06

 殿下、と低く沈んだ控えめな声で呼びかけられたヴァレリーは、目を落としていた書類から顔を上げて、すぐ傍に立つオリヴィエ・レミ・ルクリュを見上げた。

 二十日間に及ぶ領地視察を終えて王城への帰路の途中、立ち寄ることを例年の習いとしている、ルクリュ家が所有する別荘の一室――幼少の頃より、オリヴィエとともにこの館を訪れることの珍しくなかったヴァレリーは、必ずこの部屋を使う――でのことである。

 ここから王都までは半日もかからぬ距離である。つまり、明日には王城へ戻る、その前の晩のことであった。

 ヴァレリーが、エリシュカの逃亡を知ったのは、視察に出て十四日め、その後もまだ多くの日程を残していた頃のことである。

 昼前に城を出た早馬は、翌日の深夜になってヴァレリーのもとへと到着した。愛する女の出奔を知ったヴァレリーは顔色を失くしこそしたものの、激した言葉を発したり、荒れた仕草を見せたりすることはなかった。

 ただちに国境守備隊や各街々の衛士たちに宛てて密命――彼の者を見つけ次第、慎重に捕えよ、決して殺すな――を発することはしたものの、自ら行動しようとはしなかったヴァレリーに、オリヴィエは、すぐに帰城なさいますか、お帰りにならなくてよろしいのですか、と幾度か重ねて尋ねたものである。

 いや、いい、とそのときのヴァレリーは静かに答えた。

 急ぎ戻ったとてできることはないからな、というその声はひどく穏やかで、視察に出る前の彼がエリシュカに対して強いていた残虐を思い返すと、オリヴィエはそこにどうにも拭いがたい違和感を覚えた。

 エリシュカ付侍女を任じられていたモルガーヌが自ら謹慎したことや、デジレの再三にわたる説得がまるで功を奏していないことなどは、その後続々と届けられたデジレからの書状ですべてつぶさに知ることができた。ヴァレリーはすべての書状に隈なく目を通していたが、具体的に行動したのは、エリシュカの出奔から二日後のことである。

 モルガーヌ・カスタニエを監察官に任ずる、との命を下すべく筆をとり、同じ使者に、国王に対する願い出――己が寵姫の不始末を拭うべく、侍女のひとり監察官とすることをお許し願いたい――も託していた。国王ピエリック・ロラン・ラ・フォルジュの裁可や侍女長ジョゼ・セシャンの許可を得るのに、そこから二日を要し、昨日になってようやくモルガーヌ・カスタニエに対する正式な命を発することができた。

 オリヴィエは眉をひそめ、常には穏やかな表情を保っていることの多い顔を軽く顰めて、緩く足を組んで腰を下ろしている主をまっすぐに見つめていた。

「どうした?」

「お尋ねしてもよろしいでしょうか」

 なんだ、とヴァレリーは短く答えた。

 絶対的主従関係にあるとはいえ、ときには口論することもある仲であるオリヴィエが、このようにあらたまった問いかけをするとき、その答えをはぐらかすことはできない。ヴァレリーはそのことを知っていて――もっと云えば、彼がなにを問うつもりでいるのかということもわかっていて――オリヴィエに質問を許した。

「いったいなぜ、それほどまでにエリシュカさまにこだわられるのです?」

 ヴァレリーは無言のまま、オリヴィエに言葉の続きをうながした。

「おそれながらエリシュカさまは、殿下の信も情もすべてを裏切って城を出て行かれました。たとえ連れ戻されたところで、この先彼女が殿下に心を開くようになるとは思えません。殿下のお心に偽りのなかったことは、このオリヴィエ重々承知しておりますし、いまのお気持ちもお察しいたしますが、彼女のことは、もう……」

 ヴァレリーは手にしていた書類を簡素な机の上に音を立てて投げ出した。その仕草を見たオリヴィエが口を噤む。そうだな、とヴァレリーは云った。

「おまえの云うとおりだ、オリヴィエ。たとえエリシュカを連れ戻したところで、エリシュカはおれに心を許さぬだろうし、おれもまたエリシュカをかつてのように慈しむことはできぬやもしれぬ」

「ならば、もう、彼女のことは……」

「そうはいかぬ、ということがわかっていて、そんなことを云うのだから始末が悪いな、おまえは」

 ヴァレリーの苦笑に、オリヴィエは、笑いごとではありません、とますます顔を顰める。

「殿下が色恋に狂われ、女人に無体を働かれるだけならば、私はこんなことは申し上げない。お閨のことに現を抜かしたせいでご政務に穴をあけられても、ある程度までなら埋めて差し上げることもできる。ですが、私に殿下の代わりを務めることはできないのです」

 なにが云いたい、とヴァレリーは夏空色の瞳を眇めた。

「ご自分を失わないでいただきたい、と申し上げております」

「そう見えるか」

 はい、とオリヴィエは躊躇なく頷いた。正直だな、とヴァレリーはまた苦笑する。

「エリシュカさまに関するこれまでのことはすべて、それがたとえ人の道に悖る行いであったとしても、あくまでも私事である、王太子としての体面を汚すようなものではない、と云い張ることもできましょう。ですが……」

 オリヴィエはそこで机の上に手をつき、ヴァレリーの顔を覗き込むようにしてぐっと身を乗り出した。

「エリシュカさまの行方を追わせるために、カスタニエを監察官にまでしたのは、明らかにやりすぎです」

 なんだ、とヴァレリーは苦笑を深めた。

「自分の飼い犬に手を出されたのが悔しいのか」

「殿下!」

 そういうことではございません、とオリヴィエは鋭く云った。

「だいいち、私はカスタニエを犬になど……」

「あれはおまえの駒ではないか。ジェルマンを、いや、叔父上を探らせるためにうまく飼い慣らしていた」

「飼い慣らしてなどおりません」

 生真面目なオリヴィエの反論に、そうだな、とヴァレリーは答える。

「女ながらに、あれはれっきとしたカスタニエだ。そう簡単に手懐けられるような性質ではないだろうからな」

「それをおわかりでいらしてなお、彼女を監察官に任じるというからには、それなりの理由が必要です」

「本人は納得するはずだが?」

「彼女自身はこの際問題ではないのです。殿下とておわかりでしょう」

 カスタニエ卿か、とヴァレリーは低い声で呟いた。

 モルガーヌの父ジェルヴェ・カスタニエ卿は、王都から遠く離れた辺境の領主といえども、領民に深く慕われる名門の長である。

 カスタニエ家は直系相続を前提とする東国の世襲制をよしとせず、代替わりの都度、一族の中からこれぞという者を連れてきて当主に据える、ある意味では異端の家系だった。一族の歴史や勲から考えれば、カスタニエに与えられている地位は不当に低いものだと云うこともできるが、それはそうした異端が理由であるとも思われる。

 相手が一族を束ねる当主であれ、東国を統べる王家であれ、納得ずくでなければ従わぬ血は、これまでのところ幸いにも国相手に弓を引いたことはなかった。

 だが、これまでがそうだったからといって、これからも同様であるとは限らない。能ある当主が続く中でも、ことに名君の誉れ高きジェルヴェ・カスタニエは、娘が官吏を任じられたことに納得するだろうか、とオリヴィエは考えた。

「小なりとはいえど名門の貴族から官吏を登用する、それも女性を、となれば、そこにはしかるべき理由が必要でしょう。それも、カスタニエ卿をはじめ、数多の貴族たちを納得させるだけの理由が」

「そして、おまえのこともな」

 オリヴィエは深緑の瞳を細めて頷いた。ヴァレリーは軽いため息をついて、座ったらどうだ、と簡素な机の傍にあった、やはり簡素な丸椅子を側近に勧めた。

 あるいはようやくのことで殿下の真意に触れられるのかもしれない、と考えたオリヴィエは、素早く、しかしごく静かな所作で丸椅子を引き寄せ、腰を下ろした。

 ヴァレリーは机の上に肘をついて軽く顎を支えながら、オリヴィエが居所を確保するのを待ってでもいるかのように見守っていた。オリヴィエが落ち着けばすぐにでも口を開くと思われたヴァレリーは、しかし、云われたとおりに彼が腰を下ろしてしばらくしてからも口を噤んだままでいた。

「殿下?」

 焦れたオリヴィエが声をかけると、ヴァレリーは、ああ、と頷き、しかしなかなか口を開こうとはしなかった。

 そんなに云いづらいことなのだろうか、とオリヴィエは思った。

 君主とは、往々にして言葉の足りないものである、ということをオリヴィエはよく知っている。己が仕えるヴァレリーも、父が仕える国王ピエリックも、明晰かつ勇敢であるだけに、自身の心のうちを明かすことは少ない。自らが発する言葉に周囲は黙って従うものだと彼らは考えていて――それは、事実そのとおりなのだが――、なぜそう考えたのかを説明することは滅多にない。

 しかし、いまのヴァレリーの沈黙はそうした傲岸とは違い、彼の逡巡や脆弱を表しているように、オリヴィエには思われた。彼の主はそうした人間らしさを隠しているわけではなかったが、こうまでも露わにするのは珍しいことだ。

 しばらくのちに、ヴァレリーはようやくのことで口を開いた。オリヴィエ、と王太子はやや億劫そうな口調で呼びかけた。

「おまえは、わが国の未来をどのように考えている?」

 は? とオリヴィエは思わず不躾な声を上げた。

「わが国はこれからどうなっていくと思う、と訊いている」

 側近の無礼を咎めるでもなく、ヴァレリーはふたたび尋ねた。オリヴィエは眉間に皺を寄せ、はい、と無意味な返事をした。

 ヴァレリーの眼差しは緩く伏せられていて、オリヴィエを見てはいない。そんな様子もいつものヴァレリーらしくはなく、オリヴィエはわずかに動揺する己を自覚した。

「いまの陛下は改革と伝統とをどちらも重んじられ、わが国は未曾有の発展を見ております。殿下が治世を受け継がれたのちも、いまと変わらぬ、いえ、よりいっそうの弥栄いやさかを……」

「本気で云っているのか」

 オリヴィエには世辞追従を述べたつもりはない。だが、そう聞こえたとしてもやむをえないだろうな、と彼は思った。

 ヴァレリーの問いかけの意味をまるで掴みかねていたせいである。

 こんなことは珍しい。オリヴィエの主は明朗な賢さを持った男だったから、無意味な言葉や表情で他人を弄ぶような陰険を嫌う。腹芸が不得手なわけではないが――そうでなければ王族など務まるはずもない――、好んではいないのだ。だからヴァレリーは、第一の側近であるオリヴィエに対しては、いつも正直でわかりやすい言葉を使うことが多かった。

「殿下……」

 どうかご容赦を、とオリヴィエは云った。ヴァレリーは軽く息をついてから、そうだな、と呟いた。

「訊き方が悪かった」

 いいえ、とかしこまるオリヴィエに向かい、ヴァレリーは、あらためて、と云わんばかりに問いかけを発した。

「われらラ・フォルジュは、これからもこの東国の王であり続けることができるのだろうか」

「……殿下?」

 あまりにも意外な言葉を聞かされたオリヴィエは、眉をひそめてヴァレリーを見据えた。あるいはそれは、睨み据えると云ったほうが正しいと思えるほど、厳しい眼差しであったかもしれない。

「それは、どういう……」

「そのままの意味だ」

 言葉を失い、呆然としたかに見えるオリヴィエを前に、ヴァレリーはもう一度、そのままの意味だ、と告げた。

「なにをそんなに驚く?」

 王家の隆盛と衰退は世の習いではないか、とヴァレリーは云った。答える言葉を持たぬオリヴィエはただ喉を鳴らすばかりだ。

「わがラ・フォルジュも数百年前に先の王朝からその位を奪った、いわば簒奪者だ。西国の皇帝もその血筋をたびたび変えている。南国にいたっては絶対者を戴くことなく、民が自ら元首を選ぶではないか」

 それは、そうですが、とオリヴィエはどうにかこうにか返事をしてみせた。

「われらだけが、未来永劫、この国の王でいられる保証などどこにもないのだ」

 そしてヴァレリーはこのときはじめて、これまで父である国王ピエリック・ロラン・ラ・フォルジュとしか交わしたことのない、ある思い――絶対的な王を国の頂に据えるいまの制度は、遠からず破綻に向かうに違いない――をオリヴィエに語って聞かせた。

 少数の王族や貴族が既得権益を元手に多数を支配するやり方は、国の歴史が浅く貧しいときには非常に効果的だが、わが国はもうその段階にはない。飛躍的に向上した東国の科学技術と、それに伴う数多の優れた工業製品は、民に大きな富と力を与えた。彼らはいずれ、自ら国を動かすことを望むようになるだろう。

 民が大きな力を蓄えてきていることくらい、オリヴィエにもわからないわけではない。だが、それをもってして、まさかヴァレリーが――あまつさえ国王までもが――そのような思いを抱くに至るなどと、いったい誰が考えるというのだろうか。

 顔を強張らせるオリヴィエに向かい、考えてみれば、ごくあたりまえのことではないか、とヴァレリーは穏やかに云った。

「国とはつまり民なのだ。民である彼らには、自らの国を動かす権利があり、義務がある。そうだろう」

 いまはまだよいが、とヴァレリーは続ける。

「もし、政治制度をいまのままにその時がくれば、民にとってのわれらはひどく邪魔な存在となるであろう」

「殿下……」

「父上がこのようにおっしゃったのだ。だが、まったくそのとおりだとおれも思う」

 ふたたび絶句したオリヴィエに向かって、ヴァレリーは鷹揚に笑ってみせた。

「冗談ではない、という顔だな」

「もちろんです」

 表情を強張らせ、声を揺らし、それでも迷いのない口調で答えたオリヴィエは唇を噛みしめた。――こんな情けない話を聞かされるために、これまでお仕えしてきたわけではないというのに。

「いったいなにが殿下に、いえ、陛下にそのようなことを思わせてしまったのか、ことと次第によってはわれら臣下一同、腹を切らねば……」

 オリヴィエ、とヴァレリーは深い吐息とともに側近の名を呼んだ。鋭い声にオリヴィエが身を竦ませる。

「おまえにそのようなことを云わせるためにこの話をしているわけではない。わからぬのか」

 オリヴィエは喉を鳴らし、小さく顎を引いて視線を伏せた。いまでこそ過去の武勲や功績にしがみついてもいられようが、やがてはすべてが忘れ去られる、とヴァレリーは噛んで含めるように言葉を重ねた。穏やかな口調は少しも変わらない。

「民は正直で、しかし目先のことしか考えぬものだ。すぐに目に見える利をもたらさぬ存在に、現世利益を第一に考える彼らは厳しい態度で臨むだろう。われらはいずれ駆逐される」

 オリヴィエはゆるゆると首を振った。――冗談ではない。そんな莫迦なことがあってたまるか。

「冗談ではない、という顔だな」

 ヴァレリーが低く笑うのへ、当然です、とオリヴィエは猛然と食ってかかった。

「いったいなんということをおっしゃるのですか。たとえわが国の王位を継がれる方とはいえ、いえ、継がれる方であるからこそ、口にされてはならないお言葉というものが……」

「国王となるからこそ、口にするのだ」

 夏空色の瞳に強い光を乗せたヴァレリーが鋭く云い放つ。オリヴィエは喉を詰まらせて黙り込んだ。

「われらラ・フォルジュはこの東国のすべてを背負わねばならぬ。過去も未来も、繁栄も衰滅も、善も悪も、すべてをな」

「だからといって……」

「過去に学ばねば未来はなく、衰滅を見つめねば繁栄はない。悪を知らねば善をなすこともできぬであろう。己に都合のよいものだけを見ているようなうつけに、栄光などあるものか」

 もはやオリヴィエは言葉もなく、ただヴァレリーを見つめるばかりだ。

「父上はおっしゃった。民が国政を動かしたいと望むのなら、いずれそうさせてやろう、と。そのために議会も設けられた。ゆくゆくは、いまよりもさらに開かれた政を行っていくつもりでいらっしゃる。おれにもそのつもりであるように、とそうもおっしゃられた」

 云われるまでもなくそのつもりだ、とヴァレリーはこともなげに云う。

「国とは民であるし、そうである以上、民が政を行うのは当然の理だ。それを咎めたりはできぬ。そうであろう?」

 王太子の傍近くに仕える者として、まつりごとに関するオリヴィエの造詣は深い。自国の制度のみならず、他国の制度についての知識も豊かで、当然、民が国を動かす制度――おもに南国のそれであるが――についても熟知していた。

 南国の政は民によって行われている。数年に一度の直接選挙によって選ばれる議会議員と、彼らの中から選ばれる候補者に対する投票――これもやはり民による直接投票――で定められる元首が、国の舵取りを行っている。事実上の独裁を防ぐため、元首の再選には制限が設けられている。そうした規則はすべて憲法によって定められており、すべての民のみならず、民を縛る法律や規則のすべてが憲法の理念を順守しなければならないとされている。

「つまりそれは、わが国に南国のような制度を取り入れるという……そういうことなのですか?」

「いずれはな」

 オリヴィエはヴァレリーの真意を汲み取ろうと、眉根を寄せた険しい顔で主を見つめた。

「だが、南国とわが国とでは国の規模が違いすぎる。民の数も多く、国土も広く、歴史も複雑なわが国に、いきなり南国の真似はできん。彼の国は、わが国の十分の一にも満たぬ数の民しかおらず、また国土の大半が急峻な山岳地帯で、人の住まう土地は沿岸部に集中している」

「それに、属国との関係も非常に明確で、根深い争いを抱えるような歴史も持っておりません」

 オリヴィエの合いの手に、ああ、そのようだな、とヴァレリーは頷いた。

「わが国には西国との争いの芽がいまだに残っている」

 ですから、とオリヴィエは半ば悲鳴じみた声を上げた。

「東国を今日まで永らえさせたのは、王家ラ・フォルジュとわれら貴族です! 長い争いの時代を耐え、支え、民らを守ってきた。わが国の繁栄はわれらが作り上げたものです。民はわれらの背後でただ怯えていたにすぎない……!」

「オリヴィエ」

「なぜです? なぜなのですか、殿下! 国を守り支えてきたあなたがたが政から退き、民に譲らねばならぬのです!」

 オリヴィエ、とヴァレリーは再度厳しい口調で側近を戒めた。

「国を守り、支えるのはわれらの務めだ。民がそれぞれの務めに勤しみ、税を納めるのと同じに、われらは国を守り、民を守らねばならぬ。そういう意味ではわれらと民とは等しい責を負っているのだ」

「だからといって……!」

「民はわれらにとって子のようなものだ。慈しみ、守り、育ててはきたが、しかしいつかは独り立ちしてもらわねばならん。いつまでも揺籃の中で微睡んでいられては困るのだ」

 われらはようやく子育ての重責から解放されるのだ、そう思えば気も楽になるだろう、とヴァレリーは笑った。オリヴィエは到底笑えるような気分ではない。

「だが、その揺籃から手を離す時期を見極めることは重要だ」

 笑顔を消したヴァレリーは、なんでもないことのように続ける。

「いまだ独り立ちできぬ子を放り出せば、邪な輩に食い荒らされることになろうし、そうかといって過保護にすれば、今度は邪魔な親であるとして、守っていたはずの子に刺されることになろう」

 どちらも遠慮願いたい、とヴァレリーは云う。

「わが国の民は、そろそろ揺籃を出てもよい頃合いだと自ら思いはじめているようだ。そうした機運は高まってきている。ならばわれらはわれらで、己が身の振り方を考えねばならぬ」

 オリヴィエは強く拳を握った。ヴァレリーの言葉は、理性では理解できる。彼の云うことは正しく、国王親子の慧眼にはただ深く頷かされるばかりだ。

 だが、感情は、心はその理解を否定する。――俺は、いずれ国王となるべきあなたにこの身と心を捧げてきた。あなたはこの国の唯一の王にならなければならないのです、殿下。あなた自身のために、否、この俺のために。

「……お話は、よく、わかりました」

 喉の奥から絞り出すような声でオリヴィエはそう云った。ですが、と彼は震える声を精一杯に抑えようとしながら続けた。

「ですが、私には納得できません」

「なぜだ?」

「己の身ひとつを守ってきただけの民草と、国そのものを護ってきたわれらとが、なぜ同列に扱われねばならぬのです。この国の長い歴史は、いえ、少なくともその一部は、われらが築いたものです」

 そのとおりだ、とヴァレリーは頷いた。

「民はわれらに敬意を払うべきです。今日の自らの平穏と繁栄が誰のおかげであるかを忘れるべきではない」

「それはわれらも同じであろう、オリヴィエ。守るべき民がいたからこそ、王家も貴族も必死に戦うことができた。それを忘れてはならぬ」

「それこそ民も同じではありませんか。われらの存在を忘れさせてはなりません」

「誰が忘れさせると云った?」

 厚い掌で頬を張られでもしたかのような顔をしてオリヴィエが口を噤んだ。

「誰が、われらを忘れ去られた存在にするなどと云った?」

 なあ、オリヴィエ、とヴァレリーは唇だけを歪めてみせた。オリヴィエの背中に冷たい戦慄が走り、額にじわりと汗が滲んだ。

「揺籃からは手を離す。そこから歩き出でて自由を掴むというのならばそれもよい。己の足で走るも、馬に乗るも、それは自由だ。だが、歩き、走るには道がなければならぬ。荒野ばかりを切り拓きながら進むのでは、ちと骨が折れるだろうからな」

 わかるか、オリヴィエ、とヴァレリーはなおも口元だけの笑みを深くした。

「そしてその道を築くのは、なにも民に限らずともよいであろう」

 オリヴィエは、今度は雷に打たれでもしたかのような顔でヴァレリーを見つめた。ヴァレリーはようやくのことで瞳にも笑みを乗せて、言葉を繋いだ。――なにを驚くことがある。

「われらとて、この東国の民のひとりであることに変わりはあるまいよ」

「民の、ひとり……」

「そうだ。民のひとりとして新たな道を築いてなにが悪い。むしろ経験があるぶんだけ有能な人足になれるであろう」

 では、とオリヴィエは喉を鳴らした。

「真の意味で政を民に委ねられるおつもりではないのですね?」

 ヴァレリーは返事をしなかった。瞳を細く眇めて、オリヴィエからわずかに視線を逸らしただけだった。だが、ただそれだけであっても、忠義に篤い側近にとっては十分な応えとなりえたようだ。

「わかりやすい権益などくれてやればよい。その裏でわれらは真の支配を手に入れる」

 それが父上の言葉だ、としばらくしてからヴァレリーは云った。

「憎まれてはならぬ。しかし、軽んじられてもならぬ。愛されなければならぬ。権威を失わぬままに、国の礎として親愛の対象となるように仕向けねばならぬ、とそう仰せであった」

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