34
まったく厄介なことになってしまった、とエヴラールは思った。目の前にいる男の微笑みが、あたかも地獄の使者のそれに思える。
まるで悪い夢を見ているかのようだった。――二度と醒めることのない、悪い夢を。
ことの起こりは五日ほども前、領地内における発掘調査も後半に入り、次回の調査に向けての検討がはじまった頃のことだった。
フィデール・レミュザと意見の対立をみたエヴラールは、深夜まで自説の検証を重ね、さまざまな資料を舐めるようにして読み込んでいた。
侍従であるオディロン・ルシエは、お身体に障りますから、どうかほどほどに、と泣き出さんばかりに懇願していたが、いつのまにか力尽きて部屋の隅の椅子に座ったまますっかり寝こけていた。そのままでは風邪をひく、と毛布を取ってきて身体にかけてやると、図々しくもしっかりと包まり、ますます深い寝息を立てるようになったのが可笑しかった。
いくら熱心に検討したいと思っていても、王城の自室ではない出先にいるいま、十分な資料は揃っていない。確認したい文献が手元にないことに気づいたエヴラールは、ふと集中力を途切れさせた。
押し殺したような声が耳に飛び込んできたのはそのときだった。
エヴラールは席を立ち、足音を忍ばせて部屋の扉に耳を押しつけた。
王族に生まれた者の常として、エヴラールもまた幼い頃より刺客や曲者に対する警戒心を学ばされている。腕の覚えはたしかではないが、それでも並の者と同じ程度に剣を扱うことはできるし、ああ見えても、オディロンはかなりの手練れである。
オディロンを起こしたほうがいいか、とエヴラールは思った。あとになってからオディロンにこのことが知れれば、彼は、殿下の危機に眠りこけているとは、と必要以上に落ち込むかもしれない。エヴラールの侍従は、その忠誠心の篤さゆえに少々暑苦しいところがある。
だが、結果的にエヴラールがオディロンを起こすことはなかった。外から聞こえてくる声が、よく知ったふたりの男たちのそれであるということに気づいたからだ。
エヴラールは、そっと扉を押し開いた。
細く開けた隙間から、云い合う声がより鮮明に聞こえてきた。ひとりはエヴラールの学友フィデール・レミュザ、いまひとりはそのレミュザの知己リオネル・クザンである。
裏切っただと、とクザンの声には嘲笑うような響きがあった。裏切りだろうが、と対するレミュザの声はなかば悲鳴じみている。
「だから、訊いているんだ。裏切りとは、いったい誰に対する裏切りか、とな」
「誰って……」
「まさかとは思うが、王子さまに対する裏切りだとかぬかすんじゃないだろうな」
リオネル、とレミュザの声がますます悲痛なものになった。
「もしそうだとしても、だ」
レミュザはなにかを楽しむような声音になって続けた。
「俺に声をかけてきたのはおまえのほうだろう。俺は別にはじめからなにも隠しちゃいなかった。見抜けなかったおまえが莫迦だったのさ。違うか?」
「隠していなかっただと……」
おまえはなにも云わなかったじゃないか、とレミュザは声を殺すのも忘れて旧友を詰った。おいおい、聞こえちまうぜ、とクザンは嗤う。
「いいのか。おまえの莫迦さ加減が王子さまに知られても」
「オレのことはどうでもいい」
それよりもおまえのことだ、リオネル、とレミュザは云った。
「おまえがあんなくだらない連中に肩入れするようになるとは思わなかった。たしかに王都にいたときから過激な論調を振りかざしてはいたが、それよりもなによりも、ああいう青臭い正義は大嫌いだっただろう。違うか」
違わねえな、と答えるクザンの声は相変わらず笑いに滲んでいる。その、どこか人を莫迦にしたような愉悦の響きも、そのときのエヴラールを不愉快にさせることはなかった。
エヴラールは息を潜めてふたりの話を聞きながら、厭な具合に早まっていく鼓動を抑えきれなかった。王城を発つ前にヴァレリーから聞かされた話が頭の中で渦を巻く。
くだらない連中、とレミュザは云った。過激な論調、青臭い正義。そうした言葉から導き出される存在はそう多くはない。
――叛乱勢力。
まさかクザンは、ヴァレリーが云っていた革命軍とやらの一味なのだろうか。
「しばらく見ないあいだに宗旨替えでもしたのか」
気色ばむレミュザに、まあな、とクザンは答えた。
「やつらの本拠地は、俺の実家のある街でな」
ここからもう少し北へ行ったところにある街か、とエヴラールは思った。先ほどの厭な鼓動はもう治まりかけていた。やや冷静さを取り戻してきた頭は、すでにこの先のことを考えはじめている。
ヴァレリーに知らせを送らねばならない、とエヴラールは思った。それも、できるかぎり早急に。しかし、王城へ使いを出したことは誰にも知られてはならない。クザンは云うに及ばず、レミュザやほかの学友たちにも。
エヴラールは、学問を介して繋がっている己とレミュザたちとのあいだに溝があるとは考えていない。
だが、彼我の立場は大きく異なる。
支配階級の中の支配者、この国を統べるラ・フォルジュに連なるエヴラールと立場を同じくする者は、血族を除いてほかにはいない。たとえそこにどんな友誼があるとしても、国を揺るがすほどの大事を前にすれば、そんなものは嵐の中の
「知っているだろう、俺たちの指導者がまだ学生だということは」
「……聞いたことはある」
レミュザの声は苦い。真面目で誠実な彼にとって、なんの含みもなくエヴラールに引き合わせた旧友が国の転覆を謀ろうと――王家への裏切りを果たそうと――する者であるということは耐えがたい事実であるに違いない。
「やつとは、まあ、なんと云おうか、昔馴染みでな」
「貴族なのか」
いや、とクザンはどうやら首を横に振ったらしい。わずかに声が揺れた。
「商家の息子さ。父親が教育熱心らしくてね。平民の子にしては珍しく、高等教育を受けることができた。王都に出る前の俺とは王立の学問所で知り合った」
王立学問所とは、王都以外の大きな街――たとえば、領府があるような――に開かれている中高等教育機関である。王城学問所から講師が派遣されることも多く、貴族の子弟や豊かな商家の跡取りなどが学ぶ、ある種の
「王都に出てからはすっかりご無沙汰でな、存在すら忘れかけていた。それが故郷へ戻ってみたら、なにやらきな臭い連中と同調して、革命だ、正義だと騒ぎ立てているというじゃないか」
「縒りを戻したのはなぜだ?」
「気色の悪い云い方をするなよ」
「リオネルッ!」
そう熱くなるなよ、とクザンは笑った。王子さまに聞こえるぜ。
もう聞いてるがな、とエヴラールは思った。扉の取っ手を掴んだままの掌が汗で滑りそうで冷や冷やする。
「やつの親父どのに頼まれたのさ。息子が悪い連中とつるんでいるから、どうにかしてもらえないか、ってな」
「
声はしなかったが気配が揺れて、クザンが笑ったのがエヴラールにもわかった。
「殿下になにをする気だ」
急に自分の話になり、エヴラールは無意識のうちに首を竦めた。そのかすかな動きが腕にも伝わったのか、ずるりと滑った掌に気づいたときにはすでに遅かった。
滑った反動で扉が大きく開き、エヴラールは両手を床についたままの格好で、廊下に佇むふたりと対面することになってしまった。
「殿下ッ!」
「おや、王子さま」
焦ったようなレミュザの声とからかうようなクザンの声は、見事に重なってエヴラールの耳に届いた。エヴラールは内心の動揺を押し隠したまま立ち上がる。
「話し声が聞こえたのだ。どうしたのだ、こんな時刻に?」
「申し訳ありません、殿下」
「どうしたもこうしたも、全部聞いてたんだろう、王子さま」
リオネル、とレミュザが延ばした手をすり抜け、エヴラールの目の前にクザンがすっくと立ち塞がった。こうしてみると身長こそ高くはないが、がっしりと肩幅も広く、腰も据わっていて、おそらく武術にも長けているだろうことが容易に想像できるような立ち姿である。
「全部ではない」
「俺が何者かってことは」
口を閉ざしたエヴラールに向かって、クザンはうっそりと笑った。
「そこを聞いてりゃ同じことさ。話はそれで全部だからな」
「リオネルッ、おまえはすぐにここを出ていけ。もうこれ以上ここには……」
黙ってろよ、レミュザ、とクザンは冷たく云った。視線はエヴラールに据えたまま逸らさない。エヴラールもまた、クザンの濃灰色の双眸を睨み据えたまま、微動だにしなかった。
「殿下ッ! いますぐにでも……」
「黙ってろってのがわからねえのか」
ぶん、と空気を切り裂く鈍い音がして、クザンの腕がレミュザの顎を打ちのめす。レミュザはその場に倒れ伏し、鈍い呻き声をあげるばかりで立ち上がることもできなくなった。容赦のない一撃に脳震盪を起こしたのかもしれない。
「……なにが目的だ」
さすがは王子さまだ、とクザンは愉快そうに笑った。
「察しがよくて助かるよ」
エヴラールの空色の瞳に宿る光が氷点下の鋭さを湛える。
「なに、そんなに手間は取らせないさ。王子さまに会ってもらいたいやつがいるんです。そいつの話をぜひとも聞いてもらいたくてね」
「会わせたい相手とやらはここへ来ているのか」
いや、とクザンは首を横に振った。
「あんたにはここから少し北へ行った街まで来てもらう。ひとりでな」
クザンの眼差しがわずかにエヴラールから逸れ、彼の背後で開いたままになっている扉から部屋の中へと向けられたようだった。エヴラールもまたつられたようにそちらへと視線を向け、そこにいまにも剣を抜き払いそうなオディロンの姿を見つけることになる。
殿下、と唇の動きだけでクザンに対する攻撃の許可を求めたオディロンに、エヴラールは静かに否の意を示してみせる。
「さすがに賢明だな、王子さま」
あくまでも明るいクザンの声にエヴラールが振り向くと、彼は朗らかな笑みまで浮かべてこちらを見ていた。
「俺がひとりでここへ乗り込んでくるわけがないだろう。そこの侍従がいかな手練れでも、六人も七人もいっぺんに相手はできないはずだ。そうだろう?」
「リオネル、おまえ……」
いまだ眩暈から立ち直れないレミュザが、床に這い蹲ったまま悔しそうな声を上げた。
「あの連中もおまえの仲間なのか」
レミュザが当地で雇った学生は、すべてクザンの息のかかった者たちだったのだ。そのことを察したエヴラールは、ことはそう容易くは治まるまい、と覚悟を決めた。
レミュザがクザンに声をかけた時期を知ることはできないが、そう以前から準備できたはずもない。にもかかわらず、ある程度の手勢を揃え、疑われないよう偽装しながらエヴラールに近づいてきたのだ。
王弟の子、エヴラールは王太子に次ぐ第二位の王位継承権を持っている。本人の意識はどうあれ、彼は常に腕の経つ護衛を従えている。もっとも身近に控えるオディロンのほかにも、数名の手練れがこの屋敷内にも寝泊まりしていた。
エヴラールの護衛たちは、警戒心の薄い彼の身を守るのにいつも苦労している。われわれを遠ざけるのだけはおやめください、と常々口を酸っぱくして云われていたことを思い出し、エヴラールはわずかな苦笑を頬に浮かべた。――彼らの云うことを、ちゃんと聴いておくべきだったな。
「それから王子さま、あんたの護衛たちには下手に動かないよう云っておいてください。ご学友を失いたくはないでしょう」
あんたはお友だちがそう多くはなさそうだし、とクザンは云った。エヴラールの眉根がきつく寄せられる。
「彼らを人質に取るつもりか」
「どうとでも」
「おまえの云うことに逆らうつもりはない。目的は私なのだろう。彼らは解放してやれ」
すみませんねえ、とクザンは肩を竦めた。
「俺は育ちが悪くてね。あんたみたく簡単に人を信用したりできないんですよ、王子さま」
そういう習性が身に染みついてるんです、とクザンは云った。
「リオネル・クザン」
ただ名を呼ぶだけであったのに、怒りに満ちたエヴラールの声には、聞いた者の鼓膜をびりびりと震わせるような圧倒的な迫力があった。これが王家の血か、とクザンは思う。この俺が優男の王子さまに気圧されるとはね。
「解放はできない」
クザンはごく短く答えた。腹の底に力をこめていなければ、思わずあとずさってしまいそうな怒気を前に、口にできる言葉はそう多くはない。
「すべてはあんた次第だ。あんた次第では、レミュザたちは解放してやってもいい」
エヴラールの水色の瞳が大きく撓められる。
「すぐにってわけにはいかないが、その点について嘘はつかない。こっちは会ってもらいたいやつがいるだけなんでな」
会ってもらいたいやつがいる、と云われて連れてこられた街は、エヴラールがこれまでに一度も訪れたことのない土地であった。クザンは、ひとりエヴラールのみを連れて、彼の実家があるというこの街へと戻ってきた。
なにがなんでも殿下から離れる気はありません、と必死の抵抗を示したオディロンだったが、殿下とレミュザたちを庇って俺たちとやり合うか、とクザンとその仲間たちに抜身の刃を突きつけられてはなすすべもなかった。
必ず無事に戻るから、と声はかけたが、オディロンはクザンの仲間のひとりに腕を取られたまま涙を拭うこともせずに、殿下、殿下、と最後まで叫び続けていた。
今生の別れでもあるまいし、そこまで嘆くこともあるまいにと思ったエヴラールである。だが、そのとき隣で馬に跨るクザンの顔をちらりとでも見遣っていれば、もしかしたら考えが変わっていたかもしれない。常に皮肉っぽい笑みを浮かべているはずの彼は、そのときばかりはなぜだか漂白したような無表情であったのだ。
オディロンのやつには泣いてばかりいないでもらいたい、とそのときのエヴラールは、内心そんなことを思っていた。どうにかして気を取り直し、ついでに王城へ使いを立ててはくれないだろうか、となかば拉致まがいに連れ去られる段になってもどこか暢気な彼は、そんな期待をしていたのである。
革命軍の本拠地が判明したことをヴァレリーに知らせてやれば、彼は監察府に内偵を命じ、必要があれば兵も動かすに違いない。
たとえ実行に移さなくとも、王家に対する反逆は、国家の転覆を謀ったものとして重罪に値する。ましてやクザンらは革命軍を名乗り、人や武器を集め、活発な活動を行っているというのだ。
個人的な感情から彼らに死を望むわけではないが、王家のひとりとしては見逃すことのできない罪である。
強引に連れてこられた身ではあっても、このまま黙ってクザンのいいようにされてばかりいるつもりは、エヴラールにはなかった。
街についてすぐ、クザンはさして流行っていそうにもない酒場へとエヴラールを連れて行った。こんなところで悪いですがね、と笑う顔はいつもの皮肉げなそれで、エヴラールは黙ったまま頷きもせずに店の奥へと歩を進めた。
店の突き当りにある大きな卓の奥の隅を陣取るような格好で、ふたりは腰を下ろした。
「なんか飲みますか」
なにもいらない、とエヴラールは答えた。
「こんなところで出るようなもんは、お口に合いませんってことですかね」
「会わせたい者とはどこにいる?」
まあ、そう焦ることはありませんよ、とクザンは答えた。
「さっき呼びにやらせましたから、まもなくやって来るはずです。それまでどうです、一杯」
「いらぬ」
エヴラールらの周りにほかに人はいない。厨房で働く者の気配があるほかは、店全体がしんと静まり返っていた。店の雰囲気から察するに、昼から営業している食堂酒場であるらしいのに、この閑古鳥はいかにも侘しい。
「ここは俺の奢りですよ。いつかの礼だ」
「礼?」
「いい酒、飲ませてくれたでしょう」
いらないと云ったエヴラールの前に盃を置き、クザンは紅い酒精をなみなみと注いだ。
「王子さまのお口に合うかどうかは知りませんがね」
「おまえはよほど王家が、……いや、ラ・フォルジュが気にくわないのだな」
エヴラールは思わず嘆息し、吐き出すようにそう云った。クザンの顔に苦いものが走る。そりゃあね、と彼は云った。
「なにひとつ悪いこともしていない身でいきなり牢にぶち込まれりゃ、誰かを恨みたくもなりますよ」
「……投獄されたのか」
ラ・フォルジュによる支配体制を批判する論文を書いたせいだということは、尋ねなくともわかった。
「袋叩きにされたと、そう云っていなかったか」
てっきり王城学問所でのことだと思っていたが、とエヴラールが云うと、クザンは首を横に振って、それだけですむはずがないでしょう、と答えた。
「学問所から放り出されたあと、すぐに官吏がやってきて捕縛されました。反逆罪だか国家転覆罪だかの疑いで尋問にかけられて、死ぬほどの目に遭わされた。あのときの拷問のせいで、俺の右手の指先にはいまでも感覚がありません。何度も何度も指を折られたり、爪を剥がされたりしましたからね」
エヴラールの顔から血の気が失せた。
「ペンを持つ右手がうまく利かなくなって、俺は学問を捨てざるをえなくなった。実家に戻っても、外聞が悪いと云われて屋敷には入れてもらえなかった」
金で爵位を買うような似非貴族でも、一応は体制側の人間ですから、とクザンは云った。
「王家に盾突くような息子を、家に置いとくわけにゃいかねえんですよ」
実家を追い出されたあとは娼館に寝泊まりし、あちらこちらの商家に商いの助言をしたり、貴族の家に家庭教師の口を見つけたりして、どうにか暮らしを立てていたのだ、とクザンは続ける。
「浮き草みたいな暮らしでしたよ」
雇い主の妻から秋波を送られ、主に悋気を起こされて
「いい目見せてもらったこともありますがね。大抵はひどいもんで。なんだかんだ云いつつも貴族の息子として好きにやらせてもらってた俺には、耐えがたい暮らしだった」
で、そうこうするうちにやつと会ったってわけです、とクザンはエヴラールの背後を指差した。
指差されたほうへと眼差しを向けたエヴラールの目に映ったのは、まだ若く、ごく凡庸な容貌をした、ひとりの若者であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます