07
叛乱勢力に一時身柄を捕らえられ、行軍をともにしていたエヴラール・ジェルマン・ラ・フォルジュとともにオリヴィエ・レミ・ルクリュが東国王都に戻ったのは、ヴァレリーと行動を別にしてから七日後のことだった。
オリヴィエはヴァレリーの命令どおりにエヴラールを彼の自室へと幽閉し、その世話係にエドモン・マルケとデジレ・バラデュールを任じた。エヴラール付側近ポール・シャルリエやエヴラールの父である王弟ギヨーム・ジャン・ラ・フォルジュらによる執拗かつ厳重な抗議や、国王ピエリック・ロラン・ラ・フォルジュによるやんわりとした制止にさえ、いっさいの譲歩を見せなかった。
すべては王太子殿下のご命令でございます、とオリヴィエは云った。もしもそれを覆せと仰せであれば、まずはこのオリヴィエに死を賜りたく存じます。
側近も王弟も国王も、鬼気迫る顔つきで剣を抜こうとする頑ななオリヴィエに意を翻させることはとうとうできなかった。
オリヴィエがそのように己の命を賭してまで、ヴァレリーの命令――おれが戻るまでジェルマンの身を守れ――に忠実であろうとするのには、それが主の命令であるからという以外にもそれなりの理由があった。
エヴラールの身柄を確保した草原から王城へと戻る、その途上で彼と交わした会話がそれである。
決して目を離すな、というヴァレリーからの命令があったために、王都へ向かう旅路において、オリヴィエはエヴラールを馬車に押し込み、そこに同乗することにしていた。
エヴラールとオリヴィエは決して互いに知らぬ仲ではない。片や王族、片や重臣と立場は違えど、幼いころから見知った同士であることはたしかだ。
だが、オリヴィエは幼少のころからヴァレリーのそばに仕えることが決まっていたし、エヴラールと親しくすることはその立場に障りのあることであった。また、エヴラールも気質こそ穏やかではあっても、王族としての矜持を失っているわけではなかったから、誰かに対し、自ら親しげに振る舞うこともなかった。
それゆえふたりの距離は、身分的な壁よりも心理的なそれによって、周囲が想像するよりもずっと隔たりがあったのである。
王族としての威光を叛乱勢力に利用されるという前代未聞の醜聞に身を落としたエヴラールと、彼の身柄を捕らえているオリヴィエは、いわば立場をまったく反する者同士である。たいして広くもない小さな箱の中で顔を突きあわせ、男ふたりになにを話すことがあるわけでもない。旅は沈黙と退屈の支配する窮屈なものとなった。
「少しばかり話をしようか、オリヴィエ」
エヴラールがそんなふうに声をかけたのは、王城まで残り三日ほどの距離となったころのことだった。はい、殿下、とオリヴィエは素直に応じた。
「私のことをさぞ愚かだと思っているんだろうね、おまえは」
そんなことはない、とはオリヴィエは云わなかった。エヴラールは薄く笑って、その薄水色の瞳をやわらかく滲ませた。
「私もアランも人には恵まれた。私は心底そう思っているよ」
エヴラールは吐息とともに呟くようにそう云った。オリヴィエは肯定も否定もなく、目の前の男を見つめた。
決して醜いわけではない。愚かなわけでもない。冷酷でもなく、不実でもない。だというのになぜ、とオリヴィエは思った。なぜ、このエヴラール・ジェルマンという男には、わが主のように人を惹きつける魅力がないのだろう。
容姿はともかく、ヴァレリーがエヴラールに勝るところといえば、剣術と馬術くらいのものである。
王太子は愚かではないが、勉学に秀でているかといえばそうでもなく、気に入らぬ相手には徹底して冷たく当たり、顔色ひとつ変えずに偽りを述べることも平気だ。対するエヴラールは、国じゅうの秀才が集う王城学問所において優れた業績を上げ、また、その人柄も温厚で知られている。
人としての美徳を数えるならば、王太子殿下はエヴラール殿下の足元にも及ばないだろうな、とオリヴィエは不思議に感じる。
それでもなぜだろう、幼少のころから人を惹きつけるのはヴァレリーだった。オリヴィエ自身、己が生涯の忠誠を誓う相手がヴァレリーでよかったと、心の底からそう思う。
「だが、おまえはともかく、オディロンやシャルリエには気の毒なことだ」
「気の毒?」
「仕える相手を選べぬことは致し方ないとはいえ、私を主としなければならなかったのだから」
エヴラール殿下、とオリヴィエは咎めるような声を上げた。
「滅多なことをおっしゃらないでください」
別にかまわないだろう、とエヴラールはまたもや薄く笑った。ここには私とおまえしかいないのだ。
「考えてみれば、こんな機会はもう二度とない。王城へ戻れば私は拘束され、尋問される。記録に残らぬ私的な言葉を述べられるのは、これが最後となるかもしれない」
オリヴィエは胸を衝かれて黙り込んだ。この方は、穏やかで世間知らずなこの方は、それでもやはり王族なのだ。
「私とアランの立場が逆だったらと、思ったことがないわけではない」
エヴラールの言葉にオリヴィエが眉根を寄せた。
「私とアランはふたつしか歳が違わない。父親同士が実の兄弟であり、育った場所も同じ王城だ。アランの母君、ルシールさまの生家ジラルディエールは、私の母の実家の分家でもある。私とアランの血はとても近い」
エヴラールの母、王弟妃カサンドル・ドゥラメトリーは息子を産んですぐに亡くなっている。
幼少のころから定められていた政略結婚で結ばれた仲とはいえ、エヴラールの父ギヨームとその妻は互いを尊重しあい、穏やかに愛しあう理想的な夫婦であった。エヴラールもオリヴィエも知らないことではあるが、ヴァレリーの両親が出会ったのも、そもそもはギヨームとカサンドルの婚約がきっかけだったのだ。
政略結婚で娶った妻とは一度として同衾することなく、ただの飾りとして彼女をその地位に置き去りにし、自分だけは愛する女とのあいだに子までなした兄王とは違い、ギヨームは定められて結ばれた妻との絆をとても大切にしていた。
愛する妻を亡くし、生まれたばかりの息子を抱えたギヨームは、その後、周囲にどれだけ再婚を勧められても――王族に連なる男子たるもの、妻のひとりもおらぬようでは体裁が悪すぎる――、決して首を縦に振ろうとはしなかった。
ときに自ら襁褓を取り換え、ときに自ら哺乳瓶を抱えて、ギヨームは必死になって息子を育てた。むろんほとんどは乳母が面倒をみていたのだが、彼はそうやって失われた母のぶんまでエヴラールに愛情を注ごうと努力してきた。
エヴラールが幼いころのギヨームは、愛する妻を失った悲しみを忘れてはいなかったが、まだ兄との確執も抱えておらず、落ち着いた穏やかな日々を送っていた。ギヨームはことあるごとに幼い息子に語って聞かせた。――おまえは、おまえだけはなにがあってもアランを支えてやるのだよ、ジェルマン。
兄上は厳しいお方だ。ご自分にも周りにも。きっとアランに対しても厳格にあたられるだろう。いつか王となるあの子には、それも必要なことには違いない。だが、それだけではアランが可哀想だ。おまえはアランが正しき王であれるよう、あの子を支え、認め、ときには補ってやらなくてはならない。
だから私は学問を修めることにしたんだよ、とエヴラールは云った。
「アランは剣術も体術も得意だったけれど、算術も綴方もさほど優れてはいなかった」
「おっしゃるとおりです」
オリヴィエは思わず苦笑いする。
「私だって似たようなものだった。はじめはな」
エヴラールは遠い昔を懐かしむような目つきをした。
「学問なぞ、たいした役には立たぬと思っていた。だが、あるとき急に父の言葉を思い出したのだ。アランを支えよ、補えよ、という父の言葉を」
ヴァレリーが得意とするものを同じように修めたところで、彼を助けることはできない。彼が不得意とするところにこそ、父の云うところの己の存在意義がある。そう考えたエヴラールは、それまでの勉強嫌いを返上して学問に励むようになった。
「そうは云ってもいつしか目的を忘れ、地質学に夢中になってしまったのだから、そう褒められた話でもないのだがな」
父が兄王を慕う気持ちを忘れ、策謀に溺れたように、自分もまた学ぶことそのものに耽溺し、謀略に沈んだ。
「もしもアランが私の立場にあったなら、彼はなにを思っただろうか、と考えたことがある」
立場が逆であったなら、とはそういう意味だ、とエヴラールは云う。
「己が父の不遇にもう少し果敢に立ち向かったかもしれぬし、あるいは自らの手で父の名誉を守ろうと考えたかもしれぬ」
いずれにしても、いまよりはよほどよい結果を得ていたかもしれぬな、とエヴラールは言葉を切った。
オリヴィエには言葉がなかった。
彼にとってのエヴラールとは、ヴァレリーの味方となるかどうか、そうでなければ排除すべき脅威となりうるかどうか、ただそれについてのみ案ずるべき相手だった。モルガーヌ・カスタニエを使ってエヴラールの周囲を探らせていたのも、この王太子の従弟がその肚になにを――刃か毒か、あるいは蜜か――飲んでいるのか、どうしてもそれを知っておかなければならないと考えたからだ。
結局俺は、とオリヴィエは思った。エヴラール殿下を邪魔な存在だと、ついいまさっきまでそう考えていたということなのだ。
エヴラールの肚を知りたかったのは、彼の肚にはなにかがあるはずだと、そう思い込んでいたからにほかならない。父親が実の兄との確執を抱えて政治的に冷遇され、自身も学問所という名の檻に閉じ込められている。それで不満を抱かぬはずがない、叛意を持たぬはずがない、とオリヴィエの思考は知らずのうちにそこで固まってしまっていた。そうではない可能性など考えたこともなかった。
俺が間違っていたのか――。
オリヴィエは唇をきつく結んだ硬い表情のまま、己を恥じた。
脅威となりうるかどうか、どころではない。エヴラール殿下は、あるいは王太子殿下にとって最大の味方となるはずの方だったのではないだろうか。
いったいなにがどうなってエヴラール殿下が叛乱勢力と行動をともにすることになったのか、それはまだわからない。だが、とオリヴィエは思案する。
エヴラール殿下がいまこうして窮地に立たされているその裏に、あのアドリアン・トレイユがいるのならば、あの男の真の狙いは彼ではなく、王太子殿下その人にあるのではないだろうか。
トレイユは老獪な男だ。したたかで知恵もまわる。
叛乱勢力を金と知謀で唆し、エヴラールを陥れる。エヴラールが失脚すれば、彼の父が陽の目を見ることはもう二度となくなるし、彼の従兄はその力をあてにすることができなくなる。
もしもトレイユがそこまで考えていたとしたら――。
エヴラール自身は、さほど力のある存在ではない。抜きんでた知恵があるわけでもなく、武に長けているわけでもない。
だが、彼は国王ピエリックの数少ない血縁であり、王太子ヴァレリーのただひとりの従弟だ。兄王と蟠りを抱える父親とは違い、その肚に剣呑な企みもない。従兄に逆らう気概も意思もなく、しかし決して愚かではない。
毒にも薬にもならない。しかし、王座に牙を剥くことも、背を向けることもなく、命ある限りその座にある者を――ヴァレリーを――支えてくれるはずだ。
たとえそれが彼にとって、平和に生きるただひとつの道であるということだけが理由であっても、血縁の少ない王太子にとって、どれほどの救いとなることか。
オリヴィエの腹がだんだんと冷えていった。
今回の件で、本当の意味で立場を危うくしているのはエヴラール殿下でも、ギヨーム殿下や国王陛下でもない、と彼は気がついた。陥れられたのは彼らではない。
野心なき最大の味方を失う、王太子殿下なのだ。
「そんな顔をするな、オリヴィエ」
呼びかけられた声にはっとしたオリヴィエは、噛み締めていた唇を解放し、思わず縋るような眼差しでエヴラールを見つめる。
「このように身を落としてもなお、私にはまだできることがある」
「できる、こと?」
ああ、やはりこの方は、トレイユの肚を見透かしておられる、とオリヴィエは深い悲しみを覚えた。
「アランのために、この国の未来のために、な」
「殿下、いったいなにをお考えなのです?」
エヴラールは笑みを深め、口を閉ざす。殿下、とオリヴィエは思わず叫んだ。
「オリヴィエ」
静かな声に窘められてなお興奮の治まらないオリヴィエは、肩で息をするように身を震わせた。
「そう案ずるな。私は簡単には死なぬ。これでもラ・フォルジュの男なのだ。いままでの罪をいささかなりとも濯ぐまでは命を捨てたりはしない」
「いままでの罪、とは?」
「無為の罪だ」
オリヴィエは痛みを堪えるように顔をしかめた。喉の奥が熱くなる。
「王家の男として生まれ、なにもかもに恵まれながら、これまでの私はなにもしてこなかった。アランと違ってな」
「そんなことは……」
「そんなことはない、と云えるのか」
エヴラールはなぜか少しばかり愉快そうに笑った。
「なにもしない、なにもできない私に一番安心していたのはおまえであろうに」
オリヴィエは思わず息を止めてエヴラールを見つめた。
「そうであろう?」
エヴラールは意地悪く云うと、いいのだ、と軽く首を横に振った。
「おまえはそれでいい。アランのことだけを考え、アランのためだけに動け。これまでと同じように、これからも」
これからはおまえだけがアランのためにそうすることができる、とエヴラールは云った。
「殿下はいったいなにをお考えなのです?」
答えがないことがわかっていてなお、オリヴィエはそう問わずにはいられなかった。エヴラールの思いはまったく読めない。
ただひとつだけわかることがある、と彼は思った。殿下はご自身の死を覚悟しておられる。それも、決して美しくない死を。
そうはさせてなるものか、とオリヴィエは拳を握った。
王太子殿下は俺に、ジェルマンを守れ、と云った。それはなにも、ご自身が不在のあいだだけのことをおっしゃったのではないだろう。
汚い策謀をめぐらせるトレイユから、国を守るためにあらゆる手を尽くさねばならない国王陛下から、否、ご自身の死を既定のものと語られるエヴラール殿下自身からも、彼の命を守らなくてはならない。
王太子殿下のために。この国の未来のために。
それがいま、俺が果たすべき使命なのだ、とオリヴィエは思った。
王城へ戻ってからのオリヴィエは、片時たりともエヴラールの傍を離れなかった。最愛の妻がはじめての出産に臨むときも、無事に生まれたわが子が男児であったとわかったときも、妻が産褥の床を離れ、乳母とともにはじめての育児に追われるようになったあとも、ただの一度も屋敷に戻ろうとはしなかった。
はじめての子なのだろう、とエヴラールはあきれたようにそう云った。私のことならアランの侍従と侍女が見張っているのだから、なにも心配はいらない。顔くらい見に帰ってやるがいい。
だが、なにを云われても、オリヴィエは頑としてエヴラールの傍に留まり続けた。
ヴァレリーの云うとおり、誰が味方で誰が敵なのか、現時点では皆目検討がつかないことももちろんその理由のひとつではあったが、その最大は、いまオリヴィエの目の前に立つ黒服の男の存在にあった。
「私が強硬手段に出る前にどうにか折れてもらえないか、オリヴィエ・レミ・ルクリュ政務官。意地を通すは勝手だが、主に殉ずる美談は私の好みではない」
監察府長官ガスパール・ソランは、はっきりとそうわかるほどに苛々とした口調で、吐き捨てるように云った。
「エヴラール殿下は王権を害さんとした叛乱勢力と行動をともにし、捕縛された身の上。彼の方の身柄はわれら監察府の管理下に置くべきものだ。あなたがそうして引渡しを拒むことは、監察府の正式な要請に対する執行妨害にあたる。このままでは私はあなたのことまでも逮捕し、取り調べなければならなくなる。できればそれは避けたいのだ、というこちらの意を汲んではもらえないだろうか」
捕縛、とオリヴィエは短く云った。聞きようによっては、長広舌をぶったソランを莫迦にしているようにもとれる声音だった。誰が誰を捕縛したと、と王太子の腹心は続けた。
「失礼、私の耳が悪くなったのかと」
ソランの目が剣呑に細められた。貴族の身分にあるお方が、監察府長官であるこの私に喧嘩を売るなど、正気の沙汰とは思えない。
「あなたの主たる王太子殿下は、彼の従弟であり叛逆の徒のひとりであるエヴラール・ジェルマン殿下を捕縛なされた。そうだろう?」
「なにを云っているのだ、ガスパール・ソラン。監察府の長ともあろうあなたが、ずいぶんな勘違いをなさっているようだ」
「勘違い?」
「そう。勘違いだ」
ソランは激昂を堪えるような危うい笑みを浮かべ、どういう意味です、とオリヴィエに迫った。オリヴィエは内心の冷汗など欠片も気取られないよう、精一杯に厭味な表情を浮かべて見せる。
「王太子殿下は、叛逆者どもに捕らわれていたエヴラール殿下を保護なさったのだ。捕縛などとはとんでもない。私がここにいるのは、囚われの身となって心身ともにひどく疲弊された殿下の身の回りのお世話を、王太子殿下より仰せつかっているからにほかならない」
ソランの奥歯が砕けんばかりの音を立てた。そんな阿呆な云い訳でこの私を欺けると思っているのか、この王太子の腰巾着は。
ソランの悪態そのままに王太子の威光にぶら下がるだけの考えなしであったなら、オリヴィエが王太子の第一の側近でいられるはずがない。ソランの知らないところで苦労を重ねてきているオリヴィエは、冷たい声で云い添えた。
「エヴラール殿下の身柄は、現在、王太子殿下の庇護下にある」
ソランは無意識のうちに固く拳を握った。
「王太子殿下は、私に、ご自身の留守のあいだエヴラール殿下を保護するように、とお命じになった。殿下ご自身が覆さぬ限り、私は身命を賭してでもこのお言葉を守らなくてはならない」
「監察府が命じても、か」
監察府は絶大な権力を持っている。王族、貴族らに対する捜査権は絶対で、国王や王太子を廃するひとつの力となることさえできる。
だがそれでも、監察府は国王の命令によって動く、王府の機能のひとつだ。国を揺るがす大事の最中にあってなお、監察府は王命なしにはその権力をふるうことはできない。
強気な言葉を口にしながらも、ガスパール・ソランにはそのことがよくわかっていた。
オリヴィエの言葉のとおり、叛乱勢力のもとからエヴラールの身柄を奪還したヴァレリーは、従弟の身柄を一時的に自身で預かることにしていた。ヴァレリーにしてみれば、それはトレイユの魔の手からエヴラールの命を守るために、そして同時に、自身の耳でエヴラールの言葉を聞くために必要な措置だった。
国王は王太子の措置に異を唱えなかった。王太子の命令は国王の認めるところとなり、それに従うオリヴィエの言葉にはひとつの間違いもない。強弁で鳴らすソランをもってしても、つけ入る隙はどこにもなかった。
叛乱勢力の残党を狩るのに手間取っているせいで王太子の不在が長引いているいまこそが、絶好の好機であったのに――。ソランは歯噛みする思いで、オリヴィエを睨み据えた。
オリヴィエはソランの悔しさを察し、ひそかな同情を寄せた。
有能な官吏であるソランにとって、己の立場の弱さには忸怩たるものがあろう。貴族に対する捜査権だの、王族に対する廃籍の申立権だのといったところで、所詮は国王の手足にすぎない。
「監察府がいまの私になにかを命じることはできない。王太子殿下の命令に従っているだけの、いまの私には」
オリヴィエの言葉を最後に、ふたりは口を噤んだ。
ここに王太子がいれば、こんな面倒なことにはなっていない、とソランは思った。直接話しあうことさえできれば大抵の相手は動かせる、と彼は考えていて、そしていままでのところ、それはおおむね正しかった。ソランはとても優秀なのだ。
だが、こうして己の意思を持たぬ者――あるいは、自らの強い意思でもって他者の意に沿うことだけを優先しようとする者――を相手にするとき、ソランの能力はなんの意味も持たなくなる。いまのルクリュには誰の言葉も通じはするまい、と彼は思った。それはつまり、王太子が戻るまではどうあっても動きようがない、ということだ。
わかった、とソランは云った。
「出直してこよう」
「そうしてくれ」
ソランのそれよりもなお苦い声――と、ソランには思えた――でオリヴィエが答えた、そのときである。
「ルクリュさまッ!」
扉を叩くわずかな手間も惜しむかのような大声とともに、オリヴィエの執務室の扉が開かれた。部屋の主に背を向けかけていてソランの足がぴたりと止まる。それほどまでに切迫した声の主は、エドモン・マルケだった。
「いかがなされた? マルケどの」
いささか暢気とも云えるような口調でオリヴィエが応じた。
いまは老境に差し掛かったエドモンは、ヴァレリーがごく幼い頃から傍に仕えている侍従で、我儘な王太子を必要に応じて懐柔できる程度には有能である。とはいえ、なにかと大袈裟なところが玉に瑕だ、と思っているのが正直に表れたのである。
「殿下が……!」
殿下が、とオリヴィエは問い返した。
「エヴラール殿下がどうかなされたのですか?」
「そうではありません!」
エドモンの顔は真っ青で、唇の端や指先、否、全身が細かく震えている。
「マルケどの?」
エドモンは鋭い音を立てて、ひとつ息を吸い込む。そして、まるで口にしてはならない古い呪文を囁くような声で呟いた。
「王太子殿下が、神ノ峰で遭難なされたそうでございます」
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