23

「つまり王太子は、そんなくだらないことのために私の可愛い妹を黒い猟犬に仕立ててくれた、というわけか」

 モルガーヌの話を聞き終えた長兄ウスターシュが低い声で唸るようにそう云った。父は目蓋を閉じたまま微動だにしない。モルガーヌは取り繕うように云い足した。

「監察官となったのは、私自身の意志でもあるのです、兄さま。ほかの誰でもない私が、このお役目を望んだと……」

「黙れ、モルガーヌ」

 ウスターシュの声はもはや悲鳴である。

 王家ラ・フォルジュに対する忠誠心のぬるさゆえに現在の地位に甘んじてはいるが、カスタニエ家は古くより連綿と続く由緒ある貴族の家だ。その家に生まれた娘を官吏に、それもよりにもよって監察官に任じるなど、それはもはや侮辱に等しい。

「王太子はカスタニエを軽んじているのだ。国家を揺るがすような危難にあたってのことならばともかくも、己の情人風情を捕らえるためにおまえを、モルガーヌを……」

 だいたいバラデュールの婆もなにをしていたのだ、役立たずの嫁がず後家が、とウスターシュの暴言はデジレにまで波及する。

「ウスターシュ」

 敬うべき遠縁の女性に対し、悪口を極めそうになる息子を父が諌めた。

「モルガーヌを責めても仕方なかろう。なにしろ相手は仮にも王太子なのだ。面と向かって逆らえる者など、この国にはいない。おまえや私、このカスタニエといえど、王家に対し正面から弓引くわけにはいくまい。おまえの妹とて同じことだよ」

「しかし、父上」

 聞きなさい、ウスターシュ、と父は云った。

「モルガーヌはさっき、自ら望んでいまの役目にあると云った。おまえと私は、モルガーヌがそんな役目にあることを望んではいない」

 己の背負った新たな役目が、父や兄にとって望ましいものでないことはわかっていたが、こうもはっきりと言葉にされるといたたまれない気持ちになる、とモルガーヌは俯いた。

「それはわかっていたことだろう、モルガーヌ」

 父の問いに、モルガーヌは、はい、と頷いた。

「急ぎの任務の合間に、この父と兄に顔を見せてくれたことをうれしく思うよ。最近のおまえときたら、母からの手紙にさえ返事ひとつ寄越さなかったのだから」

 ごめんなさい、とモルガーヌはまた俯いた。開けば縁談のことしか書かれていないことが明らかな母からの書状は、いくつかは開封することもないままに物入れの中に突っ込んである。心配をかけていたのだ、といまさらのようにモルガーヌは反省した。

「おまえはなにか勘違いをしているようだが……」

 ジェルヴェは穏やかな声音の中に静かな笑いを忍ばせて続けた。

「私は別に、おまえに監察官を辞めてもらいたいとは思ってはいないのだ」

「父上?」

 訝しむような長兄の声に、父は軽く頷いてみせた。

「ウスターシュはそうではないのかもしれないが、私はそうなのだ。モルガーヌがそうありたいと望むのなら、侍女でも官吏でも好きなものになればよい。なにになろうと、どこへ行こうと、息子は息子、娘は娘だ」

「父さま」

「だが、モルガーヌ。これだけは憶えておかなくてはいけない。おまえはもう二度と侍女に戻ることはできない」

 モルガーヌは言葉を失って黙り込んだ。喉元に灼けた火箸を突っ込まれたような痛みが走った。

「それが道理というものだ。賢いおまえのことだ、まさかわからないとは云うまいね」

 父の云うことは正しい。

 モルガーヌはもう二度と侍女に戻ることはできない。たとえこの先の旅路のどこかでエリシュカを見つけだし、ともに王城へ戻ったところで、彼女に仕えることはもう叶わないのだ。

 監察官になると決めたときからはっきりとしていたにもかかわらず、己のうちでさえあえて曖昧にし続けてきた事実を突きつけられ、モルガーヌは頷くことも首を横に振ることもできずに、ただまっすぐに父を見つめた。ジェルヴェは娘を宥めるように幾度か頷いてみせた。

「わかっているのならいいのだ。おまえが、おまえの抱く忠誠心ゆえに、己の意志で監察官となったことはこの父にも理解できた。なんら恥じることはあるまい。そもそも官吏とは恥じるような職ではないし、おまえの心とカスタニエの名は天秤にかけるようなものではない」

 おまえよりも大事な家名などあるものか、と鷹揚に笑う父に向かい、モルガーヌは、はい、と細い声で答えた。

 そう、私はもう二度とお嬢さまにお仕えすることはできない。あの可憐で可愛らしい王太子の恋人を間近で支えてやることは、もうできない。

 モルガーヌには、監察府長官ガスパール・ソランの名で、監察官に任じる旨の正式な辞令が出されている。

 監察府は王族に対する調査を行うことすら可能なほどに大きな権力を持っている。その長たるソランの権力もまた絶大である。貴族の子女であるモルガーヌを監察官として受け入れるにあたり、ソランは大きな権力を握る者に特有の潔癖さでもって、王太子に向かってこう要求した。――モルガーヌ・カスタニエにほかの監察官と同じ権限を与えたいのであれば、正式な辞令が必要です。

 モルガーヌの身を監察官とすることをあくまでも一時的な処置と考えていたヴァレリーは、もちろんソランの意見を撥ねつけようとした。だが、己の情人を連れ戻すために己に仕える侍女に大きな権限を持たせたいだけのヴァレリーに分のあろうはずもない。

 ソランは頑として譲らず、結果、モルガーヌは監察官としての正式な辞令を受け取ることとなったのである。

 侍女にしろ官吏にしろ、王城や王府に仕える者は、その立場を容易に変えることは許されない。侍女がだめなら官吏になり、官吏である必要がなくなったから侍女に戻る、というような勝手は許されないのだ。不正の温床となることを防ぎ、また、権力の濫用を許さないための、それは不文律であった。

 監察官になることを了承したとき、モルガーヌが侍女に戻る道は閉ざされた。すなわち彼女には、この先生涯を官吏として過ごすか、あるいは職を辞して国許に戻るかのふたつの選択肢しか許されていない。いずれにせよ、エリシュカの傍に残ることは不可能なのだ。

 それでもかまわない、とモルガーヌは思った。それでもかまわないから、どうにかしてもう一度お嬢さまと話がしたい――。

 モルガーヌの願いはそれほどまでに強いものだった。

 お嬢さまはなにがあっても譲ることのできない強い決意を持って、王太子殿下のもとを去られたのかもしれない、とモルガーヌは思う。誰にも明かすことのできない決心は、未知の旅路をひとり行く恐怖を凌ぐほどに強いものだったのかもしれない。

 けれど、それは私も同じなのだ。

 ヴァレリーの傍らにあるべき女性はエリシュカをおいてほかにいない、とモルガーヌは確信している。短い期間ではあったけれど、朝に夕にエリシュカの傍近く控えていて感じたことだ。

 おかしなことに、エリシュカが城を出たのちもなお、その確信は揺らぐことがなかった。否、ますます強くなったといってもいい。

 少々慎みが過ぎる消極的な面がなくはないが、賢く忍耐強いエリシュカの性質は傲慢で不器用なヴァレリーをよく支えていくはずだ、とモルガーヌは思う。

 ヴァレリーの隣に立つということは、いずれこの国の王妃、あるいはそれに準ずる場所に立つということである。愚かな者には到底務まるはずもなく、忍耐の足りぬ者には過ぎた地位となろう。贅沢を知らない控えめな性格や、いざというときの決断力や行動力も、王太子の伴侶にふさわしい。

 お嬢さましかおられないのです、とモルガーヌは思う。王太子殿下をお支えできるのはお嬢さましかおられない。殿下がお嬢さまを望まれ、連れ戻せと仰せになるのならば、私はなんとしてもその望みを叶えて差し上げなくてはならない。そのためならば私は、私自身の地位や立場など、どうあろうとかまわない。

 むろんかつてのままのお嬢さまではその大役に不足もあろう。誠意をもって仕えていたはずの私を一顧だにせず――己が城を出ていくことで、モルガーヌだけではなく大勢の者たちが深く傷つくことを考えもせず――出奔するようななまくらな愚かしさは、やがて王となる男の隣に立つにはふさわしくない。

 だが、そんな些細なことはいずれあらためていただけばよい。

 大事なことは、王太子ヴァレリー・アラン・ラ・フォルジュが選んだ者である、ということだ。いい加減なことをしているように見えて、王太子殿下はやはり見るべきところを見ているのだ、とモルガーヌは思う。

 きっと殿下は誰よりもよくわかっていたに違いない。美しく儚げなお嬢さまが持つ賢さと強さとを。

 王太子殿下の目に狂いはなかった。彼の隣に立つべきは、お嬢さまなのだ。

 己のうちに眠っていたこうした強い忠誠心を、モルガーヌは特に不思議に思うことはなかった。

 ヴァレリーが己の望む生き方をまっとうすることは、彼自身に憂いが少ないということである。私人としてのヴァレリーに憂いが少なければ、それだけ王太子としての責務に邁進することができるであろう。

 モルガーヌはそう考えて、ヴァレリーの望みを叶えるべく努力を惜しまなかった。侍女であったモルガーヌは、王太子を政治的に補佐することはできない。だが、彼の私生活を豊かなものにするべく励むことはできた。

 王太子の心身の安寧が国の発展と平和に繋がるというのであれば、そのために私ができることはなんでもする。モルガーヌの忠誠心の底にあったかつての願いは、つまりはそういうことだったのだ。

「おまえはおまえの信ずる道を歩むとよい、モルガーヌ」

 父の声に顔を上げたモルガーヌは、そこでようやく自分が俯いてしまっていたことに気づいた。ただ、と父は不意に声を厳しくした。

「おまえの忠誠はなにに対して捧げられるものなのか。そこははっきりさせておかなくてはならないよ。官吏になるならば、なおさらだ」

「なにに対して……?」

 そうだ、と父は重々しく頷いた。

「国に、王家に、あるいは王太子個人に」

 モルガーヌは言葉を失い、口を閉ざした。

「曖昧なものを信じてはならない。厳しい道を行こうとしているおまえに、私が云えることはこれだけだ」

 ジェルヴェはそこで、娘を安心させるようにかすかに笑んでみせた。

「おまえを止めはしない。選んだ生き方に反対もしない。だが、おまえの背を押すこともしないよ。娘に歩ませるには険しすぎる道だと思うからだ」

「はい、父さま」

「忘れないでいてほしいのはたったふたつだけだよ、モルガーヌ。己の信ずるところを、誰に対しても明らかにしなさい。自分自身に対しても、だ。そしてなによりも、私たち家族がどんなときもおまえを待っていると、どんなおまえであっても帰ってきてほしいと思っていることを、忘れてはならないよ。おまえ自身よりも大切な役目などどこにもない。わかるね」

 モルガーヌは父の顔をまっすぐに見つめた。父は穏やかにモルガーヌを見つめ返していた。父の言葉を不満に感じていないはずのない長兄も父と同じような表情でいることが、どこか可笑しかった。

「ありがとうございます、父さま」

 そう答えたモルガーヌの声にはいっさいの迷いも含まれてはいなかった。

 私は私の道をもう歩きはじめてしまった、とモルガーヌは遅ればせながら気がついた。貴族として王家を支える父さまたちとも、侍女として王太子殿下を支えるデジレさまたちとも異なる、私だけの道を。

 私はこの東国を支えていく。

 ちっぽけで頼りない力であるとしても、私は持てるだけの力をすべて注いで、この国を支えていく。それはすなわち、この国に生きる父さまと母さま、兄さま姉さまたち、王太子殿下やお嬢さまを支えるということだからだ。

 私はどうあってもいずれはこの結論に辿り着いていたのかもしれない、とモルガーヌは思った。

 貴族の娘として生まれ、侍女として王家に仕え、それでもデジレのように仕えるべき相手――モルガーヌの場合は、王太子ヴァレリー・アランその人――に心酔することはできなかった。敬い、尊ぶべき相手だと理解はしている。事実、侍女であったときのモルガーヌは、できる限り王太子の意思を尊重してきたつもりだ。エリシュカのことで反感を抱いたこともなくはなかったけれど、最終的にはヴァレリーの意志に添うよう振る舞ってきた。

 それが己の役目であり、同時に侍女とはそうあるべきだと思っていたからだ。

 けれど――。

 デジレのように、私は国家に仕えているのではない、王家に仕えているのだと割り切ることは、いつまで経ってもできなかった。

 国王も王太子も、その地位がいかな高みにあるとはいえ、ただの人にすぎない。欠点もあれば、過ちも犯そう。支配者ゆえの驕りや傲慢は、もはや彼らの一部でさえある。幸いにして英明な国王と王太子を悪しざまに云う者は少ないが、彼らにも人としての愚かさや弱さはある。

 人である以上、それはあたりまえのことだ。

 デジレや他の侍従、侍女たちは、彼らの弱さや愚かさを含めたすべてに傅くと決めた者たちだ。どれほど非道な行いも愚かな言葉も、それをなした者が王であるというだけで、咎めることをしない者たちだ。

 モルガーヌには、そんな彼らを理解することができなかった。

 過ちは正されなくてはならない。

 愚かさはあらためられなくてはならない。

 相手が国王であれ、王太子であれ――否、国王であり、王太子であればこそ――、そうしなくてはならないのだ。

 デジレさまはきっと、私のこうした考えに気づいておられた。だからこそ、私のことを常に傍に置いていたのだ。侍女とはこうあるべきだと、お手本を示しておられるようなつもりだったのかもしれない。

 生憎と私にはどうしても理解できぬものであったけれど。

 デジレの考え方を、生き方を否定するつもりはない。ただ、同じように振る舞うことは自分にはできない、とモルガーヌは思う。デジレさまのお姿こそが侍女としてあるべきものだというのなら、やはり私は侍女のままではいられなかった。いま、このような形ではなかったとしても、いつか必ず侍女の職を辞することになっていただろう。

 でも、デジレさまと私が願うことは同じはずだ、とモルガーヌは思う。デジレさまが王太子殿下を支えたいと願う心と私が国を支えたいと願う心とに、なんの違いもあろうはずがない。――どうか、この東国に恒久の平和と繁栄を。

 だから私はこれでいいのだ、とモルガーヌは右の掌をそっと胸に押し当てた。私はなるべくして官吏になり、監察官となった。この制服をもう引け目に感じることはない。孤高と高潔の黒は、いずれ私の誇りとなるはずだ。

「いい面構えになったな、モルガーヌ」

 憮然とした長兄の声にわれに返ったモルガーヌは、慌ててもとの姿勢に戻った。

「兄さま」

「それでこそ私の妹だ」

 モルガーヌは目を瞬かせて長兄を見つめた。

「背中を丸めて、私の視線に怯えるような無様は二度と見せるな。なにをするときも、誰の前にあるときも、おまえはモルガーヌ・カスタニエ、父の娘、私の妹なのだから」

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