21

 東国王太子ヴァレリー・アラン・ラ・フォルジュからの命令と、監察府長官ガスパール・ソランからの密命を受けたモルガーヌ・カスタニエは、警護騎士シプリアン・バロー、王太子付侍女クロエ・クラヴリー、騎士ギャエル・ジアンとともに、街道を急ぎ西へ西へと進んでいた。

 最低限の休息を取るだけで、ひたすらに道を行く四人の旅路の供は沈黙と焦燥である。単騎を駆るモルガーヌとバローだけではなく、相乗りをするクロエとジアンのあいだにも会話らしい会話が交わされることはなかった。

 本来であれば、道すがら乗馬を習う予定だったクロエだが、彼女は、焦りに追い立てられるモルガーヌに向かってそんな悠長なことを申し出られるような猛者ではない。王都を発って六日が過ぎても、ジアンの御す馬におとなしく跨っているしかなかった。

 バローさまとジアンさまがなにを考えているのか、あたしの知ったことじゃないけれど、とクロエは思う。モルガーヌさまはもう少し冷静になられたほうがいいような気がする。おふたりはそうは思われないのだろうか。

 これが重要な任務だということは重々承知しているけど、もう少し、もう少しでいいから、ゆっくりと進んでも結局は同じことだと思うのよね。

 王都の下町に育ち、生まれてこのかた王都を離れたことのないクロエにとって、西へと向かう旅路は目新しいもので溢れている。活気のある市場や行き交う商人たちの姿は見慣れたものであっても、海に近い街の市場に並ぶ新鮮な魚介類や、馬車いっぱいに珍しい農産物を積んで道を行く商人などはなかなか目にすることのないものである。

 楽しみたいなんて思ってない、とクロエはささやかな不満を胸の中でそっと吐き出す。だけど、だけど――。

 いったいなんだってモルガーヌさまは、あたしなんかをお連れになったんだろう。馬にも乗れないあたしはまるっきりの足手まといじゃないか。

 クロエ自身に覚えがあるように、急ぐ旅路において足手まといにしかならない彼女をモルガーヌが伴ってきたことには、ふたつの理由があった。

 まずひとつには、クロエがエリシュカの容姿をよく知っているということだ。

 ヴァレリーが厳重にその身を囲っていたために、エリシュカの容姿はほとんど知られていない。王城の住人ですら、たった一度きり、それも夜会で姿を見かけたことがあるだけの者が大半である。珍しい髪や瞳の色はともかくとして、顔だちや声音などをきちんと知る者はほぼ皆無なのだ。

 そうした中において、エリシュカの側近くに仕えていたクロエは、エリシュカの容姿を正しく把握している数少ないひとりである。多少の変装程度では、彼女の目を誤魔化すことはできないだろう。

 ふたつめには、クロエ自身の身の安全を図るためである。

 掃除婦であったクロエを前触れもなく侍女に取り立て、エリシュカの傍仕えに推したのはモルガーヌである。モルガーヌにしてみれば、エリシュカの世話をさせるのに口の堅そうな若い侍女は都合がよかったからなのだが、そんなことは周囲にはわからない。クロエは気づいていなかったが、彼女は貴族の娘であるモルガーヌのお気に入りとして、ほかの侍女たちからひそかな嫉妬を買っていた。

 それにもかかわらずクロエが穏やかに日常を過ごすことができていたのは、エリシュカの身の回りの世話をはじめとする日々の勤めが多忙であったことと、モルガーヌがひそかに手を回し、余計な雑音を遮断してきたせいである。

 モルガーヌはそのことをよく承知していたし、己がいなくなることによってクロエに対する風当たりがきつくなるであろうことも理解していた。こうしたことについてデジレさまはまるであてにならないし、お嬢さまが城を出られてしまったいま、王城内にクロエの居場所はなかろう、とモルガーヌは考えた。

 追う相手の容姿を知る目は多いほうがいいし、あの子をつらい目に遭わせるのは本意ではないから、とモルガーヌはエリシュカを追う旅にクロエを同道することにしたのだが、クロエはそんなこととは知らない。自身が身を置く環境も激変し、するべきことを山と積まれたモルガーヌには、言葉で部下を慰める余裕などなかったからだ。

「いかがされましたか、クラヴリーどの」

 背中側から自分の身を覆うようにして手綱を握るギャエル・ジアンの声に、クロエは、もう何度思い返したかわからない、ささやかな不満を慌てて腹の底に押し込んでから顔を上げた。

「いえ、なんでもありません」

「お加減でも悪いのですか」

 さっきからずっと下を向いて、とジアンは云った。

 予備隊という名の見習いを卒業したばかりの騎士ギャエル・ジアンは、クロエよりもひとつかふたつ歳下のやわらかな容貌をした青年である。まるで弟のような彼に気遣われ、クロエは急いで首を横に振って、違います、と答えた。

 それならいんですけどね、と微笑んだジアンは、武器を携えて戦いに身を捧ぐことを生業とする者としてはやや華奢な体格をしている。これでもし剣や乗馬の腕が人並み以上でなかったなら、騎士として入隊を認められなかったのではないだろうか、とバローをして思わしめるほどだ。

 事実、彼は所属する部隊の上官からの覚えがあまりめでたくなかった。今回、クロエの付添い役に選ばれたことも、態のいい厄介払いであると云えないこともない。

 ジアン本人はいたって楽天的な性格をしているのか、新任の監察官の任務へ同行することをかなり前向きに考えていて、女の子と一緒に馬に乗れる機会なんてそんなにあるもんじゃないですよねえ、それもお勤めとしてですよ、などと云って、同僚をあきれ返らせていた。

 王城を抜け出した王太子の情人の追跡、などというおもしろくもない仕事についてもそれは同じで、エリシュカさまとか云いましたっけ、絶世の美女とか云うじゃないですか、いっぺんお目にかかってみたかったんですよねえ、と暢気なものである。

「前を見ていたほうがいいですよ、クラヴリーどの」

 自分の肩越しに前方を見遣るジアンの顔を振り返り、クロエは首を傾げた。

「下を向いてると気分が悪くなるかもしれない。それに、道も憶えられません」

「道?」

 もう二度と通ることのない道じゃないの、とクロエは思った。それにあたしがひとりで旅をすることなんてないんだし。そう思ったのが顔に出たのだろうか、ジアンはまたもややわらかく微笑んだ。

「なにが起こるかわからないのが旅というものです。たとえば賊に襲われて、クラヴリーどのがおひとりで生き残ったらどうするのです。馬に乗れずとも歩いて近くの街へ向かい、助けを求めなくてはならないのですよ」

 わかりますか、とジアンは云った。それなりの早足で進む馬の背にあるわりには、のんびりとした口調である。

「厭なたとえですね」

 クロエは眉をしかめて、視線を前へと戻した。含むような笑い声が背後から響いてくる。

「ただのたとえ話です。ですが、まったくの絵空事というわけでもない。それはもうおわかりですよね」

 クロエは顰め面のままひとつ頷いて、ジアンの問いを肯定した。


 モルガーヌに云われるまま彼女の旅に従うこととなり、生まれてはじめて王都の外に出たクロエは、王都とそれ以外の街との違いを目の当たりにすることになった。それは主に、治安の悪さや街並みの乱雑さ、物価の不安定さといった悪しき面で如実なものとなった。

 王都の下町に暮らすクロエは、これまで自分のことを、貧しさや飢えと隣合わせに暮らすひとりだと考えていた。働くことをやめれば、すぐにでも食べるものに困り、住む家を失い、明日の道さえ見えなくなる――。

 だが、旅に出たクロエは、そんな自分の暮らしが、それでもまだ恵まれたものであったことに気づかされた。

 王都には仕事がある。たとえクロエの父や母が勤めを失ったとしても、クロエ自身には仕事があったし、仮に仕事を失くしたとしても次の仕事先を見つけることはそう難しくなかった。実際、クロエの父も母も、やむをえない事情によって何度か勤めを変えている。

 大家族みなが飢えることのない暮らしをするためには、それなりにまとまった額の金が常に必要だったが、ひもじさに涙した経験はない。クロエが王城で働きはじめてからは、たまには贅沢も許されるよね、と流行の菓子を弟妹たちに買ってやることだってできた。

 そんな暮らしはどこにでもあるあたりまえのものだと、クロエはそう思っていた。だが、それは間違いだった。

 王都を離れた街にも活気はある。波止場や市場は大勢の人で賑わい、人々の顔にも暗さはない。宿場や工場で働く人々は仕事の厳しさに嘆くことはあっても、飢えをおそれているようには見えなかった。

 けれど、一歩裏道を覗き込むと、そこには仕事のない人々が溢れていた。

 昼日中から街をふらつくことしかできず、やがては飢え、渇いて、追いつめられて罪を犯す。食べるものを盗んだり、着るものを奪ったり――。ひまに飽かせて賭け事に嵌り、身を持ち崩す者もいる。小さなパンひとつで一日を乗り切らねばならないところまで追い詰められ、まだ首も座らぬ赤子を背負って通りに立つ女の姿さえ目にすることもあった。

 なんだってあんな、と彼らの姿をはじめて目にしたときのクロエは、そんなふうに嫌悪を含む悪寒を覚えたものだ。まだ若いんだからまともな仕事に就けばいいものを。

 時間がありません、急いで、とモルガーヌに呼ばれなければ、そのときのクロエは、街角に立つ女に恥知らずな説教をするところだった。

 ああいう者たちの姿をはじめて見たわけでもないでしょうに、とジアンに云われたのは、その日のうちのことだった。あれがこの国の現実なんですよ、と物腰のやわらかな青年は穏やかな口調でそう云った。

 夕刻の街道を急ぎ足で駆け、街門の閉まるぎりぎりの時刻に滑り込んだ、とある港街の宿屋の一室で夕食を取っていたときのことだ。宿の者にわざわざ手間賃をはずみ、部屋まで食事を運ばせているのは、彼らが秘密裏の任務を帯びているせいだ。

 それが監察官の制服だと知る者は少なくとも、モルガーヌが纏う黒一色はひどく目立つし、それでなくとも、王太子の情人はいまいったいどのあたりをうろついているのだろうかなどと、大勢の耳目がある食堂で話せるはずもない。

「あんな仕事に甘んじている人たちもいるんですね」

 重苦しい任務を抱えた四人の食卓は、たいていの場合静かに終わる。朝にはその日の予定を、夜には明日の予定を簡単に話し合ってしまえばそれで終わりで、世間話など交わすような間柄でもない。

 しかし、その日は少し様子が違っていた。昼食を取るためだけに立ち寄った先の街で見かけた光景を思い出したクロエが、燻るような苛立ちとともに思わず余計なひと言を口にしてしまったせいである。

 その言葉はジアンの中に潜んでいたなにかを刺激したらしい。仕事がないんですよ、と彼は云った。クラヴリーどのの云うところのまともな仕事に就こうにも、そんな仕事はどこにもないんです。

「どうしてですか」

 クロエは顔を歪ませてジアンに尋ねた。ともに卓についていたモルガーヌとバローは、無言で食事を続けていた。

「こんなことをみなさんの前で云うのは気が引けますがね」

 ジアンは苦笑いしながらそう答えた。

「ああ、云い訳させていただけるのであれば、僕は別に国王陛下に含むところがあるわけじゃありません。クラヴリーどのに訊かれたから答えるだけで」

 わかっているさ、と云わんばかりにバローが小さく頷いたことに、興奮していたクロエは気づかなかった。モルガーヌは素知らぬ顔を続けている。あのですね、クラヴリーどの、とジアンは云った。

「クラヴリーどのは、民が納めるべき税が、ここのところ立て続けに上がっていることをご存じですか」

 もちろんです、とクロエは答えた。王城から給金を受け取っているクロエも、ささやかなりといえど税を納めている立場だ。父も母も一番上の弟も同じだ。だから、ジアンの云うことは実感として理解することができた。

「われわれだけではありません。商人も職人も、みな同じように税を納めている。そうですよね」

 ええ、とクロエは頷いた。そんなこと、ジアンから説明されるでもない。

 王府に勤める官吏から、酒場の女給、工場で働く職人、東国では少数派であるところの農夫に至るまで、およそ職に就いている者たちはみな、その収入に見合った税を国に納めることとされている。それと同時に、王都に住む者たちには王城から、地方の街に住む者たちにはその地を領有する貴族から税を課せられている。地域によって税率はまちまちだが、国に納めるものと領主に納めるもの、両方を合わせて収入の三割から四割程度となることが普通である。

「税を納めることは、東国に住まう民の義務です。あたしはそう教わりました」

 そのとおりですよ、とジアンは応じた。

「ただし、この税を納めているのは民だけです。貴族も王族も税など納めてはいない」

 ジアンは榛色の瞳を眇めて、しかし、口調ばかりは穏やかなままそう云った。クロエは口を噤み、ジアンの言葉の続きを待った。

「彼らの云い分はこうです。国の礎を築き、幾たびもの危難を退け、災厄の折にはすべてを擲って国を助ける。来るべきそのときのために力を蓄えておく必要がある。われらの特権はすなわち義務である、と」

 クロエは目を瞬かせた。思いもよらぬことを云われたような気がした。

「実際、そういう歴史もあるのでしょう。国のありようをすべて否定するつもりはありません。ですが……」

 ジアンはそこで一瞬だけちらりとモルガーヌに視線を向けた。

「いまの彼らが国を支えていると云えるでしょうか」

 モルガーヌはジアンを見ることもなく食事を続けている。しかし、その穏やかな所作こそが、彼女がジアンの云う一言一句をひと言も聞き漏らすまいとしていることの現れでもあった。

「ジアンさま、それはいったいどういう意味で?」

「言葉のとおりの意味ですよ」

「国王陛下をお支えし、まつりごとを行っておられるのは貴族の方々なのではないのですか」

 クロエの言葉に、ジアンは片頬に笑みを刷いてからゆっくりと答えた。

「時流をとらえた政策を取るでもなく、長期的な視点に基づいた方策を立てるでもなく、ただ過去の栄光を笠に着て、慣例と習慣を繰り返すばかりの政は政とは呼ばない。国王陛下が開かれた議会の場で、圧倒的多数を占める彼らが一番に主張するのは、まず己の利権です。彼らにとっての政とは、民からいかに搾取するかを考えることで、民の幸いなど二の次、三の次なのです」

 いまの貴族には過去ほどの力はありません、とジアンは続ける。

「取り立てた税の多くを、自らの贅沢や蓄財にのみ回すことが難しくなってきたからです」

「なぜですか」

「民の目と耳があるからですよ。生まれ育った土地を離れることなど滅多にない民ですが、いまのわが国では、かつてとは比べものにならぬ数の商人が行き来している。西国や南国、ときにはほかの大陸から押し寄せてくる彼らは、商品と同時に情報を運んでくる。他国の情勢、政局、動向など、真偽を問わず数多の情報が溢れるようになりました」

 僕たちの社会はとても広くなったのです、というジアンの声に、クロエは息を詰めるようにしてじっと耳を傾けていた。

 はじめて聞く話だった。

 クロエにとっての社会とは、自分が育った家と下町、それから仕事に出る王城だけで成り立っているものだった。多くの者と顔を合わせ、言葉を交わす毎日だったが、そこに政の話などありはしなかった。

 市場で見つけた目新しい菓子に心を弾ませることはあっても、それを運んでくる者のことなど考えたことなどなかった。たびたび上がる税への不満は募らせても、その背景を想像したことなどなかった。あたしの世界はとても狭かったんだ、とクロエは思った。

「でも、そのことと税が上がることとにどんな関係が……?」

「民は豊かになりました。金と力を得て、自分の暮らしばかりに汲々とするような貧しさから抜け出そうとしています。貴族たちはそれが気に食わないのです」

 彼らはわれわれを生かさず殺さず、できるだけ多くを搾り取ろうとしているのですよ、とジアンは云った。だから税は上がる一方なのです。

「取り立てられる税が増えれば、いかに豊かな民といえども暮らし向きは厳しくなる。大多数の平凡な民など、云わずもがなでしょう」

 暮らしにゆとりがなくなれば、誰もが己のことで手一杯になる、とジアンは手にしていたフォークを卓に置いた。そんな彼のことを、これだけの長広舌をぶっておきながら食事の速度は変わらないのだからたいしたものだ、と云わんばかりの眼差しで見遣るのは、さっきからひと言も口をきかないバローである。

「人に仕事を回すよりも、自分で動いた方が安上がりです。仕事が減り、働き口がなくなってくれば、身内や親しい者たちに優先的に仕事を回すようになる」

「それが道理というものですね」

 クロエは思わず呟いてしまった。母が針子の仕事を失ったとき、その工房のおかみさんが云っていたことを思い出したからだ。――悪いねえ、うちんとこの姪っ子がどうしても王都で働きたいと云うのさ。悪く思わないでくれよ。あの娘の住む街じゃ仕事がないんだって泣きつかれてねえ。まさか姪っ子を女給にするわけにもいかないし。

 あのとき、クロエの母は、それなら仕方ありませんね、と静かに身を引くしかなかった。食い下がったところで、工房の中での居心地が悪くなり、早晩追い出されることは目に見えていたからだ。

「王都から離れれば離れるほど、仕事は減り、人々の暮らしは厳しくなっていきます。心ある領主の治める土地は別として、多くの町や村で食い詰めた人々が我慢に我慢を重ねているのが、この国の現状なのです」

 クロエは思わずモルガーヌへと視線を向けてしまった。モルガーヌは端然と背を伸ばし、やや伏せ目がちにすでに空になった皿を見つめている。

 なんかおっしゃってくださいよ、モルガーヌさま、とクロエは思った。貴族のご令嬢であるあなたには、ジアンさまのお言葉にお答えになる義務があるのではないのですか。

 しかし、クロエの期待に反して、モルガーヌは口を開こうとはしなかった。

「失礼なことを申しました」

 ジアンがふたたび言葉を発した。モルガーヌは視線だけをジアンに向け、睨みつけるでもなく微笑むでもなく、静かに瞬きを繰り返した。

「カスタニエ家のお嬢さまの前で申し上げてよいようなことでは……」

「結構よ」

 は? とジアンは片眉を釣り上げて不愉快そうな表情を作った。先ほどからの弁舌といい、このジアンさまは穏やかなばかりの方ではないのだな、とクロエは思う。

「誰の前でなにを云うのも自由だと私は思っている、とそう云ったのよ」

 クロエは居心地悪そうに視線を落とした。バローはなおも黙ったまま杯を傾けている。

「それには相応の対価を払えと?」

 やけに攻撃的なジアンの返事に、モルガーヌはふと余裕の笑みを浮かべた。

「そんなことはひと言も云っていないわ。好きなときに好きな場所で好きなことを云えばいい。誰の許しもいらない。ここはそういう国だもの」

 即座に口を開きかけたジアンを見たクロエの背に冷たいものが走る。駄目です、ジアンさま、とクロエは思った。モルガーヌさまに云い返しては駄目。

 好きなときに、好きな場所で、好きなことを云う。

 ごくあたりまえのことに思えるそれが、本当はあたりまえなんかではないことをクロエは知っている。自由に言葉を発することも、己の居場所を己で決めることもできぬ人を知っている。

 エリシュカさま――、とそのときクロエはこれまでほとんど好ましく思ったことのなかった主人を思い出していた。

 神ツ国の賤民であったあの方は、故郷にあっては主に、東国にあっては王太子殿下に、すべての自由を奪われていた。望みを口にすることも、ましてや望みを叶えるために走り出すこともできないままに。

 おれは違う、と王太子殿下は云うだろう。おれは神ツ国の人でなしどもとは違う、と。

 違う、同じだ、とクロエは思う。己の意に添わぬ言葉を紡げば虐げられ、己から離れ行こうとすれば縛りつけられる。エリシュカさまにとって、王太子殿下は神ツ国の身分制度に代わる新たな軛でしかなかった。

 いまならわかる。あたしがエリシュカさまに感じていた不憫は、彼女を雁字搦めにしていた不自由に対する憤りなのだ。そして、同時に抱いていた彼女に対する苛立ちは、不自由に甘んじるばかりだったエリシュカさまを不審に思う気持ちからくるものだった。

 なぜなのだろう、とクロエは思っていたのだ。

 なぜ、エリシュカさまは王太子殿下になにもおっしゃらないのだろう。夜ごと凌辱され、ひとつ部屋に閉じ込められ、誰に会うことも許されず、とうとう故郷までも捨てさせられた。そこまでされて、なぜなにもおっしゃらないのだろう。

 賤民として生まれ育ったエリシュカにとって、誰かに向かって己が意志を示すことがひどくむずかしいことである、ということをクロエは知らない。

 それでもクロエは気づいていた。エリシュカはなにも云わないのではない。云えないのだ、と。

 エリシュカを縛るものが過去の習慣であれ、現在の怯懦であれ、彼女には己の意志を示す自由がなかったのだ。好きなときに、好きな場所で、好きなことを云う自由が。

 エリシュカさまに比べれば、あたしはなんて幸せなんだろう、と思ったことをクロエは思い出す。仕事はきついし、王城は退屈だし、なんか楽しいことないかなあ、なんて毎日思うけれど、それでもあたしは幸せだ。だって、なにを云ってもぶたれたりしないもの。

 なにを云っても、それだけで咎められることはない。

 それがいかに恵まれたことであるのか、エリシュカに出会うまでのクロエはまるで知らなかった。そして、恵まれた己を知らなかった、という事実こそが、本当の幸福だったのだ、とクロエは思う。

 あたしは幸せだったのだ。これまでずっと。あたしはそのことを知らなかった。自分が幸せな民だということを知らなかった。

 いまのあたしはちゃんと知っている。好きなときに、好きな場所で、好きなことが云えるこの国に暮らすあたしは幸せなのだと、ちゃんと知っている。

 そして、この幸せな国を築いたのは、国王陛下を頂点とする王家と、モルガーヌさまの生家をはじめとする貴族たちなのだ。

 王家や貴族たちだけがすべてだとは思いたくない。でも、いまの豊かで強い東国を築いたのは、たしかに彼らであるのだ。

 モルガーヌは貴族の血を継ぐ者として、その事実を誇りに思っているはずだ。ジアンの言葉は、モルガーヌのその誇りを傷つけるものだ。

 クロエは心中ひそかにジアンの身を案じる。苛烈で鳴らしたモルガーヌさまのことだ、ジアンさまの無礼をお許しになるはずがない――。

「でも、今夜のところはもうおしゃべりはやめにしましょう。明日の朝も早いのだし」

 モルガーヌはやわらかく微笑んでみせた。硬い表情を取り繕うこともできなかったジアンとクロエは、その笑みに思わずほっと息をつくことになったのだった。


 ジアンさまのお話を聞いてからあたしの世界は少しだけ広くなった、とクロエは馬に揺られながらそんなことを考えた。

 目に映るものを見て、耳に聞こえるものを拾うだけではいけないなのだ。その裏にあるものを想像しなければ、見るべき風景を見ることはできず、聴くべき声を拾うことはできない。

 自分の心の裡を見つめることに忙しかったクロエは気づいていなかった。相乗りをするジアンが、いったいどんな目で自分を見つめているのかということに。

 そして、そんなふたりをモルガーヌがどんな思いで見ていたかということにも――。

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