03
まずはわが国の歴史について学ぶところからはじめないとなりませんね、とツェツィーリアは云う。シュテファーニアはおおいに首を傾げ、疑問を口にした。歴史ですって、と彼女は眉をひそめた。
「さようでございます、姫さま」
ツェツィーリア、と誇り高き教主の娘は抗議した。
「わたくしはこの国の為政者の娘よ。国の歴史については厭というほど学んできたわ」
「さようでございますね」
ツェツィーリアは緩い笑みを崩さずに答えた。
「ならばなぜ?」
「なぜ私がこのようなことを姫さまに申し上げるのか、お考えいただければありがたいのですが」
ツェツィーリアはこれまで自分についたことのある教師たちとは違うのだ、とシュテファーニアは思った。
ツェツィーリアにはシュテファーニアに知恵を授ける義務はない。彼女は彼女自身の意志によってシュテファーニアの傍にいると決めたにすぎない。ツェツィーリアにその気がなくなれば、すぐにでも彼女は去っていくだろう。
教えてくれ、助けてくれ、守ってくれと云うばかりではだめなのだ。自分で学び、ときには彼女を助け、守らなくては。
シュテファーニアはツェツィーリアから視線を逸らすことなく、大きくゆっくり瞬きをした。どうやらわたくしはまず、わたくし自身から変えていかなくてはならないものであるらしい。
シュテファーニアの顔つきが変わったことで、ツェツィーリアはわずかに笑みを深くした。どうやら最初の試験には合格したのかしら、とシュテファーニアは安堵する。
しかし、いまさら歴史を学べ、とはどういう意味だろう。
ツェツィーリアがあえて云うくらいなのだ。幼い頃に与えられた書物をもう一度読んでみろ、という意味でないことはたしかだ。
そんなシュテファーニアの戸惑いを救うようにツェツィーリアが口を開いた。
「私たちがいまおりますのは、わが国の始祖、姫さまの祖先が築いたとされる中央神殿でございます。ここには、ほかの神殿にはないものがある」
「ないもの?」
始祖像、とか、とシュテファーニアが迷いながら呟いた答えにツェツィーリアが苦笑いをする。
「それはたしかにそうですが……」
「あとは、そうね、図書庫かしら」
書物を集めた図書庫はほかの神殿にも存在するが、中央神殿のそれは特別に広大で、蔵書量もほかとは比較にならないほどに多い。
ツェツィーリアの薄水色の瞳が光を帯びた。
己の答えが正しいことを悟ったシュテファーニアは、しかしそこでまたもや首を傾げる。
「たしかに中央神殿の図書庫には、わが国で、いいえ、この大陸で記されたすべての書物が納められていると聞くわ。わたくしも何度か足を運んだことがあるもの。けれど、ここにある書をすべて読もうとすれば、一生かけてもまだ時が足りない。わたくしにそんな時間は……」
「……すべての書物」
ツェツィーリアの与えた
「すべての……?」
はい、とツェツィーリアは頷いた。
「記された書物のすべてが、多くの人の目に触れるとは限りません。その内容はおろか、記された、という事実さえ秘匿される書物も存在するのです」
おまえは、とシュテファーニアは思わす眉をひそめた。
「ツェツィーリア、おまえは、わが国にはそのようにして隠された歴史がある、とそう云いたいの?」
ツェツィーリアは笑んだまま答えなかった。シュテファーニアはゆるゆると首を横に振った。
「どういうことなの?」
「それを私の口から申し上げることはできません。姫さまがご自身の目でご覧になり、ご自身でお考えにならなければならないことでございます」
ですが、とツェツィーリアは云った。
「この中央神殿の図書庫には、われらが知らされているものとは大きく異なるわが国の歴史を記した書物が納められています。むろん、姫さまも目にされたことはないはずです」
「おまえはなぜ、そんなことを……」
「私の父はこの国で五指に入る力を持つ高位神官です。父の預かるは祐筆。この国の歴史を記す職にございます」
「見たことがあるのね?」
いいえ、とツェツィーリアは短く答えた。
「では、なぜそんなことを知っているの?」
その目で見たこともないものの存在を、とシュテファーニアは動揺を隠しきれない声を上げた。
「私は西国に留学したことがございます。ごく短い期間ではありましたが、そのときに得たものは、この国で過ごしたすべての年月をかけても学びきれぬほどに多うございました」
ツェツィーリアが西国で過ごしたのはたったの一年。しかしそのあいだに、彼女はそれまでのすべての時間、否、帰国したのちからこれまでの時間のすべてをかけても学びきれぬほど多くのことを学んだ。
「西国には多くがあった。豊かな土地、穏やかな気候、さまざまな人々。それからわが国では触れることのできぬ、わが国の歴史もです」
「触れることのできぬ、歴史……?」
「姫さまは、わが国の始祖とされる七人の巡礼者たちが、どこからやってきたのかはご存知でいらっしゃいますね」
「西国からだと」
古の秘術を信奉していたかつての西国で、この世を創造したとされる神を信ずる者たちはひどい迫害を受けていた。捕えられ、罰を受け、嬲り殺しにされる仲間の姿に多くの者が信仰を捨てたが、それでも神を捨てることなく、神に殉ずる覚悟を抱いた者たちもいた。新天地を求め、西国を逃げ出した彼らは、大陸をめぐる巡礼者となり、厳しく長い旅を続けた。
その旅の果て、最後に残った七人が、険しい山を越えてようやくたどり着いたとされる地が、現在の神ツ国の都であるとされている。
そして、その七人の旅を先頭に立って導いた人物こそが、ヴラーシュコヴァーの始祖であるとされていた。
「巡礼者たちの出身が西国であったからなのかどうか、彼の国にはわが国に関する文献が数多残されておりました。もちろんすべてを読むことはできませんでしたが、私はあの地で思いもよらぬことを知ることになった」
「思いもよらぬこと?」
「姫さまにもぜひとも知っておいていただきたいことでございます」
いったいどういうことなの、とシュテファーニアは険しい顔をしてツェツィーリアを睨み据えた。
「思わせぶりなことを云わずに教えなさい」
「私の口からお教えしたところで、姫さまはきっとお信じにならないでしょう。姫さまはご自身の力でご自身の不明を照らさなくてはなりません」
シュテファーニアはきつく唇を引き結んで沈黙した。
「西国でわが国の歴史について学び直した私は、それでもにわかにはそれを信じることはできませんでした。留学から戻ったのち、父に真実を尋ね、そしてそこでようやく気づかされた。私は、私たちは、あまりにも多くのことを知らずにいたのだと」
「それを知って、おまえはどうしたの?」
「沈黙しました」
「……沈黙?」
はい、とツェツィーリアは頷いた。
「なにも知らずにいたときと同じように、いえ、そのときよりよりもずっと慎重に、なにも知らないふりをしてきた」
「なぜ?」
「死ぬのが怖かったからです」
シュテファーニアが大きく目を見開いた。ツェツィーリアは苦く笑って、薄水色の瞳を細く眇めた。
「この国を支配する者たちがひたすらに隠し続けた歴史です。私ひとりの口を封じることなど、誰もなんとも思わないでしょう。たとえ、血を分けた父であったとしても」
シュテファーニアは両手で口許を覆った。
「もしも私が一介の町娘であったなら、どんなことを知ろうと、それを吹聴しようと、気にも留められなかったことでしょう。ですが、私はラドヴァン・コウトナーの娘、滅多なことを口にすることのできない立場でした」
外国へ留学した娘が余計な知恵をつけてきただけならば大目にも見られようが、国の根幹を揺るがすような大事を軽々に口の端に乗せるようであれば、父の立場が危うくなる。父は己の立場を守るため、私の口を封じようとするだろう。
「父は娘を西国へ留学させるほどに進歩的な考え方を持ってはいますが、それは、あくまでも、私が娘として従順である限りにおいての話です。父にとってみれば、己の考えに逆らうような娘は娘ではなく、それどころか敵にすらなりうるのです」
ツェツィーリアはどこか寂しげに笑い、話を続けた。
「父は己の地位のため、コウトナー家のためならば、血を分けた娘を殺めることなど躊躇いもしません。私はそんな父をよくわかっていました」
「それで、なにも云わずに……」
はい、とツェツィーリアは頷いた。
「東国へ嫁がれた姫さまがエリシュカとのことを契機として、わが国を変えようと決意されたことで私は目を覚まさせられました。本当のことを知りながら、なにをするでもなく、なにを云うでもなく唯々諾々と流されてきた愚かな自分の横っ面を叩かれたような気がした」
「そんな……」
今度はシュテファーニアが苦笑いをした。
「おまえにそんなふうに云われるようなことではないわ」
気づかせてくれた直接のきっかけは、たしかにエリシュカではあるけれど、とシュテファーニアは云う。
「それだけではないのよ、ツェツィーリア」
おまえはいつもあの娘に対して平等であろうとしていたわ、とシュテファーニアはまるでなにかを宣言するときのように厳かに云った。
「わたくしがそうと気づかずあの娘を差別していたときも、そうと知りながら虐げていたときも、おまえだけはあの娘に対する態度を変えなかった。仕事を与え、報告を受け入れ、失敗すれば叱り、期待以上であれば褒めていた。ごくあたりまえのこと。けれど、わたくしにはできなかったこと」
ツェツィーリアは頷くこともできずにいる。
「見られていないと思っていたの、ツェツィーリア。わたくしはおまえが鬱陶しかった。だからおまえの粗を探し出して
自然、おまえのことには詳しくなったわ、とシュテファーニアは可笑しそうに云った。侍女のことにばかりあまりにも熱心だと云って、お兄さまが嫉妬なさるくらいにね。
イエレミアーシュの嫉妬など、想像しただけでおそろしさに身が震える。それは勘弁してほしいと思いながら、ツェツィーリアは、姫さま、と主を呼んだ。
「わたくしの意に反しておまえはたいそう優秀で、難癖をつけようにもつけられなかった。わたくしはおもしろくなかった。それは、気に入らない者をそばに置かなくてはならなかったからというだけではなくて、きっとどこかで気づいていたからだと思うのよ。自分が過ちを犯している、と」
いまから思えば、ということかもしれないけれどね、とシュテファーニアは最後に付け加えた。
ツェツィーリアは一度大きく息を吸い込んでから口を開いた。
「私は、姫さまが思っておられるよりは、よほど姫さまのことを買っておりました。ヴラーシュコヴァーのみなさまが人知れず重ねられる修行は、並大抵のご努力でできるようなことではありませんし、姫さまは与えられる試練に対し、常に誠実に向かいあっておられた。私はそのことをよく知っていたからです」
それは、とシュテファーニアは恥じ入るように笑った。
「気がつかなかったわ。おまえがわたくしをそんなふうに思っていてくれたなんて」
「そうでなければ、誰が東国まで従って参りましょう。務めとはいえ、私には拒むこともできなくはなかったのですから」
ツェツィーリアの言葉に嘘はない。神官として高位にある父に、国に残りたい、と頼めばよかっただけのことだ。
「それでも私は姫さまに従うと決めたのです。誤謬も傲慢も姫さまを避けては通りません。誰かを傷つけることもありましょう。誰かを泣かせることも。私にはそのことがよくわかっていた」
エリシュカのことも、私ははじめから彼女の事情と役割をすっかり含んでいたのです、とツェツィーリアは云った。
「姫さまがご自身を守るために、いつかエリシュカを差し出そうとなさるだろうということはわかっていました。できることならば止めてさしあげたかったけれど、それも叶わなかった。本当は姫さまに向かって大仰な口を叩くことなどできない身なのですよ、私は」
ツェツィーリアは主と同じように恥じ入るような笑みを浮かべ、しかしすぐにその眼差しを真剣なものへと戻すと、先を続けた。
「姫さまは、以前とはまるでお人が変わったようでいらっしゃる。そして、私はそんな姫さまに目を覚まさせられたのです」
「わたくしに?」
「私は西国で多くを学んでまいりました。けれどそれは、おそらくたったひとつのことへと収斂するのだと、いまの私は思っております」
「たったひとつ……?」
はい、とツェツィーリアは頷いた。
「虐げられるために生まれてくる者などいない、というたったひとつへと」
シュテファーニアは声を失って瞳を見開いた。
「多くの人が鬩ぎあって生きるこの世では、人が人を傷つけ、苦しめ、踏み躙ることは当然の理であると私は思います。誤解をおそれずに申し上げるのであれば、人は誰かを犠牲にせずに生きることはできません。それを是とするわけではない。ただ、世とはそういうふうにできているのだと、そう思うのです」
「……そういうふうに、できている」
「より多くを求め、より高みを求め、それでも私たちは貪欲に前へと進んでいく。いいえ、進んでいかなくてはならない。それが、生きるということであるからです」
強きが弱きを虐げ、侮り、しかし、そのすべてを仕方がないのだと受け入れていかなくてはならない、とツェツィーリアは云った。
「強弱は常に入れ替わるものです。今日の覇者が明日の敗者となり、強き者がさらに強くなるためには弱さを知らねばならないときもある」
姫さま、とツェツィーリアは主を静かに呼んだ。
「大陸の諸国とわが国のもっとも大きな違いは、ここにあるのだと私は思います」
「ここ、とは?」
「支配者が恒常的に支配者であるわけではない、ということです。そして、弱者が常に虐げられているわけでもない、ということ。姫さまが嫁がれたラ・フォルジュ家とて、数百年前は名もなき地方の一族であったと聞いています。それがいまや揺るぎなき権勢をきわめる王家となった。それは、西国の皇家パーヴェルツィークとて同じこと。また、南国では民が自ら為政者を選び、明確な支配者を戴かない。併呑された島ツ
翻ってわが国はいかがでしょう、とツェツィーリアは云う。
「神の威を借りた神官による支配は神意を恃みに揺らぐことはなく、神から見放されたとされる賤民はその立場を永劫抜け出すことはできない。与えられた地位の不変を知る者たちが、己以外の立場に理解を示すことはありません」
悲しいかなわが国では、強きが弱きを知ることはなく、その逆もまた然りなのです、とツェツィーリアはため息をついた。
「いまは強くある己も、いつかは脆弱さを突き付けられるのだと思えば、あるいは弱きを助ける強きが現れることもあるかもしれません」
悲しいほどに自分のことしか考えられぬ存在は、しかし同時に、それだけではいけないのだと気づいているものです、とツェツィーリアは云った。自分のためだけに生きることのできる人間は、存外少ないものだ。
「けれど、わが国にはそれがないと、そう云いたいの? ツェツィーリア」
「そのとおりです、姫さま」
シュテファーニアは美しい顔を険しくしてツェツィーリアを見つめた。彼女の云いたいことはシュテファーニアにも理解できる。
自国の歪な身分制度を廃したいというのは、シュテファーニアの偽らざる思いだ。
しかし一方で、神に縋って生きるしかできない父や兄たち――彼らをはじめとする、多くの神ツ国の民ら――に、あまり無体なことを強いられないとも思う。
相反する思いの落としどころは、いまのシュテファーニアには想像もできなかった。
「私は幸運にも己の傲慢を早いうちに知ることができました。けれど、私にはなにもできなかった。私にできたことは、故国の歴史を恥じ、父に言葉を返し、ただそれだけでした。そして、それでは駄目なのです」
「駄目……」
「気づいただけではどうにもならない。動かなくては。言葉にしなくては。ただ思うだけでは、なにも考えていないのと同じことなのです」
薄い硝子の奥の水色の瞳がさらなる熱を帯びて潤んだ。シュテファーニアはどこかぼんやりとそれを見つめながら、己の覚悟が少しずつ本物へと変わっていくことを感じていた。
賤民という禁忌を抱える身分制度を変えたいと思った。国のありようを考え直してみたいと思った。
そのためならば、多少の犠牲を払うこともやむをえないと思っていた。父や兄を裏切ることになっても、母や姉を悲しませることになっても、それはそれで仕方がないのだと。
それでは駄目だったのだわ、とシュテファーニアは思った。それでは全然駄目だった。
もう何百年も続く悪しき因習を変えるために必要な犠牲が、多少などで済むはずがなかった。身内を裏切り、悲しませる程度で済むはずがなかった。
賤民を解放すること。
それはとてつもなく大きな覚悟だったのだ。国を崩し、身内を滅ぼし、己を八つ裂きにするような。
わたくしにできるかしら、とシュテファーニアは怯む。わたくしを守り、慈しみ、崇めてくれた者たちを踏み躙り、わたくしを厭い、憎み、蔑むであろう者たちのために動くことができるだろうか。
シュテファーニアは己の存在価値を過小評価してはいない。
教主の娘、中央神殿の巫女。そうした立場をもってすれば、この小さな国を揺るがすことはむずかしくない。
虐げられし多くの者たちの涙で泥濘んだ大地とはいえ、いまよりもさらに国が乱れれば、苦しむ者の数はずっと多くなる。
それに、――賤民を解放したからといって、国が豊かになるとは限らない。
貧しいこの国は、一部の者たちからすべてを搾取することによって、どうにか成り立っているのだ。
多くの民は、得るものよりも、失うもののほうが多いだろう。矮小な栄華を誇る神官たち、まやかしの平安を守りたい民らは、きっとわたくしのことを許しはしない。
それどころか、解放されるはずの賤民たちですら、かろうじて手にしている生きる
きっと許されることはないのでしょうね、とシュテファーニアは小さなため息をついた。
愛してくれた者たちにも、恨んでいるだろう者たちにも、わたくしは許されることはないだろう。
誰にも許されない。
誰にも認められない。
誰にも――、愛されることはない。
わたくしが――気づかぬままに――選ぼうとしていたのは、そういう道だった。
それでも、動けるだろうか。己の為すことが民のため、国のため、未来のためと信じ、この息の根が止まる、そのときまで動くことができるだろうか。
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