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 テネブラエ、とエリシュカは鐙に立ち上がって腰を伸ばし、愛する青毛の耳にそっとくちづけた。真昼の太陽を受けて漆黒に輝く、艶やかでやわらかな耳で主人の唇を受け止めた賢い獣は、すべてを承知した、と云わんばかりに低く鼻を鳴らす。

 鞍の上に腰を落とし、深く頭巾フードをかぶり直したエリシュカに、すぐ隣に立ったシルヴェリオが低い声で話しかけた。

好機チャンスはたったの一度だけです。慎重に、決してしくじらないように。あなたを信じて、みなが待っているんですから」

 濃鼠色に染めた髪を布で隠し、さらに深々と頭巾をかぶったエリシュカは、細身の身体と相俟ってまるで少年のようだ。堂々たるテネブラエの背中に跨るその華奢な姿は、これから官吏の手に囚われた仲間を強奪しに行く者のようにはとても見えなかった。

「わかっています」

 シルヴェリオの激励にエリシュカは静かに応じた。薄紫色の瞳をまっすぐに前へと向けたその横顔は、美しくも凛々しい。どこにいても、なにをしていても、いまにも消えてしまいそうな儚げな風情を漂わせていた面影は、もうどこにも見当たらなかった。


 官吏に囚われ、処刑を待つジーノを救い出すべきか否かで揉めた一夜が明けた翌朝早く、エリシュカとオルジシュカは、ふたりしてアルトゥロの天幕へと押しかけた。寝起きを襲われた海猫旅団団長は、大の男とは思えない情けない悲鳴を上げて美女ふたりの襲来におそれ慄いた。

 そんくらいすげえ迫力があったってことだよ、とすっかり目が覚めたのちにアルトゥロはそんな云い訳を並べていたが、枕を抱きしめ掠れた悲鳴を上げていた姿を忘れられないエリシュカからしてみれば、なんともまぬけな話である。

 叩き起こしたアルトゥロに、エリシュカは前夜のうちにオルジシュカと話し合い、これがよかろうと決めた策を丁寧に伝えた。アルトゥロはシルヴェリオを呼び、おまえはどう思う、シルヴェリオ、とまるで試すように問いかけた。

「賛成はできません」

 シルヴェリオは渋い顔で首を横に振ってみせた。

「どうしてですか」

 昨夜、ジーノを助けたいあんたの気持ちはわかったよ、と云ってくれたオルジシュカが、気持ちだけで突っ走られてもね、と苦笑いしながらもともに考えてくれた策である。たったひと言であっさりと否定されて、はいそうですかと引き下がれるはずもなかった。

 どうしてって、とシルヴェリオは美しい顔に戸惑いの色を浮かべながらエリシュカを見据えた。

「わかるでしょう、あまりにも偶然に頼りすぎているし、運任せにもほどがある。こんなのは策とは呼びませんよ。乱暴すぎる」

 あなたがついていながらこんな案しか出せなかったんですか、とシルヴェリオはオルジシュカにも非難がましい眼差しを向けた。ひどいなあ、あんたは、といっさい悪びれるふうのないオルジシュカは、どこか楽しそうな笑みを浮かべてみせた。

「もともとが無理な話なんだ。偶然も運も全部味方につけて、それでも助け出せたら御の字みたいな」

 だから、とオルジシュカは笑みを深くする。

「この程度で十分だと思うんだが、違うかい?」

 どう思うも、こう思うも、もうはじめからジーノを救い出す気満々なんですよね、とシルヴェリオはオルジシュカの顔を恨みがましく見つめた。エリシュカを、そしてこの俺を試すような物云いをして、そのうえで掌で転がすような真似を平気でしやがる。

 俺がいったいどんな気持ちで、とそこまで考えてシルヴェリオは急に虚しくなって思考を止めた。やめだ、やめだ。いくら考えても、こればかりはどうにもならないんだからな。

 シルヴェリオは、やってられない、とばかりに深い息をついてから、聞かされたばかりのその策についてもう一度考えを巡らせてみる。

「どうしても考え直してもらいたい点がいくつかあります。それを聞いてもらえるのなら」

 エリシュカの顔が期待に輝くのを忌々しく思いながら、シルヴェリオは低い声でこう続けた。

「協力してもかまいません」


 あのときシルヴェリオが意見を云ってくれて本当に助かった、とエリシュカは思った。彼の案がなければ、この作戦はもっと不安の大きなものとなっていたに違いない。――別に、いまだって万全というわけではないけれど。

 真昼の太陽に照らされる街中の道は埃っぽく霞み、行き交う人々で混み合っている。エリシュカとシルヴェリオは、街の中央広場の前に建つ、この街で一番大きな宿屋の建物の陰に潜み、ジーノを奪還する時機タイミングを窺っているところだった。

 頭巾を深くかぶったエリシュカに対し、シルヴェリオは美しい亜麻色の髪と綺麗に整った顔を惜しげもなく晒している。あまりに人目に付きすぎるのではないかとエリシュカは思ったが、頭巾をかぶったふたり組なんて、いかにも怪しげでしょう、と一蹴されてそのままになっていた。

 テネブラエの手綱を握る掌がじわりと汗ばんできた。

 春が遅かった今年は、とうに夏と呼ばれる季節を迎えたいまごろになっても陽射しは弱く、風は冷たく、気温は一向に上がらなかった。街を行く人々もまだ春先のような服装をしている者が多い。

 エリシュカの身を湿らせる汗は、だから暑さによるものではなく緊張によるものだ。

「あまり硬くならないように」

 エリシュカの不自然な身じろぎを察知したシルヴェリオは、いつもどおりの冷たい声でそう云った。はい、と頷いたエリシュカはいったん身体に力をこめ、それから緊張を解こうと大きな息をついた。

「エリィ」

 シルヴェリオが鋭い声でエリシュカを呼ぶ。エリシュカはさっと全身に力を入れ、拳に軽く手綱を巻きつけて神経を尖らせた。

「来ましたよ」

 あれです、とシルヴェリオが顎の先を軽く上げたほうを見ると、広場を挟んだ向こうの通りを歩いてくる十数人の集団が目に入った。

 黒や鈍色の制服を身につけた官吏たちとともに、白っぽい衣服を身につけた影がいくつか引っ立てられてきた。そのうちもっとも小さな姿に目を止めたエリシュカは、思わず息を詰めた。

「……ジーノだわ」

「間違いありませんね」

 エリシュカの声に頷いたシルヴェリオは、琥珀色の眼差しで目の前の広場を見渡し、予想どおりです、と云った。

 広場のほぼ中央には、人が縦横に五人ずつほども並んで立てるような広い処刑台が築かれている。人の胸ほども高さのあるその台を取り囲むように並んだ衛士たちは、見物に集まった民らを威嚇するように厳しい顔つきであたりを睥睨していた。彼らと処刑台との距離は大人の大歩幅で四、五歩といったところだろうか。

「思ったよりは集まっていませんね」

 エリシュカが云うと、シルヴェリオは、時間の問題ではないでしょうか、と答えた。

「時間になれば、人垣はおそらくいまよりもずっと厚くなります。距離感を間違えないでくださいね」

 はい、とエリシュカは頷いて頭巾の陰になっている視線を広場へと戻した。

 東国で罪人に科される刑罰は、拘禁刑と流刑、それから斬首刑である。そのうち斬首刑に関しては特殊な例外を除いて、すべて公開で行われることになっていた。街の民らは特別の所用がない限り、広場で行われる刑の執行を見届けなくてはならないこととされている。残酷な見世物は、犯罪の抑止効果を狙ってのことだった。

 エリシュカがジーノを救う目があると考えたのは、この制度ゆえのことである。

 エリシュカには、壁をよじ登ったり、鍵をこじ開けたりするような特殊な能力はない。処刑前の罪人が拘束されている牢へと忍び込み、ジーノを救出することはできない。

 しかし、処刑が公開の場で行われるのであれば、そこから彼をかっ攫うことはできる。――できるのだ。テネブラエがいれば。

 エリシュカが最初にその案を話した相手はオルジシュカである。

 彼女はエリシュカの案を一笑に付した。できるわけないだろ、そんなこと。どれだけの衛士が警備に出ると思ってるんだ。

 できます、とエリシュカは云い切った。できます、必ず。わたしにはテネブラエがいる。

 あんたの馬がどれだけの名馬でも、街中で罪人を強奪するような派手な真似をして無事に逃げ切れるわけがない。オルジシュカはそう云って、ほかの案を考えよう、と笑った。

 いいえ、できます、とエリシュカはなおも云った。ここは普通の街とは違います。だからできる。できるはずです。

 日ごろはおとなしいエリシュカの強情に、オルジシュカは関心を引かれたのかもしれない。ふうん、と彼女は云った。それほどまでに云うのなら聞いてみようじゃないか、あんたの案を。

 挑発するようにうながされてエリシュカが口にした案に、オルジシュカは興味を持ってくれた。そしてその案をもとに、ふたりで策らしきものを練り上げ、アルトゥロとシルヴェリオを納得させ、多少の修正を経たのちに計画は実行されることになったのである。

「ジーノは最後になるようですね」

 官吏や処刑執行人の様子をじっと観察していたシルヴェリオがそう云った。エリシュカはどこか上の空のまま、硬い表情で頷いた。罪人たちを拘束している官吏たちの中に、知った人物がいるような気がしたのである。

 エリシュカは薄紫色の瞳をかすかに眇めながら、静かに記憶を探った。なんだろう――、とても厭な予感がする。

「どうかしましたか、エリィ?」

 勘の鋭いシルヴェリオに問われ、エリシュカは咄嗟に首を横に振った。

「なんでもありません」

「こういうときに隠し事は厄介なだけですよ」

 隠し立てするつもりはない。けれど、これといって確信の持てない、ただの気配のような、予感のようなものについて、言葉に変えて誰かに伝えるような技術はエリシュカにはない。

「いえ、あの……、ただ」

 ただ? とシルヴェリオは琥珀色の瞳を細めた。

「あの中に見知った方がいるような気がしただけです」

 なんですって、とシルヴェリオは顔色を変えた。王城からの手配書が国じゅうに回っているエリシュカは、彼女自身がお尋ね者である。海猫旅団での平和な暮らしの中で本人は忘れているのかもしれないが、れっきとした追われる身なのだ。

「どれです?」

 わかりません、とエリシュカは首を横に振る。

「そんな気がしただけで、確信は持てないんです」

「もう一度よく見て!」

 シルヴェリオは焦燥を覚えた。もしも、逃げたジーノに加え、エリシュカまでもが追われることになれば、この強奪逃走劇は途端に難しいものとなる。

 あるいは、とシルヴェリオはさらに思考を走らせた。あるいはジーノが不敬罪などというわけのわからない罪で捕らえられたのも、もしかしたらエリシュカにかかわりのあることなのではないだろうか。

 ジーノはたしかに世間からはみ出した少年ではあるが、王家やほかの貴族らに敵意など抱いてはいない。ジーノにとっての王家など、山の向こうの神の国よりも遠い存在だ。不敬がなんであるかすら理解していないだろう。

「シルヴェリオ……」

 エリシュカの声に緊張が混じる。シルヴェリオは苛立ちに任せた乱暴な仕種で広場へ目をやり、思わず大きな舌打ちをした。

 処刑がはじまろうとしていた。

 処刑執行人が台の上に上がり、大振りの剣をこれ見よがしに手入れしはじめる。褐色に日焼けした体躯は筋骨逞しく、その顔は厳つく、いかにもおそろしげな様相である。

 よくもまあ、ああいった風体の者を探してくるものですね、とシルヴェリオは刹那気を逸らせた。人の残酷さは見た目になど左右されるものではないというのに、誰もが外見に容易く騙される。

 シルヴェリオがどうでもいいことを考えていたそのあいだも、エリシュカは官吏たちの姿に目を凝らし、必死になって己が抱いた予感の正体を追いかけていた。

 あ、と思わず声が漏れた。

「どうしました?」

 ジーノを取り押さえている男、その姿に覚えがあることに気がついたのだ。エリシュカの背に冷たい汗が流れた。

「ジーノを取り押さえている男の人、あれは、王城付警護騎士の方です」

「警護騎士?」

 やはりそうか、とシルヴェリオは得心する。この処刑はやはり罠だ。エリシュカを捕らえるための、罠なのだ。

 ジーノはエリシュカに繋がる者として捕えられ、これから殺されようとしている。

 エリィ、とシルヴェリオは低い声でエリシュカを呼んだ。

「わかりますか。この処刑はあなたを捕らえるための茶番だ。ジーノはあなたをおびき寄せるための餌。おそらく群集の中には大勢の追手が忍んでいるはずです」

 エリシュカの顔から血の気が失せた。

「おそらく容易には逃げきれない。あなたを捕らえるために、こどもの命ひとつを平気で犠牲にしようというんですから。どうしますか、エリシュカ」

「どうします……って?」

「予定どおりジーノを攫いに行きますか。それともこのまま逃げますか。作戦を決行すれば、あなたは無事ではいられないでしょう。追手に捕まり、王城へ連れ戻される。その先のことは云わなくてもわかりますね」

 一生囚われ、慰み者となって暮らす――。

 エリシュカは頭巾の陰で深く俯いて唇を噛んだ。シルヴェリオに本当の名で呼ばれたことで、エリシュカは彼の本気の迷いを悟っている。

 処刑のために連れてこられた罪人はジーノを含めて五人。すでにふたりの男が首を切り落とされ、無残な遺体となって民衆の前に晒されていた。

 迷っている時間はない。

「ジーノを見捨て、国境を越えてしまえば、あなたが捕らえられる危険性は限りなく低くなるでしょう。山へ入り、故郷を目指せば、家族にだって会えるかもしれない。でも」

 ジーノを助けようとすれば、と続けようとしたシルヴェリオの言葉を、いいえ、とエリシュカは遮った。目蓋を閉じたまま首を大きく横に振り、迷いを振り切ろうとする。

「ジーノは助けます。殺させたりなんかしない。必ず、助けます」

「エリシュカ」

「危ないことはわかっています。みなさんを危険に晒すということも。でもそれは、わたしを追う者がここにいようといまいと同じことです。違いますか」

 エリシュカは必死だった。

「ジーノを追う者もわたしを追う者も、追手という意味では同じです。追う者がいるという前提で立てたわたしたちの策は、相手が誰であれ試してみる価値がある。違いますか」

「……エリィ」

 もしも、とエリシュカは云った。

「もしも、どうしても危なくなったらわたしを差し出せばいい。ジーノが捕らわれてしまった原因がわたしだと云うのなら」

 あなたの気持ちはわかりました、とシルヴェリオは、エリシュカを宥めるような口調でそう云った。

「でも、そうまでする理由はなんです?」

 ジーノはあなたを騙したひとりですよ、とシルヴェリオは云う。

「俺が云えた義理ではないかもしれませんが、あなたにとってはそれほど大事な相手でもないでしょう。命を賭けたり、自由を賭けたりするほどの理由がどこにあるんです?」

「そんなの知りません」

「知らないって……」

 オルジシュカにも同じことを訊かれました、とエリシュカは云った。目の前では三人めの罪人の首がいままさに切り落とされようとしている。

「たとえ騙されていたとしても、親切にされたことに嘘はないからだと答えました。親切にしてもらったことに偽りはなかったからだと」

 だけど、本当はそんなことどうだっていいんです、とエリシュカは云った。

「理由なんかよくわかりません。説明なんかできない。わたしは言葉をよく知らないから。だけど、知っている誰かが、何度も言葉を交わした誰かが、目の前で理不尽に殺されようとしているのを助けたいと思うことに、なにか特別な理由が要りますか」

 シルヴェリオは大きく息を吸い込んだ。熱くなっていた頭が急速に冷えていく。

「決意は変わらない、というわけですね」

「変わりません」

「まずい事態になったときには、俺はあなたを切り捨てますよ」

「そうしてください」

「後悔は?」

 しません、とエリシュカはきっぱりと云い切り、テネブラエの手綱を握り直した。

 三人めの男の処刑はいつのまにか終えられていて、決行のときはもう目前に迫ってきていた。

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