20

 東国王太子ヴァレリー・アラン・ラ・フォルジュと離縁し、帰国の途上にある神ツ国教主の娘シュテファーニア・ヴラーシュコヴァーの旅列に随行していた侍女ベルタ・ジェズニークが、ひそかな命を受けて主のもとを離れてから五日が過ぎようとしていた。

 シュテファーニアが王太子ヴァレリーから送られてきた緊急の使りを受け取った翌日、ベルタは旅列に従っていた護衛騎士のひとりとともに、一度は去ったひとつ先の街へと引き返した。投宿した屋敷に、シュテファーニアがうっかり忘れてきてしまった大切な装身具を引き取りに行く、というのがその名目だった。

 ベルタがひとりで旅列を離れることは容易ではなかった。東国王室が護衛と称してシュテファーニアに随行させていた騎士団は、シュテファーニアの口から出まかせ――末のお兄さまからいただいた、とっても大切な耳飾りを置いてきてしまったの――を聞くやいなや、本来彼らに課されている監視としての役目を思い出したようだった。

 われらが引き取りにまいりましょう、と騎士団の長は云った。そのような瑣事で、シュテファーニアさま付の侍女どののお手を煩わせることもありません。

 瑣事とはなによッ、とシュテファーニアは世間知らずで我儘な王太子妃像そのままに、きわめて感情的ヒステリックな金切り声を上げてみせた。わたくしが大切にしているものを瑣事とは、よくも云ってくれたわねッ。

 いくらなんでもちょっとばかりやりすぎではありませんか、姫さま、とはそのとき天幕の片隅で控えていたベルタの正直な感想である。過ぎたるは及ばざるがごとし、と云うではないか。隣に立っていたツェツィーリアもわずかに苦い表情をしていたから、たぶん彼女も同じ気持ちだったのだろう。

 わたくしの里心もわからないような、無粋きわまりないあなたがたに、わたくしがお兄さまからいただいた耳飾りを預けられるわけがないでしょう、とシュテファーニアは云い募った。まったく冗談ではないわ。

 あからさまに敵視された騎士団の長は、これはまずい、と思ったのか、おそれをなした態で俯いてしまった。馬を駆り、剣を振り回すことには長けていても、女の癇癪には勝てないのだろう。

 シュテファーニアをはじめとする神ツ国から来た女たちを、ひとり残らず国境まで送り届けることが、彼の預かる護衛騎士団に課せられた唯一にして最大の役割である。そこには、教主の娘の旅の安全を守る、ということのほかに、神ツ国の娘を誰ひとりとして国内には残さない、という東国側の強い意思があった。

 神ツ国は東国に比べ、ずっと厳しい環境にある。それは、険しい山々がもたらす自然ゆえのものであり、また、国を築いた者たちの作り上げた制度ゆえのものでもある。シュテファーニア自身は己の意志で帰国を決めたのだから問題はなかろうが、侍女たちの中には、豊かで自由な東国の地を離れたくないと考える者もあるかもしれない。それを決して許してはならない。

 一度は嫁すと云っておきながら、その後に付け加えてきた勝手な云い分で王太子との婚姻を破綻させた神ツ国教主とその娘、そして彼らと繋がるすべての者たちに対し、わが王家は拭いきれない不快感を抱いている、というのが、東国王室がはっきりと示している意志であった。

 婚姻の破綻については双方に咎あることとして、娘ひとりにその責を押しつけたりはしないが、少なくとも、今回の輿入れにあたって東国へやってきた者の誰ひとりとしてこの国に残してはならぬ。国王はそう云って、騎士団にシュテファーニアらの監視をきつく命じていた。

 盗人猛々しいとはこのことだ、とベルタの腹の中は不満でいっぱいだった。侍女のひとりとて東国に残すな、と云うのならば、王太子がかっ攫っていったエリシュカをこそ返せ、と声を限りに叫んでやりたい。――できやしないけれど。

 それにしても姫さまはいったいなにをお考えなのだろう、とベルタは思う。

 東国に――王太子ヴァレリーの傍らに――その身を置くことこそがエリシュカの幸いである、とそう信じ込んでいた節のあるシュテファーニアが、城から逃げ出したエリシュカと落ち合い、彼女を匿うようにとベルタに命じたその理由を、ベルタはいまだに判じかねている。

 姫さまはエリシュカの幸いを願っていると、ツェツィーリアさまはおっしゃっていた。そのお言葉はにわかには信じがたい、とベルタは思う。でも、姫さまのお振る舞いに意地の悪い含みがあるとも思えない。悪意をもってエリシュカを東国王城に残し、彼女が逃亡したと知ったいま、今度はその身を匿おうとすることになんらかの害意が含まれているとしても、そのために姫さまが被る面倒事が多すぎるからだ。

 王太子に宛てては委細すべてを承服したという偽りの書状を認め、下手な芝居を打って騎士団の目を欺き、侍女ひとりを手放して――。

 もしもこの事実――エリシュカを匿おうと、微力ながらに画策していたこと――が明らかになれば、窮地に立たされるのは姫さまなのだ。

 姫さまがエリシュカに対し罪悪感を抱いているとでもいうのだろうか、とベルタは訝しんだ。己の身代わりとして、自らの夫たる男にエリシュカを差し出したことを後悔なさっているのだろうか。教主猊下の末娘である姫さまが、取るに足らぬ賤民の娘ひとりに対する振舞いを恥じておられるとでも――。

 とても信じられない、とベルタは首を横に振った。

 自身の不明を悟らせてくれたエリシュカに、シュテファーニアが感謝しているなどとはベルタは思いもしない。最近の姫さまは少しばかりやわらかなお顔をなさるようになった、とは思っていても、シュテファーニアと直接話をする機会さえほとんどないベルタにとっての姫さまとは、己の振る舞いを顧みることなどしない高慢で気難しい主なのだ。

 ベルタが抱く主に対する印象は、そのまま東国の王室や民らが抱くシュテファーニアに対する印象でもある。もちろん、いまもなお甲高い声で罵られ続けている護衛騎士団の長もそうした印象を抱くうちのひとりであった。

 騎士は深いため息をついた。――ああ、これだから女の我儘ってやつは。

 おまけに彼女は、退いたとはいえ元王太子妃であり、彼が信ずるところの神坐す国の教主の娘でもある。逆らうことなどできるはずもないではないか。

 護衛騎士団の長は、シュテファーニアが息継ぎをする時機タイミングを見計らって、わかりました、ととうとう腰を折った。

「侍女どのをひとり、先の街へお遣わしください。当方からも護衛をお付けいたします」

 こうしておもにシュテファーニアの努力によって、彼女の旅列からベルタが離脱することが認められたのである。


 旅列を離れたベルタの監視についたのは、ベランジェ・オリオルという名の壮年の護衛騎士で、赤みがかった茶色の髪に鳶色の瞳をした男だった。

 故郷にあっては戒律の厳格な教主の宮に、東国にあっては窮屈な王城に暮らしていたベルタは、男との付き合いに慣れていない。幾分年嵩であるとはいえ、清潔感溢れる容貌と騎士としての逞しさを見せるオリオルとの同道に心を躍らせたとしても、それは彼女の罪ではない。

 だがその一方で、ベルタには神ツ国に育った子女らしい、じつに慎み深い面があった。明朗で快活な彼女の性質とは別に、躾によって身に沁み込まされた習性はそう容易く変えられるものでもない。彼女は内心の高揚を押し隠し、シュテファーニアから下された密命を忠実に実行していった。

 旅列を離れて先の街へ戻り、その足で投宿した屋敷を訪ねる。あるはずもない装身具を探索させ、来るべくして来るその返事――大変おそれいりますが、お探しの耳飾りは当屋敷にはございませんでした――を辛抱強く待った。

 元王太子妃の探し物とあって、屋敷の主らはそれこそ屋根裏部屋から地下室までくまなく捜索したのであろう。報告に訪れた使者の顔には、思わず気の毒に思ってしまうほどの憔悴の色があった。

 必死にお探ししたのですが、と使者は許しを乞うような口調で云った。よもや命までは取られはしまいが、元王太子妃の装身具を窃取したなどという噂が広がりでもすれば、一族の名折れである。ベルタが感じた使者の切迫は本物だった。

 わかりました、ご協力に感謝いたしますわ、とベルタは、使者があっけに取られるのにもかまわずにあっさりとそう告げてやった。私どもの姫さまのお考え違いということもございますから、どうかお気になさらず。

 よろしいのですか、と使者は尋ねた。主のもとへ空手で戻ることになるベルタを案じての問いであろう。

 こう申してはなんですが、とベルタは苦笑いさえ浮かべながら答えた。姫さまは一度云い出されたらお聞きにならないお方ですから。お手数をおかけしましたことにはお詫び申し上げますが、こうでもしなければ治まりませんの。

 傲慢だ、尊大だ、とよくない評判をさんざんほしいままにしてきた王太子妃のことである。使者は得心の表情を浮かべ、それはそれは、と言葉を濁した。すわ一族の危機かと無駄に慌てふためいたことへの苛立ちと、我儘な主人を持って苦労が絶えないのであろう同類への憐みとが綯い交ぜになった結果のこの笑いか、とベルタは納得した。

 こうしてベルタは、オリオルの目の前でじつに堂々たる態度で一日を稼ぎ出したあと、今度はシュテファーニアのあとを追って道を歩みはじめた。

 なにかにつけて先を急ごうとするオリオルを、可能な限り自然な態度で引き止めながら――やれ市場が珍しい、やれ疲れが出たと、私ならそろそろいい加減にしろと怒鳴りつけているところだわ、とベルタは思う――、さらに半日を追加し、いまのふたりはツェツィーリアが、これ以上離れてはなりませんよ、と限界として示していた、ちょうどそのあたりを進んでいるところだった。

 あれが珍しい、これが見たい、と街中を歩き回ろうとするベルタに、まさか別の目的――どうにかしてエリシュカを見つけなくては――があるなどとは、考えもしないオリオルである。数日のうちにすっかりベルタを誤解した彼は、好奇心旺盛で身体の弱い侍女のお守りにもだいぶ慣れたと見え、珍しい屋台を見かけたりすると、あれも食べてみますか、などと訊いてくるようにさえなった。

 私の食い意地はそんなに張っちゃいないわよ、と思わなくもないベルタだが、ここでオリオルの厚意を踏み躙れば、彼の機嫌を損ねるばかりか、己の努力までもが無駄になることが容易に想像でき、下手に云い返すことも憚られる。あら美味しそうね、などと応じる態度もすっかり板につき、勢いふたりの道行きは、場合にそぐわぬ長閑なものとなっているのだった。

 いまも山間やまあいを切り拓いて築かれたさほど規模の大きくもない街の市場で、オリオルとベルタは、ふたりしてその日の夕食をとる店を探しているところだった。

 夫婦でもなく親子でもないことが明らかな男女のふたり旅は、好奇心旺盛な者にとっては格好の噂の的である。

 オリオルもベルタも、自分たちが注目を浴びることは避けるべきだと考えていたから、流行りの酒場や人気のある食堂のような派手な場所へは近寄らぬように気をつけていた。街の人間だけが知るようなこぢんまりとした店にも入らなかった。

 そこそこに繁盛していて、そこそこに味のよさそうな食堂。そういった店を探すのにはたいしたコツはいらない。食事時を狙って入り、ほんの少し待たされるだけですみそうなら、その店に決める。

 予備隊に所属していた期間も勘定に入れれば、騎士としてそれなりの経歴を持つオリオルは、旅にも慣れているのか、ことにそういった重宝な店を見つけることに長けていた。これまでに彼が、ここにしましょうか、と云った店で大きく外したことはない。

 市場の中でも食事を供する店が増えてきたあたりで、オリオルとベルタは一度立ち止まった。夕食時が近いせいか、周囲はたいそうな賑わいだった。

 ふいにオリオルがベルタの耳元で低い声を発した。

「俺から離れないように気をつけてください」

 これまでもそうしてきたつもりだったのに、とあらたまってそんなことを云うオリオルを見上げて、ベルタは首を傾げた。オリオルは硬い表情で続けた。

「あそこに、腕に黄土色の布を巻いたやつが見えるでしょう」

 ほら、向こうにも、とオリオルは視線だけを云った方向へと流して見せた。ベルタも顔を動かさないように気をつけながら、オリオルと同じ方向へ眼差しを向ける。

 オリオルの言葉のとおり、木の看板を掲げた酒場の前に黄土色の腕帯を撒いた連中が、数名固まって立っている。まだ歳若い風情であるというのにとくに騒ぐでもなく、市場を行き交う人々をじっと睥睨しているかのような眼差しがどこか不気味だった。

「なんなんです? あの人たち」

「叛乱勢力です」

「は、叛乱……?」

 し、とオリオルは鋭い声でベルタを制する。

「大声を上げないでください」

 でも、とベルタは云った。

「なんですか、その叛乱、とは」

 ベルタの知る東国は豊かで平和な国だ。広い国土と進んだ工業力を持ち、故郷である神ツ国とは比べものにならぬほどに強い国。その東国を統べる国王が住まう王城に暮らしていたベルタには、この国の中に為政者に逆らおうとする者がいることが到底信じられない。

「言葉のとおりです。連中は革命軍を自称しているようですが」

「革命……」

 ずいぶんと血腥い言葉だ、とベルタは思った。小さく貧しい国に生まれたベルタは、それでも彼女自身が戦争を知っているわけではない。だがそんな彼女であっても、たとえひとときのこととはいえ、人の命を奪うことを是とする戦、そこに繋がる可能性のある革命というものを肯定的に考えることはできそうになかった。

 ベルタは思わず両手で自分を抱きしめる。そんなベルタの様子を見て取ったオリオルは、少し慌てた様子で付け加えた。

「そんなに怯えずとも心配はありません。革命など起きない。やつらにそんな力はありません」

 革命軍などと称してはいますが、つまりはならず者の集団のようなものですよ、とオリオルは低い声で云う。

「北のほうに本拠地を構えているらしいと聞きますが、これ以上の武装化が進めば軍が遣わされ、すぐに制圧されるでしょう。おそれることはありません」

「……そうなんですか」

 ただ、とオリオルは苦笑いを浮かべてベルタを見た。

「連中には気をつけたほうがいい。絡まれると厄介です。なにしろ俺もジェズニークどのも、やつらが目の敵にする王城の人間ですから」

 たしかにそうか、とベルタは思った。すでに東国王城付侍女の任を離れたベルタ自身はともかくとして、オリオルは王城に所属を持つ騎士である。国に、あるいは国王に対し叛意を抱く者たちは、国を護るために己のすべてを捧げると国王に忠誠を誓ったオリオルにとっては敵となる。

 そしてそれは、叛乱勢力にとってのオリオルはすなわち斃すべき敵の走狗である、という意味でもあった。

 そのオリオルさまと同道する私も同じ、というわけね、とベルタは思った。なるほど、あの黄土色の腕帯を巻いた連中にはかかわらないほうが賢明であるらしい。

 しかし、ベルタにしてみれば、この豊かで強い東国になんの不満があるのだろう、という疑問は拭いがたく心に残る。一年の半分を氷雪に閉ざされ、これといった産業もなく、神を崇めるしか生きる道のない国を故郷とする彼女には、東国の民の不満など理解できるはずもないのだった。

「いったいなにが気に入らないと云うんでしょうね」

 思わず、といった調子で口を衝いた言葉に驚いたのは、オリオルではなくベルタ自身だった。自分のほうを見て首を傾げたオリオルに、だからベルタは慌てて、なんでもありませんわ、と押しつけるように云った。

 オリオルは思慮深い眼差しで、おろおろとするベルタを暫し眺めていたが、やがて静かに口を開いた。

「不満はどこにでもあります。どんなに恵まれた豊かな場所にも。神ツ国からいらしたあなたには想像もつかないかもしれませんが、この国にも暗部はある。それを変えようとする力が生まれるのは、わが国の民が健全であることの証です」

 おや、とベルタは思った。先ほど、革命など起きない、と云い切ったオリオルとは別人のような物云いだったからだ。

 ああ、失礼、とオリオルは云った。

「叛乱勢力を擁護するつもりはありません。ただ、彼らの云うことはわからなくもない。騎士として国王陛下に忠誠を誓った身ではありますが、俺もまたこの国の民のひとりなのです」

「民のひとり、ですか」

 はい、とオリオルは頷いた。

「わが国王陛下は幸いにして暗愚ではいらっしゃらない。王座を継がれる王太子殿下もまた、英明な方でいらっしゃる」

 それはどうかしらね、とベルタは思ったが、口には出さなかった。個人的な為人ひととなりと、公人としての顔は別物であるということを理解していたからだ。

「王座に就かれる方が優れた資質をお持ちであることは、わが国にとってとても幸運なことです」

「……そうでしょうね」

「しかし、運とはそう都合よくいつまでもわれわれの味方をしてくれるものではない。おわかりになりますか?」

 ええ、とベルタは頷いた。

「賢王の子が賢王であるとは限らない、と」

「そのとおりです」

 オリオルは静かに頷いた。それこそが世襲の絶対王政のおそろしいところだ、と彼は思っている。親がいかに優れた為政者であったとしても、その子が賢王どころか兇王となって、国に、民に仇なすこともある。

 いまの政治体制の下では、王となる者は必ず王の子でなければならない。重んじられるのは血の繋がりであり、その者が為政者にふさわしいかどうかは二の次なのだ。

 どれだけ暗愚であろうと、残酷であろうと、驕慢であろうと、その者が王の子であればいずれ王となる。それを止める仕組みは、この国には存在しない。

「いまの国王陛下に不満のある者はそう多くはない。しかし、わが国の政治体制に不安を抱く者は徐々に増えてきています。ヴァレリー殿下はいい。しかし、殿下のお子は、お孫は、またそのすえは、と」

「考えれば考えるほど不安が募る、というわけですね」

 そのとおりです、とオリオルは頷いた。あの連中は、と彼は軽く顎を上げて、黄土色の腕章を巻いた者たちを示した。

「民の不安をもっとも急進的に示す存在です。国王を廃し、政の主導を民の手に寄越せと声を張り上げる者たちです」

 ベルタはあらためて黄土色の腕章を撒く若者たちへと視線を向けた。

 彼らに荒っぽい雰囲気はあまりない。静かで昏い目の奥に埋火うずみびのような情熱をちらつかせてはいるが、革命、という言葉に含まれる狂熱に浮かされているようには見えなかった。

「彼らの指導者はまだごく若い学生だと云われています。われわれも探りを入れてはいますが、いまだその正体は不明です。男女の別さえわかっていない。ですが、いずれにしてもその者は、相当に優れた政治的資質を備えているのではないかと、俺は思っています」

「なぜですか」

 彼らを見ればわかる、とオリオルはもう一度若者たちに視線を向け、それからベルタをうながして歩きはじめた。

「革命軍を名乗りながら、革命、というある種の酩酊感を伴う言葉に、彼らは決して踊らされてはいない。王城とそこに連なる者たちに対する反感を隠しもしない者たちですから、衛士との小競り合いもなくはない。しかし、決定的な失態は犯さない。たとえば、騎士や官吏へ刃を向けたり、王侯貴族の屋敷を荒らしたりといったような真似は絶対にしないのです」

 そういった連中もいるのですよ、とオリオルは、それではまるで無法者ではないか、と驚いたような顔をしたベルタに笑ってみせた。

「だからこそわれわれはあの連中を警戒しています。なにかことを起こすとすれば彼らをおいてほかにはいないだろうと思われるからです」

 そうですか、と答えながらベルタはあらためて東国という国のことを考えた。

 たったの二年を暮らした国。残していく友のほかにはなんの未練もない国。さしたる思い出もない国。

 ごく平凡な民が国境を越えることがそもそも稀なベルタの故国のことを考えれば、若いうちに他国の文化や習慣にわずかなりとも触れることができたことは幸運であろう。

 だが、ベルタが女性である以上、この経験がこの先の彼女の人生においてなにかの役に立つとは考えにくい。

 神ツ国とはそういった国である。

 ベルタはそのことを正しく理解していた――どうせ国へ帰れば、立場の釣り合いの取れた相手のところへ嫁ぐことになるのだわ――し、それに逆らおうとも思わなかった。自分が迂闊なことをすれば、神官である父の立場を悪くすることになるからだ。父がこれまで守ってきたものを、自分の勝手や我儘でぶち壊すつもりなど、ベルタにはない。

 下っ端とはいえ神官は神官だものね、とベルタは思っている。お母さまや私、ジェズニークの家で働いてくれている者たちの暮らしを守るには、父が就いている神官の位は手放すことのできないものだ。

 だからベルタは、これまであまり東国について深くを考えることなく日々を過ごしてきた。故国との違いを思い、そこに不満を抱いてはならないと悟っていたからかもしれない。

 けれど、たったいまオリオルから聞かされた話に、ベルタの心は揺れた。

 こんなにも豊かで恵まれた平和な国にも、不満はあるのか。国を統べる国王を斃そうとまで考えるほどに――。

 私は東国のことをなにも知らないのだわ、とベルタはあらためて気づかされた。そう、私はこの国のことを知ろうともしなかった。日々の仕事の忙しさにかまけ、同時に――それがたとえ無意識からくるものだとしても――己の世界を守ろうとして、なにひとつ知ろうとしなかった。

 知る必要などないと、それでいいのだと、そう思っていたからだ。

 豪奢でありながら機能的な王城に暮らし、活気ある市場や人々に触れ、珍しくも便利な日用品の数々に感嘆のため息を洩らしながら、しかし、ベルタはその裏側にあるものを見ようとはしなかった。

 目に見える豊かさを享受するばかりでは、この国のことを知ったということにはならないのに、とベルタは俯いた。私はそんな場所にエリシュカをひとり残して行こうとしていたのか――。

 もっと必死に手を尽くせばよかった、とベルタは思う。衣類や金を残していくことに満足などせず、故郷に帰りたいと願った彼女のためにもっと手を尽くせばよかった。そうでないのなら、この国のことをもっと学び、エリシュカの不安を少しでも和らげてやるようにするべきだった。

 王城から逃げ出す手助けをしてやるのならば、金や衣類を残してやるだけではなく、ほかにももっとできることがあったはずだ。私の考えが足りなかったばかりに、ただ平和なだけではないこの国を、あの子はひとりで旅している――。

 そう考えるとベルタは、もう居ても立ってもいられないような気持ちになった。ツェツィーリアに厳しく云われているはずの禁を犯し、エリシュカと落ち合うまでこの街にとどまりたいとさえ思った。

「ジェズニークどの」

 短い返事のあとで急に黙り込んでしまったベルタを案じたのか、オリオルが静かに呼びかけてきた。ああ、とベルタは穏やかな笑顔を浮かべてみせた。

「なんでもありませんわ。失礼しました」

 これからはきちんと考えなくてはならない、とベルタは意を新たにした。

 帰るべき故郷のこと、エリシュカのこと、この国のこと、そして、自分のことを考えなくてはならない――。

 夕刻の喧騒に包まれた市場の片隅で、ベルタ・ジェズニークは静かに顔を上げる。彼女はこのとき、生まれてはじめて自分の目で自分の未来を見据えようとしていたのかもしれない。

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