42

 四人めの男が台の上に引きずり上げられたのとほぼ同時に、エリシュカはひとりになった。シルヴェリオがそばを離れていったからだ。次に落ち合う場所はあらかじめ決めてある。そのときにはきっと言葉も交わせないほどに事態は切迫しているはずだ、とエリシュカは思った。

 そのときが迫ってくるにつれて緊張を募らせていくエリシュカと違い、テネブラエは普段と変わらぬ様子でやわらかな耳を風に遊ばせたり、小さく鼻を鳴らしたりしている。ときおり小さく足踏みをするのは、いまかいまかと出撃を待つ軍馬のようだ。

 ごめんね、テネブラエ、とエリシュカは呟いた。

 馬とは本来、おとなしく心優しいいきものである。とても賢く勇敢なテネブラエだが、そんな彼でさえ、誰かと競ったり争ったりして走るときより、単騎でのびのびと駆けることを好む。

 そんな彼のことを、これから罪人の強奪逃走劇のような騒々しい場に放り込むのは気の毒でならない。けれど、エリシュカの考えた策は、そもそもテネブラエの力なしには成立しえないのだ。

「無事に逃げられたら、いっぱい走ろうね」

 愛しい主がくれた約束の言葉に奮い立つように、テネブラエは全身を震わせた。エリシュカは頭巾フードを深くかぶり直し、まっすぐにジーノの姿を見つめた。

 処刑を待つ罪人たちは、太くて頑丈な鎖に手足を繋がれている。その鎖は罪人同士を繋いでおり、先端は驢馬の曳く荷車に繋がれていた。そのままではどうあっても逃亡などできない。

 罪人が鎖から解き放たれるのは首を落とされる間際、処刑台の上に乗せられるときである。

 エリシュカはその瞬間を狙って、処刑台の上からジーノをかっ攫うつもりでいた。

 むろん台の周囲には多くの衛士が警備に立っている。エリシュカのように、罪人を救出しようなどと、乱暴なことを考える者がいないとは限らないからだ。

 衛士たちは処刑台を取り囲む民衆のほうを向いて立っており、その手には長い槍を握っている。いずれも腕に覚えのある者たちばかりで、もしも処刑を邪魔しようとする者が現れれば、そのときは容赦なく攻撃を仕掛けてくるはずだった。

 四人めの男の首が胴から離れ、広場には嫌悪と悲痛を含んだどよめきが溢れる。遺体はすぐに片づけられ、いよいよジーノが背中を押されて処刑台へと近づいた。

 鈍色にびいろの制服を着た官吏がしゃがみ込んでジーノの鎖を解く。

 ジーノは蹌踉とした足取りで処刑台へと近づいていった。

 エリシュカはここぞとばかりに思い切りテネブラエの腹を蹴った。

 テネブラエの漆黒の身体が潜んでいた建物の陰から大きく躍り出る。広場中に響くような大きな足音とともに、エリシュカは広場の中央へと凄まじい速さで突進していった。

 驚いたのは、その場にいた群衆と衛士たちである。

 大人の男の七、八倍はあるだろうと思われる巨大な黒い塊が大きな足音を立て、土煙を巻き上げて疾駆してくるのだ。

 人垣はいくつもの悲鳴とともに左右に割れた。

 テネブラエの手綱を片手で握りしめたエリシュカは、空いた手に杖を持って衛士を威嚇した。普段であればなんの脅威にもならないただの棒っきれでも、人の脚の何倍もの速度で向かってくる馬の上から繰り出されれば、それはおそろしい凶器となる。衛士たちの腰は引け、せっかくの槍は役に立たなかった。

 立ち竦む衛士たちの頭上を飛び越え、テネブラエは跳躍する。処刑台の上に器用に立ったテネブラエの背中から、呆気にとられる処刑執行人を後目にエリシュカは叫んだ。

「ジーノッ!」

 早く、と続けて叫び、杖を手にした腕を目いっぱいに伸ばす。処刑台に上がる階段の途中にいたジーノは、こどもらしい柔軟さを発揮して、その場にいた誰よりも早くわれに返り、階段を駆け上がるとエリシュカの腕に縋りついた。

 エリシュカの腕が勢いよくジーノを抱え上げる。ジーノの両の足が台から離れるか離れないかのうちに、テネブラエはふたたび跳躍した。

 処刑台の反対側に建つ衛士の頭を飛び越え、どよめく群衆に迫る。エリシュカは手綱を緩め、もう一度テネブラエの腹を蹴った。

 人よりもずっと強い獣である馬を人がおそれずにいられるのは、彼らのおとなしく臆病な気質のせいである。多くの人は、歯を剥き出しに全力で襲い掛かってくる馬など目にしたことがない。数多の群集も並み居る衛士も、その背に大事な主を背負い、死にもの狂いになったテネブラエの敵ではなかった。

 テネブラエの大きな黒い身体が迫ると、人波は自然に割れた。

「捕まえろっ!」

「逃がすな!」

 口々に叫ぶ声は、しかし物の役には立たなかった。現れたときと同じ、凄まじい勢いで少女と馬は広場の反対側へと姿を消した。

 衆人環視の処刑台の上から罪人の少年をかっ攫っていた何者かの鮮やかな姿は、その先長く人々の口に膾炙することになる。


 人垣の中に潜んでいたモルガーヌは、恐慌に陥った群衆を掻き分けるのにひどく苦労しながら、ようやくのことで処刑台の傍まで辿り着いた。しかしそのときにはすでに、エリシュカとテネブラエの姿は広場から消えている。

 なにをしているのです、とモルガーヌは、ジーノの傍につけていたシプリアン・バローに向かって叫んだ。

「早くなさいッ! お嬢さまを追うのです! 早く!」

 思っていたとおりにエリシュカが現れたという安堵よりも、これだけの衛士を揃えてなお取り逃がした悔しさが勝るモルガーヌは、その苛立ちをバローにぶつけるように口早に指示を出した。

「私はすぐに街門へ向かいます。バローどのは国境の門へ。お嬢さまを決して逃さぬように。いいですね」

 はい、とバローは強張った顔で頷いた。

 エリシュカを知っていると口走った、まぬけなこどもを捕らえたモルガーヌは、過酷なやり方でその少年を訊問した。鞭で打ち据えたり、食事を抜いたりしても口を割らなかった強情な彼は、しかし、日々の尋問にだんだんと心を弱らせていっているように見えた。

 モルガーヌさま、これではあんまりです、とクロエ・クラヴリーが云いはじめたのはいつごろのことだっただろうか、とバローは思う。

 モルガーヌのすることに一度たりとも異論を唱えたことのなかったクロエが、そんなふうに意見するのははじめてのことだった。一日半も食事を抜かれて気を失った少年を腕に抱え、クロエは目に涙を浮かべて激しく抗議した。あんまりです、モルガーヌさま。いくらなんでもひどすぎる。

 どきなさい、とモルガーヌは云った。そのこどもがお嬢さまに繋がる情報を持っているのはたしかなのです。なんとしてでも口を割らせなくてはなりません。

 では、私を打ち据えてください、モルガーヌさま、とクロエは云った。大勢の幼い弟妹の面倒をみてきたクロエにとって、十やそこらのこどもを無情に扱うことはあまりにも非道に過ぎたのだろう。

 クロエの必死の抵抗を、モルガーヌは邪魔なものと考えて排除することにしたようだった。衛士に命じてこどもから引き離し、詰所のひと部屋へと監禁してしまった。

 なにもそこまでなさることはありますまい、とバローは苦い顔でモルガーヌを窘めた。これがやり過ぎだということは云われなくてもわかっています、と彼女は答えた。けれど、これが私の務めなのです。

 なんとしてでもエリシュカを連れ戻せ、と王太子殿下はおっしゃった、とモルガーヌは云った。なんとしてでも、とは誰を殺め傷つけようとも、なにを壊し押し流そうとも、という意味です。王制をとるこの国において、次期国王たる王太子殿下のご命令は絶対なのです。

 そんなことはわかっていますよ、とバローは答えた。けれど、相手はこどもなのです。ほかにもやり方はあるでしょう。

 そうですね、とモルガーヌは応じた。でも、いまは時間がありません。ここは国境の街。もしもお嬢さまに東国を出られてしまえば、お迎えにあがることは格段に難しくなりましょう。王太子殿下のご威光も、国境の向こう側へは通用しないのです。

 そうしたやりとりがあったのち、しかしモルガーヌはジーノに対する尋問を取りやめた。バローらの諫言を容れたわけではない。それからまもなくして彼女はジーノの処刑を決め、街じゅうへ告知するよう指示を出したのである。

 カスタニエどのの考えは間違っていなかった、とバローは思った。少年はたしかにエリシュカさまへと繋がっていた。彼の危機を救うためにエリシュカが――あるいは、本人ではないとしても彼女と繋がる者が――現れるだろうことはモルガーヌの想定の範囲内、否、むしろそれこそが狙いだった。

 まさかこれほどまでに大胆なやり方でご本人がやって来るとは思わなかったけれど、とバローは苦笑いする。王城でのあの儚げな印象からは、まるで想像もつかないような勇ましいお姿だった。

 過去の回想に耽りながら、しかし、急ぎ足で国境の門へと向かったバローは、すぐに国境守備隊の詰所へと辿り着いた。

 街中であったことを団長へと報告し、急ぎ出国の手続を厳重にするよう依頼する。国境の門を預かる守備隊長は顔色を変えて報告を受け、すぐに手配をとるために慌ただしく部屋を駆け出していった。

 するべきことのなくなったバローは、東国を出るために手続を待つ人々の列を眺められる場所へと移動した。

 大陸の中に限ったことを云えば、人々の動きは非常に流動的である。西国、南国、東国を行き来して暮らす商人は大勢いるし、ほかにも留学や遊興で各国間を行き来する者は後を絶たない。そのため、出入国の手続はさほど複雑なものではなく、身分を証立てる通行札さえ持っていれば、よほど怪しいところがない限り、足を止められることは滅多になかった。

 むろん国内で罪を犯した者が隣国へ逃亡することを防ぐため、また、隣国から罪人を受け入れることのないようにするための警戒は厳重である。少しでも怪しいところがあれば、身ぐるみ剥いで取調べを行うことも珍しくない。

 仮にですよ、というモルガーヌの声を思い出すバローである。仮にですよ、あのこどもをお嬢さまが攫っていったとして、逃げるならばどちらだと思いますか、と彼女は云った。警備の厳しい国境の門か、すぐに閉ざされる可能性の高い街門か。

 街門でしょうか、とバローはごく慎重にそう答えた。なぜそう思うのです、と問われ、答えた理由はわれながらごく幼稚なものだった。国境の門は警備が厳しすぎます。

 だが、モルガーヌは笑うことなく、そうですね、と静かに答えた。バローどのの云うとおりです。

 バローの目の前に幌馬車が停まった。中を検めよ、という衛士の声に応じた下男たちが、幌のついた荷車の幌を上げさせ、内部を検めはじめる。

 国境を越える者たちは、どんなに高貴な身分にあったとしても、必ず歩いて、国境を越えるための調べを受けなくてはならないとされていた。馬車や荷車の中に潜んでひそやかに国を渡る行為は、正規の身分証を持っていたとしても厳しく禁じられているのである。

「おい、人がいるじゃないか」

 厳しい声が上がった。バローはわずかに擡げた警戒心とともに、なにげなくそちらを見遣った。

 自分はエリシュカに顔を知られている。もしもエリシュカがここを通るようなことがあり、さらに自分の存在が彼女に知れれば、また思わぬところへと逃げられてしまうかもしれない。そう考えたバローは、あまり目立つ動きをしないようにと自分を戒めていた。

「へえ、すんません」

「下ろせ」

「へえ……ですが」

 荷車を御していた者と衛士とのやりとりにバローは耳を澄ませた。

「歩かせるのも気の毒なほどの病人なんでさあ」

「病人?」

 衛士の声が厳しく尖る。それに応じるようにして荷車の幌の奥から、調べにあたっている下男と思しき男の声が聞こえた。

「こいつら、なんか得体の知れねえ発疹が出てますぜ、旦那がた」

「発疹……?」

 衛士の声にあからさまな怯えが混じった。

「しかもずいぶん熱が高えみてえだ、うんともすんとも目を覚ましやがらねえ」

「発熱に発疹だと?」

 いつからだ、と衛士は御者に問いかけた。さあ、と珍しい黄金色の瞳をした大柄な体躯の御者は首を傾げた。数日前からだったと思う、と答えた御者は、あまり関心なさそうに欠伸までしてみせた。

「なんかまずいっすかねえ、病人だと」

 叩き起こしますか、と御者が問う。衛士たちは眉間に皺を寄せて互いに顔を見合わせた。

「こいつらの札は?」

 へえ、と御者は返事をして、さっきお渡ししましたが、とその場にいた衛士のひとりをじっと見つめる。見つめられた衛士は、掌の中の三枚の札を弄ぶようにしながらしばらく考え込んでいたが、やがて、もういい、と云った。

「気をつけて行けよ」

「へえ、どうも」

 返された札を受け取り、大切そうに懐にしまいながら御者は礼を云った。

「ちなみに訊くが、おまえたちはどのあたりから来たのだ」

 国境の街へと続く一番大きな道とすぐ手前の街の名を挙げた御者は、気遣わしげに背後を振り返った。

「すんませんが、幌をきっちり降ろしてやってもらえませんか、風が吹いても節々に触るようなんでさあ」

 荷台から降りた下男が自分の云うとおり、幌を下まで降ろすのを見届けた御者は座席へと戻り、二頭の驢馬ロバに鞭をくれると、がたがたとうるさい音を立てながら門を出ていった。

 荷車のうちを検めた下男を捕まえたバローは、中にいたのはどんな者たちだった、と問いかけた。病人だというのであれば別人に違いないが、顔を見ずに国境を通してしまった点は気にかかる。

「若えのとこどものふたりでしたぜ、旦那」

「ふたり?」

 男か女か、とバローは重ねて問いかけた。

「ひとりは男で、もうひとりは女でした。ふたりとも目蓋まで腫れ上がるみたいなすげえ発疹で、見てるこっちまで痒くなってくる気がしましたぜ」

 そうか、とバローは頷いた。男女の組合せは気になるが、そこまでひどい発疹ならば偽装ということも考えにくい。自分の探し人とは無関係のただの旅人であったのだろう、と彼はそう結論付けた。

 その後も人波は途切れることなく続いた。

 衛士たちが投げかける簡単な質問に答えられずに足止めを食らう者もいれば、いかにも旅慣れた風情で笑顔のうちに境を越えていく者もいた。

「ここは出国の門ですんでね」

 なにかの折にバローの傍に立った衛士がそんなことを云った。

「あんまり厳しいことは云わないんですよ。所詮は国から出ていく者たちですからね。入国のほうはこうはいきません。さっきの幌付荷車の中にいた病人も、叩き起こされて引きずり降ろされていたと思いますよ。彼らにとっちゃしんどいことでしょうけれど、病によっては入国を拒まれることだってあるんです」

 そういうものか、とバローは思った。

 この大陸の国と国との境には、ごくわずかだが隣り合う国同士が共同で統治する地帯がある。東国と南国との場合、そこには両国の官吏が共同で管理する公邸が構えられており、両国の首脳がそこで会談することもあれば、条約を取り交わすこともある。東国の貴族と婚姻する南国の者が複雑な手続をすませるあいだに滞在することもあれば、罪人を引き渡す場として使われることもあった。

 かつて大陸内で戦火の絶えなかった頃、その一帯はわずかな停戦地帯として使われており、多くの医療従事者がそこでけが人の手当てにあたった。いまではもうそうした面影はないが、その名残として、この地域だけは両国ともに武器を持ち込むことが禁じられている。

 出国の門から出た旅人は、ごくわずかなその緩衝地帯を抜けたのちに隣国の入国の門に達する。そこで審査を受けたのちに、晴れて隣国へ足を踏み入れることができるというわけである。

 エリシュカさまの行方を必死になって追っているのは、われわれだけなのだな、とバローはふとそんなことを考えた。

 バローらが王太子の密命を受けて――王太子の情人であるエリシュカを捕らえるために――ここにいることを、国境の衛士たちはみな知っているはずだった。それでも彼らが特別に警戒を強めている様子はない。

 もしかしたらそれこそが健全な民のありようなのかもしれない。多くの民はまつりごとにも王族にもほとんど興味がない。彼らは日々の務めをつつがなく果たし、己の糧を得るのに精いっぱいなのだ。王太子がどんな情人を囲おうと、その情人が逃げ出そうと、そんなことはどうだっていいのだ。

 オレにしたってはじめはそうだったのだ、とバローは己を振り返る。

 バローがエリシュカの行方を追ってここにいるのは、ほんの偶然のなせる業である。王宮付警護騎士であるバローがエリシュカの部屋を担当するようになったことも、彼女が逃げ出した晩に夜警にあたっていたことも、そうだ。

 モルガーヌに説き伏せられて――と云うより、なかば脅されて――エリシュカを追跡する任に就いたものの、それこそはじめのうちはエリシュカのほうに同情的でさえあった。

 王城で暮らすことが人の幸いであるとは限らない。ましてやエリシュカは異国の娘だ。故郷へ帰りたいと願って当然ではないか、と。そんなことを考えているとは間違っても口には出せなかったが、それがバローの本心だった。

 もしかしたら、とバローはふとクロエのことを考えた。あの可哀相なこどもを庇ってカスタニエどのに叱責されたのち、ギャエル・ジアンとともに姿を消したクラヴリーどのも、自分と同じ気持ちだったのかもしれない、と。

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