34

「あなたっ!」

 母の声はまるで悲鳴のようだった。なんでそんなことを、あなた、せっかくエリシュカが戻ってきたっていうのに。

「黙りなさい、マリカ。それが俺たちの、それからこどもたちの身を守るたったひとつの方法なんだ」

「あなた……」

 父は黙って首を横に振った。母は両手で顔を覆って俯いてしまう。兄と妹は押し黙ったまま、なにも云わなかった。

 こどもたち、と父さんは云った、とエリシュカはなおも強く唇を噛んだ。わたしだけではない、兄さんとダヌシュカを守るために必要なんだと、そう云った。

 そうか、とエリシュカにはだんだん父の云わんとするところがわかりはじめてきた。

 わたしがここでこうしていられるのは、ひとえに姫さまのお心によるものだ。そしてその心はわたしだけに――わたしの家族や賤民すべてではなく、わたしひとりだけに――向けられている。

 行きたいところへ行き、会いたい人に会い、ともにありたいと願う人のそばにいる。ごくあたりまえであるはずのことだ。

 けれど、ここでは違う。ここ、神ツ国では、あたりまえのことがあたりまえではない。

 わたしたち賤民は神殿に足を踏み入れることは許されていないし、ましてや神殿付下女の仕着せを着ることなんてありえない。主の命令なしに自由に出歩くことも許されていないし、会いたい人に会うことも、ともにいる相手を自ら選ぶことも許されていない。

 なんという不自由だろう、とエリシュカは思った。――とても耐えられない。

 だけど、かつてのわたしは、この暮らしを不自由だと思うことはなかった。

 仕方ないのだと思っていた。神に見放された存在として生まれたのだから仕方ないと。

 いったいどうしてそんなふうに思うことができたのだろう、とエリシュカは思う。いまのわたしにはとてもではないけれど、仕方ない、などとは思えない。いったいなんだって、わたしたちはこんなふうに虐げられなければならないの。おかしいわ。どう考えてもおかしい。

 そうよ、知らないだけなんだわ。かつてのわたしがそうだったみたいに、父さんも母さんも知らないだけなんだ。行きたいところへ行くこともできず、手を繋ぐ相手を選ぶこともできず、そしてなにより、それを不自由とも思わない、そのこと自体がおかしいのだと知らないだけなんだわ。

 知らないならば教えればいい。

 もし、すぐにはわからなかったとしても、そのうちに気づく。わたしがそうだったように、ここが、自分たちがおかしいのだと、すぐに――。

 だって、いつまでもこんなふうでいいとは思えない。ああ、どうにかしなければ。どうにか、けれどどうやって――。

 ああ、そうよ、姫さまだわ。姫さまがいらっしゃる。わたしに力がないことはわかりきっているけれど、姫さまにお縋りして、どうにかしてみんなを、いえ、それがだめなら家族だけでも――。

「あのね、父さん」

「黙りなさい、エリシュカ」

「でも、父さん」

 思いの丈をぶつけようと口を開きかけたエリシュカの頬を、いつのまにか立ち上がっていた父が叩いた。黙りなさいと云っている、と父は聞いたこともないような厳しい声で命じた。

「あなた!」

 突然のことに言葉を失うこどもたちの前で、母が非難の声を上げる。エリシュカは震えながらただ父を見上げるしかできなかった。

「黙りなさい、エリシュカ。おまえはなにもしゃべってはならない」

「父さん……」

「おまえがなにを云うつもりでいるか、父さんにわからないとでも思うのか。おまえがなにを考えているか、わからないとでも」

 まだなにも云ってない、とエリシュカは首を横に振った。

 父は深い深いため息をついた。肩を落とし、俯いき、片手で顔を覆い、呻くように云う。

「アルトゥル、ダヌシュカ、おまえたちは仕事に戻りなさい。これ以上長いこと抜けていては、周りのみなに迷惑がかかる」

 兄と妹は明らかに不満そうだった。だが、命令には――それが父からのものであろうと、厩番頭や繕い部屋の長からのものであろうと――黙って従うものと心得ているふたりは、しぶしぶながらも立ち上がった。

「エリシュカにはまた会うこともできるだろう。いまは仕事に戻りなさい」

 でも、父さん、とアルトゥルが云った。

「さっき、エリシュカにはもうここへは来るなと……」

「もう会うなとは云っていない」

 父はなにかをごまかすように、曖昧な答え方をした。アルトゥルとダヌシュカは顔を見合わせ、首を横に振った。

「また一緒に暮らせるってこと?」

 そうよね、と同意を求めるダヌシュカの言葉に、エリシュカは息が止まるような思いがして、妹をまっすぐに見つめることもできずに身体を強張らせた。

 そうだ、ここへ帰ってきたというのはつまり、そういうことなのだ。賤民の娘に戻り、厩番の娘に戻る。自由も、誇りも、尊厳もなく、ただ働くために働き、生きるために生きる暮らしをふたたび――。

 どこで、誰と、どう生きるか。

 自分ではなにひとつ決められぬまま、ただ云われるがままに。

 自分の頭で考え、自分の意志で生きる道を選ぶことを知ったいまのエリシュカに、その生き方はあまりにも酷なものとしか思えなかった。

 そんなふうには生きられない、と彼女は思った。大切な家族がいようと、帰りたかった故郷であろうと、そんな生き方には耐えられない。

「その話はあとにするんだ、ダヌシュカ。いまはとにかく務めに戻りなさい」

 アルトゥル、と父は静かでありながら、逆らいがたい威厳に満ちた声を出した。その声に、この場にとどまりたがっていたふたりの足は、まるで鞭に打たれた馬のような勢いで動き出す。

 あっというまに厩舎を出て行ったふたりの背中を見送りながら、エリシュカはあまりの胸の痛みに気が遠くなりかけた。

 ――なんで帰りたいなんて思うんだい。

 オルジシュカに問われたことが、いまこのときになってあらためて、エリシュカの胸の奥深くでひどい痛みを伴って疼きはじめた。

 あのときはなにも考えずに答えた。家族が待っているからだ、と。

 家族と生きる以外、生き方を知らなかったからだ。

 故郷以外、帰る場所を持たなかったからだ。

 だけど、いまは――。

 いまは違う。

 わたしは知っている。

 ここではない場所で、家族ではない誰かと、ただ誰かの命令に従うだけではなく生きる。そういう生き方があるということを、たしかに知っている。

「エリシュカ」

 父の呼ぶ声に顔を上げたくない、と思ったのははじめてのことだ。いま顔を上げたら、父の目を見たら、きっとなにもかも知られてしまう。わたしの迷いも、躊躇いも、汚さも。

 エリシュカ、と父はもう一度呼んだ。辛抱強い声だった。

 ああ、きっともう、父さんには全部わかってるんだわ、とエリシュカは気がついた。だから、兄さんとダヌシュカを遠ざけてくれたのだ。

 わたしが――、勇気を出せるように。

「……父さん」

 おまえはとてもよい旅をしてきたのだね、と父は云った。

「なにがあったのかはわからない。けれど、おまえが以前に比べ、強くなったことはわかる。逞しく、自立した大人になった。とても嬉しく思うよ」

 だけど同時に愚かにもなった、と父は声の調子をまったく変えることなく続けた。エリシュカには返す言葉もない。

「自分に与えられた恩寵を自分の力だと考えるなど、以前のおまえであればありえなかったことだ。自分の考えを誰かに押しつけるために別の誰かの威を借りて、それでおまえは満足か」

 羞恥のあまりに浮かんだ涙を見られたくなくて、エリシュカは深く項垂れた。あなた、と咎めるような母の声はなんの慰めにもならなかった。父は口調をやわらかいものに変えて続けた。

「おまえの考えていることはわかる。厭というほどよくわかる。父さんもかつて同じことを考えたことがあるからな」

 エリシュカはのろのろと顔を上げた。父の言葉は慰めになるどころか、彼女をますます落胆させた。

 父は腕のいい厩医だ。祖父に続いて教主の宮に仕えることを望まれ、家族を持つこと、こどもたちを自分の手で育てることを許された。人として生きることを許されない賤民には、望むべくもない幸いだ。

 だが、その幸いの陰で、父は苦悩したのに違いない。自分だけに与えられる幸い、その負い目にひどく苦しんだのに違いない。

 つらい境遇にある賤民たちに、自分の幸いを分け与えようともしたはずだ。父を重宝がる者に縋り、情けを乞い、拒まれて、そして気づかされた。

 自分たち賤民は、そうした幸いすら、本当には手にしてはいないのだ、ということに。

 父が手にした幸いは父のものであるようでいて、父のものではない。誰かから与えられた、否、貸し与えられた衣のようなものだ。いまは父の肩に羽織ることを許されているそれは、父の手で脱ぐこともできなければ、父以外の誰かを包んでやることもできない。もしそんなことをすれば、父はすぐに衣を剥ぎ取られてしまうだろうから。

 苦しみに喘ぐ仲間たちを前に、父は与えられた幸いを負い目に思いながら、それを分けあうことも、そして拒むこともできなかった。

 なぜか。

 わたしたちがいたからだ。

 わたしと兄さんとダヌシュカ、それから最愛の妻である母。わたしたち家族を守るため、父は負い目に苛まれながら、葛藤を抱えながら、与えられる特権を黙って受け入れ続けた。

 自分の力で勝ち取ったものだと思えれば、まだよかったのかもしれない。けれど、父はきっとそうは思えなかった。

 わたしもそうは思えない。

 どうかほかの者たちにも、と情けを乞うて、しかしその願いは退けられて、それでも父が現状に甘んじ続けたその痛みを、いまのエリシュカは正しく理解することができる。胸を抉る痛み、逃げ出したくなるようないたたまれなさ、腹の底に凝っていく負い目。父はずっと重たいものを抱えてきた。そして、複雑な思いを抱える父をすぐ傍で支えてきた母もまた、同じような思いでいたのかもしれない。

「父さんは長い時間をかけて思い知った。父さんは恵まれてなどいない。ほかのみなとどこも変わらない。みなが暴力や虐待で縛られているのと同じように、父さんは安全と優遇で縛られている。この不自由と痛みを知る者は誰もいない。贅沢だと罵られ、同胞から仲間と認めてもらえないつらさも」

 いまこのときはじめて、エリシュカは父の弱さを知った。しかし、それを詰る気にはとてもなれなかった。

 わたしたちこそが父の枷であったのだ、と彼女は唇を噛んだ。

 わたしたち賤民はいったいなにに苦しめられているのだろう、とエリシュカは掻き毟られるような胸の痛みを覚え、薄紫色の瞳にうっすらと涙を浮かべた。

 オルジシュカやほかの同胞たちのように、生命や身体を脅かされるだけではない。父のように、心を苛まれ続ける者もいる。

 いったい誰が。

 なぜ、どうして。

 かつてのエリシュカはそんなことを考えもしなかった。もし考えたとしても、そういう仕組みだから仕方がないと諦めるか、あるいは、上のほうにいる誰かをぼんやりと憎むだけで終わっていただろう。

 けれど、いまのエリシュカは違う。

 わずかなりとはいえ、シュテファーニアやツェツィーリアら、この国における特権階級にある者たちの心――そこにあるやさしさやあたたかさ、弱さや痛み――を知ってしまった。彼らも苦しむことがあると気づいてしまった。

 姫さまたちだけが悪いのではない、とエリシュカは思う。もちろん、わたしたちが悪いのでもない。

 では、いったい誰が悪いのか。誰を恨めばいいのか。

 神官さまたちか。教主さまか。あるいは、いるともいないともわからぬ神か。

「おまえが父さんと同じ痛みを知ることになってしまったことを残念に思うよ。だが、だからこそ愚かになってほしくはない。わかるね?」

 エリシュカは深く頷いた。

「いまのおまえは選ぶことができる。ここに残ることも、ここを去ることもできる。だが、それを許されているのは、おまえひとりだ。父さんも母さんも、アルトゥルもダヌシュカも、ほかの誰も、ここを去ることは、自由に生きることは許されていない」

 ほかでもないおまえが選ぶんだよ、と父は云った。

 ここに残り、かつてと同じ賤民の暮らしに戻るか、ここを去り、自由に生きるか。それはつまり、たったひとり旅路を歩んでまで求めた家族とともに生きるか、あるいは、苦しいとわかっている場所に家族を捨てていくか、その選択でもある。

 ここに残ることは苦しい。けれど、家族とはともにあることができ、彼らを見捨てることはない。

 ここを去ることは希望だ。けれど、家族とは二度と会うことはできず、彼らを苦しみの中に置き去りにした負い目は、生涯エリシュカを苛むだろう。

 生き方を決めるとはこういうことか、とエリシュカは思った。自分にとって、自分の大切な人にとってよかれと思うものを選ぶだけではだめなのだ。ときには痛みを、苦しみを、悲しみを自ら選ばなくてはならないこともある。この身に、心に傷を引き受けて、それでも前に進まねばならないこともある。

 わたしが選ぶ、とエリシュカは答えた。そうだ、と父は頷いた。

「おまえはおまえの命をしか生きられない。ほかの誰かを代わりにすることも、代わりに生きてもらうこともできない」

 はい、父さん、とエリシュカは頷いた。

「おまえがどんな道を選んでも、父さんたちはその道を祝福するよ。ここに残るとしても、もう二度と会えなくなるとしても、おまえが父さんと母さんの娘であることに変わりはないのだからね」


 家族と別れ、来た道をゆっくりと引き返す。ともすれば、愛するみなのもとへ駆け戻りたいと思う自分を叱咤しながら、エリシュカはツェツィーリアと落ち合う約束をした場所を目指していた。

 ここへ来たとき空の真ん中へ向かっていた太陽は、すでに地平線へと傾きはじめていた。冬の陽はとても短い。

 思ったよりも長く両親と話し込んでしまったエリシュカは、その事実にさえ胸を痛めた。

 父と母は勤めの最中にあったはずだ。途中で持ち場へ帰された兄と妹はそれほどでもなかったはずだが、両親はずいぶん長いこと職場を空けることになってしまった。

 父は厩医だし、母も繕い婦として働いて長い。教主の住まいであるためか、この宮での賤民の扱いは、ほかよりもずっとよいとされているが、それでも、長い時間勝手に仕事を抜ければ、罰を与えられる可能性は十分にあった。

 父は食事を抜かれるかもしれない。母は鞭で打たれるかもしれない。

 そう思うともう、ここを訪ねたことさえも後悔したくなるエリシュカである。

 会いたい、とただその一心で走ることは許されないことだったのだ、と彼女は苦々しく思い出す。ほんの少しばかり前のことだというのに、そんなことさえ忘れてしまったのね、わたしは。

 エリシュカが王太子の寵姫として多くの者たちに傅かれていた期間は長くはない。けれど、ヴァレリーのそばで暮らすようになる前、侍女であったころから、自分はとうに賤民ではなくなっていたのかもしれない、と彼女は思う。

 たしかに侍女さまたちからはきつく当たられることもあったし、姫さまの身代わりにもされた。けれど、そのほかの場所――厩舎や洗濯室、王太子妃の庭――ではどうだっただろう。

 洗濯婦のソフィや庭師のジスランには、とくに親切にしてもらった。王城を出るときにはふたりの力を借りもした。いや、なにもそんな特別なときを思い起こさずとも、彼らはいつもわたしに大切なことを教えてくれていた。あたりまえで、けれど、ここでは誰も教えてくれなかった大切なこと。

 わたしは、わたしを大事にしていいのだ、ということ。

 ちゃんと食べているかい、苛められていないかい、仕事が多すぎやしないかい。

 あの頃のエリシュカはソフィやジスランからだけではなく、いろいろな人からそんな言葉をたくさんかけられた。

 大丈夫です、平気です、とそのたびに答えたけれど、みんなはあまり信用してくれていないみたいだった。そりゃ、働くってのは楽しいことばかりじゃないけどね、理不尽なことがあったらちゃんと云わなきゃいけないよ。

 その、理不尽なこと、がなにを指しているのか、あのときのわたしにはあまりよくわからなかった、とエリシュカは思い出す。だって、神ツ国ではそれがあたりまえだったんだもの。なにが理不尽で、なにがそうではないかなんて、わかるはずもなかった。

 云ってみれば、周りにあるものすべて、人生に起こることすべてが理不尽で、そう、生まれてきたこと自体が理不尽だった。賤民とは、ただ生きてそこにあるだけで罪深いと云われてきたけれど、そうおっしゃる神官さまたちやほかの人たちとわたしたちと、いったいどこが違ったというのだろう。

 なにひとつとして――人として大切なものを奪われ続けているということさえ――知らなかったわたしに、王城の人たちはいろいろなことを教えてくれたのだ。そして、わたしは少しずつ賤民ではなくなっていっていた。自分でも気づかぬうちに、少しずつ。

 わたしはとても幸運だった。

 エリシュカは思わず立ち止まり、来た道を振り返った。

 生垣に挟まれた細い小径はうねうねと曲がりくねっていて、前もうしろも見通すことはできない。この道を戻ることは、もうできないのかもしれない、とエリシュカは思った。

 そう思うことは、大切な家族とともに生きることは、もうできないのかもしれない、と思うことにとてもよく似ていた。

 エリシュカは小さなため息をついた。なぜなら――。

 なぜなら、わたしは気づいてしまったからだ。

 自分が奪われ続けていたこと。

 虐げられ続けていたこと。

 踏み躙られ続けていたこと。

 そして、それはこの先もずっと変わらずに続いていくということ。

 エリシュカは痛みとともに、苦い事実を飲み込まざるをえなかった。目を逸らすことはできなかった。

 エリシュカは進むべき方へと顔を向けた。歩き出すことはまだできない。

 わたしはどうするべきなのかしら、とエリシュカは思った。

 どうしたい、それだけなら簡単なことだ。家族とともにありたい。自由でありたい。

 けれど、それはエリシュカひとりの力ではどうにもできないことだ。姫さまに縋るくらいしか方法はないが、父が――さっきはなにも云わなかったけれど、きっと母も――それを拒む以上、望むことはできないだろう。

 それに、もし仮にそうやってエリシュカの家族だけが自由を手にしたところで、行く場所などどこにもないのだ。家族は生まれてからいままでずっとここにいたし、これから死ぬまでここを出ることなど考えもしないのに違いない。

 だから、とエリシュカはふたたび歩き出した。ゆっくりと、しかし、迷いを断ち切るような確実な足取りで。

 だから、わたしたち家族だけが自由になることには、なんの意味もない。同じ苦しみに沈む同胞からはぐれては生きられないし、彼らを見捨ててここを出て行くこともできない。

 もしも自由を望むならば、賤民すべてのそれを願わなくては意味がないのだ。

 だめだ、とエリシュカは小さく首を横に振った。賤民とは神が見放したという、呪われた存在。教主さまでも救えないものを、姫さまに救えるはずがない。ましてやわたしなどには――。

 結局、わたしにはなにもできないのだ。家族を自由にすることも、賤民を解放することも、なにひとつ。

 オルジシュカの話を聞いたあと、国に帰ったあともできることがあるかもしれないと思った。幸せになるんだよ、と云われて、必ずそうすると誓った。

 けれど、わたしにはなにもできない。誰かを幸せにすることはおろか、自分の身を守ることさえ自分の力ではむずかしい――。

 わたしはいったいなんのために帰ってきたのだろうか、とエリシュカは思った。元の暮らしに戻る覚悟もなく、なにかを変える意志もなく、――では、いったいなんのために。

 いくつかの角を曲がり、生垣の切れたところで、エリシュカは足を止めた。門番に立つ兵らからは見えない位置にひっそりと佇み、ツェツィーリアを待つ。

 わたしはなにも知らなかった。いいえ、いまもまだわからないことが多すぎる。東国へ行き、旅をして、アランさまと再会し、そのあいだに多くを学んだような気でいたけれど、全然足りない。

 もっと話をすればよかった。たくさんの人たち、わたしを守り庇ってくれた人たちだけでなく、厭い疎んじていた人たちとも。

 世界は広い。いろいろな人がいる。鮮やかな景色がある。残酷なできごとがある。あたたかなふれあいがある。厳しい災害がある。奇跡のような出会いがある。

 世界は広い。――とても、広い。

 エリシュカはそっと目を閉じた。

 知りたい、と彼女は思った。世界のことを知りたいと思った。光明と暗闇を孕み、温和と冷酷を飲み込み、美しく醜く、清く濁ったこの世界のことを。

 そこにはきっと、誰かを虐げずとも生きられる方法もあるはずだ、とエリシュカは思う。

 いまは踏み躙られ、泣き伏すだけの賤民たちが、いまは虐げ、高みから見下ろすだけの神官たちが、いつか手を取りあい、助けあう、ともに生きるそのすべがどこかにあるはずだ。

 知って、学んで、そしてそれを伝えたい。いつか、いつの日か、わたしを育ててくれた家族に。この国に。

 そのためには、わたしはここから旅立たなくてはならない。家族から離れ、故郷を出て、新しい生き方を探さなくてはならない。

 あるいはわたしはそのために帰ってきたのかもしれない。家族を手放し、故郷を捨て、新しく生まれ変わるために。

 望みは目の前にあった。もう気づかぬふりをすることはできなかった。

 エリシュカはまっすぐに自分の心を見つめる。

 ――わたしは家族を、故郷を捨てようとしている。

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