06

「東国王太子?」

 ヴァレリーが仕込んだスープを木のスプーンで口に運びながら、ヴァイスが薄い唇をかすかに歪めた。エリシュカの身体を寝台の上に起こしてやり、木の椀とスプーンを手渡していたヴァレリーは、ヴァイスのほうを振り返りもせずに、ああ、と頷いた。

「おれは、東国王太子ヴァレリー・アラン・ラ・フォルジュだ」

「ラ・フォルジュ?」

 ヴァイスの声が訝しげに問うてくるのへ、ヴァレリーはまたもや、ああ、と頷いた。その声にはわずかな苦笑が含まれている。

「いったいどれほどの隠遁生活を送れば、この大陸の双璧がひとつである東国の王家の名を忘れられるのだ」

 ヴァイスは緑輝石の双眸をひたりとヴァレリーに据えた。ヴァレリーは彼の視線になどまるで頓着せずに、自らもスープを口に運びはじめる。

 エリシュカが目を覚ました日の夕刻のことである。

 鳥の肉を根菜とともに煮込んだスープを夕食に、ヴァレリーとヴァイスは食卓ではなくエリシュカの横たわる寝台を囲んでいた。

 エリシュカはまだ卓について食事を摂ることはできず、さりとて少しでも長く彼女の傍についていたいヴァレリーが彼女と別の食卓にはつきたがらず、結果、とくにエリシュカの容態に関心のないヴァイスまでもがこうして彼女の傍で食事をする羽目になっている。自分は一緒でなくてもいい、と渋るヴァイスを、エリシュカが話をしたがっている、とヴァレリーが説得した結果だった。

「食べられそうか?」

 ヴァレリーはエリシュカを気遣い、エリシュカはそれに答えて、はい、と頷いた。声は細く頼りないが、口調に乱れはない。

「そなたの荷物の中には何種類もの香辛料スパイスがあった。それを使わせてもらっている」

 勝手を詫びるヴァレリーに首を振って答えたエリシュカは、続けてささやかな疑問を口にした。

「アランさまは厨仕事がおできになるのですか?」

「騎士団の演習では、長期の野営に出ることもある。調理も訓練の一部であれば、王太子だからといって免除はされない」

 そうなのですね、とエリシュカは微笑んだ。ヴァレリーもまた微笑みで答え、ふたりはまるで初々しい夫婦のようにうっすらと頬を染めて見つめあった。

 数えきれないほどの夜、ふたりは褥をともにしたが、こんなふうに穏やかに話をする機会はほとんどなかった。それはなにもアランさまだけのせいではない、とエリシュカは思う。王太子というアランさまの身分に怯え、賤民という自らの身分に囚われ、大事なことをなにひとつ知ろうとしなかったわたしにも咎のあることなのだ。

 最初からこうしていればよかった。アランさまのお顔をきちんと見つめ、お声を聞いて、お話ししていればよかった。そうすれば、いまのように、なにひとつ取り返しのつかないことになってしまう前に、あるいは心を通わせあうことができたかもしれないのだ。

「ラ・フォルジュ、とな……」

 本格的な冬を迎えつつある霊峰に閉じ込められている者たちのものとは思えないような軽やかな笑い声を上げたふたりを、ヴァイスの声が現実に引き戻した。

 ヴァレリーはヴァイスを振り返った。眇められた緑輝石の眼差しを受け止め、彼は、なんだ、と短く応じた。

「……カヴェニャック」

「なに?」

「カヴェニャック、というのが、東国王家の名であると記憶していたが、違うのか」

 ヴァレリーは木の椀を持った手を膝の上へと置いて、カヴェニャックだと、と剣呑な声を上げた。

「それは先のレスピナス王朝に滅ぼされたカヴェニャックのことか?」

「レスピナス?」

 ヴァイスの目がすいと細められる、やがて彼をなにかを思い出したように、ああ、と両の眉をかすかに跳ね上げた。

「最低の爵位しか持たぬ貧しい貴族から、国務大臣まで上り詰めた成り上がりのことか」

「そなた、なにを云っているのだ?」

 そうがみがみ云うな、とヴァイスは笑った。どこか虚ろな笑みだった。

「ちょっとした確認ではないか」

「確認だと?」

 ヴァレリーが首を傾げる。

「どういう意味だ?」

「そのままの意味だ。長く山にこもっていると、世の中のことから遠ざかる。この庵に人を迎えるのも、ずいぶんとひさしぶりのことだしな」

 ヴァイス、とヴァレリーは命の恩人に向かいあう。

「そなたはいったいどれだけのあいだ、この地にいるのだ?」

 ヴァイスは笑んだまま答えなかった。

「カヴェニャックを滅ぼしたレスピナスの世は三代ほどで終わり、さほど長く続かなかった。六百年前、わがラ・フォルジュが東国を受け継ぎ、現王は二十六代目に当たる」

 これでよいか、とヴァレリーは云った。ヴァイスは頷きもせずに空になった椀を持って立ち上がった。

「待て、ヴァイス」

 ヴァレリーの制止にも足を止めず、腰ほどまでもある長い金髪を揺らしながらヴァイスは部屋を出ていった。緑輝石の双眸は伏せられ、その表情を読むことはできなかった。

「なんだ、あいつは……」

 思わずひとりごちたヴァレリーに、アランさま、と遠慮がちに呼びかけたのはエリシュカである。

「どうした?」

「あの方、泣いていらしたのではありませんか?」

「……泣いて?」

 ヴァレリーは目を見開いて問い返した。

「泣いていたのか、あいつは」

 もしかしたら、とエリシュカは気遣わしげに眉根を寄せてそう答えた。光の加減かも知れませんが、なにやら頬のあたりが濡れていたように思えたものですから。

 ヴァレリーは深く息をついた。泣いていただと。まるでわけがわからない。ラ・フォルジュの名を知らぬと云ったり、やたらに古い話を持ち出したり、話の途中で部屋を出ていったり。

 いや、待て。そもそもこのような山奥の庵に、たったひとりで住まうような男なのだ。わけがわからないといえば、彼の存在そのものが謎だと云えるのではないだろうか。

「何者なのだ、あいつは……」

 いまさらのようにヴァレリーは呟き、エリシュカとともに首を傾げた。


 長く起き上がっていることのできないエリシュカを先に寝ませ、ヴァレリーは隣室へと足を向けた。空になった椀をふたつ重ね、洗い物をしなければと水場へ目を遣れば、窓辺ではヴァイスが壁に身を凭れかけさせていた。

 こちらに背を向けるように窓の外へと眼差しを向け、明るい月明かりに白い頬を晒しているその姿は、どこかこの世のものではないような清浄さを湛えていて、ヴァレリーの背を寒くさせた。

「ヴァイス」

 低い声で呼びかけても、わずかな身じろぎさえしない。ヴァレリーはそんな彼を不審に思い、おい、とその肩に手をかけようとした。途端、ヴァイスが銀の髪を散らして振り返る。

「そなた、何者なのだ」

 行き倒れていた自分たちの命を救ってくれたヴァイスに感謝をしていないわけではない。それでもヴァレリーには、己とエリシュカとを守らねばならないという思いがある。狭い庵の中でともに暮らす男の正体を見極めたいと思うのは当然のことかもしれなかった。

「何者、か」

 ヴァイスは衒いのない瞳でヴァレリーを見つめる。澄んだ緑輝石になにもかもを見通されるような気になって、ヴァレリーは居心地悪げに首筋を掌で押さえた。

「私にもわからない。わからなく……なった」

「わからなくなった?」

「この身を得てから、ずいぶんと長い時間が経った。王朝がいくつも滅び、国が幾度も姿を変えるほどに、な」

 そのあいだ、ずっとひとりだ、とヴァイスは云った。

「自分が何者であるかなど、わからなくなっても当然であろう」

「なぜ、ひとりでこんなところに?」

「この世界の中でここだけが私のいるべき場所だからだ」

 ヴァイスの表情はほとんど動かなかった。だが、その目の奥にかすかなやわらかさが宿り、ただそれだけで、ヴァレリーには、彼が心の底から望んでここにあるのだということが理解できた。

「……そうか」

 この男がおれたちを害そうとすることはないだろう、とヴァレリーは思った。ヴァイスはおれたちをどうこうしようと考えるほど、おれたちに興味がない。否、おれたちだけではなく、ほかの誰にも興味がない。彼の心を動かすものははるか昔に失われ、二度と戻ることはないのだろう。

 悪かったな、とヴァレリーは云った。

「いや」

 短く答えると、ヴァイスは寝床にしている長椅子に身を横たえ、そのまま目を閉じてしまう。ヴァレリーもまた明日からの暮らしに備えるため、急いで皿を洗い終えると、木の床の上にこしらえた寝床――何枚かの毛布と着ていた外套とで寒さをしのぐ――にもぐり込んだ。


 庵での日々は静かに、穏やかに過ぎていった。

 ヴァレリーは鳥や獣の狩に出かけ、木の芽や草の芽の採取に出かけ、三人のための食事を用意した。エリシュカはすこしずつ体調を安定させながら、調子のよいときには庵の掃除をしたり洗い物をしたりしていた。

 解放した、とヴァイスに云われていたはずのテネブラエは、いつのまにか庵に戻ってきており、彼と再会したエリシュカは小一時間もその傍を離れようとせず、ヴァレリーを苛立たせた。

 だが、戻ってきたテネブラエの世話をすることになったのは、そのヴァレリーだった。

 感動の再会をはたしたその日、もちろん自分が世話をすると云い張って聞かなかったエリシュカだったが、翌日には再び熱を出して寝込むことになり、あっけなく白旗を掲げたのである。

 テネブラエはヴァレリーの手に噛みついたりはしなかった。長く、とは云えぬまでも、それなりの時間をともに過ごし、厳しい旅に耐えてきたのだ。意地を張ることになんの意味もないと――愛しい主をいたずらに心配させるだけだと――賢い獣は気づいていたのだろう。いかにもしぶしぶながらではあったが、エリシュカを安心させるため、仮の世話役の手から飼葉を食む芸当さえ披露してみせた。

 ヴァイスはふたりのしたいようにさせ、必要なとき以外ほとんど口をきかなかった。

 彼には彼なりの暮らしがあるのだ、とヴァレリーとエリシュカはすでに悟っていた。彼は静謐を破る闖入者たる自分たちを受け入れてくれてはいるが、決して歓迎はしていない。

 激しい吹雪の日も、凍える快晴の日も、薄暗い曇天の日も、ヴァイスは毎日欠かさずどこかへと出かけて行った。エリシュカの具合が悪く、ヴァレリーがそんな彼女の傍についていてほしいとどれだけ頼んでも、ヴァイスは自分の習慣を枉げることはなかった。

 また、彼は食事にも睡眠にもあまり気を使ってはいないようだった。出される食べものを拒むことはなかったが、鳥や獣の肉などはほんの少しで満足するようだったし、夜通し書を読みふけり、一睡もしないでいることも多かった。

 はじめのうちこそ、そうした彼の暮らしに疑問を抱くことも多かったふたりだが、そのうちにすっかり慣れてしまい、なにを云う気にもならなくなった。神の住まう山にたったひとりで暮らすような男なのだ。もともとあまりまともではないのだろう。

 それでもふたりはヴァイスに深く感謝していたし、悪く思うこともできそうになかった。

 やがて、ヴァレリーのけががすっかり癒え、エリシュカの体調が安定すると、ふたりは少しずつ焦りを募らせるようになった。

 一刻も早く自身の無事を王城へ伝えたいヴァレリーと、少しでも早く家族のもとへ帰りつきたいエリシュカは、それぞれ事情は異なれど、同じように旅の続きを急ぎたいと考えるようになってきたのである。

「真冬の山をそのようななりで行こうなどとは、無謀にもほどがある」

 けがも病も癒えたことだし、そろそろ先へと進みたいと思う、と云いだしたヴァレリーを、ヴァイスはそう云って咎めた。ある日の、朝と昼を兼ねた食事の最中のことだ。

「おれには先を急がねばならない事情があるのだ」

「命を失えば、その事情とやらも失われるのではないか」

 そんなことくらいわかっている、とヴァレリーは声を荒らげた。それでも行かねばならぬ理由があるのだ。

「無茶は承知の上だ」

 ヴァイスは無表情のまま、莫迦を云うな、とばかりに鼻を鳴らしてみせた。

「おれはここのところしばらく山の気候を見守ってきたが、冬場とはいえ、そう滅茶苦茶なことにはなっていないように思える。荒天と晴天を数日おきに繰り返していて、荒れた天気は、続いても四、五日だ。それくらいならば、岩場の陰や荷物を盾にして凌げるのではないだろうか」

「ここと神ノ峰の中とを同じに考えるな」

「ここだって同じ山の中であろう」

「ここは特別なのだ」

 なんだと、とヴァレリーが云うと、ヴァイスはどこか苦々しい表情になった。

「ここは特別の加護を受けた場所なのだ」

「加護、だと?」

 そうだ、とヴァイスは頷いた。

「この庵とその周囲は、ここの主によって護られている。そうでなければこの冬の山の中、こうもつつがなく暮らせるはずがないではないか」

「主?」

 ヴァイスは、その問いには答えなかった。訝しむヴァレリーとエリシュカに向かって、薄く、曖昧に笑いかけ、旅はまだ無理だ、と云った。

「なぜだ?」

「なにがだ」

「なぜ、おれたちを引き留めるような真似をする?」

「せっかく助かった命だ。あたら無駄にすることもあるまい」

 助けた命が危うくなるのは厭だ、というわけか、とヴァレリーが呟くと、ヴァイスは、別に、と云った。

「私は別にかまわない。おまえたちが死のうが苦しもうが関係ない。どうしても、と云うのなら、これ以上引き止めたりはしない」

「では、なぜ……?」

 思わず口を衝いて出たエリシュカの問いに、ヴァイスは緑輝石の瞳をわずかに細めた。

「……マリアならばこうするだろうと思った」

「マリア?」

「この庵の真の主だ」

 話は終わりだ、とばかりにヴァイスは立ち上がった。

「私は出かけてくる」

 残されたヴァレリーとエリシュカは顔を見合わせてヴァイスの言葉に首を傾げ、どうにか彼を説得できないだろうかと考えた。だが、山の中に暮らし、ここを誰よりもよく知っているのであろうヴァイスの言葉に逆らうことが愚かしいことだということは理解できる。

 いましばらくは、ここでエリシュカとともに静かに過ごすのも悪くはないのかもしれない、とヴァレリーは小さなため息をついた。

 あるいはヴァイスには、このおれの本当の気持ちを見透かされているのかもしれない。

 旅を続け、神ツ国へ辿り着き、あるいは東国へと戻ってしまえば、ヴァレリーがこうした穏やかな時間を過ごすことはできなくなる。ただの男であり続けることはできず、王太子として――やがては王として――生きていかなくてはならないからだ。

 ここではなにも考えなくていい、とヴァレリーは、食べ終えたばかりの皿を片づけはじめたエリシュカの背中をぼんやりと眺めながら思う。

 ここにはなにもない。国も、政も。民も、臣も、王も。――なにも。

 だからおれは、なにも考えなくていい。否、なにもではない。ここで考えるのは、食べること、天候のこと、ともに暮らす者たちの平穏のこと。

 それだけだ。

 自分たちが生きるのに必要なだけの命を分けてもらい、嵐を耐え忍ぶだけの庵と炎を守り、そばに暮らす者たちが健やかであることだけを願う。

 たったそれだけのことで、人は、これほどまでに満ち足りた気持ちになれるものだということを、これまでおれは知らずに生きてきた。

 なぜだろう、とヴァレリーは思う。

 東国で並ぶ者なき地位に立つことを約束され、それに見合った贅沢と権力とを与えられ、そのことに一度の不満も覚えたことはなかった。なのになぜ、おれの心は一度も満たされたことがなかったのだろう。

 ここには誰もいない。傅く臣も、称賛する民も。

 ここにはなにもない。使いきれないほどの財貨も、贅沢な調度も。

 なのになぜ、おれはこんなにも穏やかで静かで、そのくせ満たされた気持ちで日々を過ごすことができるのだろう。

 エリシュカとヴァイス、彼らと身を寄せあうための小さな庵。それが、いまのおれのすべてだ。

 食べるために鳥獣を撃ち、羽を毟り、皮を剥いで調理する。肉を食べるだけではなく、骨まで煮てスープを取り、余すところなく腹に収める。

 狩のない日は罠を作り、銃を手入れする。長靴や外套などの綻びも繕う。

 ヴァイスの読んでいる書を借りて少しずつ読み、エリシュカと他愛のない話をする。

 するべきことは多く、それでも日々はとても静かだ。

 望むべくもなかった日々。そして、この先二度と望むことのできない日々。

 そうだ、あと少し、とヴァレリーは思った。

 あと、少しだけでいい。この穏やかな日々を、あと少しだけ慈しむことを許してもらえたら、おれは、もうそれ以上なにも望まずに生きていける。

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