11
見れば見るほどいい馬だなあ、とエルゼオが云うので、エリシュカは背後を振り返って、ありがとうございます、と小さく頭を下げた。褒められた当のテネブラエはまるっきりの知らん顔でエリシュカの手から飼葉を食み、早く次を寄越せと催促までしている。
「体格も毛艶も云うことはねえが、なにより目がいいな、目が」
なんと答えたものか迷ったエリシュカは、テネブラエに残りの飼葉をすべて与えてしまうと、ちょうど空になった麻袋を手早く畳み、テネブラエの背から下ろしたばかりの荷物の隙間に押し込んだ。
「西国にいるご主人の馬なんだってな」
エルゼオの言葉に、はい、とエリシュカは頷いた。
シルヴェリオやジーノ、それからエルゼオと出会ってからすでに四日が過ぎている。部屋を取っていた宿屋に賊が押し入ったことを知ったシルヴェリオとジーノに、なかば強引に宿を変えさせられた翌朝、エリシュカは街門でふたたび三人と顔を合わせることになった。
いま思えば偶然でもなんでもなかったのよね、とエリシュカは思う。
エリシュカの向かう先も西国なら、彼らの向かう先もまた西国なのだ。東国から西国へ向かうには、海沿いの街道を行き南国を経由するのがもっとも手軽な道のりである。旅慣れた彼らが、ある意味では通い慣れたその道を選ぶことは当然で、逆に、旅慣れぬエリシュカもまた、多くの者と同じその道を選ぶことが必然だったのだ。
けれどそのときのエリシュカは、そんなことには気づかなかった。
彼らに譲ってもらった部屋は、エリシュカが取っていた部屋とは比べ物にならないくらいに上等で、部屋には風呂までついていた。おかげで昨夜はひさしぶりにゆっくりと身を清めることができたし、髪もしっかり染め直すことができた。
枕を高くして眠れたのは彼らのおかげだもの、とエリシュカは思った。お礼くらいは云わなくちゃ、罰が当たる。
エリシュカは列を進みながら少しずつ三人に近づき、容易に声が届くほどの距離になってから、ジーノの名を呼んだ。耳敏い少年は草原で鷲の羽音を聞いた野兎のごとき反応を示し、すぐにエリシュカに気づいて目を見張った。
「エリィ!」
恥ずかしくなるほどの大声にエリシュカが身を竦めると、声がでかい、とエルゼオが養い子の頭を叩いた。
「奇遇ですね。またお会いするなんて」
そう云って微笑むシルヴェリオの美貌は、朝の陽光の中にあってなおも艶を増すようだ。エリシュカは意味もなく頬を染め、はい、と頷いた。
「あの、お礼を云いたくって、わたし……あの、昨日は本当にありがとうございました。おかげでゆっくり休めましたし……」
「それはよかった」
シルヴェリオはエリシュカの言葉を遮るようにそう云った。
「お礼なら昨夜も云っていただきましたよ。あれ以上は結構です」
「でも……」
「それ以上云うと、さらになにか強請られているように聞こえます」
エリシュカは頬を染めた。頭にカッと血が上り、耳まで熱い。
「そ、そんなつもりじゃ……」
「なら、もういいじゃないですか」
シルヴェリオの笑みに厭味はない。エリシュカは恥ずかしさに俯いてしまった。おまえってさあ、とジーノの声がした。
「ホントに素直じゃねえよな、シルヴェリオ」
「まったくだな」
あきれたような口調で応じるのはエルゼオだ。
「エリィにまた会えて嬉しいくせに。昨夜だって、別れたあとのことまでさんざん心配してさ。あんなのでこれから先やってけるのか、とか、誰かに騙されんじゃないか、とかさ。うるせえっての」
な、とジーノはどうやら養い親を見上げたらしい。エルゼオの苦笑する声がした。
エリシュカは顔を上げ、男三人に視線を戻す。気まずそうなシルヴェリオの表情に、エリシュカは思わずやわらかく微笑んだ。
「本当にありがとうございました」
これを最後にしよう、とエリシュカは深く頭を下げた。なにもかも新しく知ることばかりだ、と思いながら。
エリシュカが誰かとかかわるとき、彼女は常に支配される立場だった。シュテファーニアやヴァレリーと相対するときばかりではなく、ベルタや両親と向かい合うときにさえ、それは変わらなかった。
そういう意味で云えば、エリシュカはこれまで誰かと対等に向かい合ったことはなかった。対等であろうと思ったこともなかった。
慈悲や親切は憐れみとともに授けられるもので、ときおり投げかけられるそれらは這い蹲って受け取るべきものだった。そうやって誰かに縋り、誰かを頼り、どうにか生き延びることが、エリシュカにとって生きるということだった。
けれど、この人たちは――。
「エリィもさ、このまま西に向かうんだろ」
ジーノに問われ、エリシュカはわれに返る。エルゼオもシルヴェリオもすでに平素の表情を取り戻しており、ゆっくりと進む列の前方へと視線を向けていた。
そのつもりよ、とエリシュカは答えた。へえ、とジーノはにこりと笑った。
「なら、どうせ次の街までは一緒だよな」
え、とエリシュカは戸惑った。食事をご馳走してくれたり宿を譲ってくれたりしたことだけではなく、ひとり旅の心細さを一時埋めてくれた彼らには心底感謝している。しかし、同道することまでは考えていなかった。わたしはお尋ね者だし、とエリシュカは思った。それに彼らが何者であるのかも、本当のところはよくわからない。
「あのさ、ちょっと頼みがあるんだけど」
エリシュカの戸惑いに気づかないまま、ジーノは明るい口調でそう云った。
「頼み……?」
エリシュカは急に警戒心を募らせる。いったいどんな厄介を――。
「あのさ、その馬」
「え、う、馬?」
「そう、その青毛。すっげえ格好いいよな、なんていうか、綺麗だし、賢そうだし、脚もよさそうだし」
そうね、とエリシュカは硬い表情で頷いた。でさ、とジーノは続ける。
「ちょっとだけでいいんだ、そいつに乗っけてもらえねえかな」
な、ちょっとだけ、と見上げてくるジーノをエリシュカは目を丸くして見つめた。隣で剣呑な目つきのテネブラエがジーノを威嚇していることには気づけなかった。
「あ、あの、でもこの子は……」
とても警戒心が強くて、とエリシュカは云った。
「慣れない人を乗せることはできないの。その、だから難しいと思うわ」
ふうん、とジーノは唇を尖らせた。
「エリィは乗れるの?」
わたしはずっとこの子の面倒をみてきたから、とエリシュカはまるで云い訳するかのように云った。
「じゃあさ」
ジーノはなにかを思いついたのか、ぱっと顔を明るくする。
「エリィと一緒なら乗れるよな。な、乗せてよ、なあ、エリィ」
「ジーノッ!」
鋭すぎるほどに鋭い声はシルヴェリオのものだ。
「図々しいことを云って女性を困らせるものではありません。馬なら自分で引いてるペンナがいるでしょう」
なんだよ、とジーノはますます不満そうな声を上げた。
「格好いいと思ったから、ちょっと乗せてもらいたかっただけなのに」
「ジーノ」
シルヴェリオの冷たい声音に身を竦ませるのはジーノだけではない。どうしよう、とエリシュカは思った。なんだかとても居心地が悪い。
テネブラエはどうもあまり機嫌がよろしくないようだ。なにかに苛立っているかのように尻尾をパタリパタリと振って、ときどきなどはわざと誰かにぶつけようとしたりしている。こんなときにエリシュカでない誰かを背に乗せてくれるとは思えない。
けれど、昨夜、ジーノたちにとても世話になったことはたしかだ。まだこどもであるジーノの他愛ない望みくらいは叶えてやっても罰は当たらないだろうとも思う。
あの、とエリシュカは意を決して声を上げた。ジーノだけではなく、シルヴェリオとエルゼオまでもがエリシュカをじっと見つめてくるのにますます居心地の悪さを感じながら、エリシュカは云った。
「ここでは無理だけど、あの、街を出てからなら」
広い街道を駆けさせてやると云えば、テネブラエの機嫌も治るかもしれないし、とエリシュカは思った。ちょっとくらいなら、この少年を楽しませてあげられるかもしれない。
「ほんとに?」
「無理なら無理と云っていいんですよ、エリィ」
ジーノとシルヴェリオの声は同時に発せられた。エリシュカは小さく笑って頷いてみせる。
「大丈夫です。あの、少しなら……」
長くは無理ですけど、と云い訳めかしながら続けた言葉は、やった、とはしゃぐジーノの声にかき消されて、シルヴェリオらの耳には届かなかったようだった。
街門を抜けたあと、約束どおりにテネブラエの背にジーノを乗せてやった。しばらくのあいだテネブラエの好きなように駆けさせると、気難しい青毛は多少機嫌を治したようだった。
夏に向かう爽やかな空気を肺いっぱいに吸い込み、ジーノの明るいはしゃぎ声を聞いているうちに、エリシュカの心も少しずつ解れていく。城を出てから、ずっと緊張しっぱなしだった神経が休まるような思いがした。
俊足のテネブラエを追う二頭――エルゼオを乗せたペンナとシルヴェリオを乗せた
嬉々として馬たちの水や飼料を用意しているジーノを見ていると、やっぱりツィリルを思い出さずにはいられない、とエリシュカは思った。
神ツ国の教主の宮でともに働いていたその少年は、ある日突然、教主の宮へと連れてこられた。教主の宮で働く賤民には珍しいことに、彼にはひとりの血縁もないのだという話だった。
緋色の瞳が印象的だったツィリルは、ずば抜けて賢いわけではなかったが、要領がよく、口も達者だったため、厩の仕事にも早々に馴染んでいった。
しかし、そんな彼にも闇は潜んでいた。ツィリルは大人の男を極端におそれる性質だったのだ。それも、ほっそりとして背の高い男をひどく怖がるのだ。ありきたりな怯え方ではない。ときには歯を剥き出して泣き喚き、ときには過呼吸を起こして気を失ったりもした。
きっとここへ来る前にひどく虐げられていたんだろうな、とエリシュカの父はそう云って悲しげな顔をした。――誰にも守られず、誰にも顧みられず、たったひとりで生き延びてきたんだろう。
その話を聞いたときの暗鬱な気持ちを思い出し、鈍いため息をついたところへ、シルヴェリオが話しかけてきた。
「ずいぶんと好かれてしまったようですね」
ジーノですよ、と美貌の男は、弾かれたように顔を上げたエリシュカに向かって苦笑した。頭を覆う布を外すことはできないまでも、いまのエリシュカは目許までをも覆うほどの頭巾は取り払ってしまっている。明るい陽射しのもとに晒された薄紫色の瞳に驚いたふうもなく、シルヴェリオは続けた。
「どうやらすっかりあなたに懐いてしまっているようです」
「そう、なんですか?」
「ああ見えても本当の親を亡くして寂しくしている子です。歳の割にひねくれたところもあるし、そう簡単に誰かに打ち解けるような性質じゃない。ましてやあんなふうに、なにかを強請ることなんてほとんどないんです」
そうなんですか、とエリシュカはひとつ覚えの返事を繰り返すしかない。懐かしくも心痛むツィリルの思い出と重ねてしまっていただけに、気の利いた言葉など思いつくはずもなかった。
「あのですね、エリィ」
あらたまったようなシルヴェリオの口調に、エリシュカは、はい、と応じた。
「ご迷惑でないところまで、俺たちと一緒に行きませんか」
「一緒に?」
ええ、とシルヴェリオは頷いた。琥珀色の眼差しは馬たちの傍にいるジーノに注がれていて、エリシュカに向けられることはなかった。
「どうせ向かうところは同じなんです。だったら、こういう縁なのだと思って、一緒に行けるところまで行ってみませんか、というお誘いです」
悪い話じゃないと思うんですよ、とシルヴェリオは続けた。
「少なくともひとりで旅をするよりはずっと安全なわけですし」
寂しくもない、という言葉にエリシュカはすぐには頷かなかった。それは、シルヴェリオの本意が読めないせいでもあったし、寂しさを覚えたことがないせいでもあった。
知らない土地をひとりで歩むことは心細くはあった。エリシュカはただでさえ世間知らずなのだ。それが異国の地をいくつも渡り、険しい道の果てにある故郷へ向かおうというのだ。不安がないわけはない。
だが、寂しくはなかった。これまで、誰かとともにあることと、誰かに虐げられることとがほぼ同義であったエリシュカにとって、誰かとともにあることとひとりであることとのあいだに、たいした違いはなかったからだ。
テネブラエがいるもの、寂しくはないわ、とエリシュカは思った。彼らはとても親切だけど、安全な人たちだと決まったわけじゃないし、たまたま知り合っただけの男たちと連れだって行くよりは、そのときどきの縁に感謝しながら歩むほうがいい。
「それにね」
エリシュカが断りの言葉を並べようとする気配を察したのか、シルヴェリオが素早く云った。
「同じ仮初の縁を結ぶなら俺たちでもいいんじゃないかと、勝手なことを思ったりもするんです」
「仮初の縁を……」
「これからも旅を続けていけば、エリィはまた必ず誰かと縁を結ぶことになるでしょう。旅とはそういうものです。その場限りの儚い縁を、結んでは解き、断ち切っては繋がって、やがては目的の場所に辿り着く。それでもそうした縁は簡単に手に入るものでもない。望んでも手には入らず、かと云って諦めればいいというものでもない」
簡単に云えば、せっかくだからってことですよ、とシルヴェリオは云った。
「……せっかくだから」
そういうものなのかもしれない、とエリシュカは思った。いかにも旅慣れたシルヴェリオが云うのだ。誰かとの出会いとは、それが大切なものだったと気づく頃には失われているものなのだろう。こうして知り合った偶然を粗末にするべきではないのだろう。
気づけばエリシュカは、シルヴェリオの言葉に頷いていた。
「どこまでご一緒できるかはわかりませんが、ご迷惑でなければ」
そうしてエリシュカは、男ふたりと少年ひとりとともに、まずは南国へと向かうことになったのだった。
「しかし、なんでまたご主人は馬とエリィだけ残して先に帰っちまったんだ?」
エルゼオが苦笑交じりに問うのへ、エリシュカもまた苦笑いで答えた。
「この子が少し調子を崩してしまったんです。……その、水が合わなかったみたいで」
云いながらテネブラエの鬣を指先で梳いてやると、云い訳に使われたことがわかったのか、テネブラエが不満そうに鼻を鳴らした。
「この子の世話ができるのはわたししかいませんでしたし、ご主人さまは先をお急ぎでしたので、わたしだけが残ることに……」
なるほどなあ、とエルゼオは頷いた。大柄な彼は腰を屈めるようにしてエリシュカと話をしていたが、その姿勢に草臥れたのか、やがて大きく腕と背中を伸ばすようにして反り返った。
「何日か待ってくれりゃ、エリィも要らん苦労をしないですんだのにな」
エリシュカは曖昧な笑みを返しただけで返事はしなかった。
まるでエルゼオのために誂えたような嘘は、じつは前々から用意しておいたものだ。旅に道連れができることまでを想定していたわけではないが、街へ入るときや宿を取るとき、女のひとり旅はどうしても人目を引いてしまう。理由を尋ねられたとき、できる限り不自然でない答えが返せるよう、王城を抜け出す前から考えておいたのだ。
「ま、おかげでオレたちはエリィと知り合えたんだから、世の中はわからねえけどな。こういう旅も悪くはねえだろ」
「はい」
エリシュカの返事にエルゼオは気風のよい笑い声を上げ、それはそうとな、そろそろ行くぜ、と云い置いて、エリシュカの傍を離れていった。
エリシュカはテネブラエの鬣を梳く手を止め、下ろしておいた麻袋をふたたび青毛の背に乗せ、先を歩む支度を調えはじめた。
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