39
クロエ、と静かな声に名前を呼ばれて、クロエ・クラヴリーは目を覚ました。身体の芯に乗合馬車の揺れがひどく響くような気がする。
「ジアンさま」
「ギャエルと呼んで、と云っているのに」
甘い響きを乗せた男の声に戸惑ったクロエは、返事をせずに黙って俯いた。慣れない。どうしても慣れることができない。
ジアンが苦笑いをする気配がした。云い訳をしようと顔を上げたクロエは、直後に男の腕に肩を抱かれてまたもや俯いてしまう。やっぱり慣れない。
エリシュカのことを知っている、と口を滑らせた少年に対するモルガーヌの尋問は過酷なものだった。叩いたり殴ったりすることはほとんどなかったようだが、食事や水を与えなかったり眠らせなかったりと、そのやり方は陰湿で残酷だった。
そうした彼女に対して異を唱えた自分のことを、クロエは間違っているとは思わない。王城に仕えるようになってからはじめて、自分の意志で誰かの命令に反論したのだ。――あんなこどもを拷問にかけるなんて、どんな目的があるにしたって間違いに決まっている。
だが、モルガーヌはクロエの意見などろくに聞こうともしなかった。口答えを重ねるクロエを厳しく叱責し、そのうえ衛士詰所の一室に閉じ込めて、彼女はジーノの尋問を続けさせた。
モルガーヌのあまりの苛烈に怒りを覚え、さらに自分への仕打ちに失意したクロエを救い出してくれたのは、王城からともに旅を続けてきたギャエル・ジアンだった。
可哀相に、とジアンは云った。いろいろ思うところはあっても、従うことに異存のなかったモルガーヌの、これまで見たことのなかった一面に怯える姿を勘違いされたのだと気づいたのは、もう彼の腕にきつく抱きしめられたあとのことだった。
ジアンの手がクロエの頭をやさしく撫でる。弟や妹が生まれてからこの方、両親にでさえこんなふうにやわらかく撫でられたことのなかったクロエにとって、これはよくも悪くも衝撃的なできごとだった。
「ジ、ジアンさま……」
お放しください、とクロエは云った。
「だめだよ。カスタニエどのにひどいことをされたんだろう?」
「ひどいことなんか……」
とにかくお放しください、とクロエはジアンの胸に腕を突っ張り、どうにかこうにか男の腕の中から抜け出した。頬が真っ赤に染まっているのが自分でもわかる。
「衛士たちから聞いたよ。こどもを拷問にかけるなと云ったら、ひどく叩かれたうえにここに閉じ込められたって」
「私の云い方が悪かったのです。もっとちゃんと話せばモルガーヌさまだって……」
「わかってくれると思うかい?」
そう云ったときのジアンは、ひどく冷たい笑みを浮かべていた。
「あのカスタニエどのが、きみの話を聞いたりすると思うかい? ましてや受け入れて、自分のやり方をあらためるとでも?」
あの人の噂は僕でも知ってる、とジアンは云った。
「王太子殿下付筆頭侍女デジレ・バラデュールどのの忠実な猟犬、あるいは、王太子殿下付烈女、ってね」
「……烈女」
そう、とジアンは頷いた。まったくの出鱈目というわけでもなさそうだよね。
「きみはいまのままでいいの?」
唐突な質問の意味がわからなかったクロエは、首を傾げてジアンを見た。
「いまのまま、カスタニエどのの指示に従って動くだけの侍女でいいの、って訊いてるんだよ」
ジアンは、にっこり、という音がしそうなほどに完璧な笑顔を浮かべて、クロエを見た。戸惑ったクロエは戸惑いながらも、はい、と小さく頷いた。
「本当に?」
「あの、先ほどからお話の意味が……」
「カスタニエどのの云うとおりにエリシュカさまを捕らえることは、本当にエリシュカさまのためなのかなあ。もっと云えば、本当に王太子殿下のためなんだろうか」
話の意味がますますわからなくなったクロエは、ぐっと喉を詰まらせて黙り込んだ。
「エリシュカさまが城を出られたのはさ、カスタニエどのの落ち度なんだろう?」
クロエは思わず大きく目を見開いた。
「そんなに驚かなくても城勤めの者ならみんな知ってる。その責任を取って監察官になったことも含めてね。まさか僕が、その彼女と一緒に旅に出ることになるなんて思ってなかったけどさ」
ねえ、クラヴリーどの、とジアンはどこか媚びるような声で云った。
「エリシュカさまをお城に連れ戻すことはさ、本当はカスタニエどのご自身のためなんじゃないの。自分の失態をどうにかして取り戻したいだけの、さ」
「お城に戻られることはエリシュカさまの、いいえ、エリシュカさまと王太子殿下の幸せのためなのです」
「本当に、そう思う?」
ぐっと顔を寄せられ、間近から眸の奥を覗きこまれ、クロエはおおいに慌てた。
「……お、思います」
「本当に?」
クロエはとうとう俯いてしまった。強張ってしまった小さな身体を抱き寄せたジアンは、まるで云い聞かせるように囁いた。
「本当はそんなこと、これっぽっちも思っていないんだよね、可哀相に。仕事だから、役目だから仕方なくここにいるんだろう?」
違う、とクロエは首を横に振った。たしかにこれは仕事だけど、役目だけど、――それだけではない。
お嬢さまがお城を出られたのは、モルガーヌさまだけのせいではない。いろいろと難しいお話はあるのかもしれないけれど、とにかく、あたしにだって責任はある。だからお嬢さまを迎えに行くのはあたしの役目でもあるんだ、とクロエは思った。
そりゃあ、お嬢さまはお城になんか戻られないほうが、もしかしたら幸せなのかもしれないと思ったことはある。王太子殿下の狂気じみた情念なんかじゃなくて、もっと穏やかな想いを寄せてくれる誰かと寄り添って暮らすほうが、って。
短い期間だったけれど、お嬢さまはあたしが一生懸命お仕えしたはじめての主だ。そりゃあ、もっとはっきりとご意志を示されればいいのに、とか、もっときびきびとお話しなさればいいのに、とかそういうことは思ってた。いつも俯いてばかりじゃ周りの景色なんて見えないし、周りが見えなけりゃ幸せになんかなれない。
だけど、やっぱりお嬢さまには王太子殿下の傍にいてもらいたいと思う。だってお嬢さまが傍にいるときの王太子殿下ときたら、それはそれは幸せそうな満ちたりたお顔をなさるんだから。この国の未来を背負って立たれる殿下が幸せだと、あたしたちまで幸せな気分になれそうじゃないか。
そう考えていたクロエは、己に課された役目を仕方のないものだと思ったことなんて一度もなかった。自分が働くことの意味が給金以外にもあるのならば、それは王太子殿下やお嬢さまの役に立つことなのではないかと、そう思っていた。
クロエがそう云うと、ジアンはひどい顰めっ面になって、もう一度、可哀相に、と云った。
「クラヴリーどのは、いや、クロエはすっかり騙されているんだよ」
え、とクロエは首を傾げた。
「騙されてるって?」
「自ら王城を出られたエリシュカさまがさ、もしもここで捕まって連れ戻されて、それで素直におとなしくしていると思う?」
クロエは目を瞬かせた。そんな先のこと、考えたこともなかった。
「また逃げだすに決まってるよね。だってエリシュカさまは王城が厭で、王太子の慰み者になるのが厭で、逃げ出したんだから。どれだけ見張りを厳重にしてもさ、きっとまた同じとの繰り返しだよ」
引き結んだままのクロエの唇が震えた。
「そのたびに傍付の侍女はお叱りを受けるよね。場合によっては厳しい罰も受けるかも知れない。それはさ、クロエ、きみなんだよ」
「え?」
「ほら、きみはなんにも知らない。だから騙されてるって云ったんだ」
「どういう、意味ですか」
うん、とジアンは微笑んだ。罠にかかった獲物を仕留める狡猾な獣のような、どこか獰猛な笑みだった。
「カスタニエどのは、もう侍女には戻らないよ。彼女は監察官になったんだからね。もう侍女には戻れない。ということは、エリシュカさま付の侍女でもなくなる、ということだ。エリシュカさまが城にいたとき、彼女付の侍女はカスタニエどのときみだけだったんよね、クロエ」
クロエは黙って頷いた。
「ということはさ、エリシュカさまがお城に戻ったあと、彼女の傍に仕えるのはきみをおいてほかにはいないよね。補充されることもあるかもしれないけれど、そんなのはずっとあとのことだ」
なにしろエリシュカさまのご身分はいろいろと厄介だから、とジアンは云った。
「迂闊な者をおそばにつけることはできないって、だからカスタニエどのときみだけがお仕えしていたんだろう?」
そのあたりの政治的な――というよりも、政治的感情の絡んだ――事情をクロエはあまりよく知らされていない。ただ、モルガーヌがエリシュカのそばにつける者の人選に相当苦労していたことはなんとなく承知している。なかなかいい人が見つからなくて、と謝られたことがあるからだ。仕事が多くて、ちゃんとお休みをあげられなくてごめんなさいね。
「カスタニエどのは監察官になった。エリシュカさまのおそばに戻るのはきみだけだ。この状況でまたエリシュカさまが逃げ出してごらんよ。責任を問われるのはきみだよ。わかるよね、云ってることの意味がさ」
「わかります……けど……」
「カスタニエどのはさ、自分が侍女に戻ることはないって、きみにちゃんと云ったの?」
いいえ、とクロエは首を横に振った。そんなことは聞いていない。この旅が終わったら――エリシュカを無事に連れ戻すことができたら――、モルガーヌはまた侍女に戻るものとばかり思っていた。
ほらね、とジアンは云った。
「きみは騙されているんだよ。可哀相にね」
あのあと、あまりの事実にただ茫然とするばかりのクロエを、ジアンはそっと抱きしめてくれた。男の胸に抱きしめられたことなどなかったクロエは、己が、モルガーヌがもう侍女には戻らないと知って動揺しているのか、ジアンのぬくもりに動転しているのか、よくわからなくなってしまった。
とにかく無駄に騒ぐ心臓を落ち着かせたくて、ジアンの身体をそっと押しやろうとすれば、ますますきつく抱きしめられて、クロエはなかば泣きそうになりながら、もうやめてください、と云ったのだった。
厭だよ、とジアンは云った。だって僕は、クロエのことを、ずっとこうしてあげたいって思ってたんだから。
安い口説き文句だな、と頭の隅で思わなくはなかった。けれど、生まれてはじめてひとりの男から女として大切にされて、クロエはすっかり浮き足立ってしまった。
もうこんな旅は終わりにしないか、とジアンは云った。城に戻ることを望んでもいない人を無理やり連れ戻したって、可哀相な人が増えるだけだよ。
でも、お役目が、とクロエは渋った。ジアンの云うことに嘘はないのかもしれないが、しかしだからと云って、果たすべき勤めを放り出してもいいということにはならないはずだ。だってあたしはこの仕事と引き換えにお給金をもらっているんだから。
そんなこと、気にすることはないよ、とジアンは云った。そして、クロエの頭をやさしく撫でながら、まるで愛でも囁くようにこう続けたのだ。もうじき国王なんていなくなるんだから。
驚いたクロエの口をジアンは掌で素早く塞いだ。大声を上げないで、これはまだ秘密なんだよ。
クロエが頷くのを見届けてから、僕と一緒に来ないか、とジアンは云った。きみを僕の仲間に紹介したい。僕の大切な人だと云って。一緒に来ると云ってくれたら、ちゃんと全部話してあげるよ。
クロエは迷った。
ジアンは具体的なことをなにも云わなかった。僕には大勢の仲間がいる。その仲間が大きなことをなそうと動いている。決起のときはもうすぐそこだ。
繰り返されるジアンの言葉を、クロエは、己に酔う者の戯言だ、と思った。それでも最終的に彼についてきてしまったのは、やはり彼が口にした言葉の中に、大切な人、というひと言があったせいだろう。
ジアンに導かれるままに国境の街を抜け出し、徒歩でひとつ前の街に戻った。そこからジアンの仲間が待つという山奥の町まで乗合馬車で向かっている、いまはその最中のことだった。
旅慣れないクロエは当然馬車にも乗り慣れていない。はじめのうちはひどく酔うし、腰は痛くなるしで散々だった。嘔吐感がひどく、とうとう水さえ受け付けなくなってしまったクロエを気遣ってか、国境の街を出るときはひどく急いでいたジアンは、所々で馬車を降りては次のを待つ、といった具合にゆっくりとした歩みに切り替えてくれた。
大切な人、と云ってくれた言葉に偽りはないのだと思うと、そんなささやかなことがとてもうれしく思えた。恥ずかしくて一度は拒んでしまったくちづけを、次は許してもいいかな、などと思いながら、クロエはそっとジアンを見上げた。
夜通し走る乗合馬車は、いまは山間の道をゆっくりと進んでいる。乗っているのはクロエたちふたりと年老いた男がひとりだけで、座席にはゆとりがあった。
お互いに疲れているのだし、ゆっくり眠れるように離れて座ったほうがいいのでは、とクロエが云うと、ほかにも男がいるだろう、そんなところでクロエをひとりで座らせたりなんかしないよ、とジアンは云って、クロエと寄り添うようにして眠りに就いた。
そうしていくらもしないうちに、クロエ、と名を呼ばれて彼女は目を覚ましたのだった。
「もうじき着く。次の村で降りるから、支度をしておいて」
肩を抱いてくれていたジアンの腕が離れていくことを名残惜しく思いながら、クロエは、はい、と頷いた。
降り立った町は朝靄に沈んでしんと静まり返り、人気がないというのに、どこか荒れた気配のする少し不気味な雰囲気に包まれていた。思わず外套の襟元を掻き合わせたクロエを横目で見遣り、ジアンは小さく笑った。
「寒い?」
いいえ、とクロエは首を横に振った。例年であれば外套など着て歩けるような時期ではないが、今年は本当に寒い夏なのだ、と彼女は思った。
「こうも天候が不順だと、猟に出るのも苦労する」
「猟?」
「この町は鳥撃ちで生計を立てている者が多いんだ。天気の悪い日に鳥を探すことはできないから、雨の多い夏はどうしても実入りが減ってしまう」
ジアンはどうしてそんなことを知っているのだろう、とクロエは首を傾げた。ああ、とジアンはごく薄く笑ってみせた。
「ここはね、僕の生まれ故郷なんだ」
クロエは驚いて目を見張った。いかにも洗練された身のこなしのジアンが、こうした田舎町の出身だとは思ってもみなかった。
「がっかりした?」
ジアンの声にはなんとも云えない厭な響きがあった。驚いたクロエを嘲笑うような、莫迦にするような、厭な感情を含んだ響き。
いいえ、とクロエはわずかに腹を立てながら答えた。
「着く前にはなんにも云ってくださらなかったから、驚いただけです」
そう、とジアンは答えた。
「それはごめんね」
そして、こっちだよ、と云って歩き出した。クロエは慌てて彼のあとを追う。
ここは領主にも存在を忘れられてるような寂れた町でね、と横に並んだクロエに向かってジアンは云った。
「僕はここが大嫌いだった。だから王都に出て騎士になったんだけど、今回の件で、ここにはここの価値があるってことに気がついたんだ」
そう云いながらあたりを見渡すジアンの眼差しは、故郷を見るようなあたたかなものでは到底なかった。クロエは少しだけ後悔した。あたし、ジアンさまについてきてしまって、本当によかったんだろうか。
「忘れられてるってことはさ、つまり誰の目も届かないってことだろう。いまの僕たちにとってそれほど都合のいいことはない」
「都合が、いい?」
そうだよ、とジアンは頷いた。
「僕たちは王家転覆を目論む革命軍なんだ。人目につかないに越したことはないだろう?」
ジアンは云って、懐から黄土色の腕帯を取り出した。クロエの顔が硬く強張る。
「驚いた?」
甘い言葉を囁いた男の面影は、もうそこにはなかった。ジアンは酒場らしき建物の前で立ち止まると、ここだよ、と笑ってみせた。
厭だ、とクロエは思った。ここには入りたくない。
「いまさら逃げるの? それもいいけどさ、カスタニエどのにはなんて説明するつもり?」
ここでモルガーヌさまの名前を出すなんて、とクロエはぐっと奥歯を噛みしめた。己に刃向かう者には手厳しいモルガーヌのことだ。ジアンに唆されるままに職務を放棄したクロエのことを、決して許しはしないだろう。
「逃げたりなんてしません」
そう、とジアンは云った。
「そうこなくっちゃね」
ジアンが答えた途端に酒場の扉が内側から開かれた。黄土色の腕帯を撒いた若者が、うるせえ、ここをどこだと思ってんだ、と凄みのある声を上げる。怖気づいたクロエを後目に、悪かったね、とジアンが応じた。
「なんだ、おまえ、ギャエルじゃねえか。遅かったな」
まあね、とジアンは答えた。
「悪かったよ。厄介な荷物を連れてたもんだからさ」
云うなりクロエの腕を掴み、あまりの物云いに逃げ出そうとした彼女の身体を酒場の中へと押し込んだ。
「暴れるなよ。痛い目に遭いたくなかったらさ」
あまりの情けなさに、クロエの目に涙が滲んだ。
「みんな、待たせたね」
騙された悔しさに震えるクロエの前で、ギャエル・ジアンはとうとう偽りの仮面を脱いだ。黄土色の腕帯を手早く左腕に巻きつけて、彼は高らかにこう宣言した。
「僕らの指導者ユベール・シャニョンは、北の地で狼煙を上げた。われらも続く。予定よりもだいぶ早くはなったが、明日には旗揚げし、王都を目指す。怖気づくな!」
腹の底に響く太い声音は、それこそが彼の本当の心なのだと示していた。女に甘い優男の気配は微塵もない。
ジアンの言葉に興奮した男たちを避けているうちに壁際に追いやられてしまったクロエは、あたしはすっかり騙されたのだ、と拳を震わせていた。そんな彼女のことなどすっかり忘れたかのように、ジアンは仲間たちと幾度も盃を掲げ、次々と酒を飲み干していく。
その姿を遠目に見ながら、クロエは酒場の隅できつく眉根を寄せて俯いた。あたしは莫迦だ。本当に莫迦だ。
いったいなんだってあんな男の云うことを真に受けてしまったのだろう。本当はモルガーヌさまをこそ信じるべきだったのに。なにを云われても、まずはモルガーヌさまに真偽のほどを確かめるべきだったのに。
仕事には厳しいモルガーヌさまだったけれど、あたしには親切だった。掃除婦から侍女になり、王城のことをなにも知らなかったあたしに、侍女として必要とされるありとあらゆることを教えてくれた。彼女自身の想いや気持ちについても、偽りを云うことはほとんどなかった。
だからきっと、今度のことだって訊けば教えてくれたに違いないのだ。彼女がもう二度と侍女に戻らないつもりでいるのかどうか――。
「へえ、あんたが噂の侍女さまか」
後悔に沈むクロエの肩を突然に掴んだのは、赤ら顔をした若い男だった。そばかすの散った頬が真っ赤に染まって、なんとも品のない笑みを浮かべている。時刻はまだ早朝だというのに、ひどく酒臭い。
「すっげえ別嬪なのかと思ったら、そうでもないのな」
失礼なことを云わないでよ、とクロエは男の手を払い除けた。男は、けっ、と吐き捨てるように笑う。
「ギャエルのやつに騙されたクチだろ、あんた。王家を斃そうと進軍する革命軍の中に王城に仕える者がいるって図はなかなか衝撃的だと思わねえかって、あいつ、よく云ってたもんなあ」
自分も騎士の鎧を脱がねえのは、王城の中にすら王家に靡かない者がいるってことを知らしめるためだってよ、と男は云い募る。クロエの顔色が悪くなった。
「まあ、でもよ、騎士だの侍女だのいうよりももっとすげえ後ろ盾がついたんだから、ほんとはあんた、とっくにお払い箱なんだけどな」
けけけっ、と男は不愉快な声でなおも笑う。
「後ろ盾?」
男の言葉を聞き咎めたクロエは、後ろ盾の意味を聞き出そうと男の肩を揺さぶった。男はしばらくにやにやとしていたが、やがてぽつりとおもしろくもなさそうに呟いた。
「エヴラールってやつだよと。国王の弟の子だかなんだか」
なんだって、とばかりにクロエは目を剥いた。エヴラール殿下がなにをどうしたって。
「北のほうから王都に向かう仲間と一緒にいるんだと。オレたちの怒りをわかってくれる、ただひとりの王族らしいぜ」
「……まさか」
ほんとだって、と男は云った。
「革命とかなんとか云いながら、結局は王族の威光を借りてるってのはどうかと思うが、ま、使えるもんはなんでも使わねえとなあ、なんたって、オレたちか弱き民衆なんだからよ」
男は言葉の勢いに任せて盃を空にした。ますます酔いの回った眼差しでクロエの身体を舐めるように見回し、よく見りゃ可愛い顔してんじゃねえかよ、と失礼なことを云ってくる。よく見りゃってどういうことだよ、と思わず云い返しかけたクロエだが、そんなことをしている場合ではない、と気を取り直す。
エヴラールの名前を聞いた途端、クロエの中に本来の冷静さが戻ってきていた。
クロエは傍にあった椅子に腰を下ろした。卓の上の酒瓶を手繰り寄せ、男の盃にどぼどぼと酒を注ぐ。王城の侍女さまの酌か、と変に浮かれる男にしこたま酒を飲ませながら、クロエは必死になって思考を紡いだ。
エヴラール殿下が革命とやらに加わっていることを、王城はすでに知っているのだろうか、とクロエは思った。――わからない。
だが、少なくともモルガーヌさまはご存じないだろう。
すぐに知らせなくては、とクロエは思った。国境の街からこの町までは馬車と徒歩とで二日はかかっている。いますぐにここを出たとしても、同じだけ、いやもっとたくさんの時間がかかってしまうに違いない。あたしはひとりで旅をしたことがないのだ。
でも、――でも、どうにかして、モルガーヌさまにこの危急をお知らせしなくては。
クロエは気持ちばかりを焦らせる己を抑えつけるべく、すっかり酔い潰れさせた男の陰に隠れるように、自分も眠り込んだふりをして卓の上に顔を伏せた。
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