51

 もう二度と歩くことのないであろう道――教主の宮の厩から裏門にいたる小路――を、エリシュカは一歩一歩踏みしめるようにして引き返していった。手の中には、それは持って行きなさい、と父に託された螺鈿の小箱がある。

 家族との別離は苦く、つらいものとなった。ほかの誰にはわかってもらえずとも、みんなにだけは、と求めた理解を得ることはできなかった。

 それでも、エリシュカの心は沈み込んだりはしなかった。

 彼女の胸には新たな決意が宿っていたからだ。強い強いその願いは、これまで彼女が抱いたどんなそれよりも熱く、眩しいものだった。

 与えられた幸運が身に過ぎたものだということはわかる。家族に縋り、その力を借りなければ耐えられないと思ったほどに、この荷は重い。

 ひとりで背負うようにと云われて、そんなことできないと我儘を云って、窘められて――、愚かさに気づいた。重荷を背負っていたのは、自分だけではないのだと。

 エリシュカは同時にいくつものことに気づいていた。

 父の苦悩。母の悲哀。兄と妹の妬心。

 それだけではない。

 ヴァレリーやシュテファーニアの抱えるものの重さにもまた、彼女は思いを馳せていた。

 生まれながらにして与えられる重たい荷を抱えているのは、なにもエリシュカや彼女の家族だけではない。立場や身分こそ違っても、東国王太子であるヴァレリーや教主の娘であるシュテファーニアもまた、ひとりの人間に与えられるには過ぎた重荷を抱える身の上なのだ。

 それでもあの方たちは、その荷に負けることなく、顔を上げ、ご自身にできることを懸命に模索されているのだわ、とエリシュカは気づいたのだ。

 アランさまは国を背負っていこうと。

 姫さまは国を変えようと。

 いまさらになって気づいても遅すぎるのかもしれないけれど、とエリシュカは思った。

 わたしはアランさまをお支えしたい。姫さまのお役に立ちたい。

 ただ、与えられるだけではなく――。

 いまは、まだなにができるかわからないけれど。

 エリシュカは来た道をそっと振り返った。いつかわたしはわたしにしかできぬことをして、みんなの前に戻ってくる。たとえ身は遠く離れていても、心は必ず――。

「エリシュカ」

 名を呼ばれ振り返ったエリシュカは、そこにツィリルの姿を認めた。

「もう、いいの……?」

 うん、とエリシュカは晴れ晴れとした笑みを浮かべた。

「もう大丈夫よ。待たせてごめんね、ツィリル」

 いいけどさ、とツィリルは唇の中でもごもごと答える。

 急いで戻らないとね、とエリシュカが彼の立場を気遣うと、ツィリルは長く待たされていたがゆえの不機嫌を隠すことなく、無愛想なしぐさでさっさと先に立って歩きはじめてしまった。


 いまはシュテファーニアの兄イエレミアーシュに仕えるツィリルは、かつて教主の宮の厩舎で働いていたことがある。ごく短いあいだではあったが、エリシュカとはともに暮らしたことがあるし、歳が近かったせいもあってそれなりに親しかった。

 エリシュカが姫さまの供として東国へ行くと知らされたときには、もう二度と生きて会うことはないに違いないと思ったものだけれど、と彼はぼんやり考える。まさか、あの神ノ峰を自力で越えて、おまけに彼の国の王子さまを連れて戻って来るとは思いもしなかった。

 思いがけず顔を見ることができてよかったと思う気持ちに嘘はないけど、とツィリルはエリシュカに対する複雑な感情を隠すことができない。

 東国から帰ってきたエリシュカは、以前とはすっかり変わってしまっていた。知らないうちに彼女が身に着けた、はっきりとした話し方や明るい表情、強い眼差しは、どれもこれもツィリルを落ち着かない気持ちにさせる。

 エリシュカはまるで知らない人になっちゃったみたいだ、と彼は思う。そのうえ、姫さまやと呼ばれるシュテファーニアさまや、彼女にお仕えするツェツィーリアさまとも、まるで対等みたいな口をきいちゃって。そんなの絶対許されないことだって、彼女はそんなことも忘れちゃったのかな。

 昨日の夜のうちにイエレミアーシュから教主の宮への使いを命じられたツィリルは、今朝早く中央神殿の裏門へ、ともに使いに立つという神殿付下女を迎えに行った。教主の宮へ赴き、己の使いはさっさと果たしてしまったが、すぐに帰るわけにはいかなかった。主から、帰路についても件の神殿付下女を必ず伴うように、と云いつけられていたからだ。

 その下女がエリシュカだということはわかっていたけれど、とツィリルは思う。いざ務めとなると、なんとも云えない気持ちにさせられるものなんだな。

 教主の宮の門番へはきちんと話が伝わっていたらしく、門の傍でエリシュカが戻るまで待つことを許されたツィリルは、軽い雪が舞う中で長く待たされることになった。

 行き交う人や馬の足に踏み荒らされた道が、ところどころ溶けて泥濘になっている。夜の寒さに凍りつき、いずれは雪に埋もれて真っ白に化粧されてしまうことになるが、いまはまだ汚らしい姿を晒していた。

 ツィリルは、その泥道をまるで自分のようだと思う。踏みつけられて荒らされて、都合が悪くなれば雪の下に埋められてそれっきり。僕はずっとこんなふうにしか生きられないのだろうか。

 いままではそれでかまわないと思っていた。否、それが当然だと。

 殺されることなく生きていられて、イエレミアーシュさまの傍仕えという多少は恵まれた仕事にありつけて、殴られたり蹴られたりすることもなくなって、――それだけで、もう十分だと。

 だけど、とツィリルは思う。だけど、僕はここより先、どこにも行けない。ここにいたくないとは思うけれど、でも、どこへ辿り着きたいのかもわからないのでは、どうしようもないではないか。

 ツィリルは頭を振ってやりきれなさを追い払おうとしたが、それはうまくいかなかった。

 エリシュカはきっと僕とは違う。東国の王太子に愛され、姫さまや侍女さまに厚く遇されている彼女は、暖かくて軽い靴を履かせてもらっているあの足でどこまでも走っていくつもりなのだろう。

 そんなエリシュカにとってみれば、凍りついた泥濘を裸足で歩き続けなきゃいけない僕のことなんかどうでもいいんだろう。いまだって、僕の存在なんかすっかり忘れてしまったみたいに、まっすぐに前だけ向いて歩いている。

 ツィリルは唇を噛んで俯いた。

 親の顔を知らないツィリルは、最初の主である高位神官から、ひどい虐待を受けて育った。この国の賤民には珍しいことではない。仕事に失敗があったから、邪魔な場所に立っていたから、果ては顔が気に入らないからと、ことあるごとに折檻を受けた。とは云っても、ツィリルを殴ったり蹴ったりするのは、主に命じられた別の賤民だ。手心を加えるんじゃないぞ、と主に云われたその男は、容赦のない力でツィリルに暴行を加えた。

 死んでしまわなかったのは、ただ運がよかった――あるいは悪かった――だけだ。

 少しずつ身体が大きくなってきて、こどもながらに容姿がはっきりしてくると、今度はその暴行に性的なものが加えられるようになった。ツィリルは少し変わった髪と目の色――褐色の髪に緋色の瞳――をしてはいるが、顔立ち自体は美しく整っている。

 主はここでも自ら手を下すことなく、賤民たちにツィリルを嬲らせた。そういうときはよほど気分がよくなるのか、ひどく上機嫌に、おまえは本当に使える、ときいきいと喚いた。おまえは役に立つ。おまえの母親よりもよっぽどな。

 耐えがたい日々は長く続いたように思う。意識を失うほどいたぶられた翌日、目を覚ますたびにツィリルは泣いた。まだ死ななかったんだ、と絶望して、井戸の中に身を投げたこともある。すぐに気づいた賤民のひとりに急いで引き上げられ、冷たい水で溺れかけただけで終わってしまったが。

 ツィリルにとっての地獄は、ある日突然に終わった。主がなんの前触れもなく急逝したのだ。遺族は主の財産を整理し、もっぱら主の歪んだ慾を満たすためだけに使われていた――労働力としては、まるで役に立たない――ツィリルを別の神官に売りつけようと目論んだ。ツィリルの瞳の色である緋が、神ツ国では高貴な色とされていることに皮算用を弾いたのだろう。

 だが、神官はツィリルを買い取らなかった。その代わり、珍しい緋色の瞳を持つ賤民を教主に献上することを提案した。その者を売って得る金がいかほどのものだというのです、とその神官はツィリルの前でそう云った。それよりは教主猊下に差し上げて、彼のお方のご機嫌をとるほうがよほど役に立つと思いませんか。

 結果から云えば、ツィリルはその名前も知らぬ神官に救われたことになる。さほど高位にある者ではなかったように思うし、顔すらもあまりよく覚えていない。ただ、あの神官の屋敷に自分とさして歳の変わらぬ女の子がいたことだけは、よく記憶していた。この世のあらゆる苦しみを知り尽くした幽鬼のような自分とは違い、生まれてこの方、ただの一度も悪意を向けられたことのないようにさえみえる純真な存在に堪えきれぬ憎悪を覚えたせいだ。

 羨ましかった。妬ましかった。腹立たしかった。

 足元にある泥の塊を口の中に押し込んで、顔と云わず腹と云わず殴りつけてやりたかった。そんなことをしても、あの子は決して汚れはしないのだろうと、そんな気がして、とても悲しかった。

 ツィリルはそのまま教主の宮へと連れて行かれた。教主としても献上された憐れな贄を断るわけにはいかなかったのだろう。どんなやりとりが行われたのか、ツィリルには知るすべもない。

 彼は連れて行かれたそのままに教主の宮へと引き取られ、乱暴な手で入浴させられ、髪と瞳を検分されて、すぐに厩舎へ放り込まれた。――おまえみてえなひょろひょろしたちっせえ餓鬼、なんの役に立つとも思えねえが、馬の世話にはいくら人手があっても足りねえからな。

 教主の宮へやってきてからも、しばらくは大人の男が怖くてたまらなかった。殴られるのではないか、犯されるのではないか、となにかあるたびいちいち身体をびくつかせるのに、おかしな具合に媚びることもやめられない。

 ツィリルの事情を察した大人たちは眉をひそめ、なにも知らない同じ年ごろのこどもたちは気味悪がった。

 エリシュカの父親であるハヴェルが引き取ってくれなかったら、そのまま厩舎で働き続けることはむずかしかったかもしれない。それは、ツィリルにとっては感謝を含んだ実感であり、周囲にとっても正しい認識だった。

 ハヴェルは、自分の三人のこどもたちと分け隔てることなく、ツィリルに接してくれた。彼の家族もまた、あたたかく迎えてくれた。仕事を教え、食事を摂らせ、屋根の下で眠らせてくれた。ツィリルの言葉に笑ってくれ、泣いてもいいと云ってくれ、ときどきそっと抱きしめてくれた。

 ツィリルはハヴェルとその家族に育て直されたのだ。

 やがて歳を重ねた彼は、ますます顔立ちが美しくなってきたせいで、厩舎を離れなくてはならなくなった。ちょうどそのころ、神官として独立し、神殿をひとつ任されることになったイエレミアーシュの傍仕えとして選ばれたのである。

 これは栄誉なことだ、とハヴェルは云った。賤民にとって、神官さまに仕える以上の誉れはありえないのだからね。

 厭だ、ここを離れたくない、とツィリルは泣いてハヴェルにしがみついたけれど、彼にできることなんてなにもなかった。厩舎の皆から信頼される腕のよい厩医ではあっても、ハヴェルの身分は賤民だ。賤民には賤民の分があり、できることはとても限られている。ツィリルは抵抗のひとつもできないままに、イエレミアーシュの傍仕えとなった。

 流されるようにして辿り着いた新しい主は、思っていたよりもずっと仕えやすい相手だった。特別に親切だったりやさしかったりするわけではないが、理屈の通った考えをする男だったからだ。

 おまえたちを連れてくるのだってただじゃないんだ。病気になったりけがをしたりされれば、働けなくなるだろう。そうなれば、こちらにとっても損だからね。イエレミアーシュの考えははっきりしていて、賤民たちの扱いもその思考に基づいた明快なものだった。

 食事は日に三度、贅沢ではないが身を損わずにいられる程度のものを、衣服は軽くあたたかいものを、住居は冷気と雨風を凌げる場所に、きちんと与えられた。賃金や休暇は与えられなかったが、よく働けばちゃんと認められた。優れた者は信頼されたし、怠けた者は度を過ぎれば追い出された。暴力は禁じられ、極端な理不尽も排除された。

 ここは悪くない、とツィリルは思っていた。いや、悪くないどころか、僕は恵まれている。小さいころから厭というほど散々な目に遭わされてきたけれど、ハヴェルたちに会ってからはそうでもなかったんだよな、ほんとはさ。

 そんなふうに感謝さえしていたのだ。――つい、このあいだまでは。


「あの人と一緒に東国へ行くの? エリシュカ」

 前触れもなく唐突に尋ねたツィリルを、エリシュカは驚いて見つめた。

「あの人。一緒に山を越えてきた人。東国の、……王太子なんだろ」

 うん、とエリシュカは頷いた。

「一緒に行くの?」

「行くわ」

 迷いなく答えたエリシュカは、すぐに、なんでそんなこと訊くの、と尋ねた。ツィリルは、だって、と唇を尖らせる。

「気になるから」

「気になるの?」

「なるよ」

 エリシュカは家族みたいなものだからね、というツィリルの嘘を、エリシュカは静かな瞳で跳ね返す。だってそうだろう、となかば自棄になったツィリルは云った。

「身分も立場も全然違う相手じゃないか。自分の身体ひとつ自分の自由にできない僕たちみたいなのがそばにいたって、いいのははじめだけだよ、きっと。すぐにつらくなる。つらくなって、毎日泣いて暮らすようになって、でも、ここに帰ってくることはもうできないんだ。いいの? そんなんで、本当に」

「ツィリル……」

 エリシュカの身を案じる気持ちに嘘はない。けれど、それもよりもずっと大きな妬みが自分の中にあることに、ツィリルはちゃんと気づいている。

 羨ましい。妬ましい。この国を出て行けるエリシュカのことが。

 いっそ腹立たしく、憎たらしく思えるほどに。

 いつか見た見知らぬ少女に覚えた感情が、そっくりそのまま甦ったかのようだ。泥を食わせ、首を絞めて、高望みするなと叫んでやりたい。幸せなど長くは続かないのだと、ほらもう、その足元は崩れはじめているのだと、思い知らせてやりたい。

「幸せなんていまだけだよ。まともに文字も知らない僕たちが、異国の王族と、それもゆくゆくは国王になるような相手と、ずっと一緒に暮らしていけるわけがない」

 違う、とツィリルは、気づけばエリシュカの腕を掴んでそう問い詰めていた。薄紫色の瞳がゆっくりと二度、三度と瞬きを繰り返すあいだ、ふたりは黙ったまま見つめあっていた。

 先に口を開いたのはエリシュカだった。

「いいえ、違わないわ、ツィリル。わたしもそう思う」

「じゃあ、なんで」

 食い下がるツィリルの指を、エリシュカは自分の腕からそっと外した。

「望んでいるから。わたしがアランさまを望んでいるから。だから行くの」

「幸せになれる保証もないのに」

「幸せになれる約束なんて誰もしてくれない。アランさまご自身だってしてくれないし、わたしも望んでいない。幸せはなるものじゃないもの。感じるものだもの。アランさまと一緒にいること、一緒にいるよう努力すること。そうすることでわたしは幸せを感じるの。それで十分なのよ」

「……十分だって?」

 云い返すツィリルの声は、自分でも驚くほどに低いものだった。

「エリシュカはそれでいいかもしれないね。だってこの国を出て行けるんだから。あの王子さまとうまくいかなくたって、東国か、そうじゃなくてもほかのどこかで自由に暮らせるんだから。だけど、僕たちは違う」

 悲しげに曇るエリシュカの薄紫色の瞳に心が痛んだが、ツィリルは言葉を止めることはできなかった。

「僕たちは、ずっと、この先ずっと、死ぬまでこの国に縛りつけられたままだ。踏みつけにされて、奪われて、囚われて、なんにもできない。自由なんて言葉も知らないまま、ただ怯えて、俯いて、諦めて、それでも生きてかなきゃならないんだ。幸せを感じることなんて一度もないままにね」

 ハヴェルやマリカはなんていうのかな、とツィリルは毒々しく云う。

「アルトゥルやダヌシュカは、どう思うのかな。エリシュカだけが国を出て、自由な国で幸せに暮らすことを、みんなはどう思うのかな? ねえ、エリシュカ」

 答えてよ、と最後には涙声でツィリルは云い募った。

 エリシュカはそっと両目を閉じた。激昂した感情のままに潤む、ツィリルの緋色の瞳に悪意はない。彼は思いのままに言葉を吐き出しただけだ。その思いはきっと、ツィリルだけのものではない。この国に住む、賤民すべての思いだ。

 うん、とやがてエリシュカは小さく頷いた。ゆっくりと開いた双眸には落ち着いて穏やかな色がある。

 ツィリルは思わず唇を噛みしめた。――傷つけてやるつもりだったのに。

「わかってるよ、ツィリル。だからね、わたし、みんなに理解を求めることはもうやめたの。そうすることが、大切な人を傷つけることもあるってわかったから」

 家族だからって、同じ賤民だからって、お互い必ずわかりあえるわけじゃないと思うのね、とエリシュカは続けた。だって、見てきたものが全然違うんだもの。

「どんなに愛していたって、大切に想っていたって、わたしはその人にはなれない。その人の痛みを引き受けてあげることはできない。同じように、わたしの喜びをわけてあげることも、やっぱりできないの」

 その人の痛みはその人だけのものだ。わたしの痛みがそうであるように。引き受けてあげることができないから、誰かの痛みには胸が軋む。いま、まさにこの胸が悲鳴を上げているのは、そのせいなのだ。

「ツィリル。わたし、あなたの云うとおりだと思う。どんなに望んでも叶わないものを手に入れてここを出て行くわたしのことを、みんなきっと疎ましく感じると思う」

 だけど、とエリシュカは云った。さっきの誓い――わたしにしか見えないものをみつけて、わたしにしかできないことを成し遂げて――を、そして、シュテファーニアの言葉――あなたはわたくしの希望――を思い出しながら。

「だけど、みんなが、家族が、わたしを疎ましく思うならば、そこにはきっと希望もあるはずとわたしは思うの。傲慢だと云われてもいい。思い上がりだと罵られてもいい。だけど、ここを出て行くわたしを羨み妬む気持ちは、そのまま自分もそうしたいのだと、自由になりたいと願うことと同じでしょう」

 わたしはここにいたとき、そんなこと、一度だって考えたことなかった、とエリシュカは小さな声で付け足した。ツィリルの顔に新たな驚きが浮かぶ。

「いつだって、これでいいんだって思ってたわ。父さんが誰かに殴られるのを見たときも、兄さんや母さんが怒鳴られるのを聞いてたときも、ダヌシュカが苛められていたときも、いつもいつもこれでいいんだって。姫さまのお供で東国に行って、そこでもいろいろなことがあったけど、でもやっぱり、これでいいんだって思ってた。これでいいんだ、仕方ないって」

 仕方なくなんかないんだって、そんなこと思いもしなかった、とエリシュカは淡く微笑んで、ゆっくりと歩き出した。ツィリルはエリシュカに並んで歩きながら、彼女の横顔をそっと窺う。狂おしいまでに激しい感情は、いつのまにかどこかに消え失せていた。

「自分の思うとおりにしていいよって云われても、自分がなにをしたいのかもわからなかったの、わたし。みんなのところに帰りたい、って、ひとりで王城を飛び出して、旅をして、いろんな人に出会って、いろんなことを知った。それではじめてわかったの。自分が不自由だったことに」

 不自由だったのはこの身だけではなかったのだ、とエリシュカは思う。縛られていたのは心だ。諦めに慣れたこの心こそが、もっとも強く縛られていたのだ。

「ツィリルは、ずっとここにいて、ずっとここで暮らしてて、それでもそのことに気づいたんだよね。だからわたしのことを……、その……」

 妬ましく思うのよね、とエリシュカは視線だけをツィリルに向け、少しのあいだ俯けていた顔をすぐに正面に戻した。小さな声で問われたその言葉に、ツィリルは正直に答えた。

「思うよ。羨ましくてたまらない」

 それなら、とエリシュカは足を止めた。いつのまにか、次の角を曲がればもうすぐに中央神殿が見えるところまで来ていたのだ。

「それならツィリルは希望になれるわ。姫さまの大事な希望に」

「希望?」

 希望になれるってどういう意味、とツィリルは眉根を寄せ、首を傾げる。

「意味がわからないよ、エリシュカ」

「いつかわかる日が来ると思うの。だけど、忘れないでほしいの」

「僕が誰かの希望になれるってことを?」

 そうよ、とエリシュカは頷いた。

「自由を望むツィリルは姫さまの希望。わたしは、わたしたちと同じ境遇になる賤民みんなに、ツィリルと同じように自由を望むようになってもらいたい。姫さまの、この国の希望になってもらいたい」

 そうすればいつかこの国は新しく生まれ変わって、誰もが幸せを望めるあたりまえの国になると思うから、とエリシュカは云った。

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