12

 シルヴェリオが駆るアリスタとエリシュカを乗せたテネブラエは、鼻先を並べてそれなりの速さで歩を進めていた。ジーノとエルゼオはペンナに相乗りし、エリシュカらの足並みに従っている。

 四人は自然なやわらかさを孕んだ沈黙のうちに、明るい街道を進んでいった。

 道連れとなった仲ではあるが、エリシュカは己の素性をエルゼオらに明かしてはいない。商人を名乗ってはいるが、エルゼオもシルヴェリオも秘密と無縁ではないようだ、とエリシュカは思っていた。

 同道するようになってちょうど三日。その短いあいだにも、エルゼオとシルヴェリオは各々一日ずつ旅列を離れ、単独行動をしている。

 最初に別行動を申し出たのはシルヴェリオで、その理由を尋ねると、野暮用ですよ、とはぐらかされた。そこには踏み込んではならないのだと悟ったエリシュカは、そのあとエルゼオが、ちょっとのあいだジーノを頼む、と云ったときにもふたつ返事で引き受け、その理由を尋ねたりはしなかった。

 シルヴェリオたちの秘密に怖気づいたりしてはだめ、とエリシュカは夜ひとりになるたびに、自分にそう云い聞かせた。――わたしにだって秘密はある。それもとびきり厄介な秘密が。

 街へ入ると、どんなに陽気のいい日にも深々と頭巾「フード》をかぶり、人目を避けるように俯いて歩く自分を、三人の連れが不審に思わないはずがない。それでも彼らはエリシュカに事情を尋ねたりはしなかった。

 エリシュカはそれをとくに不思議には思わなかった。いつか切れる縁だと、そう思っていたからだ。

 故郷への道は長く険しい。テネブラエを伴ってさえ、辿り着ける保証などまるでない道行だ。他人のことにかかずらっているゆとりなどあるはずがない――。

 われながら冷たく貧しい心根だとは思うが、それもやむをえないことだ、とエリシュカは思っていた。自分のために行くと決めた道を進むためには、切り捨てなければならないものはたくさんある。

 偽名を使い、髪の色を変え、いかにも訳ありなわたしを――たとえそうとは知らなくとも、漂う不自然さは否めまい――道連れにと誘うのだ。彼らだってきっと似たり寄ったりの事情を抱えているに違いない。

 エリシュカと男たちは街道こそともに進むが、ひとたび街の中に入ってしまえば別々に行動することも多かった。宿の部屋はおろか宿そのものを別々にすることもあるし、食事も必ずともにするわけではない。

 エリシュカに――というよりはテネブラエに――懐いているジーノは彼女の傍にいることが多かったが、エルゼオとシルヴェリオの姿を揃って見かけることは稀だった。

 オレだけじゃ不安、とあるときジーノに尋ねられ、いいえ、とエリシュカは答えた。偽りを云ったつもりはなかったが、いやあ、まあさ、とジーノは下世話な笑いを浮かべて云い訳をした。あいつらも男だってことだよ、な。

 そんなことはどうでもいい、とは云わなかった。彼らの事情に無関心であることを、彼ら自身に知られるべきではないと思ったからだ。

 心を許してはいないけれど、ジーノの素直さには救われている、と感じることの多いエリシュカである。美味しいものを前にすれば口数を減らしてかぶりつき、目新しいものを見かければとりあえず駆け寄ってみる。

 エリシュカなんかよりもよほど旅慣れているはずなのに、こどもの目にはさまざまなものが新鮮に映るものであるらしい。幼い頃から父と兄の背を追いかけ、馬の世話ばかりに明け暮れてきたエリシュカには、そんなジーノこそが新鮮に思えて仕方なかった。

「このぶんなら、昼前には次の街へ入れそうですね」

 馬の背に揺られながら、シルヴェリオが云った。

「俺はちょっと野暮用があって明日の朝まで滞在しますが、エリィはどうします?」

 少しでも先を急ぐというのなら、さらに次の街に向かっていてもらっていてもかまわないのですが、とシルヴェリオは続ける。そうですね、とエリシュカは応じた。

「わたしは先へと向かいたいと思います。テネブラエもまだ元気そうですし」

 男たちと同道するようになってから、まだ野営したことはない。満足のいく、とまでは云わないにしても、夜露を凌げる屋根の下、寝台の上に眠ることができているエリシュカは、テネブラエに負けず劣らず体力が残っていた。元気のあるうちに距離を稼いでおきたい、とエリシュカは思う。

「長旅に焦りは禁物ですがね」

 まあ、いいですよ、とシルヴェリオは苦笑いした。

「たいした用ではありませんから、明日か明後日には追いつけると思いますよ」

 はい、とエリシュカは頷いた。

 ジーノの勧めに従って買い求めた地図――地図もなしに、いったいどうやって西国まで辿り着くつもりだったんだよ、とさんざん莫迦にされながら――によれば、東国の海岸沿いには大小の街や村が港を中心にして点在している。水揚げの多い港を擁している街は人口も多く、物資も豊かだ。反対に寂れた港しかないような村は、足を踏み入れることも躊躇うような荒廃を見せていることも珍しくなかった。エリシュカたちはすべての街や村に立ち寄っているわけではない。立ち寄る必要がないと感じれば迂回することもあるし、食事や休憩だけを求めてすぐに次を目指すことも少なくない。

 王都からだいぶ離れたとはいえ、南国との国境まで、さらにその先の道のりを考えると、まだまだ旅は始まったばかりと云ってよかった。気候のよいうちに神ノ峰を越えて行きたいエリシュカにとってみれば、このあたりで時間を食っているわけにはいかなかったのだ。

 商人であるエルゼオらも、旅路にあるということはそれだけ費用がかさむことでもあるから、暢気に旅を続けているわけにもいかない。勢い、一同はやや急ぎ足で街道を歩んでいた。

 ひとりだったらこうはいかなかったかもしれない、とエリシュカは内心ひそかに思っていた。

 たとえば街門ひとつくぐるにしても、女のひとり旅はまず目をつけられる。旅路を心配されるだけならまだしも、下女の逃亡か、娼婦の足抜けか、と衛士たちの目が厳しくなることも珍しくはない。

 宿に泊まろうとするときはもっと大変だ。部屋で客を取ったら承知しないからね、と失礼きわまりない釘を刺されるだけならまだしも、盗人の下見か自死の志願者かと疑われることもある。

 だが、男三人に女ひとりの旅の列ならば、商人の一行ということですんでしまう。さらにエリシュカが連れているテネブラエの素晴らしさが、エルゼオの胡散臭い口上にそれっぽい信憑性を与えていた。――いやあ、螺子の買付けにきただけなのに、こいつの素晴らしさにうっかり惚れ込んじまってね。ああ、もちろん値は張ったが、これだけの青毛なら十分に元は取れるってもんだよ。

 テネブラエを品物のように扱われることに対する違和感は拭えなかったが、そんな些細なことに突っかかっている場合ではなかった。衛士たちが目の前に立っているお尋ね者――いまのところはまだ表立った手配書などを目にしてはいないが――を見逃してくれさえすれば、それでいいのだ。

 エルゼオたちはエリシュカの秘密を詮索するような真似はしなかったが、彼女がなんらかの事情を抱えていることは察しているようで、街門を抜ける際にはいつもうまいこと立ち回ってくれていた。

 この幸運がいつまでも続くわけじゃない、ということを肝に銘じておかなくては、とエリシュカは思っていた。彼らのやり方を覚えておいて、いつかひとりに戻ったときには、自分の力ですべてを切り抜けていかなくてはならない。

 エリシュカが学ぶべきことは多かった。

 世の中を知らずに育ったエリシュカは、金の使い方さえもろくに身についていない。ものの価値を知らないから、売り子の言値に騙されて、吃驚するような大金を簡単に払おうとしたりする。

 ジーノには莫迦にされ、シルヴェリオには呆れられたが、彼らはそのたびにエリシュカに常識というものを教えてくれた。言値をいきなり払うやつがあるか。交渉するんだよ、交渉。足元を見られるな、まずはやりすぎってくらい値切れよ。

 見てるやつは見てるからな、とエルゼオはエルゼオで大柄な体躯に似合わぬ繊細なことを云った。商人ってやつは、持ってるやつからはたんまりもらうのをあたりまえだと思ってるし、商売ってのは、欲しがってるやつにはたくさん払わせるのが当然だ。金のなさそうなやつにいくら高値を吹っかけても無駄だからな。誰からも同じ金を取ろうなんて考えてはいないのさ。

 もちろんオレたちだって払うもんは払う、相応にな。だが、高いと思えば値切るし、商売人ってのはだいたいが阿漕なもんさ。オレたちも含めて。なあに、あっちだって言値を払ってもらえるなんて思ってねえ。払えるか、払えねえよ、じゃあいくらならいい、っていうやりとりは、互いにまっとうな人間だっていうことを確認し合う挨拶みたいなもんだ。

 つまりそれは、互いの常識に極端なずれがないことを確かめ合い、安心したいという意味か、とエリシュカは理解した。互いの素性も知らぬ者同士、しかしなにかひとつくらいは通じるところがあるのではないかという、――ささやかな期待。

 だが同時に、それって、とエリシュカは憮然ともした。同じ一杯の水の値段が人によって違うっていうことですか。あくどいって云うんじゃないんですか、そういうの。

 莫迦を云うなよ、とエルゼオは身体に似合わぬつぶらな瞳を瞬かせて苦笑いした。馬の背に水を詰めた革袋を山と積んだやつにとっての一杯と、半日も飲まず食わずで足許をふらつかせてるようなやつにとっての一杯で、価値が同じわけはない。豊かなやつからはたっぷりと、貧しいやつからはそれなりの対価を得ようと考えるのが、ごくごくまっとうな商売人ってもんだ。

 あくどいってのはな、とそのときのエルゼオは妙に怖い顔をしてみせた。からっからに乾いたやつの足許を見て高値を吹っかけるやつや、相手の労力も考えねえで安く寄越せただで寄越せと喚き立てるようなやつのことを云うんだ、間違うんじゃねえ。

「だいぶ旅に慣れてきたみたいですね」

 シルヴェリオは不意にそう云ってエリシュカの横顔をじっと見据えてきた。澄んだ琥珀色の眼差しに、ふと、ただの世間話にしては濃すぎる影が混ざった。

 彼はたまにこういう厭な目つきをする、とエリシュカは気づいていた。そこにあるのは下卑た慾望でも、野卑な値踏みでもない。ひとりの人間としてのエリシュカの価値を見極めようとしている――あるいは試そうとしている――かのような、昏く冷たい目つき。

 男たちがただの善人であるはずはない、とエリシュカは思っている。思ってはいるが、しかし、いまのところ危害を加えられるようなことはない。それどころか、彼らはエリシュカに対し、非常に紳士的で親切だ。

「みなさんのおかげです」

 エリシュカの返答に、シルヴェリオは、ふ、と頬を緩めた。

「そんなこともないんでしょうけれどね」

 そう云って笑う眼差しからは、数瞬前までの翳りなど綺麗さっぱり拭い去られていた。

 シルヴェリオのこういうところを、おそろしいと思わずにはいられないエリシュカである。誰もが目を奪われるほどの美貌の持ち主であるシルヴェリオは、一見誰にでも愛想がいいし、口調も丁寧だ。けれど、微笑みの形に細められる琥珀色の眼差しが緩められていることはほとんどなく、それどころかぞっとするほど冷たい光を湛えていることも珍しくない。

 誰も気づかないんだろうか、とエリシュカは思った。この人は誰にも心を許していない。わたしはおろか、旅をともにしてきたというエルゼオやジーノにも。

 あるいは、旅の途上にある者たちが結ぶ縁とはそういうものなのだろうか。

「でも、気を抜いてはいけませんよ」

 シルヴェリオの言葉にエリシュカはわれに返る。

「はい、もちろんです」

「慣れてきた頃が一番危ないんです。なにごともそうでしょう?」

 シルヴェリオの裡に潜むものに、彼の周囲が気づかぬはずはなかった。ただそれでも、この美貌の男には人を惹きつける圧倒的な魅力があり、自覚こそないもののエリシュカもまた同じように魅了されていたのである。

 そうかもしれませんね、と頷き返しながら、エリシュカはふとテネブラエの首筋に手を伸ばした。己が身を預ける青毛がぶるぶると鼻を鳴らし、首筋を不自然に強張らせていることに気づいたからだ。

 わたしが他人との会話にばかりかまけていることが、気難しい青毛にはおもしろくなかったのだろうか。そう考えたエリシュカはテネブラエの機嫌をとろうとした。

「どうかしたの? テネブラエ?」

 草臥れたの、とエリシュカは尋ねた。

 テネブラエは歩調を変えることなく、しかし身の強張りを解こうとしない。まるでなにかを警戒しているようだ、とエリシュカは思った。咄嗟にあたりを見回してみるものの、だいぶ離れた先に複数の人影が見えるほかは、隣にいるシルヴェリオと、やや遅れたところをついてくるジーノとエルゼオの姿があるばかりである。

「どうかしたのですか、エリィ」

 急に馬の様子を気にかけはじめたエリシュカに、シルヴェリオが問いかけた。いいえ、とエリシュカは首を振る。

「なんでもありません。テネブラエが少し……」

「少し?」

「疲れているみたいに思えたので」

 そうですか、とシルヴェリオは答えた。

「やはり、次の街で宿を取ったらいかがです。長旅に無理はよくありません」

 はい、と曖昧に頷きながらも、エリシュカにはテネブラエの緊張の理由が疲労ではないことがよくわかっていた。

 もしかしたら、テネブラエは少しばかり気詰まりなのかもしれない、とエリシュカは思う。もともとあまり人に心を開かぬ性質の馬だ。たった三人とはいえ、エリシュカ以外の人間が常に近くにいる状況を、彼は疎ましく思いはじめているのかもしれない。

 姫さまの旅列とは違って、いまの旅路は人の気配が近いものね、とエリシュカは思った。

 テネブラエの性質をよく理解する厩番が多かった神ツ国の厩舎では、彼に近づく者はいなかった。それはシュテファーニアに従う旅に出ても、また東国王城にあっても同じことで、テネブラエのそばにはいつでもエリシュカだけが存在した。

 いまは違う。

 シルヴェリオもエルゼオもテネブラエをおそれたりなどしないし、ジーノにいたってはことあるごとに彼の背に跨りたがる。いまだって本当は年老いたペンナではなく、美しい青毛の背を狙っているはずなのだ。エルゼオがそうそうジーノの好きにはさせないけれど。

 エリシュカにとってはただ新鮮なばかりのそうした彼らの反応も、テネブラエにとっては負担になっているのかもしれない、とエリシュカは考えた。だとしたら、彼らとの道行きは早めに終わりにするほうがいいのだろうか。

 己と誰かとの関係よりもテネブラエを優先するのは、エリシュカにとってごく自然な思考の流れである。最後の最後、わたしのそばにいてくれるのはテネブラエだもの、とエリシュカは本気で思っている。

 人は――、怖いものだから。

 家族以外の誰かを心の底から信頼することなどない、というのがエリシュカの偽らざる本音である。たとえばそこに神ツ国にいる同胞やベルタなど、多少の例外が含まれることはあっても、彼らでさえテネブラエと比較すればどうなるかわからない。

 エリシュカはもう一度手を伸ばし、テネブラエの首筋をやさしく撫でさすった。賢い青毛はエリシュカの心を読み取りでもしたのか、大丈夫だよ、とでも答えるように軽く鼻を鳴らす。エリシュカは頬にやわらかな笑みを浮かべた。――いい子ね。

 シルヴェリオの云うとおり、次の街で宿を取り、少し時間をかけてテネブラエを走らせてやろうかしら、とエリシュカは考えていた。彼の気の向くままに走ることができたなら、少しは気鬱が晴れるかもしれない。

 そのときのエリシュカの頭は、大切なテネブラエのことでいっぱいだった。

 だから彼女は気がつかなかった。会話の途中で置き去りにしてしまったシルヴェリオが自分を見つめる瞳――、その琥珀の底に潜む深い闇に。

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