05

 監察官に任じることはつまり、エリシュカを失ったことを己の責と思うのならば、なんとしても連れ戻し、その失態を取り返せという意味か、とモルガーヌは思った。王太子付侍女として勤めた歳月が、ヴァレリーにそう云わしめるだけの信頼を築かせていたのだとしたら、それは幸いなことだ。

 おまえにならばできるだろう、とヴァレリーは云っているのだ。おまえにならば、エリシュカを連れ戻すことができるだろう、カスタニエ、と。

 監察官には、侍女には許されぬ多くの特権が与えられている。あらゆる建造物への立入にはじまり、文書の調査、関係者への聴取、逮捕拘留にあたっては武力の行使までも認められているのだ。さらに特別の許しがあれば、兵を動かすこともできる。

 そのすべてを使ってでもエリシュカを連れ戻せ、というのがヴァレリーの意志であるのならば、モルガーヌはそうした彼の意に沿うつもりだった。

 己が主の愛する存在をみすみす取り逃がした罪は万死に値する。ヴァレリーに対しては申し開きの言葉もない。この失態を取り戻すことができるのなら、官吏にでもなんでもなってやろうではないか。

 ヴァレリーに対するそうした忠義とは別に、モルガーヌの心中にはもやもやとして晴れぬ、もうひとつの思いが燻っている。

 それは、エリシュカに対する鈍い怒りだった。

 エリシュカがヴァレリーの腕に囚われてからというもの、モルガーヌは徹底してエリシュカの傍らに寄り添ってきたつもりだった。貴なる存在としての暮らしにいつまでも慣れぬ彼女に必要と思われる教えを授け、できうる限りで彼女の望みを叶え、その心が安らかにあるようにと願ってきたつもりだった。

 むろん、一介の侍女にすぎないモルガーヌにできることには限りがあった。エリシュカの心が本当の意味で満たされていないことはわかっていた。けれど、エリシュカはヴァレリーを受け入れていたはずだ。ヴァレリーの無分別ですれ違ったこともあったけれど、たしかにふたりは一時期心を通わせ合ったはずなのだ。

 一時は途絶えていた閨も近頃は頻繁になっていた。再開のときこそ強引であったし、その後の監禁も尋常であるとは云い難かったが、そこにはいつでもヴァレリーの深い想いがあった、とモルガーヌは考えている。

 そこに想いがあればなにをしてもいいわけではない、と一時的にふたりを引き離すことを考えたのは、時間と距離を置くことによって、エリシュカに己を見つめるゆとりを与えたかったからだ。そうやってご自身の心を確かめていただければ、お嬢さまは必ずやご自身の殿下へのお気持ちに気づかれるはずだ、とモルガーヌは思っていた。

 お嬢さまは殿下を慕っておいでではなかったのだろうか、とここのところのモルガーヌはよくそのことを考える。

 たしかにヴァレリーは強引きわまりなかった。常軌を逸した振る舞いがなかったとは云わないし、そんな彼を非難する気持ちはモルガーヌにもある。エリシュカに不埒を働く高貴な男の頭部を、手にした盆や水差しで何度引っ叩いてやろうと思ったことか。

 けれど、そこにあったヴァレリーの想いは本物で、エリシュカはそのことを少しずつではあっても、受け入れていっているようにモルガーヌには思えた。

 静かで落ち着いた眼差しや、唇の端をわずかに持ち上げるだけの薄い微笑みは、たしかに儚くわかりづらいものではあったけれど、それがヴァレリーに向けられるとき、エリシュカの想いがそこにあるということは十分に察せられた。あのほっそりとした指先を、躊躇いがちにではあっても殿下に伸ばされたときのお嬢さまに、なんのお気持ちもなかったのだとはとても思えない――。

 おふたりの心が少しずつ添っていく様子は、この私から見てもとても微笑ましいものだった、とモルガーヌは思う。いつかは幸せそうに寄り添い合い、支え合うふたりの姿を目にすることができると信じていた。だからこそ私は、心を込めてお嬢さまにお仕えしたのに。

 ――こんなふうに裏切られるとは思ってもみなかった。

 モルガーヌの怒りの正体は、哀しみである。

 エリシュカに対する献身が、たとえ王太子ありきのものであったとしても、彼女は心の底からエリシュカの幸いを願っていた。エリシュカが心穏やかに暮らせるようにと、モルガーヌは心血を注いで勤めに励んできたのだ。

 ひとり取り残された異国の地では心細くなることもあるだろう。慣れぬ暮らしには戸惑うことも多かろう。我儘な殿下の振る舞いに傷つくこともあるだろう。

 そうしたすべてから庇って差し上げることはできないが、わずかなりとも苦痛を和らげて差し上げたい。

 エリシュカに対するモルガーヌの誠意は本物だった。――お嬢さまにはなんとしても幸せになっていただきたい。

 そう思うからこそ、主に手を上げることまでしたし、本来の己には許されぬはずの交渉――オリヴィエに対する秘密裏の相談――もした。

 それなのに。

 モルガーヌの心を踏み躙って、エリシュカは姿を消した。

 王城の中のどこにもエリシュカの姿が見当たらないことがはっきりとしたあの朝のことを思い出すと、モルガーヌはいまでも泣き出したいほどに情けない気持ちにさせられる。

 お嬢さまはなにひとつとして理解されてはおられなかった。殿下のお気持ちも、私の想いも。

 エリシュカが、彼女の生まれ育った環境ゆえに、王太子に庇護される暮らしに慣れるまで時間がかかるのは仕方のないことだ。けれど、聡明で忍耐強い彼女ならば、いつかは、自身の立場を理解し、己の想いに気づき、周りの者を気遣って、そして必ず王城のよき住人となってくれるに違いない。

 そう、信じていたのに。

 モルガーヌとクロエの隙をついて、エリシュカは逃げた。それはもう、あの泣いてばかりの弱々しい姿からは到底想像できないほど、大胆に鮮やかな遣り口で。

 おとなしやかで口数も少なかったエリシュカは感情を露わにすることもなく、云ってみれば、その心を推し量ることも難しい、仕えづらい主だった。なにをして差し上げても、申し訳ないと小さくなるばかりで、ただひとつ頷いておけばいいだけの些細なこと――たとえば、扉を開けてやるだとか、グラスに水を注いでやるだとか――にさえ、いちいち過剰なまでに恐縮した。

 けれど、自らも貴族の生まれであり、また王城で暮らして長いモルガーヌは、尊大な人間には飽き飽きしていたから、卑屈なまでに身を縮めるエリシュカを可愛らしいと思いこそすれ、鬱陶しいなどとは思わなかった。

 学こそなかったけれど、エリシュカは賢い娘でもあった。次々と叩き込まれる淑女教育にも難なく応じていたし、教えきれない瑣末な諸々についても、いざその事態に陥ったときには自ら考え、きちんと対応することができていた。

 そんなエリシュカだったから、いつかはご自身のお立場にも慣れて、私たちの献身を受け入れてくださるに違いない、とモルガーヌは思っていたのだ。

 たしかに私は王太子殿下に仕える者として、お嬢さまの意に染まぬことを強いたりもした。アランさまが怖い、と怯えるエリシュカを、これはあなたの務めであり、生きるすべです、と云って寝所に押し込めたのは、さほど遠い記憶のことではない。

 お嬢さまはあのことで私を恨んでおいでだったのだろうか、とモルガーヌは思った。それほどまでに故郷へ帰りたかったのだろうか。虐げられ、蔑まれるばかりの故郷へ――。

 私は間違っていたのだろうか。この国でなら、王太子殿下の隣なら、お嬢さまもきっと幸せになれるはずだと思った自分は、間違っていたのだろうか。

 私の誠意は、少しも伝わらなかったのだろうか。

 モルガーヌは、どうしてもそのことをエリシュカに確かめたかった。

 だから、侍女から官吏に身分を違えることになっても、ヴァレリーの命――なにがなんでもエリシュカを捕らえよ――に沿う覚悟を決めたのである。

「私のことならご心配は無用ですわ、デジレさま。家族にもきちんと話し、理解を得るつもりです」

 幸い私は末の子ですから、とモルガーヌは云った。

「多少の勝手は許されるでしょう。仮に許されなくとも、首尾よく使命を果たしたのちであれば、家に戻ることも許されるはずです。なにもかも殿下のためなのですから」

「ですが、モルガーヌ……」

 デジレは痛ましいものでも慰めるような眼差しでモルガーヌを見つめた。

「もうなにもおっしゃらないでください、デジレさま」

 モルガーヌは、謹慎する前の――本来の――彼女に戻ったかのような清々しい笑顔をかつての上司に向ける。

「そんなお顔をなさらないでください」

「そんなことを云ったって、監察官になってしまえば、あなたはもう……」

 そのことも含め、私はすべてに納得しております、とモルガーヌは答えた。

「私はむしろ殿下に感謝申し上げているのです。失態を取り戻す機会を与えてくださったことに。そして……」

 お嬢さまにもう一度見える機会を与えてくださったことに、とモルガーヌは云った。

「本来であれば厳罰を賜り、二度とお嬢さまの顔を見ることなど叶わなかったはずの私です。ですが、殿下の命を果たしさえすれば、私はいま一度お嬢さまにお会いすることができる。そしてお尋ねすることができるのです」

 尋ねる、とデジレは訝しんだ。

「いったい、なにを?」

「お嬢さまのお心を」

「心……?」

 はい、とモルガーヌは頷いた。

「デジレさまにお叱りをいただいたように、かつての私は王太子殿下ではなくお嬢さまにばかり目を向けていたことがございます。そして、本来仕えるべき主を忘れるな、と云われてからは、己の務めを蔑ろにせぬよう励んできたつもりです」

 デジレは目を細めてモルガーヌに先を促した。

「主を忘れるつもりは毛頭ありませんでした。それでも、私がお嬢さまのお幸せを願う気持ちにも嘘はありませんでした。そのすべてが、いっさい伝わっていなかったのかと思うと、私はたまらない気持ちにさせられるのです。お嬢さまは、私たちのことをいったいどのようにお考えだったのかと」

 言葉を詰まらせたモルガーヌの名を呼びながら、デジレは自分よりもずっと背の高い黒髪の娘の手をそっと握ってやった。まるで親に見放されたこどものように心細げな顔をする彼女を、どうにかして励ましてやりたいと思った。

 デジレにとってのエリシュカとは、あくまでも王太子ヴァレリーの情人であり、それ以上でもそれ以下でもない。おそらくはエリシュカがデジレに対してそう思っていたように、デジレもまた、エリシュカをいつでも替えのきく存在であると考えていた。

 たしかに殿下の想いは、これまで目にしたこともないほどに強くていらっしゃる。もしもお嬢さまの存在が失われることがあれば、殿下は深く激しくお嘆きになることだろう。それでも人の心に永遠などということはない。殿下はいつか必ずお嬢さまをお忘れになり、新しい道を歩まれることだろう。そしてその道こそが、あるいは殿下にとっての真のお幸せであるかもしれないのだ――。

 そう考えるからこそ、デジレは、ヴァレリーがエリシュカに対し、常軌を逸した執着をみせても、ほかの者たち――オリヴィエやモルガーヌ――のような戸惑いを覚えたりしなかったのだ。

 ああした熱病のような想いなど、いま限りのことですよ、とどれだけ口に出してしまいたかったことか。しかし、もしもデジレがそのように云ったところで、熱病に浮かされる本人も、病人に振り回される若者たちも、聞く耳など持たなかったはずだ。

 だからデジレは黙っていた。

 ヴァレリーの父である国王ピエリックが息子の振る舞いに眉をひそめたときにも、殿下はそう遠くないうちに必ず正気に戻られます、ご安心なされませ、と言葉を返しさえした。エリシュカが城からいなくなったときも、来たるべきときが来た、と思っただけだった。

 ヴァレリーがエリシュカから離れるには、ヴァレリーが彼女への想いから醒めるか、エリシュカが耐えきれずに狂うか、もしくは逃げ出すかのどれかであろう、とデジレは考えていた。エリシュカの出奔を知ったときには、まさか一番可能性の低そうなところが実現するとは思いもしませんでしたけれどね、と苦笑いさえしたくなったものだ。

 エリシュカの逃亡に自責の念を抱き、自ら謹慎したモルガーヌに、そんな必要はないのですよ、と再三にわたって説得をかけたのも、そうした思いがあったからだ。――いつでも替えのきく情人ごときに、あなたが自身の務めを賭けることなどないのです。

「エリシュカさまは、人の上に立つことに不慣れでおいででした」

 自分の手をやさしく握るデジレの言葉に、俯いていたモルガーヌはそっと顔を上げた。

「私たち使用人には使用人の想いがあるのだということを、あまりよく理解されておられなかった。己の軽率のせいで、自分に心を尽くした誰かが傷つくことがあるなどとは思いもよらなかったのでしょう」

 主君を持つ者ならば誰しも、彼の者の理不尽や我儘に悲しむことはある。捧げた心や想いを踏み躙られれば、誰だって傷つくものだ。それは、たとえ主従と云えども互いに人である以上、当然のことだ。

 問題は、エリシュカがそのことに無自覚であったということだ、とデジレは思う。慣れていなかったといえばそれまでなのだろう。ただエリシュカには、人を使うのに不慣れであったという以上の問題があった、というのがデジレの見方だ。

 ヴァレリーの想いを受けるようになる前、エリシュカはヴァレリーの正妃シュテファーニアに仕える身であった。であれば、主を戴く者の悲喜には敏感であってもよさそうなものだ。だが、おそらく彼女は、デジレたち東国の使用人とはまったく立場を異にする存在であったのだろう、とデジレは思う。

 神ツ国で賤民と呼ばれ、蔑まれて育ったエリシュカは、己の身を卑しいものと考えていた。そうではない、あなたは虐げられるべき存在などではないと、周囲がどれほど言葉を、心を尽くそうとも、エリシュカが変わることはなかった。決して愚かではないはずなのに、なにを云っても、なにを学ばせても、エリシュカは自己を卑下することをやめなかった。

 あれでは殿下も苦しかっただろう、とデジレは思う。どれほど真摯に想いを伝えても、おそれおおいことでございます、と頭を下げられ、お許しください、と怯えられては、やるせなさばかりが募ったはずだ。

 エリシュカはきっとヴァレリーを慕っていたはずだ、とデジレは思っている。けれど、誰かの想いを受け取ることに慣れておらず、また、誰かに想いを伝えることにも慣れていなかったエリシュカは、身分の違いに戸惑うばかりで、ヴァレリーの気持ちを顧みようとはしなかった。

 ヴァレリーもまた、誰かと想いを交わすことに慣れていたとは云いがたい。彼は必死になってエリシュカの心を探ろうとしたが、これまでそんな必要に迫られたことのなかったヴァレリーは、その生まれながらの立場ゆえの傲慢から長く耐えることもできなかった。

 不器用な者同士は、そうしてすれ違ってしまった、とデジレはため息をつく。そもそもあまりにも違い過ぎたふたりだ。どうにかならないものかと気を揉んだこともあったが、どうせ替えのきく相手なのだ、どうにもならないのなら仕方がないのだと早々に諦めた。

 けれど、モルガーヌは違った。

 彼女は、どうにかしてエリシュカの心根を変えてやりたいと願い、ときに主を蔑ろにするような真似までしてのけた。デジレからすればあってはならないその振る舞いは、しかし、なにもかもエリシュカのためだったのだ。

 そうまでして尽くしたのに、エリシュカはあっさりとモルガーヌを裏切った。

「あなたがそんなふうに悲しむことはないのですよ、モルガーヌ」

 ましてやその悲しみのせいで監察官にまでなることはない、とデジレは口には出さずにそう思った。

 デジレさま、とモルガーヌは低い声で答えた。

「ありがとうございます。私もデジレさまのおっしゃるとおりだと、頭ではわかっております」

「それならば……」

 でも、駄目なのです、とモルガーヌは首を振る。

「もしもこのまま罪をお許しいただき、お城に仕えることになったとしたら、私はこれから先、ずっと迷い続けることになってしまう気がするのです」

「迷う?」

「次にお仕えするべきこの方は、私のことを決して裏切らずにいてくださるのか、もしも裏切られたら私はどうなってしまうのか、いえ、裏切られるくらいならば、はじめから心など捧げなければいい」

「……モルガーヌ」

 ですから、デジレさま、とモルガーヌは黒く輝く瞳をまっすぐにデジレに向けた。

「私は私自身のために官吏となり、私自身のためにお嬢さまを捕え、そして見極めたいのです。私の目に誤りがあったのかどうかを」

 王太子に仕える身でありながら、ときに彼の寵姫であるエリシュカを優先したのは、彼女可愛さゆえであったことは認めざるをえない。けれどモルガーヌは、エリシュカという存在に、ただ可愛らしいだけではないなにかを感じてもいたのだ。

 それは云ってみれば、一本通った芯の強さのようなもの。

 どれほど過酷な環境にも、厳しい境遇にも負けず、これまで己の心と身体を守り抜いてきた彼女の、持って生まれた強さのようななにかを信じていたからこそ、心を尽くして仕えることができた。

 貴族の娘として生まれ育ったモルガーヌの矜持は高い。ラ・フォルジュに仕える身であるとはいえ、下手な相手には頭を下げることすらしない。

「ただ殿下の想い人であるというだけで、この私がお嬢さまにお仕えしていたと、デジレさまはそうお思いですか」

「いいえ」

 デジレは間髪を入れずに答えた。そうは思いませんよ。

「そのとおりですわ、デジレさま」

 私がお嬢さまにお仕えしたのは、この方にならばお仕えしてもよい、とほかならぬ私自身が思ったからです、とモルガーヌは云う。

 ときに叱咤を、ときに激励を、ときに庇護を与えつつ、モルガーヌはエリシュカを敬愛した。そう容易くは捧げぬ忠義を、モルガーヌはエリシュカに差し出していたのである。

「お嬢さまにならば、と私はきっと心のどこかで思っていたのに違いありません。そうでなければ殿下に手を上げたりなどいたしません」

 あのときは本当に肝を潰しましたとも、とデジレは心の中で答えた。

「己の想いを捧げる相手を違え、そのせいで悲しみを負うのは仕方のないことです。ただ自分が愚かだっただけのことだと諦めるしかない」

 でも、とモルガーヌは云った。

「私は、この方ならば、と思ってお嬢さまにお仕えしました。私に見る目がなかったのだと云ってしまえばそれまでなのでしょうが、本当にただそれだけなのかどうか、私はどうしても知りたいのです」

 そんなこと、とデジレは諌めるような口調で呟いた。わかりきったことではないですか、と続けてしまわなかったのは、モルガーヌの心を慮ってのことである。裏切られる悲しみは、主であれそれに従う者であれ、同じことだ。心に抱く憤りもまた変わらない。

 裏切られた者がその背信の真の理由を知ることなど、最後まで叶わないのがあたりまえだ。どうして裏切った、なぜ裏切った、という悲しみと怒りは死ぬまで抱いていかねばならないものである。

 だからこそ、主を――心を捧げるべき相手を――戴くときには、きちんと見極めなくてはならないのだ。彼の者が、己を捧げるだけの価値のある相手であるかどうか。

 自分を捧げてもよいと思うほどの相手に巡り会えることは、そう滅多にあることではない、とデジレは思っている。ほかでもないこの私も、まだ幼い王太子殿下にはじめてお目にかかったときには、この方に生涯を捧げてもよい、とまで考えるようになるとは思っていなかった。時間とともに成長していく殿下を見つめているうちに、少しずつそう思うようになっていったのだ。――このうえなく、幸いなことに。

 ただ、そんな私――殿下の幸いのために生涯を捧げ、絶対の忠誠を誓い、彼の愛する者すべてを赦そうと考える己――をもってしても、彼が情人に選んだ娘の価値を理解することはできなかった。

 稀有なまでに美しく、誰に逆らうこともなく従順で、しかし、ただそれだけである娘。正直なところ、デジレにとってのエリシュカは、さほど価値のない存在だった。

 彼女に仕えたのは、己の主であるヴァレリーがそう命じたから。ただそれだけだった。

 務めとして従うべきであるというだけの相手に、心までを捧げる必要はない。デジレはそう考えていたから、誰にするのと変わらずにエリシュカに頭を下げることも、礼儀を尽くすこともできたけれど、心を傾けることはしなかった。

 侍女としての長い経験から、仕える相手がなにを考え、なにを望むかを察することは、デジレにとって容易いことだ。そこに心などなくとも、望むものを差し出すことはできる。

 デジレにとってのエリシュカはそれだけの価値しかない存在であったし、そしてそれはモルガーヌも同じであると思っていた。

 けれど、それは間違いだった、とデジレは思う。

「デジレさまからすれば、しょうもない理由にしか見えないでしょう。貴族の娘の我儘と受け取られても仕方のないことかもしれません。主の出奔ひとつでガタガタ騒いで、と」

 モルガーヌはふわりと微笑んだ。

「それでも殿下はそれを私に許してくださった。官吏になり、お嬢さまを捕らえ、私に心を取り戻す機会を与えてくださった」

 私はそう考えています、と云ってモルガーヌはそこで口を噤んだ。

 ヴァレリーとモルガーヌの心を同時に推し量ったデジレは、ため息とともに頷いた。ただ、頷くだけしかできなかった。

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