのだ。

「だが、それはあまり歓迎すべきことではない。この職に殉じてもいいと思っている俺ですら、勤めのために死ぬのは厭だ。おまえだってそうだろう、カスタニエ」

 敬愛する王太子のためであっても死ぬのは厭だろう、と上司はどこかからかうような口調で云う。

「厭です」

 苛立ちのままに切り口上で云い返せば、果たしてソランは嬉しそうに笑った。

「そうだ、厭だ。あたりまえだ。誰だって死ぬのは厭だし、牢にぶち込まれたくもない。それも、たかが仕事のためになど、まっぴらごめんだ」

 だが務めは務めだ、果たさなければならん、とソランは云う。

「監察官とはきれいごとでは務まらん職だ。身を守ろうと必死に逃げを打ち、ときに反撃さえ目論む罪人どもを相手にするのだから、当然のことだ。やつらが身を守ろうとするのと同じように、われわれも自分を守らなくてはならない」

 そう云うソランの眼差しは、これまでモルガーヌが目にしたことのないやさしげな色を浮かべている。その点に関して云えば、どちらかというとこちらが不利だ、と彼は続けた。

「罪人どもは法も大義もなく、ただ身ひとつ守ればいい。なんでもありのやつらに対し、こちらは国だの正義だの、クソ重たいものをしこたま背負って身を守らねばならない。打てる手は少なく、しかし負けることは許されない。死ぬこともだ」

 卑怯にもなるとは思わないか、とソランの口調はごく穏やかだった。

「俺はな、カスタニエ。自分や部下を守るため、組織を守るために人を利用し、陥れ、ときには騙し、使い捨てる。迷うことはない。おまえに厭な顔をされようと、蔑まれようと、それが俺の正義だからだ」

「長官の正義……」

 そんなものはないのではなかったのか、とモルガーヌは思った。たったいま自分の口で云ったではないか。すべての正義は国王陛下の上にあると、そう云ったではないか。

「監察府長官としてのそれではない。ガスパール・ソラン、この俺自身の正義だ」

 部下の考えることなどすべて見透かした上司は、そこでひどく真剣な顔をしてモルガーヌを見据えた。ここまでは誰でも知っていることだ。

「誰でも?」

「監察府の人間なら誰でも、という意味だ」

 俺は自分を偽らないようにしているからな、とソランは云う。偽りや誤魔化しは好きではない。俺が嘘をつくと、誰も本当のことを見抜いてくれないんだよ。

「これから云うことは誰にも話したことがない。おまえにだけ、特別に教えてやる」

「私に、だけ……?」

 そうだ、とソランはもったいぶって頷いた。迷える子羊を導くのは羊飼いの仕事だからな。

「俺の正義はさっきも云ったとおりだ。務めを果たすためならば、親でも騙すし、恋人も利用する。だが、俺にはもうひとつ正義がある」

「もうひとつ?」

「けっして綺麗には死なない、という正義だ」

 綺麗に死ぬ、とモルガーヌは首を傾げた。どういう意味だろう。

「誰かを助けて、国を守って、あるいは、寿命を迎えて、そんなふうに穏やかで美しい死など、俺にはふさわしくない。俺は誰かに、踏み躙られ、打ち捨てられ、最後は滅多刺しにでもされて死ぬ。いつかな」

 重たい鈍器で頭を殴られたような気がした。モルガーヌは目を見開き、言葉もなくただ上司の顔を見つめるしかできない。呼吸することさえも忘れ、息苦しさを覚えた。

「覚悟はできている。人を欺き、利用し、使い捨てにしてきた、それが報いだ。だから俺は家族を持たん。大事なものも、場所も、人も、俺には不要のものだ。いずれ野垂れ死ぬことがわかっていて、この世に執着を残すような被虐趣味はない」

「なぜ、そのような……」

 そこまで、とモルガーヌは口にしてはっとする。

「私にもそうした覚悟を求めておいでなのですか」

「莫迦を云うな」

 ソランの声はやさしかった。先ほどから――そう、この話を始めたときからずっと――ずっと、彼の声も眼差しもとてもやさしい。

「俺の覚悟は俺だけのものだ。自分以外の誰にも求めたりなどしない。むろん、おまえにも求めない」

「では、なぜ、そんなことを?」

「おまえが迷っているようだったからな」

 そうか、とモルガーヌは遅ればせながらに気がついた。ソランはいま、監察府長官として話しているのではない。ガスパール・ソランその人として話している。ならば、いまの彼が本当の彼なのかもしれない。穏やかで真面目で、どこか危ういほどに純粋で――。

「迷う?」

「監察の仕事は厳しいものだ。世に甘い仕事などないものだが、それを差し引いてもなお厳しいものだと俺は思う」

 法を盾に誰かを踏み躙ることをよしとするのだからな、とソランはどこか自虐的な笑みを浮かべる。迷いある心で全うできる務めではない。

「おまえはずっと迷っているだろう、カスタニエ」

 モルガーヌは刹那息を詰めた。だが、すぐに素直に頷いた。ソランを相手になにかを誤魔化せるわけがない。

「迷いを孕む心で厳しい仕事を続ければ、いずれ必ず駄目になる。監察官としてだけではなく、人として生きていくことがむずかしくなる。そうなりたくはないだろう」

 俺だってそうなってほしくはない、とソランは云った。おまえだけではない。ジェヴェにも、ほかの誰にもそうなってほしくはないのだ。

「だから迷うな」

 そんなことを云われても、とモルガーヌは思った。私だって、迷いなど捨ててしまいたい。トレイユを追うようになってからこの心に巣食うようになってしまった惑いや躊躇いをすっぱりと捨ててしまえたらと、ずっと思っているのだ。

「自分がなぜ迷うのか、わかるか」

 なぜ、そんなことがわかれば苦労などしない。捨てたくとも捨てられずに、否、捨てるすべさえわからずにいるのは、自分の中に迷いの生まれる理由をつかみかねているからにほかならない。

「自分自身を正義としていないからだ」

「そんな……」

「そんなことはないか」

 本当にそうか、とソランは尋ねた。

「実家、父親、王家、上司に部下、それからなんだ、おまえがこれまで正義としてきたものは?」

 鋭い刃で背中から刺されたような気がした。モルガーヌは目を見開き、水をかけられた小さないきもののようにがたがたと震えはじめた。ああ、とソランは嬲るような口調で続ける。

「王太子の寵姫、というのもあったな。監察府に入れる前におまえのことはだいたい調べた。単純で幸せな人生だったようだな、カスタニエ」

 だが、これからはそうはいかん、というソランの宣告は、小刻みに震えていたモルガーヌの身体をなおいっそう冷やしていく。

「人の表を見て裏を想像し、人の裏を見てその奥底に潜むものを暴くような仕事だ。己の裡に正義を抱かぬ者は闇に飲まれて自滅する」

 人は清く美しいが、同時に醜く濁ってもいる。ひとりの者がいくつもの顔を持ち、そのどれもが本当でどれもが嘘だ。他者に己を委ねるようでは、まやかしに惑わされてなにもできなくなる。

「どんな自分でもかまわない。正しくなくとも、美しくなくとも、清くなくとも、だが、そんな自分を信じることが肝要だ。なにを見ても、なにを聞いても、己の目と耳を、頭と心を、とことんまで信じ抜け。わかるか、カスタニエ」

 おまえが監察官として生きていきたいなら、そこにしか道はない、とソランは云った。

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