44
クロエ・クラヴリーが南国との国境の街に戻ったのは、彼女がギャエル・ジアンに唆され、職務を放棄した日から数えて七日ほど経ってからのことだった。
ジーノの処刑を餌にエリシュカをおびき寄せて捕らえる、という策に失敗したモルガーヌは、街中の捜索と各国の大使へ捜索要請を送るための準備に大わらわだったが、クロエが戻った、という知らせを受けて、執務室代わりに使っていた衛士詰所の一室から飛び出してきた。
できのよくない妹を庇うかのようにクロエの傍に立ち、一緒になって申し訳なさそうな顔をしているシプリアン・バローを押し退け、モルガーヌはクロエの前に仁王立ちした。横っ面を張られるか、怒鳴られて追い出されるか、そのいずれかを覚悟していたクロエは、深いため息とともに吐き出された言葉に耳を疑った。
「無事だったのね……」
安堵の響きのこもったその声を聴き、クロエはバローが止めるのも聞かずにその場に平伏した。申し訳ありませんでした、と震えながら謝罪するクロエに、モルガーヌはしばらくのあいだなんの言葉もかけなかった。
何度も繰り返されていた謝罪の言葉も尽き、好奇心に駆られて周りに集まってきた衛士らがざわつきはじめた頃になってようやく、モルガーヌが口を開いた。
「気はすんだ?」
さすがは氷の烈女だぜ、おっかねえなあ、だがいくらなんでももういいだろうよ、冷たすぎやしねえか、と勝手なことを云いはじめる衛士たちを無視して、モルガーヌは、立ちなさい、クロエ、と冷ややかに命じた。
クロエはすぐさま立ち上がる。モルガーヌはいいだけ集まってしまった観衆には一瞥もくれずに踵を返し、いらっしゃい、とクロエとバローを部屋の中へと呼び入れた。最後に、いい加減、お仕事に戻られたらいかがですか、と云い捨てるのを忘れなかったのはさすがである。残された衛士たちはなんとも云えぬ理不尽な気持ちにさせられたが、ごく短い、しかしこれ以上ないほどの正論に叩きのめされ、各自項垂れたまま各々の持ち場に戻っていく羽目になった。
静まり返った室内に、モルガーヌの小さな足音だけが響いた。彼女が自席に腰を下ろし、立ったままのクロエの目をじっと見つめる。クロエは俯くことなく、モルガーヌの目を見つめ返した。
「こちらの状況を話すより先に、おまえの話を聞かなくてはなりません。ことと次第によってはいますぐに衛士に引き渡し、罪人として王城へ送らねばなりませんから」
はい、とクロエは短く答えた。務めを放り出した罪が軽くないということは承知している。クロエがモルガーヌのもとへ戻ってきたのは、許しを乞うためではなく、重要な知らせをもたらすためである。クロエは短い言葉で簡潔に、己がジアンと行動をともにした経緯を説明しはじめた。
モルガーヌはひとことも口を挟まなかった。説明と謝罪を混同されることを嫌うモルガーヌは、クロエの潔い態度を不愉快には思わなかった。むろんそんなことで彼女の罪が減じられるものではないが、愚かでないのなら救いようもある。
「経緯はわかりました。今度は質問です」
そのような心境で逃げ出しておきながら、あえて戻ってきたのはなぜですか、とモルガーヌは問うた。クロエは、いよいよ本題に入れる、と腹に力をこめた。
「先ほどもお話ししたとおり、ギャエル・ジアンは革命軍を名乗る者たちの一味でした。彼らは北の地で蜂起した者たちに呼応して行軍を開始しました。ここから王都へ辿り着くまでのあいだに、もっと大勢の仲間たちと合流するようなことも云っていました」
モルガーヌはバローを見た。バローは首を横に振りながら、モルガーヌの無言の問いに答える。
「いまのところ王城からそのような知らせはありません。が、これまでの旅で目にしてきた各地の状況と合わせて鑑みるに、偽りであるとは考えづらいかと。じきに正確な知らせもまいりましょう」
そうでしょうね、とモルガーヌも頷いた。
「それからモルガーヌさま、どうしてもお知らせしたいことが」
思考の海に沈み込もうとしていたモルガーヌはクロエの声に顔を上げ、なに、と先を促した。
「北から王都へ向かう革命軍には、エヴラール殿下が同行しておられるようなのです」
「なんですって?」
モルガーヌは思わず身を乗り出した。バローもクロエの隣で驚いたように身体を捻って、彼女を見ている。
「エヴラール殿下は彼らの怒りに同調し、行動をともにしてくれた、と彼らは思っているようです」
「同調?」
ありえないわ、とモルガーヌは呟いた。王太子ヴァレリーの側近オリヴィエ・レミ・ルクリュの要望に応じたモルガーヌが、エヴラール付侍女のひとりであるアニエスを通じてエヴラールの動向を探っていたのは、そう遠い昔のことではない。あの頃のエヴラール殿下には怪しげなところなどひとつもなかった。地質学にまつわる調査や議論を愛する、賢くも唐変木な男。彼の生活には陰謀や策謀の入り込む隙などいささかもなかったはずだ。
まさか、彼の父であるギヨーム殿下やその周りをうろついているアドリアン・トレイユもかかわりのあることなのだろうか、とモルガーヌは思う。国王に叛旗を翻すと云うのなら、エヴラールよりもよほど彼のほうに動機がありそうなものだ。
そうだわ、とモルガーヌははたと気づいてクロエに尋ねた。
「連中はトレイユ将軍のことについてはなにか云っていなかった?」
「トレイユ将軍でございますか……」
クロエは記憶を探るような表情でしばらく黙っていたが、やがて、いいえ、と首を横に振った。
「そのお名前は出てきておりませんでした」
クロエの答えは芳しいものではなかったが、しかしモルガーヌは、クロエの考え込む表情を見ていてあることを思い出していた。それは、旅立つ直前、彼女が上司である監察府長官ガスパール・ソランから云われた言葉である。
各地で起こっている王家への反逆の動きと、どうやらこの革命に与する貴族がいるらしいという事実。
まさか、とあのときのモルガーヌは上司の言葉に賛同することなど到底できなかったが、彼は強引にモルガーヌにある役目を課した。――革命軍の背後にいる貴族の正体を突き止めろ。
まさか、その貴族というのがアドリアン・トレイユのことなのだろうか。
モルガーヌの背中に冷たい汗が流れた。指先がじんわりと冷えていく。
もしもその貴族の正体を掴んだら、なにをおいてもまず真っ先にこの自分に知らせろ、とソランは云っていた。それがなによりも優先すべきおまえの役目だ、と。
よりによってこんなときに、とモルガーヌは臍を噛む思いがする。
ジーノを救出しに現れたエリシュカを取り逃がしたのは、ほんの二日ほど前のことである。衆人環視の処刑場に、まさか当の本人が馬を駆って現れるとは思っていなかった。せいぜいが見物人に紛れ込んで処刑の様子を見に来る程度だと考えていたのだ。
処刑台の上から少年をかっ攫っていった人影がエリシュカ本人だと気がついたのは、彼女の駆るテネブラエが人垣を飛び越えて行った直後のことだった。突然のできごとに動揺する人波を掻き分けて衛士のもとへ近づき、大急ぎであとを追わせ、また街門と国境の門とを封鎖した。
手筈は完璧だったはずだ。処刑場でこそ失態を犯したが、そのあとの手配、とくに街の封鎖に遅れがあったとは思えない。にもかかわらずエリシュカの姿は網にかからなかった。
いまもまだ街中を虱潰しに捜索させているが、有用な情報はひとつも得られていなかった。
よもやあの短時間に街を抜けたとでもいうのだろうか、と最近のモルガーヌはやや自信を失いかけている。
万が一のことを考え、捜索の範囲は徐々に広げている。さらには南国と西国に赴任している大使へ宛てて、エリシュカの入国を確認したらすぐに捕縛するように、との要請も送ることにしている。大使への要請は、一監察官にすぎぬモルガーヌの権限でできることではないために、ヴァレリーの許しを得るべく書状を出したばかりであった。
上手くいけば、あとほんの少しでエリシュカの行方が掴めるかもしれない、とうとう再会できるかもしれない、とついさっきまでのモルガーヌはそう思っていた。
でもきっと、いまはそれどころではないわね、とモルガーヌは思う。
クロエの云うように、もしも叛乱勢力が蜂起したのだとすれば、王城は最優先でその対応にあたることになるはずだ。すぐにでも叛乱勢力を鎮圧するための派兵が行われることになり、その先頭に立つのは王太子であるヴァレリーであるはずだ。
王太子殿下は私の送る知らせを受け取ることはできない、とモルガーヌは考えた。それに私自身も自由に動くことはできなくなった。クロエからもたらされた情報と私の推論について、すぐにでもソラン長官のもとへと知らせを送り、次の指示を待たなくてはならない。ことは国家の危機である。お嬢さまの捜索どころではないのだ。
だけどこのままでは、お嬢さまがこの国に戻ることは二度となくなってしまう。――それは、それだけは避けなくてはならない。
自分のもたらした知らせの重さにいまだ気づかぬクロエと、心配そうに自分を見守るバローの前で、モルガーヌは今度こそ思考の海へと深く沈んだ。
クロエの話がすべて真実であるとしよう、とモルガーヌはまず考えた。
北と西とで民による武装蜂起がなされ、その渦中にエヴラール殿下がいる。王太子殿下は叛乱勢力の鎮圧のため、指導者自ら率いる本体が進軍してくる北へと向かわれたはずだ。
蜂起の知らせはソラン長官にも必ず届いている。彼は、叛乱勢力の陰に貴族がいることを把握しているが、その貴族をエヴラール殿下だと判断するだろうか。
いや、まずそうは考えないだろう、とモルガーヌは思った。ソラン長官は侍女であった私以上に王室の内情に詳しく、数多の事実を把握しているはずだ。
エヴラール殿下の性格や行動、あるいは金の流れなどから、ソランは、叛乱勢力に加担する黒幕は別にいるはずだ、と考えるだろう。彼の思考はそこから先をどう切り開くのか、とモルガーヌは眉間に深い皺を寄せた。トレイユの存在を思い出すだろうか。それとももっと別の可能性――たとえば、王弟ギヨーム殿下――を考えるだろうか。
いや、その黒幕とやらが王城の住人でないことはたしかなはずだ、とモルガーヌは思う。王城に住まう者たちに対しては、監察府が毎年厳しい監査を行うことが習いとなっている。ソランの性格からして生温い真似などするはずがない。あの男の目を誤魔化すことは、いかな王族とはいえ不可能だろう。
となると、やはり黒幕は王族以外の貴族なのだ。
やはりトレイユなのか、とモルガーヌは眉根を寄せた。あれほどあからさまに王弟殿下に近づき、さらに不審な動きを見せていたトレイユのことだ。王城にかかわりのある者ならば誰でも、彼の野心を見抜くなど容易いことだ。ソランも当然疑いの目は向けていただろう。
それでも、彼がこれまで動くことができなかったのは、トレイユが決して尻尾を掴ませなかったからだ。歴戦の強者であるトレイユは、伊達に守護将軍の渾名を
ソランが動くには証拠が必要だ。トレイユを――もしも、黒幕が彼であったとして、の話だが――確実に捕えるための、証拠が。
いま私がなすべきことはそれだ、とモルガーヌは思った。叛乱勢力の黒幕がトレイユであるという証拠を掴むこと。
けれど一方では、お嬢さまのことをこのままにしておくわけにはいかない。国内におられるにしろ、国外へと出られたにしろ、その行方を追わなくてはならない。
国内の捜索についてはこのまま衛士を動員し、虱潰しに街々をあたらせるしかあるまい。国外における捜索については、南国と西国、両国の大使の協力が必要不可欠だ。両国の大使へは、早急にその旨を
まずは私の考えをソラン長官に伝えなくてはならない、とモルガーヌは思考を整理しはじめた。それにお嬢さまの件を王太子殿下にもお知らせしなくてはならない。
けれど、いまの私には時間がない。否、手が足りない。ソラン長官、あるいは王太子殿下の、いつくるかもわからない指示を待っているわけにはいかないのだ。
王太子殿下とソラン長官にそれぞれ書状を出そう、とモルガーヌは考えた。そして私は北へ向かう。北の国境はトレイユが赴任していた地だ。トレイユが叛乱勢力に加担していたかどうか、いまの時点では知りようもないが、彼の地へ行けば、なにかわかることがあるかもしれない。
西の国境から北の国境までは、早馬で駆けても二十日近くはかかる旅になる。それでも王都にいるソラン、あるいは王都から北へと遠征しているはずのヴァレリーとの書簡の往復を待って動くよりはずっと早い。
いますぐに南国と西国の大使へお嬢さまの件を依頼する書状を出し、明日には北へと旅立つ。ソラン長官への知らせと王太子殿下へのお詫びは旅の途中から送ることにしよう。
心を決めたモルガーヌは顔を上げ、クロエとバローのふたりを見た。胸のうちに湧き上がる強い使命感と表裏をなす心細さを悟られてはならない、という強い思いがあるせいか、どこか硬い表情である。
「モルガーヌさま」
クロエの呼びかけにうながされるように、モルガーヌは口を開いた。
「まずはクロエ、よく話してくれました。おまえの罪を減じるに不足はありません。私の一存で決めることはできませんが、この旨は必ず侍女長に伝え、酌量の余地があるはずだと口添えしておきます」
クロエが驚いたように息を詰めた。
「それからバローどの。あなたはクロエを連れてすぐに王城へ戻りなさい。そして、私がこれから託す書状を、一刻も早く監察府のソラン長官へと届けてほしいのです」
「カスタニエどのはどうなさる?」
「お嬢さまの捜索は?」
バローとクロエは同時に言葉を発する。モルガーヌは片手を上げてふたりを制した。
「まずはお嬢さまの件ですが」
こちらについては西国と南国の大使に捜索協力の要請をします、とモルガーヌは云った。その準備はもう進めているじゃないか、という顔をするバローに向かって、彼女は瞳を細めてみせた。
「王太子殿下のご裁可は仰ぎません。明日にも両国へ早馬を出します」
「そ、それは……」
「越権行為にあたる可能性があることはもちろん理解しています。ですが、時間がありません。この身を惜しんでいては、お嬢さまを連れ戻す機会は二度となくなってしまう」
それから、となおもなにかを云いかけるバローを遮ってモルガーヌは続けた。
「私自身は、明日ここを発ち、北の国境へと向かいます」
「北の?」
「なぜですか?」
「それは云えません」
クロエとバローはそれぞれに大きく目を見開いた。これまで大きく開かれていた窓が、鼻先でぴしゃりと閉ざされたような心地がしたのだ。
「監察官としての私の任務に関することですから」
モルガーヌにしてみれば、王室の危機を招くような混乱にバローやクロエを巻き込みたくない、というのが本音でもあった。
北への旅は大きな賭けである。トレイユに対する疑いはいまのところモルガーヌひとりのもので、もしもこれが過ちであった場合、彼に探りを入れた者は制裁の対象となる可能性がある。
モルガーヌは思う。私が罰を受けるぶんにはかまわない。私は私の思考に基づいて行動し、そして罰を受けるのだから。
けれど、クロエやバローはそうではない。彼らが私の指示に従うのは、それが彼らの役目だからであり、彼らの意志ゆえのことではない。
私自身が王太子殿下からの、あるいはソラン長官からの明確な指示に従って動いているうちはまだいいのだ。けれど、ここから先の私の行動は、誰の指示によるものでもなく、場合によっては明確な命令違反となる場合もある。非常事態のいまはよくとも、のちのち厳しい咎めを受ける可能性は高い。
そんな私がふたりを連れてなど行けるものか、とモルガーヌは考えたのだ。
「モルガーヌさま」
クロエが一歩前へと進み出た。
「どうぞ私もともにお連れください。お願いいたします」
「なりません」
モルガーヌさま、とクロエはなおも食い下がる。モルガーヌさまはもしや、こうお考えなのではありませんか。
「ご自分とともにあれば、私までもが罰を受けるかも知れない、と」
驚きに目を見開くのは、今度はモルガーヌのほうだった。
「モルガーヌさまがそうお考えなのです。おそらくそうなることでしょう。ですが私はすでに罪を犯した身。課せられた務めを放り出し、いったんはモルガーヌさまの指揮下を離れた身です。同じ罰を受けるならばひとつもふたつも変わりはしません。お願いです」
どうか私をともにお連れください、とクロエは深く頭を下げた。モルガーヌは呆気にとられてクロエを見つめる。
「カスタニエどの。私も同じ思いでおります」
「バローどの……」
「叛乱勢力が蜂起し、国じゅうから王都へ向けての行軍がはじまろうとしているいま、国内の治安は悪くなる一方でしょう。鎮圧の兵が差し向けられるとはいえ、彼らの手が隅々まで行き届くには時間がかかる。たとえ各地の衛士を動員したとしても、治安の回復には時間がかかりましょう」
そのような渦中に女性をひとりで放りこめるはずがありません、とバローは云った。
たとえ王城の警護にあたる騎士――騎士と呼ばれる者たちの中では、もっとも格が低いとされる――であるとはいえ、バローは崇高なる意思を持って職務にあたってきた。いまここでモルガーヌとともにあるのは、そうすることを命じられたからではあるけれど、危険であることがわかりきっている場所へ女性を置いて去ることなど、彼にはできるはずもないのだった。
「駄目ですよ、ふたりとも」
駄目です、とモルガーヌは首を横に振った。
「これは命令です。私の書状とともにすぐに王城へ……」
「その命令を聞くことはできません、モルガーヌさま」
クロエっ、とモルガーヌは思わず声を荒らげた。
「侍女である私の主はたしかに王室の方々です。私には王室のみなさまにお仕えする義務がある。本来ならばモルガーヌさまのおっしゃるとおり、すぐに王城へと取って返し、王室の危機に備えるべきなのだと思います」
「そ、そのとおりです」
頷くモルガーヌに、ですが、とクロエは声の調子を硬くした。
「あなたは私にとって大切な友人なのです、モルガーヌさま。私はいま、王室よりも自分自身よりもあなたをお守りしたい。ひとりで危険な旅路になど送り出したくはない。だから、どうかともにお連れください、モルガーヌさま」
友人、とモルガーヌは茫然とクロエの顔を見上げた。
「ご無礼はどうかお許しください、モルガーヌさま」
クロエの声はやや落ち着いて、そしてどこか哀しみを孕んだ色を帯びた。
「あたしがギャエル・ジアンの甘言に乗ってしまったのは、モルガーヌさまがもう二度と侍女には戻られないと聞かされたことがきっかけでした」
いくら連れ戻したところで、お嬢さまは何度でも城から逃げ出すに決まっている、そのときはおまえだけが罰を受けることになるんだよ、とジアンに脅されたとき、クロエが感じたのは罰を受けることに対する恐怖ではなく、モルガーヌに裏切られたのかもしれないと思ったことによる哀しみだった。
「あたしを侍女にしたのはモルガーヌさまなのにと、そう思ったんです。勝手に監察官なんかにおなりになって、もうあたしのことなんかどうでもよくなって裏切ったんだろうかって、そう思ったんです」
そんなの、どちらでもないに決まっていますよね、とクロエは自嘲した。
「監察官であることも、侍女であることも、モルガーヌさまご自身にとってはたいした違いはなかった。どちらも大切なお役目で、もっと云えば、そのお役目を果たされることで王室やこの東国にお仕えできるなら、それでいいと思っていらした」
モルガーヌさまはそういう方です、とクロエに云われ、モルガーヌはわずかに頬を熱くした。私はそんなにご立派なものじゃないわ。
「だけどあたしは違ったんです。あたしは王室も東国もどうでもよかった。お嬢さまも王太子殿下も、どうでもよかったんです」
「……クロエ」
咎めるようなモルガーヌの声にクロエは薄く微笑んでみせた。
「それでもあたしがお勤めを果たすことができたのは、モルガーヌさまがいらしたからです。モルガーヌさまと一緒に働きたいから、あたしは侍女でいることができた。お嬢さまにお仕えすることができた。大げさに云えば、そういうことなんです」
ジアンから話を聞くまで、あたしは自分がそんなふうに考えていたことに気づいてもいませんでした、とクロエは云った。
「あたしはお給金のために王城に勤めているのであって、そこにはなんの感情もないはずだった。上司であるあなたにも、友情なんて感じていないはずだった。モルガーヌさまは貴族のお嬢さまであたしなんかとは違うからって、あたしはずっとそう思っていたんです」
たしかに違いましたけど、とクロエは笑う。
「だけど、ジアンに連れて行かれた村で革命の話を聞いたとき、あたしの頭に真っ先に浮かんだのは家族のこと、それから、モルガーヌさま、あなたのことでした」
「私の?」
そうです、とクロエは頷いた。
「革命が起きて国が荒れれば、つらい目に遭うのは弱い人たちです。王都にいるあたしの家族はきっと助け合ってどうにかするだろうけど、ひとりで旅路にあるモルガーヌさまはどうなさるんだろうって、そう思いました」
「クロエ……」
「あたしなんかがそばにいたって、助けにならないことはわかっているんです。モルガーヌさまは賢いし、貴族のお嬢さまなんだからきっとたくさんの縁故も持っている。あたしが心配するようなことなんかじゃないって。だけど心配だったんです。困っているならお助けしなくちゃって、そう思ったら……」
モルガーヌは静かに立ち上がり、クロエの名を何度か呼んだ。ふたりのあいだに置かれていた机を回りこむようにして彼女に近づき、そっと腕を延ばしてクロエの肩を引き寄せた。
「ありがとう、クロエ。心配してくれたのね」
モルガーヌにとってのクロエはあくまでも部下のひとりにすぎなかった。使い勝手のよい便利な手駒だとさえ思っていた。
けれど、いまのこの窮地にあってクロエの言葉は胸に沁みた。
――友人。
長らく得ていなかった、あたたかい存在。
モルガーヌはクロエの肩を抱いたまま、そうね、と頷いた。そうなのかもしれない。私たちは上司と部下を越えて、いつのまにか友人同士となっていたのかもしれない。
ならば、彼女の前では、いつもまっすぐに伸ばしている背中を、少し、ほんの少し緩めても許されるのだろうか、とモルガーヌは思った。
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