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父さんも母さんもおまえたちを等しく扱ってきたつもりだったのにね、と父はかすかな苦笑いを浮かべた。おまえは、兄妹の中でも一番おとなしくて、一番素直で、誰よりも早く自分の運命を受け入れてしまったように思っていたんだがなあ。
「そうではなかったのかもしれないね」
エリシュカは曖昧に頷いた。父の云うことには覚えがあったからだ。
「それならば、父さんの云いたいこともわかるだろう?」
わかる、とエリシュカは唇をきつく噛みしめた。父さんの云いたいことはわかる。――わかってしまった。
「アルトゥルとダヌシュカもまた、おまえと同じようにここから旅立つことを望んでいる。おそらくはとても強く、心から切実に」
父さんの娘はわたしだけではない、とはそういうことなのね、とエリシュカは思った。
両親にとって、こどもたちはみな等しく幸せになってもらいたい存在だ。誰かひとりだけが特別な幸運を得たことを、――そのこと自体は喜ばしく思っていたとしても――手放しに喜ぶことをしないのはそのせいだ。
エリシュカと同じくらいの幸いを、アルトゥルにもダヌシュカにも願う。それが彼らの親としての心なのだろう。
そこまで考えてエリシュカは、自分が家族に望んでいたことは、己の考えていることを理解してもらうことではなく、純粋に祝福してもらうことだったのだと気がついた。わたしはただ、自分の幸いを認めてもらいたかっただけなんだわ。
自身がどれほど望んでも叶わぬ幸いを手に入れて自由の身となり、国を出て行く者を、曇らぬ心で祝福することはむずかしい。その身の安からんことを願いつつも、どこかで羨ましくも、妬ましくも思うに違いない。
それはきっと、ひどい苦しみとなって心を苛むのだろう、とエリシュカは思った。
なぜ、祝福できない。
なぜ、幸いだけを祈ってやれない。
なぜ、あの子だけがと思ってしまう。
当然なのだ。他人に与えられた僥倖を羨むことも、妬むことも、ごくあたりまえの感情なのだ。
けれど、人はそうした感情を不愉快に思う。自分の中にそうした悪意があることを疎ましく思う。
そして、――苦しむ。
父さん、とエリシュカは呼びかけた。
「この前わたしがここに来たこと、兄さんとダヌシュカはなんて……?」
父は悲しそうな目をして、娘の顔をじっと見つめた。
自分にもっと力があれば、こどもたちにこんな思いをさせることはなかったのに、と彼は思っていたのかもしれない。あるいは、こどもたちが己の子として生まれることがなかったならと、無意味な後悔をしていたのかもしれない。
「おまえに会えて喜んでいたよ」
とてもね、と云ったその云い方で、エリシュカは、兄と妹が自分との再会にただ喜んでいただけではないのだ、ということに気づいてしまった。
父ハヴェルは沈み込んだ表情を隠そうともせずに、エリシュカを見つめていた。静かな紫色の瞳には憂鬱の翳りがある。
ハヴェルには娘の気持ちが痛いほどによくわかった。
身にすぎる幸運を受け取った者にしかわからぬ気持ち。嬉しくありがたく、喜びに思うのと同時に襲いくる大きな負い目。――自分だけが、いいのだろうか。
父から受け継いだ厩医という仕事に就いたハヴェルは、幼いころからずっとその負い目とともに生きてきた。
彼はたいそう秀でた厩医だった。父から馬について学び、ひととおりのことを習得してからは、父の右腕、あるいはそれ以上に活躍してきた。ひとめ見ればどんな馬の状態もおおよそのところを把握することができたし、実際に触れて確かめればその診断にはつねに誤りがなかった。身を損ない、荒くれた馬であっても、いつのまにか信頼を得ることができる、特別な才能も持っていた。
父がそうであったように己も家族を持つことを許されたときも、実際に想いを寄せていたマリカを娶るときも、三人の子に恵まれたときにも、ハヴェルはいつも心からの喜びを感じていた。
父も母も、長子アルトゥルが生まれる前にこの世を去ったけれど、そのときもこの国の賤民としては異例なことに、きちんとした墓を授けられもした。そのときだって――むろん、両親の死を悼む気持ちはあったけれど――、どこか誇らしく思ったりもしたのだ。
けれど、そうした喜びや誇らしさの傍らにはいつも負い目があった。
なぜ、俺だけが――。
なぜ、俺たち家族だけが――。
ハヴェルの抱くその負い目は、家族が増え、守らねばならぬ者が増えるにつれて、どんどん大きく育っていった。
幸せが増えるぶんだけ負い目も増える。そのことはハヴェルを少しずつ頑なにしていった。彼はどんなときもつねに務めを優先し、決して驕らぬように身を慎んだ。妻にもこどもたちにも自分と同じ振る舞いを求め、どこにいても目立たぬように、誰に対しても偉ぶらぬようにと幾度も幾度もしつこいほどに云い聞かせた。
困っている者があればできる限り力を貸してやったし、その相手が民であっても賤民であっても、態度を変えるようなことはしなかった。
誰にも阿らず、誰にも靡かず。しかし、誰にも逆らわず、誰にも盾突かず。
それが、重たい負い目を抱えたハヴェルなりの処世術だったのである。
彼ら家族が与えられていた特権は、この国を出れば特別でもなんでもない、ごくあたりまえの人としての権利にほかならない。だが、ここ神ツ国では、賤民には決して望むべくもない特別な幸せだった。
ハヴェルはそのこともまたよく理解していた。
この国に生まれることさえなければ自分は、この自分の子に生まれることさえなければこどもたちは、もっと自由に、もっとおおらかに、己の人生を楽しむことができたはずなのに――。
自分たちに与えられる特別が決して特別ではないことを知りつつも、しかし、それはハヴェルにはどうしようもないことだった。与えられる幸運、周囲との境遇の差、重たくなっていく負い目にハヴェルは苦しみ続けてきた。
いっそなにもかもを捨てて逃げだす覚悟でもできていれば、いまこんなふうに娘を悲しませることはなかったのかもしれない、とハヴェルはエリシュカの顔をじっと見つめた。
三人のこどもたちの中でもとくにおとなしく、穏やかでやさしい気質であるエリシュカ。馬を愛し、馬に愛され、おそらくは自分の後継者にもっともふさわしかった娘。兄であるアルトゥルよりもよほど、エリシュカは馬の扱いに長けていた。
それでも己の後を継ぐ者をアルトゥルと定めたのは、彼の身に沁み込んだ負い目のせいだったと云える。
厩の仕事はとても厳しいものだ。身体的な頑丈さと精神的な強靭さ、なおかつやさしく穏やかでなければ務まらない。馬の世話に休みはないし、体力や腕力を求められる場面も多い。生や死を間近に感じても心を乱さずにいなければならないし、基本的に憶病で温和な気質の馬たちを心から愛すると同時に厳しくもあらねばならない。
それゆえ――主に体力的な面から――厩の仕事は女には向いていないとされていた。ことに、生と死に触れる厩医の仕事には。
女の厩番というだけでも珍しいのに、さらに厩医となれば、エリシュカに対する風当たりは強くなろう。ただでさえ、恵まれた賤民の娘とみなされているエリシュカが、さらに厩医として周囲の注目を集めることになったら、とハヴェルは怯えた。好意的な眼差しばかりではない。悪意のこもった視線もまた、集めることになってしまう。
この俺の娘に生まれたというだけで、はじめから重たい宿命を背負っている娘だ。この上さらに荷を負わせることもあるまい。
そう考えたハヴェルは、エリシュカを望む道に進ませなかった。幸いにして兄アルトゥルもつねよりはずっとよい厩医としての片鱗を見せはじめていたから、後継の心配はしなくてもよかった。
エリシュカはこのまま厩番として務められればそれで十分だ、とハヴェルは思っていた。そしてもしも叶うならば、この宮の中の誰かと添うて、静かに穏やかに――。
エリシュカが、その容姿を理由に、東国へ輿入れする教主の末娘に従うよう決められたとき、ハヴェルは、もしかしたらこれは、いままで己に与えられてきた幸運の贖いなのかもしれない、と考えた。人よりも恵まれた生を与えられてきたその報いとして、娘をひとり差し出せと云われているのかもしれない。
その思いは、教主が直々にエリシュカの顔を確かめに来たと知ったときに、揺るぎがたい確信へと変わった。
間違いない、とハヴェルは思った。俺のこれまでの幸運とそのことに対する負い目は、こうして娘を犠牲にすることで清算されるのだろう。あるいは、これから先も家族とともにあることのできる幸運さえも、エリシュカの犠牲の上に成り立ちうるものなのかもしれない。
それでも俺は決められたことには逆らえない。まだ守るべきものがあるからだ。マリカとアルトゥル、それからもうひとりの娘ダヌシュカ。だから、すまない、エリシュカ、すまない。許してくれ――。
そう思いながら、旅立つエリシュカに一家の宝であった螺鈿の小箱に髪を納めて手渡した。きっと帰っておいで、と抱きしめた。けれど――。
いつか会えると思うから辛くなる。もう死んだものと思えば諦めもつく。
そんなふうに心の裡では、もう二度と会えないことを覚悟していた。
「ねえ、父さん」
エリシュカは思慮深げに瞳を細め、父を見つめた。それ本当なの、と彼女は云った。
「ダヌシュカは、本当にわたしに会えて喜んでいたの?」
もしかしたら俺は、とハヴェルは思った。エリシュカを犠牲にすることで軽くなった負い目が、ふたたびこの身に戻ってくることを厭わしく思っているのかもしれない。だから家族にも会わせず、娘を追い出そうとしているのかもしれない。
「父さん……」
エリシュカ、とハヴェルはなかば吐息のように音のない声で、娘の問いかけを拒む。違う、そうではない、と彼は必死に心の声を打ち消そうとした。俺は決して、エリシュカを犠牲に心の重荷を下ろしたいなどと考えてはいない。
「違うんでしょ、父さん」
「なにが?」
「兄さんとダヌシュカはなんて云ってたの。教えて」
エリシュカの色の薄い瞳が父の胸を刺し貫いた。ハヴェルは小さく横に首を振り、エリシュカ、と最後の抵抗を示す。
「父さん。わたし、知りたいの。知っておきたいの。みんなの気持ち、思っていること、考えていること、全部」
そして知ってもらいたい、とエリシュカは云った。
「わたしの気持ちも考えていることも、全部。そして、認めてもらいたい」
エリシュカは苦しげに眉根を寄せて俯いた。
娘が自分を恥じているのだということが、ハヴェルにはすぐにわかった。自分が抱えてきたのと同じ想いだったからだ。手がね、と彼は重たい口を開いた。
「おまえの手がね、とても綺麗だった、とダヌシュカは云っていた」
手、とエリシュカは俯いたままだった視線を自分の掌に移す。手が、綺麗――。
ヴァレリーに囲われるまで、ひどく荒れていたエリシュカの手は、寵姫としての暮らしの中で綺麗に癒されていた。冷たい水や泥に一度として触れたことのない貴族の令嬢には敵うべくもないが、ひび割れや皸は丁寧に治療され、また日々の丁寧な手入れのおかげで本来のすべらかな質感を取り戻していた。
城を飛び出し旅に出たあとも、海猫旅団と合流してからも、日々の労働による負荷がないわけではなかったけれど、それに見合う手入れもしていたからそれほど荒れることもなかったのだ。
けれど、ダヌシュカは違う。繕いの仕事をしている彼女は、厩にいるわけではないから泥水や襤褸にこそ触れることはないけれど、たくさんの布や糸を選り分けたり、さまざまな染料を扱ったりすることも多い。糸を美しい色に染め、布の質感をやわらかに変える薬剤の中には、人の身には毒となるものも多いと聞く。
きっとダヌシュカの手も、母の手も、わたしの手とは比べるべくもなく荒れているのだろう――。
「アルトゥルは、エリシュカはなんてまっすぐに人を見るようになったんだろう、と云っていたよ」
エリシュカははっとして顔を上げ、父の顔を見た。ハヴェルは穏やかに頷いた。
「そう……、そんなふうに……」
わたしはいつもそんなに俯いてばかりいただろうか、とエリシュカは思った。でも、兄さんが云うなら、きっとそうだったんだろう。顔を上げることで明るい世界が見えるようになった。だけど、もしかしたら、そのせいで見えなくなっているものもあるのかもしれない。
「ふたりは羨ましいとは云わなかった。だけど、そう思っている。それはわかるね、エリシュカ」
うん、とエリシュカは頷いた。それがただ、羨ましい、という思いにとどまらないことはよくわかる。理解してもらいたい、という自分の想いが甘えにすぎないことも、また。
「母さんはそのことを悲しく思っている」
うん、とエリシュカはもう一度頷く。きっと母はわたしたちが、過ぎた嫉妬や甘えによって憎しみあうようになることをおそれている。
「前にも云ったように、おまえの幸運、姫さまと東国の王太子殿下によってもたらされた幸いは、おまえだけのものだ。われわれ家族の幸いが、われわれだけのものであったように」
エリシュカたち賤民は、みな主の所有物であるとされている。エリシュカの場合は、主であったシュテファーニアが望んで手放し、その身を引き渡した相手がヴァレリー――賤民を所有する習慣を持たぬ異国の王太子――であったために、彼女は自由を得ることができた。
だが、云い換えればそれは、ヴァレリーが得たのはエリシュカひとりである、ということでもある。エリシュカ以外の者――それがたとえ親であろうと、兄妹であろうと――は、依然として彼らの主である教主に所有されるところの身の上であるのだ。
ヴァレリーが東国の王となる男であっても、否、王となる男であるからこそ、他人の所有物を勝手に奪うわけにはいかない。理不尽な身分制度のもとに認められる所有であっても、それを侵すことはできないのだ。
たとえエリシュカが望んでも、ヴァレリーは彼女の家族をともに連れていくことを許さないだろう、と父は云っている。
父さんの云うことは間違っていない、とエリシュカは思った。アランさまは東国の王太子だ。――何処にあっても、如何なるときにも。
己の身分をつねに自覚する彼は、他国の法や制度を侵すような真似を自分に許すことはあるまい。それがたとえ、どれほど理不尽な定めであったとしても、心の底から愛し、慈しむ女の頼みであったとしても、だ。
「無茶を強請ってはいけないよ、エリシュカ」
でも、――でも、もしかしたら一度くらいなら、と考えかけたエリシュカを咎める父の声が響いた。
「誰かの権力の威を借りて、他人に自分の考えを押しつけるな、と云っただろう。それと同じことだ。誰かの威を借りて、利己を通せば、その報いは何倍にもなって必ず戻ってくる」
家族の自由を望む代償は、おまえひとりではとうてい贖いきれぬほどに大きいはずだよ、と父は云った。ただでさえ重い荷を、これ以上増やすことはない。
「おまえはおまえが決めた道を征きなさい。ひとりで」
「……父さん」
「誰にも理解してもらえないかもしれない。誰にも認めてもらえないかもしれない。家族にも、おまえが伴侶と決めた王太子殿下にも。それでもおまえはその道を征くんだ。そう、決めたんだろう」
エリシュカはせつなさに胸をかきむしられるような想いがした。
「おまえの幸運をね、妬む者は大勢いる。なぜ、どうして、と心ない言葉を何度も浴びせられるだろう。おまえひとりであってもそうだろうに、家族のぶんまでもおまえが背負う必要はない」
心配はいらないよ、エリシュカ、と父は云った。
「母さんとアルトゥル、それにダヌシュカは父さんが守る。これまでずっとそうしてきた。心配はなにもいらない」
だからおまえはおまえの道を征きなさい、と云われて、エリシュカの双眸に涙が滲んだ。
これまでずっと、と彼女はようやくのことで気づいたのだ。父はずっと、たったひとりきりで、この重たい荷に耐えていたのだ。わが身ひとつに授けられる幸いと、それに伴う負い目という重たい荷に。
父にはきっとなにもかもわかっていたのだろう、とエリシュカは思った。わたしの負い目も、心苦しさも、家族にだけは理解してもらいたいという我儘も。
「父さんにはね、おまえの気持ちがわかる。少しだけ、かもしれないが……」
エリシュカの頬を熱い涙が滑り落ちた。
「母さんはおまえの母親だ。おまえの幸いをわが身のそれよりも願う者だ。だけどね、アルトゥルとダヌシュカは違う。おまえの兄妹であると同時に、それぞれ己の幸いを願う者でもあるんだよ」
ふたりはきっと、おまえの身を案じていることだろう。幸せになってもらいたいとも思っているだろう。けれど、同時におまえを羨み、妬む心も持っている。そんな自分に苦しみもする。そんな思いをしてほしくはないだろう、と父は云った。
「これが最後だからというおまえの気持ちもわかるけれど、会わないほうがいいときというのもあると思うんだよ、父さんは」
エリシュカは掌で乱暴に涙を拭った。泣いてはだめ。いまは、泣いてはだめ。
わかってほしかった。認めてほしかった。ほかの誰に拒まれても、血の繋がった家族にだけは、ヴァレリーを想うこの心を理解してほしかった。重たい負い目と明るいばかりではないはずの未来も、家族の理解という支えがあれば耐えていけると思ったからだ。
だけどそれは、求めてはならないものだった。――いまは、まだ。
わたし、間違ってた、とエリシュカは涙に割れた声で父に誓った。
「もう会えない、これが最後って思ってたけど、そうじゃない」
エリシュカは嗚咽を堪えて唇を引き結び、呼吸を整える。
「また会える。いつか必ず、また会える日が来るわ。いいえ、来るんじゃない、引き寄せてみせる。絶対に」
エリシュカの中に生まれた強い決意に気圧されるように、父は大きく目を見開いた。
「なぜあんな娘が、なぜあの子だけがって、いまはまだそういうふうに云われても仕方がないわ。わたしはまだなにもしていないもの。姫さまとアランさまの情けにお縋りして、ここを出してもらうのだから、当然よ」
握られたエリシュカの拳が小さく震えている。力んだその手を包み込んでやりたいという衝動を堪え、父は、ああ、と娘の言葉を肯定した。
「でもいつか、そんな声を消してみせるわ。わたしにしか見えないものをみつけて、わたしにしかできないことを成し遂げて。そうすれば、広い平野も嶮しい山も、国境も制度も、なにもかもを越えて、兄さんたちにもわたしの姿が見えるようになるはずでしょう。そしていつか、ああ、あのときあの子に幸いを授けてよかったと、幸運を渡してよかったと、そう云わせてみせる」
見開かれたままだった父の双眸から涙が一筋あふれ出た。エリシュカは軽く眼差しを伏せて見て見ぬふりをする。
父はきっと、ずっとつらかったのだろう、と彼女は思った。
たったひとりで重荷を支え、たったひとりで家族を守り、たったひとりで戦い続けてきた。大きく広い背中は、絶対に揺らがぬように見えたけれど、父とて神ツ国に生まれた賤民のひとりなのだ。身分はなく、力はなく、自由もない。与えられた情けひとつを恃みに家族を守るため、多くを犠牲にしてきたのだ。
いままでのわたしはただ、父の腕に守られ、母のやさしさに包まれ、ぬくぬくと過ごしてきた。なにも知ろうとせず、なにも見ようとせず、なにも聞こうとせずに――。
これからは違う。これからは守られるだけでなんていたくない。
エリシュカはすっくと立ち上がった。
「ありがとう、父さん」
わたしの征くべき道を教えてくれて。
「ありがとう」
これまでわたしを――わたしたち家族を――守ってくれて。
「みんなにも、ありがとうって」
これまでわたしを愛してくれて。
ゆっくりとした足取りで父に歩み寄ったエリシュカは、眩しそうに自分を見上げてくる彼をそっとやさしく抱擁した。
もう行くね、と囁いたその声は少しも潤まず、穏やかに澄んで、強く、力強く父の耳に響いた。
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