41

 厩の朝は早い。

 エリシュカは簡素な部屋着の上に薄手の外套を羽織った姿で、早朝の朝靄のなかを厩へと急いだ。すれ違う厩番たちと簡単な挨拶を交わしながらも、足を止めることはせずに厩舎の一番奥へと進んでいく。


 ヴァレリーが領地視察に出てから三日が過ぎていた。

 いまだ正式な地位を持たぬエリシュカは、ヴァレリーの旅立ちに立ち会うこともなく、いつものように寝台の上から、部屋を出て行く彼の背中をぼんやりと見送っただけだった。

 二十日ほども留守にする、と出立する日の少し前にそう告げられ、エリシュカはすぐにはその言葉を理解することができなかった。ああ、そのあいだはアランさまに苛まれることもないのだ、と気づいたのは、出立の朝のことだった。

 ヴァレリーが城を発った日は一日を寝台の上で過ごした。少し眠っては目覚め、喉を潤してはまた眠り、翌朝、まだ陽も昇りきらぬうちに目が覚めた。とてもすっきりとした目覚めだった。

 こんな清々しい気分はひさしぶりだ、と露台に出て朝焼けを眺め、朝食をとってから散歩に出かけた。城内を少し歩かれてはいかがですか、とモルガーヌに勧められたからだ。

 寝所の外に出ることが少し怖かった。そんなふうに感じてしまうほど長いあいだ、エリシュカはその狭い空間に閉じ込められていた。髪を結い、薄い化粧を施し、きちんとした服を着て、エリシュカは足がくたくたになるまで庭を歩きまわった。

 城内に知る人などいない。あれが王太子の情人だよ、あんなのでも希代の毒婦だという噂じゃないか、と己に向けられる奇異の眼差しに気づかないわけではなかったが、いまさら気にするほどのこともなかった。傷つくべきやわらかな心はとっくに踏み躙られ、砕け散って、エリシュカのなかのどこにも存在しなかったからだ。

 さんざんに庭を歩き尽くしたエリシュカは、いつのまにか厩舎の近くに辿り着いていた。嗅ぎ慣れたいきものの匂いや蹄の音や嘶く声に、ふと目蓋が熱くなった。

 つらいことばかりだったこの王城のなかで、エリシュカの心を和ませてくれるただひとつの場所が、この厩舎だったということを思い出したのだ。

 エリシュカはふらふらと厩舎に足を踏み入れた。まるで亡霊のような足取りで姿を現したエリシュカに、厩番たちはぎょっとしたように目を見開いた。

 王太子の情人に納まったのちも、ひところまでは毎朝のように姿を見せていたエリシュカが、すっかり厩舎に寄りつかなくなってから随分と時間が経っていた。だから厩番たちにとっての彼女はすっかり遠い存在と成り果てており、親しく声をかける者も、反対にそこにあることを咎める者もいなかった。

 厩番たちは息を潜めるようにしてエリシュカの動向を見守っていた。エリシュカはふらふらとした足取りで一頭一頭を見てまわり、最後に彼女がもっとも愛していた青毛が棲家としていた囲いまで辿り着いた。

 シュテファーニアが王城を発った朝、エリシュカの耳を劈いたテネブラエの嘶きは、いまだに心の奥底に凝っていて、ことあるごとに彼女を苛んだ。

 ――ひとりにしないで。

 その声は、テネブラエの叫びであり、同時にエリシュカの叫びでもあった。

 ごめんね、テネブラエ、とエリシュカは心のうちで呟いた。あの子はきっとわたしの裏切りに泣いている。ずっと一緒だよ、と云ったのに、そして本当に生まれたときからずっとずっと一緒にいたのに、こんな遠いところまで一緒にやって来たのに。

 わたしはあの子をひとりにしてしまった。そして、わたしもまたひとりになってしまった。

 これまでの暮らしが恵まれたものだったなどという欺瞞は云わない。それでもいまみたいにひとりきりだったことはない、とエリシュカは思う。わたしにはいつだって家族がいた。テネブラエがいた。ベルタさまだって。

 差別され、虐げられる暮らしではあったけれど、そこにはいつだってちゃんとわたしを見てくれている存在があった。ぬくもりがあった。

 いまは違う。

 傅かれ、大事に扱われてはいるけれど、ここにわたしはいない。いるのは、東国王太子の寵を受ける者。――それだけだ。

 デジレもモルガーヌもクロエも、エリシュカを恭しく扱い、決して無礼を働かない。身も心も傷つかぬようにと細心の注意を払ってくれ、いつだって居心地のよい空間を用意してくれようとしている。部屋も衣裳も食べるものも、最上級のものが惜しげもなく並べたてられ、なおも上を望めばそれさえも叶えられるのだろう。

 けれど、それはわたしに与えられるものではない、とエリシュカにはよくわかっている。

 すべてはアランさまのため。

 ヴァレリーがそうせよと云うから、デジレはエリシュカに頭を下げ、モルガーヌはエリシュカのために日夜を捧げ、クロエは忙しく走りまわる。エリシュカのためのすべてはつまり、ヴァレリーのためのすべてなのだ。

 決して、決してわたしのためではない、とエリシュカは思う。

 そして一番わからないのはアランさまだ。そなたの望みはなんでも叶えてやりたい、と彼は云った。そのくせ、エリシュカの最大の望み――故郷へ、家族のもとへ帰りたい――を叶えてくれようとはしなかった。衣も宝石も花もなにもいらないから、と泣いて縋ってもすげなくあしらい、相手になろうとはしなかった。

 愛している、そばにいてくれ、と彼はいつだってそう云う。お許しください、と泣き叫ぶエリシュカの自由を奪ったうえで、何度も、何度も。

 あれが愛なら愛などいらない、とエリシュカは以前にも思ったことをまた思った。

 かつてはたしかに存在したはずのヴァレリーに対する思慕――いったんは踏み躙られ、しかしそれからゆっくりと育んできたやわらかな想い――は、とっくの昔に砕け散って跡形もない。淡い憧れとも、遅い初恋とも呼べたその想いは、ヴァレリーの卑怯と悋気と冷酷によってあっけなく消え去った。

 妻を寝所に招くと偽ってエリシュカを求めた卑怯。

 己が身内に手を上げ、エリシュカの身を損なわせてまで見せつけた悋気。

 愛していると云いながら、狭い部屋に囲い込み平然としている冷酷。

 どれもこれもが、エリシュカにとっては耐えがたいことだ。

 でも、それでも、とエリシュカは思う。ふとした時にヴァレリーが見せる表情や仕草――それはたとえば、部屋を訪れてきたときに見せるほっとしたような表情だったり、激しい情交の果てにぐったりとするエリシュカの髪をそっと梳る指先だったり、朝になって部屋を去りゆく際に額や頬に落とされる唇だったり――に滲む想いが偽りであるようには思えないのだ。

 何度も何度も、それこそ頭がおかしくなるほどに囁かれる睦言よりも、そういう些細な行動が、ヴァレリーの本気を物語っているような気がする。

 だからエリシュカは、これほどひどい目に遭わされても、どうしてもヴァレリーを憎みきることができずにいる。そして、憎しみを露わにすることができないだけにひどく混乱もするのだった。アランさまのおっしゃる愛とはいったいなんなのだろう、と。

 エリシュカはどこかぼんやりとしたまま厩舎の奥へと辿り着いた。午後の陽射しに溢れたその場所は、朝の薄闇に沈んだ同じ場所に慣れていたエリシュカをほんのわずか戸惑わせた。

 思わず足を止める。こんな場所まで来て、わたしはいったいなにをしているのだろう。

 ぶるん、と鼻を鳴らす音がエリシュカの耳に届く。聞き間違いだと思った。だって、こんなところにいるはずもないのに。

 もう一度同じ音が聞こえて、その声が止む前にエリシュカは一番奥の囲いのなかへと走り込んでいた。

「……テネブラエ」

 美しく逞しい青毛がそこにいた。漆黒の瞳に思慮深い色を浮かべ、足を軽く踏み鳴らすようにして。

「テネブラエ」

 もう一度呼ぶと、聴こえてるってば、とでも云うように、彼はぴんと立てた耳を動かしてみせた。

 まるで吸い寄せられるように、エリシュカは両腕を伸ばしてテネブラエの首に抱きついた。音もなく、声もなく、力いっぱいしがみついた。

 小揺るぎもせずに小さな主の必死の抱擁を受け止めたテネブラエは、かすかに鼻を鳴らす。ずいぶんとひさしぶりだね、とでも云いたそうなその仕草に、エリシュカは両の腕になおも力を込めることで応えようとした。

 テネブラエの艶やかな毛並みはわずかに乱れ、エリシュカのいなかった彼の日々が決して穏やかなものではなかったことを物語っていた。だが、身体と同じ漆黒の瞳には光が満ち、ふたたび主に見えた喜びを素直に表している。

 愛する獣に思いがけず再会したエリシュカは、もう片時も離れたくないとばかりにテネブラエの鬣に頬を埋めた。触れあっているところから伝わってくるぬくもりが、凍りついた心と身体を少しずつ溶かしていってくれるような気がした。ヴァレリーに触れられるたび、凍てつくように冷えていった、繊細な心と華奢な身体を。

 ヴァレリーへの想いが大切なものであったことはたしかだ。はじめての夜を怖いと思うよりも、どうせ身を捧ぐならば、と喜びに思ったことは嘘ではない。

 けれど、大切な想いはひどく脆い器に入っているものであるらしい。目覚めた朝に彼の姿がなく、たしかな言葉のひとつもないままに彼のもとへと囲われて、エリシュカはひどく傷ついていた。つまりは、アランさまもまた、これまでの主たちと同じように、わたしをモノとして扱うのだろう、と。

 そして、事実そのとおりになった。泣いても叫んでも、エリシュカの意志はなにひとつ受け入れてはもらえなかった。

 そうして、儚い器はあっけなく砕け散った。

 エリシュカの想いを踏み躙ったくせに彼女に固執するヴァレリーのせいで、エリシュカの心はひどく乱れた。やがてその困惑さえをも凍りつき、エリシュカはもはや自分がなにに傷ついているのかさえ、否、自分が傷ついているのかどうかさえわからなくなっていた。

 テネブラエの温かな身体に縋りついてはじめて、自分の心と身体が芯から冷えきってしまっていたことにエリシュカは気づく。――わたしは苦しかった。とてもとても苦しかった。

 涙は流さなかった。悲鳴も上げなかった。けれどそのときのエリシュカは深く慟哭し、己の運命を嘆き悲しんでいた。そんなことをしてもどうにもならないとわかっていても、そうせずにはいられなかった。


 あのときのテネブラエはじっと佇んだまま、わたしの悲痛を受け止めてくれた。モルガーヌが迎えにやってきて、なかば強引に引き剥がすまで、エリシュカはテネブラエに抱きついたまま彼のぬくもりを貪っていた。

 そして翌朝から、以前のようにテネブラエの世話をするために、厩舎に通うようになったのだ。

 ヴァレリーがいたら許されないことだっただろう。けれど、モルガーヌはせめてヴァレリーの不在のあいだだけでも、とエリシュカの好きにさせてくれるつもりであるらしかった。

 まだ夜も明けぬうちから寝台を抜け出し、自ら身支度を整え、身体を動かす。さりげなく監視する目がないわけではないけれど、ひとつ部屋に閉じ込められ、身を起こすこともようやくであるような暮らしよりはずっといい。

 エリシュカはテネブラエの囲いのなかに入り、いつものように寝藁を取り換えると、水を汲みに井戸へと向かった。

 クロエはテネブラエの囲いのなかにまでは入ってこないが、いつでもさりげなくエリシュカの近くにいる。エリシュカは努めて平静を装いつつ、深い井戸のなかに桶を投げ込んだ。

 テネブラエの寝藁の下から、革製の小袋に詰め込まれた大陸金貨を発見したのは昨日の朝のことだ。壁と壁の角を覆うように不自然に置かれ、さらに寝藁で覆い隠されていた平たい石の下から、それを発見したとき、エリシュカは最初、誰かのへそくりでも見つけてしまったのかと首を傾げた。

 違う、へそくりなんかじゃない、と気づいたのは、テネブラエが軽く足を踏み鳴らす音を聞いたときだ。そうだ、ここはテネブラエの囲いのなかだ。この子は自分のテリトリーに容易には人を寄せつけない。

 エリシュカから決して目を離すな、とモルガーヌから厳命されているはずのクロエが、テネブラエの囲いのなかに足を踏み入れることができないのは、そのせいである。歯を剥き出しにして威嚇する黒い巨体を前に、さすがのクロエもおそれをなしたのか、最初の朝を除いてはここへは姿を見せもしない。

 ここにこの小袋を隠した人物は、そんなテネブラエの警戒心を抑えることのできる誰かだということだ。いったい誰、とエリシュカは考えた。

 そしてすぐに、考えるまでもない、と気づいた。

 ベルタさまだ。彼女以外には考えられない。

 侍女の仕着せ、靴や外套などのさまざまな衣類。それと同じように、この金貨もベルタさまが――。

 だけどなぜ、とエリシュカは考えた。ベルタの考えていることがよくわからない。

 侍女の仕着せを手にしたときには、ベルタに感謝したものだ。あのころはヴァレリーの束縛がいまほどには厳しくなかったから、そのときが来たらこれを着て姫さまのお帰りの列に紛れてしまえばよいのだ、と安易に考えていた。

 そんなこと、できるはずもなかったのに、とエリシュカは愚かだった自分を笑う。

 いつだったかヴァレリーと早朝の食事をともにした草原のなかに立つ大木。そこにあるうろのなかに隠しておいた侍女の仕着せやそのほかの品は、いまはどうなっているのだろう。麻袋に入れ、簡単には見つからないように上手く隠したつもりだったけれど、もうあれからひと冬を越えてしまった。

 わたしはベルタさまに云われたことを守れなかった。アランさまを拒むことができなかった。だからこうして、たったひとり異国の地に取り残されることになってしまったのだ。

 こんな金貨などなんの役にも立たない。わたしはもう、――ここから出ることすら叶わない。

 ベルタが残した金貨を握りしめ、囲いの隅で蹲ってしまったエリシュカを訝しむようにテネブラエが鼻面をエリシュカのうなじに押し当てた。温かく湿った愛情に、エリシュカははっとわれに返る。

「ごめん。ごめんね、テネブラエ」

 立ち上がりながら振り返って、また少しだけこうさせて、とテネブラエの首筋を抱きしめた。テネブラエが控えめに鼻を鳴らす。なにかが気に入らないらしい。

 エリシュカはテネブラエの鬣を撫でながらも、そのぬくもりにしがみついたままだ。

 アランさまがお戻りになったら、わたしはまたあの暮らしに戻らなくてはならないのだろうか、とエリシュカは思った。こうしてテネブラエを抱きしめ、このぬくもりに慰めてもらうこともできなくなるのだろうか。

 厭だ、とエリシュカの手に力がこもった。――そんなのは、厭。

 そのときエリシュカの小さな拳のなかでかすかな音がした。金貨と金貨が触れあう冷たい音。――かちゃり、となにかが嵌まったような音。

 エリシュカはわれ知らず大きく目を見開いた。

「ベルタさま……」

 しばしののちにエリシュカの唇からは古い友の名がこぼれ落ちた。

 エリシュカは唐突にベルタの意図をすべて理解した。貴重な衣類を、靴を、決して少なくはない額の金をひっそりと残していった友の意図を。

 ここから逃げろ、とベルタは云っているのだ。帰って来いと、そう云っているのだ。

 そうか、とエリシュカは思った。

 東国の王都から神ツ国の都までは旅慣れた護衛たちに率いられてさえ、二か月以上はかかる厳しい道のりだ。そのうち半分以上は神ノ峰と呼ばれる険しい山を越えるために費やされる。わたしひとりでは到底叶わぬことだ。――だけど。

 ここにはテネブラエがいる。この子はとても賢く、御す者がなくとも神ツ国までの道のりを駆けることができる。つまり、テネブラエと一緒であれば、わたしは国に帰れるのだ。

 ベルタさまにはきっと、わたしよりもわたしのことが見えていたに違いない、とエリシュカは唇を噛んだ。アランさまに囚われ、ここにひとり留め置かれることになるわたしのことが。息が詰まるような暮らしのなかで、心安らぐ場所はテネブラエの傍らだけであるわたしのことが。

 だからベルタさまは、なにもかも――用意できる限りの簡素な衣類、たくさんの金貨――をテネブラエの傍に残していってくださった。ここならば、わたしが、誰にも知られることなく、すべてを手にすることができると知っていらしたから。

「テネブラエ」

 その声で決心を固めるかのように、エリシュカは大事な相棒の黒い瞳を間近から見つめた。テネブラエは幾度か瞬きをする。

 なにもかもを承知している、と云わんばかりのテネブラエの表情に、エリシュカはいよいよ覚悟を決めた。

 ここに囚われていなければならない理由など、なにひとつない。

 わたしは故郷へ、家族のもとへ帰るのだ。

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