05
懐かしくやさしい声に名前を呼ばれた気がして、エリシュカはそっと目蓋を持ち上げた。深くて短い上質な眠りから浮かび上がるときのような、すっきりとした目覚めだった。
ずいぶん長いこと眠り込んでしまっていたみたいだわ、と彼女は思い、身を横たえているその場所のふかふかとしたやわらかさに違和感を覚えた。わたしは神ノ峰を旅している途中だったはずだ、とエリシュカは考える。アランさまとテネブラエとともに、厳しく冷たい尾根道を歩んでいる途中だったはずだ。
――ここは、どこだ。
エリシュカは、がばっと音を立てるほどの勢いで身を起こした。途端、頭がくらりとまわり、ひどい眩暈を感じた。揺れる視界の隅に誰かの姿をとらえたような気がしたが、その正体を見極めるために視線を上げることもままならない。
片手をついて身を支え、吐き気を覚えるほどの強い眩暈に耐えているところへ、扉が開かれるような音が聞こえた。
「エリシュカ」
男の声に顔を上げ、揺れて定まらない視界に顔を顰める。
「エリシュカ。寝ていなくてはだめだ」
慌てて近寄ってくる男の夏空色の瞳を見上げたエリシュカは、自分でも意識をしないままにほっと身体の力を抜いた。寝台の上に崩れ落ちる華奢な身体を受け止めたヴァレリーは、その身を元のとおりに横たえてやり、やわらかな掛布で胸元まで覆ってやった。
「……アランさま」
呼びかけた声は掠れていた。喉の奥に苦い塊があるような気がして咳払いをすると、エリシュカはそのまま激しく咳き込むことになってしまった。
身体を横に向けて口許を覆うエリシュカの背中を、あたたかくて大きな掌が何度も何度もさすってくれる。涙で滲む眼差しを向けてみれば、いかにも心配そうに眉を曇らせたヴァレリーが彼女を見下ろしていた。
「昨日も、少し前にも目を覚ましたのだが、憶えていないか」
ようやく咳の治まったエリシュカが緩く首を横に振ると、ヴァレリーは、そうか、と短く答えた。
「仕方あるまい。あのまま凍死していてもおかしくなかったのだ。これを飲んだら、また眠るといい」
「あ、あの、ここは……?」
起きられるか、とヴァレリーが延ばしてくる腕に縋りながらエリシュカは身を起こした。ヴァレリーはエリシュカの背に枕を宛がったり、肩が冷えないように上着を着せかけたりと甲斐甲斐しく世話を焼きながら、ここか、と苦笑混じりに答えた。
「ここはおれたちを助けてくれた者の住む庵だ」
庵ですか、とエリシュカが首を傾げると、ヴァレリーは、とりあえずこれを飲むといい、と木の椀を差し出した。
「ここはまだ神ノ峰の中なのですよね?」
ああ、とヴァレリーは頷いた。
「どうやら最高峰へと続く尾根道から少し外れたあたりらしい」
「助けて、くれた、とは?」
「おれにもよくはわからないのだ」
ヴァレリーは背後を振り返り、ヴァイス、と呼びかけた。
「彼がおれたちを助けてくれた」
ヴァレリーに呼ばれ、足音もなく寝台の脇に立ったのは、黄金色の髪に緑輝石の瞳をしたひとりの男だった。上背のあるヴァレリーと並んでも遜色のない長身にくすんだ灰色の長衣を纏い、白皙の頬をわずかも緩めることなくエリシュカを見下ろしてくる。
「この庵の主だ。尾根道に倒れていたおれたちをここへ連れてきて介抱してくれた。命の恩人だ」
ありがとうございます、とエリシュカは眩暈をおして頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました」
ヴァイスは身じろぎひとつせずにエリシュカを見下ろしていたが、ヴァレリーに支えられるようにして自分を見上げてくる彼女を憐れと思ったのかどうか、いや、と低い声で応じる。
「目が覚めたのならそれでいい」
そしてなんの前触れもなく踵を返すと寝台の傍を離れ、静かに部屋を出ていってしまった。エリシュカは呆気にとられ、思わずヴァレリーの顔を凝視してしまう。
「口数の少ない男なのだ。名前以外なにを訊いても答えないが、悪い人物ではないように思う」
ヴァレリーの声には苦笑が混じっている。東国王太子である彼は、これまで一度として、誰かになにかを問いかけて答えを返してもらえないことなどなかった。ヴァイスと名乗る男の正体を知りたいと彼に身分を明かすよう迫ったが、ヴァイスは緑輝石の瞳を冷たく光らせただけでヴァレリーの問いを黙殺した。
無礼なやつだ、と思いはしたが、ヴァレリーにはヴァイスを責めることはできなかった。吹雪の中に倒れていた自分たちを助けてくれただけでも感謝しなくてはならない、ということは教えられるまでもなく理解できることだったからだ。
アランさま、とエリシュカが呼びかけてくる。
「あの、わたしたちはいったい……?」
ああ、とヴァレリーは頷いた。そして、エリシュカが薬湯を飲む手助けをしながら、自分たちがここにこうしていられるわけを、わかる限りで話して聞かせることにした。
吹きつける風と降りしきる雪に閉ざされた真っ白な闇へと落ちたはずのヴァレリーが、ふいに意識を取り戻したのは、もう幾日も前のことだ。目覚めた彼は、すぐに腕の中に抱えていたはずの愛しいぬくもりがいなくなっていることに気づく。
エリシュカ、と嗄れた喉の奥から声を上げると、目が覚めたか、と低い声が答えた。仰向けに横たわる彼の目の前に顔を突き出したのが、先ほどのヴァイスである。
ヴァレリーは慌てて身を起こそうとした。だが、身体は思うように動かず、それどころか右脇腹に激痛を感じて、そのまま身を丸めることになった。まるで胎児のように膝を抱え込むようにして呻いているヴァレリーを、ヴァイスは冷たい瞳でただ見下ろしていた。手助けをするでもなく、状況を説明するでもない。
脂汗を流しながら痛みに耐えていたヴァレリーだが、ただ黙ってそこに立っているヴァイスに不気味なものを感じて、やがてそろりそろりと身を起こした。痛みに耐えながら、そなたは誰だ、と問うと、ヴァイスはかすかに首を傾げながら、緑輝石の瞳を眇めた。
「私の名はヴァイス。黒い獣がおまえたちのことを知らせにきたので、ここへ連れてきた」
黒い獣、と唇の中で繰り返したヴァレリーははっとしてヴァイスに問いかける。
「それは青毛馬のことか。テネブラエだな、あれはどうした?」
いや違う、とヴァレリーは性急に首を横に振る。
「それよりもエリシュカは、エリシュカはどうした!」
「エリシュカ?」
「おれとともにいただろう。女だ、銀色の髪をした……」
黙れ、と命じるかのように、ヴァイスはゆっくりと瞬きをした。その奇妙な威圧感に気圧されて、ヴァレリーは口を噤む。
「獣は解き放った。女は隣の部屋にいる」
「生きて、いるのか……」
ヴァイスは小さく頷いた。ヴァレリーは大きく息をつく。
「無事なのか」
「意識はない。体温も低いままだ。手足が凍傷を起こしている」
「手当は?」
鋭い声に込められた非難が不愉快だったのか、ヴァイスが眉をひそめた。ヴァレリーは慌てて、すまない、と小さく詫びた。おれにこの男を責める理由はない。この庵に寝かせてもらっているだけでも感謝しなくてはならないところなのだ。
「様子を見に行ってもかまわないか」
「かまわないが、おまえもそれなりに重傷なのだ。じっとしているに越したことはないと思うが」
おとなしく寝ていたほうがいい、という自分の言葉にヴァレリーが顔を歪めたせいなのか、ヴァイスは少々面倒くさそうに付け加える。
「エリシュカといったか、彼女は呼吸も脈も安定している。凍傷も軽いものだ」
そうなのか、と安堵したヴァレリーはそこではじめて己の状態を自覚する。胸に厚く巻かれた布は清潔で乾いていた。きっとこの男が巻き直してくれたのだろう。
尾根道に倒れていたヴァレリーとエリシュカを庵に運び、けがの手当をし、寝床を提供してくれた。暖を絶やさず、枕元には喉を潤すための水も用意されている。ヴァイスと名乗る無愛想な男は、見も知らぬおれたちのためにできる限りの手を尽くしてくれた。
ヴァレリーは己を恥じて、深く首を垂れた。
「すまない」
ヴァレリーが非礼を詫びても、ヴァイスの表情は変わらなかった。
「エリシュカの身が心配だ。様子を見に行きたい」
それほど云うなら好きにしろ、とヴァイスはなおも無表情のまま静かに答えた。
ヴァレリーはゆっくりと身を起こして立ち上がると、足を引きずるようにしながら部屋を移り、エリシュカの眠る寝台へと近づいた。
氷のように蒼い顔をしたエリシュカが広い寝台に横たわっていた。命に別状はない、ということをあらかじめ聞いていなければ、死んでいるのではないかと思ってもおかしくないような顔色だった。
ヴァレリーは寝台の隅に腰を下ろし、エリシュカの頬にそっと手を伸ばした。指先で触れた頬はひんやりとしていた。だが、白い闇に飲まれる前に触れたときのような硬さはなく、それだけで彼女が生きているのだということが知れて、ヴァレリーはほっと深い息をついた。
濡れたような艶を帯びた睫毛がかすかに揺れるのを見守っているうちに、ヴァレリーの頬には知らず涙が伝う。
よかった、とヴァレリーは思っていた。エリシュカが生きていてくれて本当によかった。
意識を失う直前、彼女を胸に抱き込みながらヴァレリーは思っていた。もしも人の宿命を司る神がいるのならば、聞いてくれ。この命をくれてやるから、エリシュカを助けてくれ。おれのすべてを捧げるから、彼女を救ってくれ。どうか、どうか――。
そう願ったときのヴァレリーは王太子ではなかった。ただひとりの男だった。
国も民も
つまりはそれがすべてだったのだ、とヴァレリーは気づいた。
おれははじめから、エリシュカに惹かれはじめたそのときから、ただひとりの男であったのだ。ひとりの女に心を奪われ、彼女とともに安らぎ、彼女とともに戦い、彼女とともに笑い、彼女とともに泣き、彼女とともに眠りたいと願う、――ただひとりの男であったのだ。
小細工を弄し、云い訳を連ね、無体を強いて、それらはなにもかも政のためなどではなかった。オリヴィエの云うとおり、すべて求める心のなせる業だったのだ。
「……ただ、恋しかっただけか」
ヴァレリーはぽつりと呟いた。
王太子になど生まれなければよかった、とこのとき生まれてはじめてヴァレリーはそう思った。名誉も富も地位も持たぬ、ただの男に生まれたかった。
王の妃の誉れを与えてやれることもなく、髪に飾る珠を贈ることもできず、民に崇められる輝きを添えることもできず、それでもただ好いた女に――エリシュカに――無心に手を伸ばせる、ひとりの男でありたかった。
あのまま白い闇に飲まれてしまえばよかったか、とヴァレリーはふと魔に囚われる。
愛しいエリシュカを胸に抱き、真白き氷に抱かれて、ただひとりの男としてあのまま死んでしまえたらどんなにか――。
あの場で息絶えてしまっていれば、いま以上にエリシュカを傷つけることはない。いま以上に自分が傷つくこともない。彼女への想いと、彼女との思い出と、彼女自身を抱いて天国へと旅立つことができる。
すべての憂いと、すべての悲しみと、すべての苦しみを捨てて、光射す場所へ――。
そのときエリシュカの目蓋がひくりと動いた。まるでヴァレリーの世迷言を諌めるかのように。
「エリシュカ!」
我に返ったヴァレリーはエリシュカの頬に手を当てて、何度も何度も名を呼んだ。薄い目蓋がゆっくりと開き、薄紫色の瞳がぼんやりと宙を彷徨った。
「エリシュカ」
どうにか眼差しを向けてもらおうとヴァレリーは虚しい努力をしたが、エリシュカの瞳はそのまま閉ざされてしまった。身体を揺さぶり、頬を叩き、目を覚まさせたいとヴァレリーは思った。
そっとしておいてやれ、というヴァイスの声が背後から聞こえてこなければ、間違いなくそうしていただろう。
「いまはゆっくり休ませてやれ」
ヴァイスの声は冷たくも厳しくもなかったが、奇妙な力でも込められているのか、なぜだか逆らう意志を削がれてしまう。ヴァレリーはおとなしく頷いて、彼の言葉に従った。
そなたが最初に目を覚ましたのはもう五日も前のことだ、とヴァレリーが云うのを、エリシュカは静かに頷いて受け止めた。一日のうちに幾度か目を開けては、またすぐに閉じてしまうのを繰り返していたのだぞ。
「何度呼びかけても返事もなくてな」
こうして起き上がれるようになってよかった、とヴァレリーは微笑んだ。夏空色の瞳にはひとひらの曇りも翳りもない。こんなふうに穏やかなアランさまの瞳を見るのは、ずいぶんとひさしぶりのような気がする、とエリシュカは思った。
あらためてあたりを見回してみれば、いまいる部屋はたいして広くもないようだった。大きな窓の前に置かれた寝台とその周囲のわずかな空間、隣室へ通ずるらしい扉。寝台脇には簡素な円卓があり、その上にはエリシュカのために用意されたと思しき水差しと杯が乗せられていた。
大きな窓に嵌められた硝子とエリシュカの身を包む肌触りのよい布に余計な飾りはなく、部屋や家具はすべて木製で、石や金属の類はひとつも見当たらなかった。
まるで晴れた日の森の中にいるようだ、とエリシュカは思った。静かであたたかく、穏やかに明るい。
「嵐の中で遭難してからもう幾日経ったか」
十日かそれ以上か、もうよくわからぬ、とヴァレリーは軽く首を横に振った。
「山は冬を迎えたのですね」
エリシュカのいる寝台は、床から天井までの大きな窓に面している。青い氷と白い雪に閉ざされた真冬の風景が彼女の視界いっぱいに広がっていた。
そのようだ、とヴァレリーは頷いた。
「鳥や獣を撃ちに出かけても、草の芽や木の芽を採りに出ても雪は深くなる一方だ。嵐がくれば三日は居座るし、晴れた日はことさらに冷え込みが厳しい」
「……旅を続けることはむずかしいようですね」
ああ、とヴァレリーは頷く。
「気候もそうだが、そなたの身体もだ、エリシュカ。心配したのだ」
椀を満たしていた薬湯をすべて飲み終えたエリシュカに向かって、ヴァレリーは、横になっていろ、と云った。
「気づいていないのかもしれないが、いまのそなたは熱が高いのだ。冷えきった身体を温めるために身体がしていることだから仕方がないとヴァイスは云うが、起き上がっていては身体に毒だ。すぐに食事を支度してやるから、もう少し寝ているといい」
エリシュカは驚いて目を瞠る。
「食事の支度でございますか?」
アランさまが、と言外に問えば、ヴァレリーはひどく穏やかな微笑を浮かべた。
「ああ、そうだ。ここには誰もおらぬからな。なにもかもヴァイスの世話になるわけにはいかぬであろう」
云われてみればそのとおりである。行き倒れていたふたりを拾ってくれただけでもヴァイスには感謝しなくてはならないと云うのに、それ以上の面倒をかけるわけにはいかない。
「幸いおれのけがは、そなたの手当のおかげもあって、もうさほど痛むこともない。ヴァイスに教えを乞いながら、兎や鳥を狩ったり、木の芽を毟ったり、これでもなかなか忙しくしているのだぞ」
王城にいたときは己の手で皿の向きを変えたことさえなかった男は、そう云って楽しげに笑った。
「冬の山とは存外恵みの多いものなのだな」
「なんという……」
東国の王太子ともあろう者が、自ら雪山へと分け入り、その日の食べ物を探すなどあってはならぬことだ、とエリシュカは思った。
「アランさまがそのようなこと……わたしが……」
「自ら身を起こすこともかなわぬいまのそなたに、いったいなにができる?」
なあ、エリシュカ、とヴァレリーは愉快そうに笑い、銀色の頭をそっと撫でた。
「それにな、おれはいま、とても楽しいのだ」
「楽しい?」
そうだ、とヴァレリーは頷いた。
「そなたとともに寝起きをし、自らのための糧を自らの手で狩る。そなたとおれのあいだに誰がいることもなく、意を交わすには互いに直接言葉を交わすしかない。ごくあたりまえで、しかしおれには望むべくもなかった暮らしだ」
「アランさま、そのような……」
わかっている、とヴァレリーは笑みを深くして頷いた。
「自分がいかに愚かなことを云っているか、ちゃんとわかっている。だが、ここには誰もいない。そなたとおれ、それからヴァイス以外には誰もいないのだ」
ここにいるあいだだけはただの男――愛しく思う女をその心の赴くままに慈しみ、大切にし、守ってやれるような――でありたい、そうさせてほしいとヴァレリーは云っている。
「……アランさま」
ヴァレリーの心のすべてを察したわけではなくとも、彼の声にこもる切実に気づいたエリシュカは、ただヴァレリーの名を呼ぶことしかできなくなった。
ヴァレリーはその声に答えるように、もう一度銀色の髪をくしゃりと撫で、食事の支度をするためにエリシュカの傍を離れていった。
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