07

「まったくもってそのとおりです、殿下」

 ですが、と衝撃から立ち直ったオリヴィエは、そこで、この話のそもそもの発端を思い出した。

「そのことと、エリシュカさまのことと、どのような関係があるのです?」

「いま話したようなことは、父上の御世には関係のないことだ。あるいはおれの治世となっても、いまとさほど変わらぬかもしれぬ」

「どういう意味でございますか?」

「父上がはじめて議会を置いてから十数年。その間、議会に席を持ったのは大臣の位に就いておらぬ貴族か学者、せいぜいが莫大な富を得た商人程度。多くの民はいまだ、政に携わるだけの力を持っておらぬ。それだけの知恵もなければ、気概もない。揺籃から手を離すには、まだいささかばかり時期が早いのであろう」

 話が見えない、とばかりにオリヴィエは首を傾げた。

「だが、そこここに兆しは見える。民はやがて急速に力をつけ、あっというまにわれらを駆逐せんとするようになるだろう。己らの頭を押さえつける厄介な敵としてな」

 そうなってからでは遅いのだ、とヴァレリーは云った。

「民に自覚の薄いいまのうちから、われらは来たるべきその日に備えておく必要がある。民の反感を買うことなく、われらもまたこの国の民のひとりと認められなくてはならぬ。そのためには常に先手を打ち、開かれた王家としての改革を印象づけておかねばならない」

 民とはとかく印象に弱いものだからな、と云い切るヴァレリーの顔に、しかし先ほどまでの酷薄さは欠片も見当たらない。あれも計算か、とオリヴィエは舌を巻く。第一の側近たるこの俺が相手であっても眼差しひとつ、微笑みひとつに至るまで完璧に制御してみせる殿下に、為政者としての瑕疵はない。

 この誇り高き男が民草とひとつ卓を囲んで政を論じるだと、とオリヴィエは可笑しくなった。――ありえない。ありえてはならない。

 苦笑いを浮かべ、首を横に振るオリヴィエに向かって、ヴァレリーは、なんだ、と問いかけた。殿下、とオリヴィエは苦々しい声で云った。

「殿下のおっしゃるとおり、その日は避けられないものであるのかもしれません。ですが、たとえその日が来ましても、心配はありますまい。為政者としての自覚を強くお持ちでいらっしゃる殿下と成り上がりの民らとでは、政に対する覚悟がまるで違います。ただただ権力を恣にしたいだけの者たちに、王家を超えられるはずがありません」

「そう思うか?」

 ヴァレリーの声が冷たく尖った。

「本当に、そう思うのか、オリヴィエ?」

 オリヴィエは口を噤み、ヴァレリーの言葉の続きを待った。おれはそうは思わぬ、とヴァレリーは云った。

「国は民だ。さっきも云ったように、おれはそう思っている。民もいつかそのことに気づき、そして自らの行く末を自ら定めたいと願うようになるだろう。むろん大声を出し、拳を突き上げて自らを主張する者は少なかろうが、しかし、平和を望む大多数もまた、心の底では同じことを願うようになるに違いない」

 そしてわれらは、とヴァレリーは続けた。

「民らとなんの違いもない、小さな存在だ。いまでこそ王家だの貴族だのと云っていられるが、やがてそうもいかなくなる。そして何度も云うが、そのときでは遅すぎるのだ」

 オリヴィエにしてみれば盤石であるようにしか思えぬ王家の権威も、ヴァレリーの目にはひどく脆弱なものと映るらしい。にわかには信じがたい話ではあるが、しかしオリヴィエにはヴァレリーを疑う理由もなかった。

「そうだとして、しかし、エリシュカさまのことは……」

「開かれた王家を民にもっとも印象づけるできごとはなんであると思う? オリヴィエ」

「できごと、でございますか?」

 議会制を導入したとはいえ、まだまだ閉鎖的な政のことではあるまい、とオリヴィエは思った。議会に連なることのできる民は非常に限られている。官吏への登用は別としても、いわゆる国家としての意思決定機関に庶民の入り込む余地はない。となると、とオリヴィエは思考を巡らせる。

「慶事、あるいは弔事、でございますか……?」

「そのとおりだ」

 陰気で鬱陶しいまつりごとなど、大多数の民にとってはさほどの関心事ではあるまいよ、と美貌の王太子は笑ってみせた。

「民らの関心は、王家や貴族どもの醜聞スキャンダル艶聞ゴシップ、でなければ婚姻や葬儀など、己の暮らしからも想像できる身近なできごとにこそある。支配階級の象徴たるわれらラ・フォルジュはいつでも格好の生贄だ」

 なかでもおれは、とヴァレリーはなおも微笑む。

「王都の女たちにたいそう人気があるらしいではないか」

 それはヴァレリーの自惚れなどではなく、たしかな事実だった。この国でもっとも高貴な身分に、逞しさを兼ね備えた美貌。さらには知勇も持ち合わせた完全無欠の王太子は、市井の女たちに絶大なる人気を誇っている。当代一番の人気役者でさえも、王太子の前では霞のごとき希薄な存在と成り果てる。

「ええ、まあ、それはもう……」

「であれば、このおれの婚姻ともなれば、民らの関心は否が応にも高まろうな」

 少しずつ明らかになってきた話の筋道を見据えようとするかのように、オリヴィエは深緑の双眸を眇めた。

「おれに結婚をしない、という選択肢は存在しない。おれにもジェルマンにもしかるべき相手と婚姻し、子をなす務めがある。わがラ・フォルジュの繁栄のために」

 それは王家に限らず、血統を世襲するすべての貴族に相通ずる務めである。男女を問わず、貴族として生を受けた者で婚姻を結ばぬ者はほとんど存在しない。生まれながらの同性愛者であろうが、不能であろうが、石女であろうが、みな等しく異性の配偶者を持ち、家のため、血脈のため、子をなすべく努力をせねばならない。

 東国の法は、貴族に一子相続を義務づけているうえ、女が爵位を継ぐことも認めていたから、あまりに悲劇的なことは起こらずにすんでいるが、一部の者たちにとっては煉獄の苦行にも等しいその務めは、しかし貴族である以上、免れることを許されなかった。

「おまえもそうであったのだからわかるだろう、オリヴィエ」

 はい、とオリヴィエは苦い声で答えた。

 名門と呼ばれる家系に、それを継ぐべき長子として生まれた身でありながら、幼い頃より思いを寄せていた姫と結ばれることのできたオリヴィエは、貴族としては例外的に幸せな結婚をすることができたといえる。つい先日には、愛妻の胎に赤子が宿っていることもわかり、そういう意味でのオリヴィエは彼の主よりもずっと恵まれていた。

「おれはいずれ必ず再婚する。そして次こそはしくじるわけにはいかないのだ」

 そうでしょうとも、とオリヴィエは思った。

 ヴァレリーが最初の結婚で妻に迎えた神ツ国の巫女姫シュテファーニア・ヴラーシュコヴァーは、高慢で我儘な心根の冷たい女だった。夫に対する気遣いひとつないままに己の意志のみを優先させ、白い婚姻を貫いて、つい先日帰国の途に就いた。

 東国としては彼女に未練があるわけではない。宗教的な、あるいは政治的な理由から、国王たる者の正妃は神ツ国から迎えることが望ましい、とされてはいるが、それが絶対というわけでもない。

 正妃ひとりに咎のある離縁は、だからヴァレリーにいささかの瑕疵も残しはしなかった。

 だが、二度めはない。

 二度の離縁ともなれば、あるいはその原因が王太子にあると勘ぐる者が出てこないとも限らない。国王と王弟との不仲が民のあいだでさえ明らかになりつつあるいま、王位を継ぐヴァレリーに決定的な醜聞は避けたいところである。

「だからこそのエリシュカさま、というわけでございますか」

 その、とオリヴィエは云い澱んだ。

「惚れた女ならば失敗はするまい、と?」

 気まずそうなオリヴィエをからかうような口調でそう云って、ヴァレリーはにやりとして見せた。まあ、それもなくはない。

「おれはエリシュカを好いている。愛してさえいる」

 それは事実だ、となんの衒いもなくヴァレリーは云い切った。だが一方で、と声の調子を変えることなく彼は続けた。

「おれは政治と切り離した婚姻を結ぶことはできない。王家に生まれた者の定めとして、これは致し方のないことだ。己の心のみをもってして妃を娶ることはできぬのだ」

「殿下?」

 ヴァレリーの意図するところをふたたび掴みかねたオリヴィエは混乱し、戸惑いの声を上げた。

「おっしゃる意味が……」

「おれはたしかにエリシュカを見初めた。だが、婚姻まで考えたのは彼女の身分を知ったあとだ。なぜだかわかるか、オリヴィエ」

 いえ、とオリヴィエは首を横に振った。申し訳ありません。

「エリシュカの身分には使いでがあると考えたからだ」

「使いで……?」

 そうだ、とヴァレリーは為政者の顔で大きく頷いてみせた。オリヴィエの背にふたたびなにやら冷たいものが這い上ってくる。

「神ツ国の巫女姫との婚姻が破綻したいま、おれの妃候補となる女はそれほど多くはない。西国の皇家あるいは貴族の娘か、神ツ国教主の傍系の娘。あるいは国内の貴族の何某かの娘、そのあたりしか選択肢はあるまい」

 はい、とオリヴィエは頷いた。

「西国の皇家におれと歳周りの合う未婚の娘はいない。貴族の中にもわがラ・フォルジュに釣り合う家格の者となるとめぼしい娘は見当たらない。ひとりふたりいないこともないが、すでに許婚もある身であれば、そこに割り込むのも憐れであろう。神ツ国教主も愛娘を突っ返された直後とあっては、ふたりめを寄越せと云ったところでいい顔はするまい。となると選択肢はただひとつ、国内の貴族の何某かの娘、ということになる」

 シュテファーニアとの離縁が決まったのち、ヴァレリーの隣席を巡って有力な貴族たちのあいだで水面下の争いが巻き起こっていることは、むろんオリヴィエもよく知るところである。そしてそのことを、国王とヴァレリーが苦々しく思っていることもまたよく知っていた。

「しかし、それこそが妥当なのではありませんか」

 オリヴィエの返事に、そして、とヴァレリーは嗤う。われらはこう思われることになるのであろうよ。

「王とは民の王ではなく、貴族の王である、とな」

 オリヴィエは目を見開いてヴァレリーを見つめた。ヴァレリーは夏空色の瞳をわずかに眇めて静かに続けた。

「貴族同士が結びつくことは容易い。同族で結束を固めることは、短期的な利さえももたらすであろう。だが、長期的に考えればどうだ?」

「対立の芽が育つ、と……」

 そうだ、とヴァレリーは頷いた。

「王家と貴族とで結束を強めれば、民は反発も覚えよう。権益と政を独占し、国を私物化するつもりか、とな」

「それはしかし、これまでも……」

「これまでも、が通用せぬようになるとは、先ほど話したとおりであろうが」

 では、とオリヴィエは喉を鳴らしながら応じた。いったいどうなさるとおっしゃるのです。

「まさか、民のうちから……?」

「ありえぬ」

 これ以上ないほどはっきりとヴァレリーは否定し、首を横に振った。オリヴィエはほっと息をつく。

「いかに有力な商人といえど、王家に、しかも将来の国王たる殿下に娘を嫁がせて不足ないほどの家格など存在しません。第一、名だたる貴族どもが黙っておりますまい」

「貴族どもの支えなくしては、王家もへったくれもないからな」

 オリヴィエは思わず苦い顔になる。気弱な発言は彼の主にふさわしくない。

「そこでエリシュカなのだ」

 まさかの不意打ちにオリヴィエは目を見開き、唇を引き結んでヴァレリーを睨み据えた。仕草こそ控えめではあったが、内心では、いったいなにを云いだすのだ、と大声で叫びだしたいほどである。

「エリシュカは異国の賤民だ。これまでずっと不当に遇されてきた哀れな娘をおれが見初め、妃とする。貴族とも民とも結びつかぬ代わりに、いずれかを敵に回すこともない」

 しかし、とオリヴィエは強い口調で云った。

「殿下のご婚姻には、上級貴族たちの承認が必要です。形ばかりのものとはいえ、お相手がエリシュカさまともなれば、あのトレイユ将軍を筆頭に反対する者も現れてまいりましょう。いらぬ争いの種を撒くことにもなりかねません」

 それはない、とヴァレリーは低い声で応じた。

「トレイユがどうだか知らんが、ほかの者たちが異を唱えることはあるまい。そしてそれは、カスタニエ卿もしかりであろう」

「なぜでございますか」

「民の脅威をすでに知っているからだ」

 脅威、とオリヴィエは呟いた。そうだ、とヴァレリーは静かに答える。

「われらが王都で感じている以上に、貴族どもは自らの領地において民の声の大きさを思い知らされている。己が地位が決して盤石なものではないと、肌身に沁みて知っているのだ」

「であればこそ、よけいに結束を固めんとするのでは?」

 甘いな、おまえは、とヴァレリーは笑った。

「近衛の長として王都しか知らぬルクリュ家であれば、それも仕方がなかろうが、考えてもみよ。領民は領府と王府とに税を納め、国を支えている。領民の長は領主に面会を求めれば、それを叶えられる身だ。主だった貴族どもは軒並み己が領地で、領民らの力をじかに目の当たりにしている。前線に立つ者たちは、後方にいる司令官よりも戦の風向きを正しく読むものだ。どちらに分があるか、それは経験でも勘でもなく、すぐにわかることなのであろう」

「われらが負ける、と……」

 ヴァレリーは黙った。オリヴィエは思わず浮かしかけた腰を落ち着けておくことに必死だった。

 なんということだ、とオリヴィエは思った。――殿下は、王制の終わりとその先を、しかと見据えておられる。

 たしかにオリヴィエ自身、いつかはそんな日が来るだろうと考えている。だが、それはまだずいぶんと先のことであろうとも思っていたのだ。

 ルクリュ家は、古くより王都と接する地を拝領する家である。そのせいで王都から遠く離れた地の事情をあまり詳しく知ることができない。報告や文献で大まかなことを知るばかりだ。それでは異国や他の大陸の事情を知ることとなんら変わらないということをオリヴィエはよく承知しているが、王太子の補佐という激務の最中にあっては、なすべき務め以外のことにまで気を配る余裕はなかなか持つことができなかった。

 殿下と俺とはほとんど変わらぬものを見てきたはずなのに、とオリヴィエは思った。なのになぜ、これほどまでに考えを異にしてしまったのか。

「貴族の矜持を最後まで守り、民と矛を交えるもまた道ではある。だが、それは愚かなことであるとおれは思う」

 ヴァレリーの言葉に、オリヴィエははっとわれに返る。

「ひとつ国の中でその国の者同士、相争うことほど愚かなことはあるまいよ、オリヴィエ」

「それは……」

「おれはいずれ国王となる者だ。国王とはなんだ?」

「わが国のすべてでございます、殿下」

 迷うことなく答えたオリヴィエに、ヴァレリーはやわく微笑んでみせた。

「頭脳であり、心臓であり、決して損なわれてはならない至高。殿下はいずれ……」

「その頭脳と心臓が、己が手足を食いちぎるさまを見たいのか、オリヴィエ。あるいは、自らの手に掴まれ引きずり出され、足蹴にされる心臓や頭脳を見たいのか」

 ヴァレリーは先ほどと変わらないやわらかな微笑を湛えたまま、側近を叱咤した。オリヴィエは俯き、いいえ、とかすかな声で答えた。

「おまえが、己が家の務めやわれら王家に誇りを持ち、仕えてくれていることには感謝している。だが、オリヴィエ」

 はい、とオリヴィエが顔を上げた先には、ヴァレリーの穏やかな笑みがある。

「おれを愚かな王にするな。民を殺し、民に殺されるような、愚かな王には」

 オリヴィエは意識することなく、ゆるゆると首を振った。

「エリシュカさまがおられれば愚かな王にはならない、とおっしゃるのですか」

「少なくとも、ラ・フォルジュは民を敵に回すような真似はしない、と民に印象づけることはできるであろう」

 自分たちよりも悲惨な境遇を知るエリシュカは、民にとって身近な存在と映る一方で、異国の民であるがゆえに、数多の貴族たちは彼女を脅威に感じない。なるほどエリシュカという存在は、非常に特異でありながら、まるで絵合パズルの一片であるかのように、ヴァレリーの未来図にぴたりと嵌まる。

「理解したか」

 オリヴィエの表情から彼の得心を悟ったのだろう、ヴァレリーは静かにそう云って口を閉ざした。

 オリヴィエはヴァレリーからそっと視線を逸らした。

 ヴァレリーの常軌を逸したエリシュカに対する執着が、滾る恋情ひとつゆえのものではなく、突出した政治感覚ゆえのものでもあるということは理解できた。己の婚姻をあくまでも政治と位置づけ、愛しく思う者の存在はおろか、己が心までをも冷徹に利用し尽くそうとする姿には畏怖を超えた憐憫すら覚えるが、それこそが為政者の姿であるのだとも思う。

 オリヴィエ自身は、そうしたヴァレリーにこそ終生の忠誠を誓うのであり、彼の振る舞いを称えこそすれ、非難することはない。

 だが、カスタニエはどうなのだろう、とオリヴィエは思った。そして誰よりも、エリシュカさま自身は――。

「おれの真意を知れば、カスタニエはともかく、エリシュカはおれを許しはすまいな」

 まるでオリヴィエの思考を読んだかのように、ヴァレリーが云った。

「殿下がお心を私にも明かそうとなさらなかったのは、それが理由ですか」

 どうであろう、とヴァレリーはため息とともに答えた。

「エリシュカのことは、自分でもよくわからなかった。だからかもしれん。厩舎で出会ったとき、おれはエリシュカの身分のことなどなにも知らなかった。知らずに惹かれた。それは事実だ。だが、さっきも云ったように、寵姫だの側妃だのということを考えはじめたのは、彼女の身分を知ってからだ」

 つまり、とヴァレリーは思った。淡くやわらかな想いがはじめにあったことはたしかだ。けれど、想いを具体的に形にしたいと願ったのは、政治を考えはじめてからのことなのだ。

 自分でもよくわからん、とヴァレリーはもう一度云った。

「だが、おまえに話さなかった一番の理由は、おれ自身も迷っていたからかもしれん」

「迷う……とは?」

 有能なおまえのことだ、とヴァレリーは無表情にオリヴィエを見据えた。

「おれがこの話をもっと早くにしていれば、おまえはカスタニエの諫言を受け入れたりはしなかったはずだ。おれの心に背くことだとわかっているだろうからな。そして、おそらくおれよりももっとずっと周到に立ち回っていたことだろう」

 エリシュカを逃さぬように、とヴァレリーは云った。

 恋が先か、政治が先か。

 ヴァレリー自身にも見つけることのできないその答えは、きっと誰にも見つけることはできない。どちらであってもエリシュカを逃したくない、という思いに変わりはないが、エリシュカにとってより残酷なのが後者であることはわかる。

 だからヴァレリーは、自分の想いが恋ゆえのものであればよいと思っていた。――エリシュカのために。

 恋する男は、想いが叶わないこともあるいは受け入れるかもしれない。そのときには、エリシュカを手離すことも――それが、己の手で己の心を絞め殺すがごとくに苦しいことだとしても――できるかもしれない。

 だが、政治に生きる男は、目的を遂げるためならば手段を厭わない。エリシュカの心が傷つこうが、いっそ壊れようが、その身さえ己が手元にあるのならばそれでいい、と彼女の存在を徹底的に利用しようとする。

 そして、ヴァレリーは己を知っていた。どれほど迷おうとも、どれほど躊躇おうとも、最後には政治を選ぶであろう己を。

 それが王太子として生まれた者の――やがては国王となり、この国のすべてを背負う者の――宿命であると知っていたのだ。

 自分の周囲にいる者の誰もが自分にそうあることを望んでいる、ということをヴァレリーはよくわかっている。父も母も、オリヴィエをはじめとする数多の側近も、侍従や侍女たちも、――民も。

 そのことを不満には思わない。望んで生まれた立場ではないとしても、己の意志というものを自覚したときには、ヴァレリーはすでに自ら王太子であろうと努めていたからだ。周囲の意志はつまり、己の意志でもある。

 いまだけは、などと甘い夢を見た罰なのかもしれない、とヴァレリーは思った。どうにも思うようにならぬいまの状況は、生まれてはじめて恋しく思った女との蕩けるほどの至福のときに溺れていたいなどと、甘い夢を見た、その罰なのかもしれない。

「エリシュカを必要以上に追い詰めたくはないと思っていた。けれど、結局はこうして二進も三進もいかぬようになってしまったのだから世話ないことだ」

 はじめからすべてを明らかにしておけばよかった、とヴァレリーは苦い思いを噛みしめる。エリシュカが心を開かぬことに変わりはなかっただろうが、そうすれば彼女は必要以上に傷つくことはなかっただろうし、おれも甘ったるい夢が破れる痛みを知らずにすんだ。

「エリシュカの代わりになるような存在がみつからぬ以上、逃がしてやるわけにはいかぬのだからな」

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