13

 王太子付侍女クロエ・クラヴリーと王城警護騎士シプリアン・バローを従えた監察官モルガーヌ・カスタニエが、東国王太子ヴァレリー・アラン・ラ・フォルジュの情人エリシュカを追う旅に出たのは、王太子が領地視察から戻った翌朝早くのことであった。


 まだ陽も昇っていない、と出立を遅らせるよう暗に匂わせる王太子側近オリヴィエ・レミ・ルクリュの言葉に、モルガーヌは、いいえ、ときっぱりと首を横に振ってみせた。

「諸々を考え合わせますと、わずかでも出立を急ぎたいのです、ルクリュさま」

「諸々、とは?」

 ヴァレリーの代わりにオリヴィエが尋ねる。早朝から目通りを願い出るモルガーヌのせいで、夜着をあらためる暇も与えられなかったふたりの男の前に立ち、彼女は、はい、と深くひとつ頷いて説明をはじめた。

 侍従を通じて、大至急お目にかかりたい、と王太子とその側近を叩き起こし、ここで待つがよい、と放り込まれていたヴァレリーの執務室でのことである。

 バローとクロエを手足に使いつつ、同時に自身でも聴取を行った結果、モルガーヌはエリシュカの行方についての推論を確信に変えていた。

 王都を出てより西方へ向かったはずだ、というそれについては、しかしバローもクロエも異議を唱えた。

 そしていま、彼らと同じようにヴァレリーもオリヴィエも、モルガーヌの言葉に賛意を示そうとしない。それでもモルガーヌは自説を枉げようとはしなかった。

「では、殿下がシュテファーニアさまに使者を遣わされたことも無駄だというのか、カスタニエどの」

 いいえ、とモルガーヌは首を横に振った。

「そうは申しておりません。あくまでも私の考えをお話ししております」

「おまえの云いたいことはわかった。北への使者は委細をすべて承知している。エリシュカが現れれば、ただちにおれに知らせてこよう。おまえまでもが北へ向かう必要はない。西でも南でも好きなように探せばよい。だが、これほどまでに急ぐ必要があるか」

 ヴァレリーの問いに、モルガーヌは、はい、と険しい顔で頷いた。

「お嬢さまは優れた脚を持っておられます。云うまでもありませんが、テネブラエのことです。しかも厩のお世話を長くしていらしたぶん、馬の扱いにかけては手練れでいらっしゃいます。私どもが馬を乗り継いで駆けましたところで、そう簡単には追いつけませんでしょう。国境を超えられてしまえば、殿下のご威光をもってしましても追跡は難しくなります。なんとしても、お嬢さまより早く南国との国境に辿り着かねばなりません」

「しかし、エリシュカはひとり身の旅だ。夜、あるいは昼のいずれかはやすまねばならん。いかなテネブラエとて不眠不休では駆けられまい」

「お嬢さまが城を出られてから、すでに八日が過ぎております。旅に慣れぬ身であるとはいえ、相当程度に先を進まれておりましょう。急がなくては、南国との国境の街へ先んずることができなくなってしまいます」

「途中で追いつくことは考えていない、というわけか」

 はい、とモルガーヌは頷いた。

「大きな街道は限られていますが、それでも道を塞いで旅人すべてをあらためることができない以上、お嬢さまのお姿を見落とす可能性は低くはありません」

 同時に、途中の街のどこかでエリシュカが足止めをされているのではないか、という期待はしないほうがいい、とモルガーヌは考えていた。非公式ながら街の衛士たちや官吏には手配書を回してあると聞いているが、なにぶんエリシュカはその姿を変えている可能性が高いのだ。

 そのことに気づいたのはモルガーヌではない。クロエである。

 洗濯婦ソフィから、彼女がエリシュカに髪の染粉を渡したことを聞き出したクロエは、その足で厩に向かったのだという。

 いったいなぜそんなところへ、とモルガーヌが尋ねると、クロエは、だってお嬢さまがわれわれの目を盗んでなにかできるとしたら厩しか考えられませんでしょう、と当然のように答えたのだった。出奔する前の晩まで、エリシュカの容姿に変わったところはなかった。となればエリシュカは、城を出たその朝に髪を切り、染粉を使ったということになるはずだ、と。

 厩舎へと足を踏み入れたクロエは、迷うことなくテネブラエが使っていた囲いへと歩を進めた。

 ここはこの王城の中で唯一、お嬢さまが自由に振る舞うことのできた場所。そう考えたクロエは、王太子の情人として下にも置かぬ扱いを受けていたエリシュカが、じつは牢に閉じ込められている囚人と変わらぬ不自由を強いられていたのだ、ということにあらためて気づかされた。なにやら胸の詰まるような思いがしたが、そのときの彼女にとってそんなことはどうでもいいことだった。

 敷き詰められたままだった寝藁を端からすべて退け、舐めるように床を検分するという執念深い作業ののち、クロエはその場所で、わずか数本の銀色の髪を見つけ出した。クロエの肘から指先ほどまでも長さのあるそれは、たしかにエリシュカの髪に違いなかった。

 クロエによってその髪を届けられたモルガーヌは息を詰めて、思考を巡らせることとなった。――いったいこれは、どういうことなのだろう。

 ずいぶんと思い切りよくお切りになられたものですね、とクロエが云い、モルガーヌは、背を覆うほどに伸ばされていた長い髪を、エリシュカが自ら切り落としたのだということに気づかされる。

 なんということを、とモルガーヌは息を飲んだ。あの美しい銀色をこのように無造作に――。

 そればかりではありません、とクロエは続けた。洗濯婦に聞いたところによれば、お嬢さまはお髪の色を濃い色に変える染粉をお持ちでいらっしゃいます。お髪の色と長さを変え、城を出られたのではないでしょうか。

 その後、バローからの報告と自ら聴取した事実とを考え合わせることにより、エリシュカが城から抜け出した手口はほぼ解明された。

 モルガーヌは正直、舌を巻く思いだった。――あのお嬢さまに、これほどの行動力がおありだったとは。

 ヴァレリーの傍らに連れてこられてからというもの、エリシュカは戸惑い、怯え、おそれいるばかりで、自分からはなにひとつ――あの青毛馬の世話を除いて――行動を起こそうとはしなかった。

 伏し目がちに俯き、囁くような声で話し、虚ろな目で窓の外を眺める――。ヴァレリーとの閨の務めがふたたび課せられるようになってのちのエリシュカは、いつだってそんな調子で、だからこそモルガーヌは、己の職務とは別の次元で彼女を気の毒と思い、彼女のためにと尽力もしたのだ。

 これほどのことができるのなら、とモルガーヌは思った。王太子殿下のお心があのように頑なになってしまう前に、お嬢さまにはもっとできることがあったのではないだろうか。

 これまでのモルガーヌであれば、そこで思考を停めてしまっていたことだろう。彼女にとっての絶対である王家――やがては、そのすべてを承継することになる王太子――に望まれ、それを拒むなどあってはならぬことだったからだ。

 そうか、とこのときはじめてモルガーヌは己の蒙を啓かれたような思いがした。

 そうではないのだ、とモルガーヌは奥歯を噛みしめる。お嬢さまは王太子殿下の手など望んではいなかった。最初から、最後まで。――ただの一度も。

 エリシュカは、ただの一度もヴァレリーの隣にありたいと望んだことはなかったし、故郷の家族とふたたびまみえることを諦めたこともなかった。この国で並ぶ者なき男に望まれ、それを喜ばぬはずがない、と考えていたモルガーヌにとって、それは思ってもみないことだった。

 モルガーヌは臍を噛む。この国の王のほかに仕えるべき相手を持たず、この国のほかに生きる場所を持たぬ彼女にとって、エリシュカの望みに理解が及ばなくとも、それは致し方のないことといえた。それでもモルガーヌは、これまでの己の不明を悔やまずにはいられない。そうとわかっていれば、対処のしようもあったものを、と。

 しかし、考えようによっては気づいたのがいまでよかったのかもしれない、と彼女は考えた。いまならばまだ取り返しがつくからだ。

 この国にとどまる――ヴァレリーの隣にとどまる――必要のないエリシュカが、城を出て目指す場所はたったひとつしかあるまい。

 故郷、――神ツ国。

 長い道のりを歩み、険しい霊峰を越え、それでもなお、エリシュカは家族のもとへ帰りたいと望む。

 そのためならばお嬢さまはなんでもなさるつもりなのだろう、とモルガーヌは思った。

 おとなしやかな気質のエリシュカは口数も少ないし、勝手な振る舞いもしない。しかし、だからといって己の頭を使うことを知らないわけではなく、いざというときの行動力も備えている。

 つまり私はお嬢さまのことをたいして理解していなかった、ということなのね、とモルガーヌは思った。心に秘めた望みも考えも、なにひとつ明かすことなく、エリシュカは去っていった。

 私は考えをあらためなくては、とモルガーヌは決意する。お嬢さまは、力を持たぬか弱い存在などではない。したたかでしぶとく、ある種のずる賢ささえ備えた存在であると思わなくては――。

 ぐずぐずしてはいられない。一刻も早くお嬢さまをお迎えにあがらなくては、今度こそ取り返しのつかないことになる。

 それゆえにモルガーヌは、ヴァレリーやオリヴィエさえもが驚くほどにことを急ごうとしているのだった。


 そうだとしても、とオリヴィエは、日ごろは穏やかな表情を浮かべていることの多い顔をきつくしかめてみせた。

「馬を乗り継ぎ、道を急いだところで、所詮はそなたたちも旅慣れぬ身。昼夜を徹して駆けるわけにはいかないだろう」

 承知しております、とモルガーヌは頷いた。

「しかし、寸暇を惜しむ旅ゆえ、すぐにでも出立のお許しをいただきたいのです」

「カスタニエ」

 逸る監察官を諌める声はヴァレリーのものだった。

「おまえの考えはわかった。だが、いまひとつ聞かせてもらいたいことがある。かまわぬか」

 はい、とモルガーヌはまっすぐに王太子を見つめた。

「エリシュカはなぜ城を出た。おまえにはその理由がわかるか」

 思わず息を飲むモルガーヌを見ながら、殿下はずっとそのことを考えておいでだったのだな、とオリヴィエは思った。

「おそれながら殿下。殿下にお心当たりはございませんのでしょうか」

「心当たり?」

 ヴァレリーは首を傾げる。心当たりとはなんだ、と彼は思った。

 エリシュカに対し、非道な振る舞いをしていた自覚はある。ひとつ部屋に閉じ込め、夜ごと抱き潰した。出歩く自由も、誰かに会う自由も与えず、ただ己のためにのみ生かそうとした。

 それを厭うたというのなら、ある意味では当然のことと思う。自分でもやりすぎたと思うくらいなのだ。

 だが、エリシュカはなにも云わなかった。黙ったまますべてを受け入れていた。――ように思えた。

 厭だとも、つらいとも、苦しいとも云わず、ヴァレリーの手を拒むことさえしなかった。

 自分の留守の隙に城を抜け出すほどの不満がエリシュカにあったというのなら、なにがしかのきっかけや、あるいは兆候があってもよさそうなものだ。だが、そんなものはなかった。気づかなかった。

「お嬢さまは、故郷のご家族のもとへ帰りたい、とお望みだったのではないでしょうか」

 そういった想いを口にされたことがおありだったのではないでしょうか、とモルガーヌは問う。

「それは……」

 思わず云い淀むヴァレリーに、モルガーヌは小さく頷いてみせた。

「おありだったのですね」

 ああ、とヴァレリーは眉間に皺を刻んだ。

「あった。幾度かな」

 そういえば泣いて乞われたこともあったな、とヴァレリーは思い出す。――あれはいつのことだったか。

「殿下はまともに取り合われなかった」

 ヴァレリーは思わず険しい顔でモルガーヌを睨みつけた。モルガーヌはいささかの動揺も見せずに先を続けた。

「私も同じです。同じなのです、殿下」

「どういう意味だ?」

「私は、お嬢さまが故郷へ帰りたいとおっしゃっておられることを存じておりました。あまりあからさまなことはなさいませんでしたが、ご家族の縁を納めた小箱を決して手放すこともなく、シュテファーニアさまがいらっしゃいました時分には、ずいぶんと彼女のご帰国を気にされているようでもありました」

 エリシュカが拙いロープを自ら結って、露台から飛び降りようとしたときのことを思い出す。あんな姿を見ていながら、彼女の望みの強さに、思いの深さに気づくことができなかったなんて――。

 もしもあのときにお嬢さまの真の望みに気づいていれば、決して、そう決して、王太子殿下と彼女とを引き離すよう、ルクリュさまに頼んだりなどしなかった。

「けれど、一度としてお嬢さまの言葉をまともに受け取ったことなどなかったのです。この国の第一王位継承者であり、やがてはこの国と王となられる殿下に望まれ、その手を本気で拒もうとする者がいるなど、私には想像もつきませんでした。殿下も、同じだったのではありませんか」

 ヴァレリーは喉を突かれでもしたように声を上げることができなかった。

 モルガーヌの云うとおりだったからだ。

 エリシュカの口から、故郷に帰りたい、とはじめて聞かされたときには憤りもした。感情に任せて粗雑に扱いもした。その怒りは、このおれに望まれてなにを拒むのか、という傲慢ゆえのものでもあった。

 だが、その後繰り返される嘆願はさして気にも留めなかった。ただの気の迷いだろう、とそのときにはすでにそう結論付けていたからだ。

 いったい誰があんな願いをまともに受け取るというのだろう、とヴァレリーは思う。故郷へ帰れば家族が待っているとはいえ、その身分は賤民へと戻るのだ。希望もなく、救いもなく、そこにはきっと未来もない。厳しい仕事にどれほど励もうとも、身も心も蔑まれ虐げられて、ただ襤褸布のように使い捨てられていく人生に、なんの未練があるというのか。

 東国に残れば、王太子の隣に立つ者として貴ばれ、傅かれて、なにひとつの不自由もなく暮らしていくことができる。これ以上ないほど大事にしてやると云っているのだ。なんの不満があるというのか。

 たしかに異国の賤民という身分の政治的な利用価値を考えはするが、それでもエリシュカという個を蔑ろにすることはしない。彼女が望むものはなんでも与えてやるし、望まぬものはどんなことがあっても排除してみせる。

 ヴァレリーの想いは、たとえそこにどんな思惑が混ざっていたとしても、決して紛い物などではなかったのだ。

 そのことはエリシュカにも伝わっていると思っていた。

 帰りたいという懇願は、神ツ国の者たちから引き離されたいまだけ覚える里心のようなもので、いずれ冷静になれば、どちらが――自分の傍に残るか、あるいは去るか――己にとってよりよい選択であるか、おのずと理解できるはずだと、そう考えていたのである。

「それが間違いだったのです」

 モルガーヌの声に、ヴァレリーは思わずびくりと身体を震わせた。

「間違いだったのです、王太子殿下」

「間違い……?」

 はい、とモルガーヌは重々しく頷いた。

「お嬢さまの望みは最初から最後までたったひとつで、一度として変わられることはありませんでした。故郷のご家族のもとへ帰りたい。それだけだったのです」

「それが、エリシュカが城を出た理由だというのか」

「さようでございます、殿下」

 そうか、とヴァレリーは夏空色の瞳を細く眇めた。

「……しかし」

 それまで黙ってなりゆきを見守っていたオリヴィエが静かに口を挟んだ。

「そうは云っても、現実にエリシュカさまが国境を越えることは難しいだろう。旅慣れぬ女性が、それもひとりきりで長い道のりを進み、険しい山を越えることは不可能なのではないか」

 すでに複数の追手もかかっている、とオリヴィエは続けた。ヴァレリーは王家に忠誠を誓う正規の兵のほかに金で動く私兵を雇い、エリシュカの行方を追わせていた。

「お嬢さまはひたすらに神ツ国を目指して進まれることと思います。殿下のお手が延ばされることも承知しておいででしょう。この国でもっとも大きな権力を持つ王城からの追手を躱し、国境を越える。それがいかに困難なことであるか、お嬢さまはおそらくきちんと理解していらっしゃる」

 それでも、あらゆる手立てを講じて望みを叶えようとなさるに違いありません、とモルガーヌは云った。

「なにがあっても見失うことなく、最初から最後まで抱き続けた願いなのですから」

 ヴァレリーもオリヴィエも、もうひと言の疑問も挟まなかった。

 まったくとんだ道化だったというわけだな、とヴァレリーは自嘲した。

 己の行き過ぎた振舞いをどうにかして正そうと、身を戒めるようにエリシュカから離れたのは、なにもこんなふうに裏切られるためではなかった。自分でもどうにもならない激情から距離を置かせてやることで、エリシュカに己の未来を思い定めてもらいたいと思ったのだ。

 諦めでも打算でも、いっそのこと野心でもかまわなかった。エリシュカが自分のそばに残る覚悟を定めてくれるのならば、それでもかまわなかったのだ。ヴァレリーはどうしたって彼女を手放すことはできなかったのだから。

 城を空けるにあたってデジレやモルガーヌには、エリシュカから目を離すな、と申し渡してはあったけれど、エリシュカが本当に逃げ出すなどとは思っていなかった。

 万にひとつ、エリシュカが富や権力に迷うことなく、ただ家族を想う心だけを大事にしたところで、いったい彼女になにができるというのか。シュテファーニアが城を離れたいま、この東国に縋る縁のひとつとて持たぬエリシュカが、どうして出奔するなどと思えるのか。

 エリシュカをとどめおくための檻は万全だったはずだ。二重にも三重にも巡らされた囲いは、どれかひとつでも十分な威力を発揮するはずだった。

 己の想いひとつで繋ぎ止めることができないにしても、豊かで贅沢な暮らしやこれまで無縁であった権力は魅力的であろう。富や力に惑うことがなかったとしても、ひとりで異国を旅し、山を越えることは不可能だ。

「よもや、と思っていたのだがな……」

 どこか疲れたようにそう云って、ヴァレリーは執務椅子に深く凭れこんだ。

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