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「なにか云いたいことがありそうだな」

 書類に目を落としたままのヴァレリーに問われ、オリヴィエは両の眉を跳ね上げて思わず主君を見下ろしてしまった。

 例年より早く領地視察に出ることを国王から命じられたヴァレリーは、ここのところ深夜まで書類仕事に追われ、エリシュカのもとを訪れる暇もない。そのことに苛立ちつつ、どこか安堵してもいる己に、彼は気づかないふりをしていた。

 父を呆れさせ、オリヴィエに心配をかけ、数多の者たちの嘲笑を買って、おれはいったいなにをしているのだろう、とヴァレリーは思う。言葉は変われど、彼らの云いたいことはひとつしかなく――女ひとり思うようにできなくて、なにが王太子だ――、事実それはそのとおりなのだが、本当は、思うとおりにならないのは己の心のほうなのだということが、彼にはよくわかっていた。

 オリヴィエの顔を見上げれば、そこには動揺を隠そうとする不器用な表情が揺れている。日ごろから聡く賢く、ついでに嘘もはったりもそつなくかますオリヴィエだが、彼はヴァレリーに対しては常に忠実で誠実だ。

 オリヴィエが、その手にある書類を軽く握ったことをヴァレリーは見逃さなかった。図星か。

「叔父上がまたなにかやらかそうとでもしているか」

 でなければジェルマンか、とヴァレリーはわざと本題から外れた問いを投げかけた。

「エヴラール殿下でございますか?」

「すっとぼけるな。探らせているんだろう」

 手駒はカスタニエあたりか、と続く言葉で、オリヴィエは絶句した。

「なにをそんなに驚くことがある。おまえはジェルマンが気に食わないんだろう」

 いえ、とオリヴィエは言葉を濁した。王太子の側近中の側近である自分が、王太子の従弟にあらぬ疑いをかけている事実が明るみに出れば、それはオリヴィエではなくヴァレリーにとって厄介な事態を招くこととなる。

 だからこそオリヴィエは自ら動くことをせず、モルガーヌに間諜の真似事をさせ、エヴラールの周囲を探らせているのだ。

「カスタニエはしたたかだからな。視察の件はその見返りか」

「殿下……!」

 オリヴィエは今度こそ焦ったような声を上げてしまい、慌てて口を噤んだ。視線を寄越したヴァレリーがにやりと口許を歪める。

「おまえはおれを見くびりすぎだ、オリヴィエ」

「そんなことはございません」

「そんなことはあるぞ」

 現に侍女と組んでこそこそと妙な画策をめぐらせていたではないか、とヴァレリーは云った。その口調にかすかな笑いが滲んでいなければ、オリヴィエの顔色は蒼白になっていたことだろう。

「殿下、申し訳……」

「謝るな」

 厳しい声音でヴァレリーが云った。オリヴィエは瞠目する。

「謝るな、オリヴィエ。おまえは……おまえたちは、正しいことをしたのだから」

「殿下……?」

「どうにかしなくてはと思いながらも、自分ではどうにもならぬ、ということもあるのだな」

 目を細めたヴァレリーが浮かべた笑みは、苦く昏いものだった。

 いまの自分がエリシュカに対し、非道であることは誰よりもよくわかっている。誰にも会わせず、どこにも出さず、部屋に閉じ込め、毎晩のように無理矢理求める――。

 エリシュカは表情を失くし、声を失くし、いまではただの人形のようにヴァレリーを迎え入れる。薄紫色の瞳は硝子玉のように生気を失い、寝台の上に押し倒されたあとは、どこでもない場所をただ見つめ続ける。力なく投げ出された手足がヴァレリーのそれに絡められることはなく、行為はいつも一方的なものとなる。

 どんな睦言も脅迫も哀願も無意味だった。ヴァレリーの言葉に、エリシュカは瞬きひとつも返してはくれない。エリシュカは壊れてしまった。

 だけど、自分が愛するのは家族だけだと、エリシュカに云われたあの夜に、おれの心もまた壊れてしまったのだ、とヴァレリーは思った。

 できる限りのことはしたつもりだった。誠心誠意詫びた。心からの想いも伝えた。

 けれどそれは、すべて自己満足にすぎなかったのだと思い知らされた。――エリシュカに拒まれたあの夜に。

 王城内におけるエリシュカの立場はとても弱い。ひとえにヴァレリーの寵愛のみが、彼女をこの場所に留めるよすがである。それが途切れたとなれば、彼女は王城を出され、どこか僻地に追いやられ、二度と会うことは叶わなくなるだろう。あるいは、なにがしかの温情が働けば、シュテファーニアとともに国に帰されることもあったかもしれない。

 どちらも厭だ、とヴァレリーは思ったのだ。エリシュカと離れることには耐えられない。

 あの夜が限界だった。ヴァレリーの我慢の、ではない。エリシュカの立場を守るための刻限が迫っていたのだ。

 エリシュカ本人が褥すべりを申し出ることがなくとも、病でもなく、けがでもなく、懐妊してもいない寵姫が、半年も閨を務めていないことが明らかになれば、王城の奥向きを取り仕切る王妃がなにを云いだすか知れたものではなかった。自らの子を持たぬ王妃はヴァレリーを敵視してはいないが、側妃の子である彼を愛してもいない。ヴァレリーが苦しむことを承知のうえで、それが規律であるからとエリシュカを王城から遠ざけようとしてもおかしくはなかったのだ。

 どうあってもエリシュカを手離したくなかったヴァレリーは、口さがない噂話が真実となってしまう前に実力行使に出ることにしたのである。

 つまりはそれが、あの晩の閨であった。

 仄かな期待があったことは否定しない。エリシュカがこの腕を拒まないでいてくれるのなら――もう一度自分を受け入れてくれるのなら――、次の夜まではまたしばらく時間がかかってもかまわなかった。

 もしもあの夜がなければ、エリシュカは城から追い出されていたに違いない、とヴァレリーは思う。だからこれでよかったのだと思う反面、自分はもう二度と取り返しのつかない過ちを犯してしまったのではないかとも思う。

「なぜ、そこまでしてエリシュカさまにこだわられるのですか」

 オリヴィエは眉間に深い皺を刻んでそう尋ねた。

「なぜ、か……」

 ヴァレリーはオリヴィエと視線を交わさぬまま呟いた。

 それは、いつぞや同じことを尋ねられたばかりではなく、ヴァレリー自身、幾度か己に投げかけたことのある疑問だった。

 肚に呑む政治的な利用価値はともかくとして、自分がこれほどまでにエリシュカ自身に執着するのはなぜなのだろう。美貌や従順さだけでは説明がつかない。

 たしかにエリシュカの容姿は非常に美しいし、誰の云うことにも逆らうことはない。

 だが、云ってみればそれだけなのだ。エリシュカほど美しくはなくとももっと愛嬌のある笑顔を浮かべる娘は大勢いるし、性格だって多少反抗的なくらいが躾ける楽しみも味わえる。

 それだけでないことを知ってしまったからか、とヴァレリーはふと気づいた。厩番頭と身分を偽ってともに過ごした日々に、エリシュカの本質を知ってしまったから、だからおれは――。

 エリシュカが己の意見をきちんと主張するのは、馬にかかわるときだけである。厩舎にいるときだけは、彼女は日ごろの盲目的な従順を捨て、馬たちを守るために必死に戦う。

 そんな毅然としたエリシュカの姿を知るヴァレリーは、いつか彼女が彼女自身のために戦う日が来るのではないかと期待していたのだ。虐げられるばかりの侍女としてではなく、エリシュカ自身として生きることを選ぶ日が来るのではないかと――。

 神ツ国にいればかなわぬそれも、ここ東国でなら決して叶えられぬ夢ではない。ここにはエリシュカを卑しき民として貶める者はいないからだ。

 そしてヴァレリーは、誰かの支配に耐えるのではなく、己で己を支配して立つエリシュカの隣にありたいと、そう願ったのだ。

 己の足で立つエリシュカがとても美しいと知っていたから。

 あの早朝の早駆けで、銀色の光となって馬を駆る彼女を知っていたから。

 いずれ国王となる自らの道が、険しく厳しいものになることをヴァレリーはよくわかっている。国とは、たったひとりで背負いきれるようなものではない。多くの家臣、信頼に足る側近、愛する者。そうしたすべての者に支えてもらって、ようやく背負えるものだ。

 特別に賢くなくてもいい。美しくなくてもいい。ただ、いつどんなときでも己であるために戦うことのできる女であれば――。

 国王となる自分はこの先いついかなるときも、そう、身内に争いのあるときにも、国に乱れのあるときでも、政治のため親しい誰かに死を授けるときにも、あるいは己が断頭台に立つときにも、顔を上げ、誇りを捨てず、戦い続けなくてはならない。

 それは、常に己を正義と考えるという意味ではない。国のため、民のため、己が悪となることも厭わない、という意味だ。

 そうありたいわけではない。ただ、最後の最後、誰かがどうしても悪を背負わねばならぬときは、それもまた国を背負う国王の務めである、とヴァレリーは思う。その責務を投げ捨て、逃げ出すような真似だけはしてはならぬと思う。

 そんなことを誰かに話せるはずもない。国王となる王太子の覚悟とは、国とともに繁栄するための覚悟であり、国のために滅びる覚悟ではないからだ。

 もちろんおれだって、そう容易く滅び去るつもりはない、とヴァレリーは思う。だが、国王たるもの、あらゆる可能性から目を逸らしてはならないとも思っている。

 己の誇りが失われ、命を断たれるときにも、すべては国とそこに生きる民を守るための使命と心得、背負っていかねばならない。そういった覚悟で玉座に座らねばならない。

 もしもこの先、すべてに――国に、民に、臣下に、親に、子に、友に――裏切られる最期を迎えることになるとしても、己だけは守るべきものを守らねばならない。誰にも理解されることのない重たい責務を背負う、そうした覚悟こそが強さであると考えるヴァレリーは、心の奥底で己の隣に立つ女にも自分と同じ強さを求めていたのだ。

 エリシュカに出会うまで、しかし彼は女にそんな期待をしたことはなかった。

 いずれどこかからか嫁いでくるのであろう正妃にでさえ――その女は、いずれ東国王妃として立つという覚悟を決めてやってくるに違いないというのに――、ヴァレリーはさしたる期待をしていなかった。愚かでなく、醜くなく、騒がしくなければそれでよいと、そんなふうに諦めていた。

 けれど、エリシュカに――おとなしく従順でありながら、決して弱くはない彼女に――出会って、ヴァレリーは思ってしまった。こんな女ならば、あるいはおれとともに死んでくれるのではないか、と。

 それはつまりヴァレリーにとって、これまでほかの誰にも捧げたことのない深く激しい恋情であるということと同義だった。それなのに、彼がこれほどまでにエリシュカを想っているというのに、彼女はいつまで経ってもヴァレリーに心を許そうとはしない。

 そしておれはそんなエリシュカを最後の最後で責めることはできない、とヴァレリーは思う。おれの想いも決して純粋なだけではないから――。

「ただ、エリシュカならば、と思っただけだ」

 胸に押し寄せる複雑な思いを口にすることなく、ヴァレリーはただそれだけを云った。言葉少なに明確な答えを渋る彼に向かって、オリヴィエは苦い顔をしてみせた。

「殿下になにか深いお考えがあることは、この私も承知しております。ですが、殿下はそのお考えのために苦しんでおられる」

 ヴァレリーはそこでふと目を伏せた。オリヴィエは軽いため息をついて続ける。

「その胸のつかえを、私にわけてはくださいませんか。殿下がおひとりで苦しまれることはございません。そのための私なのですから」

 ヴァレリーは眼差しを上げ、オリヴィエの真摯な言葉を受け止める。そのまま彼は暫しじっと息を詰めていた。

「……殿下」

「オリヴィエ」

 ふたりはほぼ同時に互いを呼び、いつものようにオリヴィエが譲った。

「おれの意思は変わってはいない。エリシュカを求めることも、その理由も」

「理由?」

 その理由とやらが、つまりはあなたが苦しまれている理由なのか、とオリヴィエは思った。まだ話す時期ではないと、かつて云ったその理由が――。

 だが、とヴァレリーは云った。

「おれはどうやらなにかを間違えたらしい。エリシュカはおれを嫌い、おれを遠ざけようとしている」

「殿下」

「それでもおれは彼女を求めぬわけにはいかないのだ。一度失えば、二度と手にすることのできぬ存在だからな」

 オリヴィエの眉間に深い皺が寄せられた。もしかしたら俺は間違っていたのかもしれない、と彼はそのときはじめてそう思った。

 ヴァレリーのエリシュカに対する執着の根底にあるものは――ほかにもなにか深い理由があるにせよ――まずは度を超えた恋情であろうと、オリヴィエはずっとそう思っていた。

 だがこの云い方では、まるでその理由こそが先にあるような――。

「失うことはできぬ。そう思って監禁まがいの真似までしてみたが、えらく嫌われた。嫌われたところで手放してやれぬのだから、こうなればどうにかして機嫌をとるしかあるまい。おれの顔を見たくないと云うのなら、少しばかり離れてみるのもよいだろうと思っていた」

 だが、自分ではなかなか決心がつかぬものでな、とヴァレリーは薄く笑う。

「今回のことは、だから、ちょうどよい機会であった。そなたらには感謝せねば」

「感謝……」

 ああ、とヴァレリーは頷いた。

「おれは相当ひどい男であるらしい。あの放任な父上からもお小言を食らったくらいだ」

 側妃にもできぬわけだ、とヴァレリーは自嘲した。

「その件でしたら、国王陛下ではなく王妃陛下が……」

「わかっている。だが、エヴェリーナ陛下はよくも悪くもおれには関心がなくていらっしゃる。離縁したばかりのいまは、単純に奥向きの規律からして時期が悪いと、そう判断されたのだろう」

 エリシュカを側妃の座に押し込むため、ヴァレリーは侍従長と筆頭侍女を証人に、必要な手続を進めていた。だが、王城の奥を取り仕切る王妃エヴェリーナからの了承を得ることができず、エリシュカは相変わらず寵姫という不安定な身分のままだった。

「この視察はちょうどよい冷却期間になろう。父上にも、王妃陛下にも」

 おれにとってもな、とヴァレリーは云った。はい、とため息混じりに答えたオリヴィエは、それで、とうながすヴァレリーに気づいて、首を傾げた。

「なにか?」

「なにか、ではない。先ほどなにか云いかけただろう、おまえ」

 ええ、とオリヴィエは言葉を躊躇う。

 この機会にエリシュカを手放してはどうか、とオリヴィエは先ほどまでそう進言するつもりでいた。懲りもせずに、と呆れられることは百も承知で、それでもやはりエリシュカさまは殿下にふさわしい女性ではありませんと、そう云うつもりだった。だが、すでにその気は失せていた。

 ヴァレリーの心がなんとなくわかったような気がしたからだ。

 殿下は、エリシュカさまをただ求めているのではない。求めなければならない理由があって求めているのだ。俺はずっと勘違いをしていた、とオリヴィエは思う。

 ヴァレリーがエリシュカを求めることになにがしかの理由があるということは、ずっと前からわかっていた。そして同時にオリヴィエはこうも思っていたのだ。その理由は殿下の内側にあるものだ、と。

 たとえば恋情。たとえば執着。たとえば嫉妬。

 なんだっていい、ヴァレリーの内側から生まれるなにかが理由だと思っていた。

 それは間違いだった、とオリヴィエは思う。殿下がエリシュカさまを求められる理由は、彼の外側にこそある。だからこそ殿下は、こうも苦しまれてまでエリシュカさまを求められるのだろう。

「なんだ、云いたいことがあるのなら云っておけ」

「いいえ、殿下」

 お話を伺いましたのでもう結構です、とオリヴィエは云った。

 殿下はご自身の過ちを――エリシュカさまを苦しめる罪を――誰よりもよく理解されておられる、とオリヴィエは眉根を寄せた。それでも彼は、己の振舞いをあらためることができないのだ。そこには理由があり、その理由は自分ではどうにもすることができないものだから。

 日ごろ、他者に対して決して冷酷ではないヴァレリーにそうまでさせるものを、オリヴィエはひとつしか知らない。

 ――政治だ。

 殿下は政治のためにエリシュカさまを求めておられる。ならば、とオリヴィエは思った。きっと殿下のなさることに過ちはない。俺の目に見えぬなにか、いまはまだ見えぬなにかが、殿下の目には見えている。

 そして俺は、ヴァレリー・アランというひとりの男ではなく、ラ・フォルジュを背負う王太子としての殿下の目を、生涯信じ抜くと誓っているのだ。

「殿下は殿下のお考えを貫かれればよろしいのです。私はいつでもあなたのおそばにおりますゆえに」

 ヴァレリーは暫し無表情のままオリヴィエを見つめていたが、やがて、そうか、と呟いて、口許をかすかに歪めた。

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