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「そのときのあたしが通ってきた道が、神ツ国と南国とを結ぶ道だった」

 オルジシュカの過去に強い衝撃を受けて目を見開いたままだったエリシュカは、急に引き戻された話に忙しない瞬きを繰り返した。

「南国は国土のほとんどを山岳地帯に覆われている。この首都ですら海の間近まで迫った山とのあいだに築かれた街だ。海と山を天然の防壁として利用してきたんだろう。狩猟にも漁猟にも都合がいいしな」

 オルジシュカの言葉に、海ノ民の血を受け継ぐ兄弟が深く頷いた。彼らの一族はかつて、漁で獲った魚貝を南国の市場で売り捌くことによって生計を立てていたのだ。

「この道にはほとんど人の手が入っていない。いっぺんに大勢が通れるほど広くもないし、知る人もごく限られている。仮に東国から追手が遣わされていたとしても、ここを行けば、追われる不安も少なくてすむだろう」

 なにより、国境の身分検めを越えなくてもいいというのがな、とオルジシュカは笑った。

「どういうことです?」

 神ツ国へと至る道には、東国のその場所にも西国のその場所にも、きちんと門が構えられていて、容易く抜けることはできない。海沿いにある、各国を結ぶ国境の門とまったく同じ理屈である。

「南国と神ツ国を結ぶ道があることを、南国の政府も神ツ国の教主も正確に把握していないのさ。神ノ峰に古くから暮らす山ノ民がひそかに行き来するのに使う道だから、公の地図では存在すら明らかにされていない。山ノ民は束縛を嫌って基本的には山の中に暮らしている。どれくらいの数、そうした者たちがいるかも定かではない」

 オルジシュカは、己の過去を語ったときとまったく同じ口調で説明を続けた。

「彼らの姿を見たことのある者もいるにはいるけど、なかば伝説と化しているくらい、その存在は謎に包まれている。ただ、山ノ民の中にもいろいろな人がいるらしく、気候の穏やかな南国側の山中に小さな村を作っている者たちもいる。そのほうがなにかと暮らしやすいからね」

 それでも彼らはみなとても排他的だ、とオルジシュカは云った。

「自分たちの存在を明らかにすることをひどく嫌っていて、余所者をとても警戒している。あたしがその道を抜けてくることができたのは、山ノ民を祖先に持つ産婆がくれた地図のおかげだ。これがなかったら、とてもではないけど、ひとりで山を越えることなんかできなかったと思うよ」

 そしてオルジシュカは、いつも身に着けている腰袋から古びた紙片を取り出して、目の前の卓の上に置いた。

「これがその地図だ」

 エリシュカは息を詰めてオルジシュカを見た。

「あたしに自由とふたつめの命をくれた地図だ。あんたにあげる、エリシュカ」

 エリシュカは折り畳まれたままの地図をじっと見つめた。やる、と云われても、そう容易く手に取ることなどできそうになかった。

「エリシュカ」

 どうした、とオルジシュカは云った。

「受け取ってはもらえない?」

 違うんです、そうじゃないんです、とエリシュカは慌てて首を横に振った。なんで、と彼女は弱々しい声で呟いた。

「なんで、ですか。なんで、オルジシュカはわたしにそんなふうに云えるんですか」

 なにも知らなかったとはいえ、わたしはあなたにひどいことを云ったのに、とエリシュカは項垂れる。シルヴェリオが冷たく凍りついた瞳で、エリシュカの頭を睨み据えた。

 そう、わたしはオルジシュカにひどいことを云ってしまった。せっかく東国へ来られたと云うのに、なぜ神ツ国へ帰りたがるのか、と訊かれたときのことだ。

 あのときわたしは、家族がいるからだ、と答えた。血の絆よりも大切なものはない、と云った。自由なあなたにはわからない、とも。

 エリシュカは身体を震わせて己を恥じた。

 オルジシュカはたしかに自由だ。けれど、その自由は、彼女が命以外のすべてと引き換えにして手にした自由だ。

 命さえあれば、生きてさえいれば、なんて誰もが簡単に口にするけれど、死ぬより苦しい生き方もある。オルジシュカは、たしかにそういう生を知っている。

 暗い森の中で、冷たい岩場の陰で、凍りつくような川のほとりで、オルジシュカはいったい何度死を願ったのだろう。山を越え、明るい太陽のもとへ辿り着いたとき、彼女が感じたのは希望か、――絶望か。

 人は生きるようにできている。どれほど苦しいことがあっても、つらいことがあっても、腹はすくし、眠くもなる。身体が回復すれば、荒れ果てていた心も少しずつ穏やかになっていく。――なってしまう。

 世界は均衡を保つようにできていて、人もその一部である以上、それは仕方のないことだ。どれほど忘れたくないと願っても、苦しみも痛みも悲しみも、少しずつ少しずつ忘れていってしまう。

 オルジシュカはつらかった日々のことをあまりよく憶えていない、と云った。心を守るためなのかもしれない、と。

 そのほうがいい、とエリシュカは思う。だけど、オルジシュカはどうなのだろう。

 憶えていない、と云ったときの彼女はとても苦しそうだった。まるでそのときだけ過去に戻ってしまったみたいに、悲しみに満ちた瞳をしていた。

 オルジシュカは忘れたくなんかないのかもしれない。本当はいつまでも、なにもかもを憶えていて、自分を許したくないのかもしれない。三人の子を残し、ひとりを死なせ、そしてなにもかもを捨てて、故郷から逃げ出してきてしまった自分を。

 そんな彼女にわたしはなにを云った、とエリシュカは自分で自分を引っ叩きたいような衝動に駆られた。そんなことをしたってオルジシュカは喜ばない。ただの自己満足だとわかっていても、そうしたくてたまらなかった。

「あんたがなにを考えてるか、なんとなくわかるよ」

 でも、いまは顔を上げて、とオルジシュカが云った。

「同情はされたくない。わかるよね、あんたになら」

 エリシュカは泣き出しそうな顔でオルジシュカを見つめた。オルジシュカは薄く微笑んでみせた。

「最初に会ったとき、エルゼオからあんたを助けたのはほんの偶然だった。事情を聞いたそのあとで海猫旅団に誘ったのは、あんたがあたしとよく似た境遇にあったように思えたからだ」

 非情なる主人に囚われていたオルジシュカと、ヴァレリーに囚われていたエリシュカ。ひとりは自由を、もうひとりは故郷を求め、どちらもすべてを捨てて逃げ出した。

「あたしが命からがら逃げ出してきたあの国へ、必死になって戻ろうとしてるあんたのことが、本音を云えば少し滑稽だった。本当に自由な暮らしを知れば、あんなところへ戻りたいなんて云わなくなるだろうって、しばらくはそんなふうに思っていたんだよ」

 だけど、あんたは強情だった、とオルジシュカはそう云って目を細めた。

「いつまで経っても家族を忘れなくて、神ツ国を忘れなくて」

 だから、少し意地の悪いことも云ってしまった、とオルジシュカは懺悔する。

「妬ましかったんだと思う。同じ賤民でありながら、家族が待ってると信じて、国へ戻りたいと思えるあんたのことが。そう思えるような家族を守れていることが。あたしには守りきれなかったから」

 違う、とエリシュカは思わず口を挟んだ。

「違います、オルジシュカ。わたしはなにもしていない。家族を守ってきたのは父と母です。わたしは……」

 わたしはたまたまふたりの子に生まれ、ふたりが築いた絆に縋っているだけ、とエリシュカは云った。

「それこそ違うよ、エリシュカ。片方の努力だけで作られる絆なんかないよ。エリシュカの家族の絆は、エリシュカたちみんなで作ったものだ」

 言葉をなくしたエリシュカは唇を引き結ぶ。

「あんたにこの地図を渡そうと思ったのは、あんたならあの国に戻っても幸せになれるかもしれないと思ったからだ。あたしはもう逃げ出してきてしまったけれど、あんたなら踏みとどまれるんじゃないかと思ったからだ」

 見てみたいと思ったんだよ、とオルジシュカはどこか遠い目をして云う。

「虐げられ、貶められ、踏み躙られても、それでも人は立ち上がれる、強くいられる。そういう姿を見てみたいと思った」

「オルジシュカ……」

「本当はあたしが自分で戻るべきだと思う。そんなことはわかってる。だけど、あたしは弱いから」

 弱くて、恨まずにはいられないから、とオルジシュカは目を伏せた。

「悲しみと苦しみしか教えてくれなかったあの国を、あたしはいまだに恨んでる。なくなってしまえばいいと、本気で思ってる。神なんかいない、奇跡なんて信じない。誰かが、紛れもない人の子である誰かがあの国を滅ぼしてくれるのを、本当は心の底から待ち望んでる」

 あの国がこの世から消え去ったとき、そのときはじめてあたしは、心の底から笑ったり泣いたりできるんだと思ってる。

 シルヴェリオが、もうたまらない、とでも云うように、オルジシュカの傍らにそっと寄り添った。

 誰の目にも明らかなほどオルジシュカを大切に思っている彼が、それでも容易に彼女の身に触れることができないのは、オルジシュカの過去になにがあったのかを知っていたからなのだと、エリシュカはようやく気がついた。

 シルヴェリオがわたしにきつく当たっていたのは、彼自身の苛立ちのせいだけじゃない。オルジシュカのためでもあったんだ、とエリシュカは思った。なにも知らないわたしが、不用意な言葉や態度でオルジシュカを傷つけるかもしれないと、彼はずっと案じていたのだろう。

「あたしはもう、家族を持つことはないけど、もしもあんたがあの国で幸せになれるなら、それはあたしの幸せでもあるような気がする。あたしは、あんたのことをどこか家族みたいに思ってるからさ」

 妹か娘か、うまく云えないけど、とオルジシュカは云った。

 四度めの出産のあと、十分に身体を休めなくてはならない時期に無茶な山越えをしたせいで、オルジシュカの身は取り返しのつかないほどに損なわれてしまった。彼女はもう二度と子をなすことはできない。

 南国に辿り着いてすぐに出会った薬師にそう云われたオルジシュカは、自分自身でそのことを正しく理解していた。

「そうは云ってもさ、エリシュカ。あたしの話なんかに囚われることはないんだよ」

 顔を上げたオルジシュカは、やわらかな笑みを浮かべていた。

「あんたはただその地図を使って、家族のもとへと辿り着けばいい。簡単なことじゃないよ。わかるね?」

 自分じゃない誰かの想いを抱えたまま越えられるようなやわな場所じゃないんだ、神ノ峰は、とオルジシュカは云った。

「はい」

 エリシュカはぐっと奥歯を噛み締めて、卓の前に置かれた地図を見つめる。やがて、彼女は立ち上がり、その地図に手を延ばした。

 オルジシュカとシルヴェリオ、それからアルトゥロ、三人の目に見守られたエリシュカの手はかすかに震えていたが、地図に触れた指先に迷いはなかった。

 ありがとうございます、とエリシュカは云った。とてもはっきりとした、力強い口調だった。


 意外でしたよ、という声に呼ばれて、オルジシュカは使っている部屋の扉を開けたところで足を止めた。腕を延ばせばすぐにでも届きそうな近くに、シルヴェリオが立っていた。

「なにが意外?」

「あなたがエリシュカに自分の話をしたことが、です」

 誰にも話さないって、昔云ってましたよね、という咎めるような口調は、聴きようによっては拗ねているようにも取れる。オルジシュカは少しだけ可笑しくなって、唇の端を持ち上げた。

「……妬いてるのか?」

「妬いてます」

 揶揄するつもりの言葉を本気で返され、オルジシュカはたじろいだ。

「なにを云って……」

「妬いてるんです、俺は。エリシュカに! あんな小娘に!」

 悔しくてたまらない、とシルヴェリオは云った。

「あなたが傷つくのは見たくないと云ったはずです。俺の忠告を無視してエリシュカなんかをそばに置くから、あなたは負わなくてもいい傷を負うんじゃないですか。心配したとおりだった」

 シルヴェリオ、とオルジシュカはあきれたような声を上げた。やさしさのこもったその声に、しかし、親しみ以上の感情は込められていない――そしてこれから先も、その可能性は限りなく低い――ことをシルヴェリオはよく知っている。そのことがたまらなくもどかしかった。

「あんたのその過保護はどうにかならないのかねえ」

 ほんとに、とオルジシュカは苦笑いする。たしかにあんたと知り合ったばかりの頃のあたしは頼りなかったかもしれないけれど、と彼女は云った。

「あたしはもう、あの頃のあたしとは違うんだよ」

 シルヴェリオやアルトゥロと親交を深めるようになった頃のオルジシュカは、まだ故買屋の仕事に十分に馴染んだとは云い難かった。商売で痛い目に遭うことも珍しくなく、そのたびに彼らふたりを酒に付き合わせて、ささくれ立った気持ちを慰めたものだった。

 オルジシュカが盗品を買いつけては売り捌く故買屋の仕事をはじめたのは、ほんの偶然がきっかけだった。

 南国に辿り着いてしばらくの彼女は、身体を休めるためもあって、産婆からもらった金でどうにかやりくりすることで日々を凌いでいた。だが、稼ぐ手だてもなく使う一方の身の上では、あっというまに素寒貧となってしまう。

 どうにかこうにか酒場で女給の仕事を見つけ、そこで知り合った故買屋の老女と意気投合して商売のイロハを教えてもらった。寄る年波には勝てない、と引退を考えていた彼女の人脈をそっくりそのまま譲ってもらうことができたのは、オルジシュカの人生の中でも特別な幸運だったと云える。

 それから多くの失敗とそれに伴う痛みを乗り越えて、オルジシュカはいまここに立っている。いつまでもあの頃のように守られてばかりいると、成長したはずの自分を認めてもらえていないようで少しばかり寂しくなる。

「変わりませんよ、あなたは」

 シルヴェリオはせつなげな瞳をして呟いた。絶世の色男がこぼすため息は、オルジシュカをしてその色香に惑わされそうになる。

「綺麗で、強くて、とてもやさしいのに、ときどきひどく弱い顔を覗かせる。傷ついたこどものままの目をしたあなたを見ると、俺は……」

「シルヴェリオ」

 やめてくれ、とオルジシュカは冷たく云った。

「そう、そういうときのあなたです」

「やめろって云ってんのがわかんない?」

 やめません、とシルヴェリオはオルジシュカに向かって珍しく声を荒らげた。

 今日という今日は引いてなんかやるものか、と彼は思っていた。自分の気持ちが心の底からのものであることを、オルジシュカにわかってもらわなくては――。

「俺はあなたのそばにいたいんです、オルジシュカ。これまでの誰よりも、これからの誰よりもです」

 シルヴェリオの熱っぽい眼差しを、オルジシュカは眇めた視線で断ち切った。

「あんたの気持ちは知ってる。ありがたいとも思ってる。だけど同時に、迷惑だとも思ってる」

 シルヴェリオは大きく目を見開いて首を横に振った。

「なんで……」

「あんたが悪いんじゃない。あたしが悪いんだ」

「なぜです?」

「申し訳ないと思ってしまうんだ、どうしても」

 あたしはあんたと家族にはなれない、とオルジシュカは云った。

「こどもが産めないからだけじゃない。誰かと正面から向き合うことが、まだ怖いんだ。きっとずっと怖いままだと思う。あんたを待たせて、ずっと待たせて、最後にごめんって云うんじゃあんまりだろう」

「そんなこと……」

「あんたは幸せにならなきゃいけない、シルヴェリオ」

 俺の幸せはあなたの隣にいることです、とシルヴェリオは叫んだ。声が大きい、とオルジシュカは慌てる。

「静かにしなよ、迷惑だろ」

「あなたが弱くて狡い人間だなんて、そんなこと、とっくの昔に知ってますよ。俺の気持ちを弄んで、振り回して、それでも俺のものにはなってくれない。それでも俺はあなたがいいんです。あなたじゃなきゃ厭なんです」

 いいですか、とシルヴェリオはそこでさらに一歩を踏み出した。部屋内に押し入るような無粋はできなくとも、もう少しだってあとに引く気はないのだ。

「俺は諦めません。どうしても厭だっていうんなら、恋人のひとりでも連れてきて見せつければいいんです。できるはずもないでしょうけど」

 オルジシュカの頬が真っ赤に染まった。――たしかにできない、そんなことは。

 俺は諦めない、とシルヴェリオはもう一度云った。

「あの娘がいなくなったら覚悟しておくんですね、オルジシュカ」

 シルヴェリオは骨ばった指をすっと伸ばし、その背で赤く染まったオルジシュカの頬に触れた。オルジシュカは内心で悲鳴を上げる。――誰だ、これは。この男は誰だ。

「もっと、怖がるといいですよ」

 オルジシュカはただ唇を震わせたまま声も上げられず、部屋に逃げ込むこともできない。目の前で莞爾と笑う美しい男との勝負は、戦わずしてすでに決しているような気がした。

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