22

 先の街を早朝に起ち、昼を過ぎてふたつめの街を越えたところで、モルガーヌはようやく大事なことを思い出した。そろそろ休息を取らなくちゃまずいわね。

 馬たちの足取りはまだ軽い。それでも疲れが溜まってしまう前に一息入れておく必要はあるだろう、とモルガーヌは考えた。

 モルガーヌらの一行が騎乗する馬は、立ち寄った街の衛士たちが世話をしている伝令用のそれである。モルガーヌが懐に抱く王太子直筆の書状と監察府長官から預かった指輪は、移動のための足を確保するというごくささやかなことにすら、遺憾なくその効果を発揮していた。

 王太子の書状をちらつかせて馬を要求すれば、どの街でも口応えのひとつもなくよく訓練された馬が差し出される。そうやって次々と馬を乗り換え、エリシュカを追う旅は非常に順調なものであると云えた。

 だけどそれも、このあたりでいったん終わりね、とモルガーヌは小さなため息をついて、馬の手綱を緩めた。背後に続いていた足音も同じように速度を緩めることを確かめたあと、モルガーヌは肩越しにバローを振り返り、休憩にしましょう、と云った。

 やっとですか、とばかりに頷いたバローが、では、あの樹の下あたりで、と指差す方へ目を向ければ、夏へと向かう明るい陽射しの下で枝を揺らす大木が見えた。頷いてみせれば、バローとジアンはわれ先にと馬を駆って、あっというまに遠ざかっていった。

 ひとりになったモルガーヌは、誰にも聴こえなくなったのをいいことに、先ほどよりも大きなため息をひとつこぼす。――やっぱり、無視して通り過ぎるわけにはいかないのよね、どうしても。

 モルガーヌらは王都を出立したあと、東国の領土南端の海岸線をなぞるように西へと進んでいた。

 東国王都から南国との国境の街までは、通常、早馬で二十日ほどを要するとされている。いま現在、モルガーヌらは、通常ペースであれば王都から十四日ほどもかかるあたりにいる。つまり、南国との国境までの約三分の二ほどを進んだ位置である。

 モルガーヌがここまでの旅に要した日数は八日。尋常ではない速度である。王家と王府の威光を最大限に利用し、さらに旅慣れぬ身にぎりぎりまで鞭打っての荒業だと云っても過言ではなかった。

 しかしここへきて、モルガーヌの前にはこれまでのように旅を続けることのできない理由が立ちはだかることとなった。

 王太子の威光をもってしても、あるいは、監察府長官の権力をもってしても打ち砕くことの叶わない壁。

 それは、ほかでもないモルガーヌの父、ジェルヴェ・カスタニエその人であった。

 モルガーヌの実家であるカスタニエ家が領有する地は、次に訪れる街から南国との国境の街のすぐ手前までを納めた、じつに広大なものである。

 国境の街は王家の直轄領であるため、カスタニエ家は、実質的に南国との国境を預かる立場にあると云うこともできる。海岸沿いには大規模な街がいくつもあり、領府もまたそうした街のひとつにあった。

 ちなみに、モルガーヌが生まれ育った家――ジェルヴェ・カスタニエが居住する領主公邸――は海岸線から遠く離れた内陸の地にある。かつて彼女がオリヴィエ・レミ・ルクリュに云った、辺境の山奥、とは、彼女自身が育った、この領主公邸のことを指している。

 滅多なことでは公邸から動かぬ領主ジェルヴェ・カスタニエと、領府のある街に私邸を構えるモルガーヌの長兄ウスターシュ・カスタニエは二人三脚で広大な領地を支えている。ウスターシュはカスタニエ家次代当主の筆頭候補でもあった。

 カスタニエ家はその領地の広さひとつをとってみても、東国国内の貴族の中では非常に有力な一族のひとつに数えられているのだが、たいそうご立派なその実家を目前にして、モルガーヌの顔色が冴えないのにはきちんとした理由があった。

「父さまも兄さまも見逃してくれたりなんて、しないわよねえ……」

 モルガーヌは懲りもせずにまたため息をついた。

 王太子付筆頭侍女デジレ・バラデュールの懐刀として、王城内にその名を知らぬ者はないとさえ云われていたモルガーヌであるが、彼女もまた人の子であることに変わりはない。

 ジェルヴェ・カスタニエの八番目の子として生を受けたモルガーヌは、末子として生まれた娘の定めとして、両親と三人の兄、四人の姉から、それこそ骨まで溶けるのではないかと思えるほどに溺愛されて育った。

 一番近い末の姉からもやや歳が離れていたことが災いしたのだろう。小さなかすり傷ひとつ負えば明日にも儚くなるのではないかというほどに心配され、熱でも出せば薬湯と氷水の中で溺れるのではないかというほど手厚く看病された。

 もちろん、勉学と護身術は兄たちから、淑女としての嗜みや振舞いは姉たちから、徹底的に仕込まれた。そこに家庭教師の出る幕などあったものではない。

 モルガーヌが王城に職を得るまで、嫁いだ三人の姉たちと王城に奉職するふたりの兄たちは、生家を離れることよりもモルガーヌと離れることを嘆き、ことあるごとに帰省しようとしていたものだ。

 姉さまがた、大概になさいませ、とは幼き頃のモルガーヌの口癖のひとつである。私になにかあるたびに旦那さまがたを放り出されるようでは、いつか私が嫁家の方々に恨まれてしまいます。

 ちなみにこの、なにかあるたびに、のなにかとは、綴り方の教本を一冊終えたとか、難しい刺繍を美しく仕上げることができたとか、そういった類のことである。一家をあげて祝うようなことでもなんでもない。

 同じように、兄たちに向かっては、どうぞ私のことよりもお義姉さまがたをお気遣いくださいませ、両親に向かっては、大丈夫ですわ、なにも問題などありません、と云い続けてきたモルガーヌである。

 王城に勤めて長いデジレから、娘をひとり王城に仕えに出さないか、との打診を受けたとき、遠縁の誼ゆえに断りづらそうにする父に向かい、モルガーヌは切々と訴えた。どうか、私を王城へお遣わしくださいませ。

 両親と兄姉たちからかまい倒されてきたにもかかわらず、否、かまい倒されてきたからこそ、妙に自立心旺盛な娘に育っていたモルガーヌは、このデジレの打診こそが己にとっての唯一の助けであることがはっきりとわかっていた。この好機を逃したら、私は一生兄さまと姉さまの玩具にされる――。

 そのようにして、なかば生家を飛び出してきたモルガーヌにとって、カスタニエ領は鬼門ですらある。それでなくともここ最近、実家からは縁談の話ばかりが矢のように送りつけられてきていたのだ。

 モルガーヌが王太子付侍女から監察官になったことは、父にも兄たちにもとうに知られている。父は王城から直接知らせを受け取っているはずだし、次兄と末兄はそれぞれ文官と武官として王城に仕える身である。可愛い妹の進退を聞き逃すはずなどない。

 きっと実家は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていることだろう、とモルガーヌはまだ見てもいない光景を思い浮かべ、それだけでうんざりとした顔つきになる。両親や長兄、領地に残る末姉はおろか、嫁いだ姉たちや王都にいる兄たちまでもが駆けつけてくる騒ぎになっているかもしれない。

 そうでなくとも、とモルガーヌは考える。これから訪れる海沿いの街にあるカスタニエ家の私邸では、父と長兄がそろい踏みで待ちかまえていることだろう。密命を帯びた急ぎの旅路だと訴えたところで、その内容を――少なくともヴァレリーからのそれについては――知るふたりのことだ。必ずや足止めされる。

 家族からの過剰なまでの愛情を鬱陶しく感じつつも、それをありがたく思い、邪険にすることのできないモルガーヌは、父と長兄に逆らうことのできない自分を知っている。仕事を辞めることはできないが、彼らを説得するまでの足止めくらいはされても仕方ないと思ってしまう。

 バローどのとクロエに、ある程度託す覚悟を決めるべきなのかもしれないわね、とモルガーヌは少し先に見えている樹の下で馬を降りたふたりの姿をじっと見つめた。


「ご無沙汰しております、兄さま」

 完璧な淑女の礼を取って膝を折る妹の纏う黒を、ウスターシュ・カスタニエは苦々しい面持ちで眺めていた。二十近くも歳の離れた妹モルガーヌは、ウスターシュにとってもはや娘にも等しい、目の中に入れても痛くないほどの存在である。

 そのモルガーヌが、傲慢な王太子の一存で監察官なぞに任じられたというだけでも腹に据えかねるというのに、本人がそれをよしとしているらしいところがなお一層気に入らない。できるならばいまこの場で辞表でも書かせ、この私の目の届く男のところへ嫁がせてしまいたいものだ、とウスターシュは思った。

 長兄の魂胆を悟ったか、モルガーヌの背をなにやら冷たいものが走り抜けていく。モルガーヌは慌てて口を開いた。

「兄さまにおかれましては、領主代理として領府でのお役目、大変にお忙しいと伺っておりますわ。私もいまは急ぎの旅の途上、同行の者たちも待たせておりますので、お話はまたゆっくりと……」

「忙しいことなどあるものか。いまの私に、おまえの身以上に心配なことなどないのだから」

「でも、兄さま……」

 黙れ、とウスターシュは云った。モルガーヌは素直に口を噤む。

「まったく、父上や私がどれほど書状を送ってもなしのつぶてで、それもまあ、便りのないのはよい便りだと甘く見ていれば、勝手に侍女を辞めたばかりか、官吏などになっているとは」

 ウスターシュはそこで深いため息をついた。モルガーヌもつられてため息をつく。辞めたのではなく辞めさせられたのです、などと訂正できるような空気ではない。

「おまえが監察官になったと聞かされて、母上もアデライドも半狂乱になっていたんだぞ。すぐに辞めさせ、実家に戻らせろと、ものすごい剣幕だった。むろん、ほかの者たちもだ」

 アデライドとは、領内にある私塾で教師をしている末姉の名である。

「父上と私とでどうにか説得はしたが、まだ誰も納得はしていない。きちんとした説明を聞くまではここから出さないから、そのつもりでいるんだな」

 はい、とモルガーヌは素直に頷いた。兄姉の中でもっとも冷静な長兄ウスターシュは、ほかの者たちとは違って話の通じる相手だ。言葉を尽くして説明すれば、私の気持ちも理解してくれるに違いない、とモルガーヌは思った。

「ところで父さまは……?」

「もうまもなく到着されるだろう。母上が体調を崩されたようで、出発が遅れると昨夜のうちに連絡があった」

「母さまが?」

 ああ、とウスターシュは頷いた。

「おまえのことで散々やきもきされていたのだが、明日にも私邸に到着すると知って安心なさったせいで持病が顔を出したようだ。伝令に来た者が、いつもの軽い発作だと云っていたから、そう心配することはないだろう」

 そうは云われても、とモルガーヌは渋い顔をした。そんなふうに云われれば、まるっきりおまえのせいだと云われているのと同じことだ。怖々ながらもそう云い返すと、長兄は、ふん、と鼻を鳴らしてみせた。

「私たちがどれほど心配しているか、これで理解できるというものだろう。少しは懲りるといいのだ」

 藪をつついて蛇を出したモルガーヌが首を竦めているところへ、じつに折よく家令がやってきた。領主の来訪を告げる彼の顔を見るのもひさしぶりだ、とモルガーヌは小さく微笑んでみせる。

「モルガーヌ」

 両手を広げながら部屋に入って来たジェルヴェ・カスタニエは、ひさしぶりに見える娘の身体を、その身を包む黒ごときつく抱きしめて愛情を示した。モルガーヌはおとなしく父の腕の中に納まりながらも、その力強さにかすかに眉をしかめた。

「苦しいですわ、父さま」

「よく顔をお見せ、モルガーヌ」

 ジェルヴェは娘の漆黒の瞳を間近から覗き込み、そこに折れぬ光がいまだ宿っていることを確かめて小さく安堵した。ジェルヴェの一番の心配は――娘の身もさることながら――彼女の心のほうだった。

 王太子付侍女であったモルガーヌが急遽監察官に任じられたということは、裏を返せば王太子に見捨てられたと見ることもできる。娘がそれを悲観して、自暴自棄になったり無気力になったりしているのではないかと、ジェルヴェはひそかに案じていたのである。

「父上、そろそろ手をお放しになりませんと、モルガーヌの首が折れてしまいます。お着きになったばかりでなんですが、茶の用意もさせております。落ち着いて話をしたいと思うのですが、いかがでしょうか」

 もちろんかまわないよ、とジェルヴェは答え、哀れな娘の身体を解放してやった。モルガーヌはこっそりと安堵の吐息をつく。だが、こっちへ来なさい、とすぐに長兄に呼ばれて、いよいよそのときがやってきた、と身を硬くさせた。

 父と長兄が並んで座る前に座らされる。モルガーヌは自分自身がまだこどもだった頃のことを思い出させられ、知らず冷や汗を浮かべた。

 幼いモルガーヌは、なにか悪さを働くたびにこうして父と長兄の前に座らされ、小言をもらうことが常だった。この場合の悪さとは、庭師の息子に蛇と蛙と芋虫の詰め合わせを贈ろうとしたことや、乳母の娘を苛めていた近所の悪ガキの靴の中に栗のいがを目いっぱい詰め込んだことなどではない。母が用意しようとした新しいドレスを断ったことや、姉のくれた砂糖菓子を使用人のこどもたちに勝手に分け与えようとしたことなどである。

 ひさしぶりに味わう威圧感だわ、とモルガーヌは思う。これに比べればデジレさまから食らうお説教など、まるでこどもの遊びのようなものね。

「ではまず、おまえの云い分から聞こうか、モルガーヌ」

 父がお決まりの台詞を述べる。

 公平を気取りたい父は、どれほど怒り心頭に発していようとも、一方的に詰ることをよしとはせず、こうやって娘の云い分に耳を傾けようとしたものだ。とはいえ、努力は努力にすぎず、父はいつだってモルガーヌの言葉をそのとおりに受け取ってくれようとはしなかったのだが。

 思い返せば、王城に出仕しようとしたときにも、こうやって膝詰めのお説教を食らったものだわ、とモルガーヌは思い出した。でも、もう私もこどもじゃないのよ、と腹の底にぐっと力をこめる。

「ありがとうございます、父さま」

 静かに答えたモルガーヌは、その平静な声を保ったまま、これまでの経緯を父と長兄に向かって語りはじめた。

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