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 あまりにもいろいろなことがいっぺんに押し寄せてきて眩暈がする、とエリシュカは思っていた。シュテファーニアとツェツィーリアについて歩きながらのことである。

 史料室でいつまでも顔を突き合わせていても話が前へ進むでもなし、ここはいったん解散にしましょう、と云ったのは一番冷静なツェツィーリアだった。姫さまはイエレミアーシュさまに急ぎお便りを差し上げなくてはなりませんでしょうし、王太子殿下はもう少し落ち着かれたほうがよろしいかと存じます。

 落ち着く必要などない、むしろ落ち着きたくなどないとばかりにエリシュカを求めようとしたヴァレリーだったが、肝心の彼女が諸々の限界を突破して呆けているのを見て、今日のところはさっきの抱擁だけで我慢しておかなくてはならないことを悟ったようだった。

 史料室を出て、図書庫をあとにし、しばらく歩いてからヴァレリーと別れ、しかし、そのあいだじゅうエリシュカは、投げかけられる言葉にただぼんやりと従うだけだった。そろそろ行きましょう、と云われれば立ち上がり、おやすみ、と声をかけられれば、おやすみなさいませ、と応じた。

 どこか寂しそうな気配を見せるヴァレリーのことも、そんな彼を憐れむように――どこかおもしろがるように――見遣るシュテファーニアとツェツィーリアのことも、まるで意識の中に入ってこなかった。

 神ツ国を出る。故郷を去る。

 エリシュカにとって、これほど実感を伴わない言葉もない。

 ここで生きて行くことはできないと思ったことはたしかだけれど、本当に国を出るのには長い時間がかかると思っていた。

 それが、こんなに急に決断を迫られるなんて。自分の意志であるはずなのに、流されているような気がする。

 なにかが大きく動くとき、多くの者たちがそのように――抗えない流れに乗せられて、有無を云わさず運ばれていくかのように――感じるものだということを、エリシュカはまだ知らなかった。

 父さんたちにも、まだなにも伝えていないのに。

 教主の宮の厩には二度と来るな、と云われたが、エリシュカはしばらく時間を置いてから、もう一度家族を訪ねるつもりでいた。

 わたしがなにを決意したのか、なにを覚悟したのか、みんなにはちゃんと伝えておきたい。すぐにわかってもらえなかったとしても、親不孝を詰られても、なんでおまえだけがと羨まれても、それでも――。

 ひとたび国を出てしまえば、もう二度と戻ることは叶わない。今度こそ本当に、今生の別れとなるだろう。

 そう思えばこそ、たとえ最後まで理解してもらえなくとも、その努力を惜しみたくはなかった。だけど、このぶんではどうやらその暇もないらしい。

 ヴァレリーは、どうしても一緒に来いとは云わなかった。あとから来てもらえるならそれで、とこれまでの彼からは想像もつかないような譲歩を見せた。

 どうしても一緒に行きたいと思っているのは、だから、エリシュカのほうなのだ。

 離れてはならない、といまのエリシュカには強い想いがある。

 それがなぜなのか、当の彼女にはよくわかっていなかったが、それはつまり、エリシュカがヴァレリーのことを、ひとりの生身の男――けがもすれば、病も得る、悪くすれば死ぬかもしれない――として、きちんと認識することができているからなのだった。

 生きて越えられるかもわからない冬山への旅に発つ愛しい男を、ただ送り出すだけしかできないのならば仕方がない。けれど、いまのエリシュカには彼についていくすべがある。ならば、ともにいたい、離れたくないと思うのは、なかば本能からくる想いだとも云えた。

 とはいえこの地に残る家族に未練がないわけではなく、それゆえに、揺れて惑う彼女の心はふたつに引き裂かれそうになっている。

 目の前で心配そうに彼女を窺うふたりの女たちの様子など、まるで目に入らなかったのも当然と云えた。

「そういえば、姫さま」

 唐突に声を上げたツェツィーリアを、本気の不審顔で見つめたシュテファーニアである。

「私、姫さまにお話があったのでした。いまからお部屋へ寄らせていただいてもよろしいでしょうか」

「いまから?」

 図書庫でずいぶん長いこと話し込んでしまったために、すでに就寝時刻も間近である。

「ええ、いまから」

 ツェツィーリアはいささか大仰なほどに頷いてみせた。

「すぐに済むお話ですので」

「なら、ここで」

 そういうわけにはまいりませんわ、とツェツィーリアは答えた。

「廊下で立ち話など、姫さまともあろう方が」

 なにを云っているのだ、この侍女は、とシュテファーニアはいよいよ首を傾げた。だが、先ほどからエリシュカばかりに気を取られていて一向に視線の合わないツェツィーリアの様子に、ようやく彼女の意図を悟って思わず、ああ、と声を上げてしまった。なによ、それならそうと云えばいいじゃないの。

「そういえばそうだったわね、ツェツィーリア。昼間、云っていたのをすっかり忘れていたわ。ごめんなさい」

 シュテファーニアが話に乗ったせいで、いよいよ三文芝居じみてきた主従の茶番はまだ続く。

「ええ、そうでございますよ、姫さま」

 ですから、エリシュカ、とツェツィーリアはいかにもわざとらしい咳払いをして、いまだにぼんやりとしている娘の注意を惹こうとする。

「エリシュカ。聞いているのですか、エリシュカ?」

 名を呼ばれたエリシュカは、傍から見ている限りではまぬけとしか思えないような様子で飛び上がって驚いた。

「はっ、はい! ツェツィーリアさま」

「私は姫さまのお部屋へ寄ってから戻ります。あなたは先に戻って寝んでいなさい」

 え、あの、とエリシュカはおどおどとふたりを見比べた。シュテファーニアとツェツィーリアは、ここぞとばかりにわざとらしく顔を顰めて頷いてみせた。

「少し込み入った話なの。時間がかかるだろうから、ツェツィーリアを待っている必要はないわ」

 そして、さ、もう行きなさい、と付け加える。

 はい、とエリシュカは頷いて、ふたりに向かって深々と頭を下げた。礼を失しない所作で踵を返し、ツェツィーリアの居室――いまはエリシュカの居室でもある――に向かって歩き出す。

 その薄い背中を揃って見送りながら、シュテファーニアとツェツィーリアは同時に小さなため息をついた。――わたくしたちも、いい加減お節介だこと。


 恥ずかしげもなくわざとらしい芝居を繰り広げたシュテファーニアとツェツィーリアの本意に気づくこともなく、エリシュカは冷えた廊下を静かに進んでいった。

 ひとりになっても混乱は治まらなかった。

 迷うわけではない。

 ヴァレリーとともにありたい気持ちは本物だ。神ノ峰の中で偶然の再会を果たし、ヴァイスの庵で穏やかな時間を過ごし、神ツ国までの短くも厳しい旅路をともに歩むうちに、エリシュカの気持ちはごく素直にヴァレリーに傾いていったのだ。

 東国にいたころ、あれほど怯えたのが嘘のようだ。

 わたしが見ていたのはきっとアランさまではなかったのだわ、といまのエリシュカはそう思っている。王城にいたのは東国王太子ヴァレリー・アランであって、いまの彼ではなかったのだ。

 いまのアランさまこそが、きっと本当の彼なのだ。素直で、やさしくて、頑固で。穏やかな方とは云い難いけれど、一緒にいるととても安心できる。

 わたしはそんなアランさまをお慕いしている。許されるならば、これからもずっとおそばにありたいと思う。

 一方でエリシュカは、東国へ戻ったヴァレリーがいまのままではいられないということも理解している。彼は王太子だ。ひとりの男でいられるわけではない。為政者の顔を取り戻さなくてはならない。

 そこには狡猾も冷酷も残忍もあるだろう。思わず目を背けたくなるような――誰かが苦しむとわかっていて、あえてその手段をとるような――悪行を、平然となさなくてはならないこともあるかもしれない。

 だけど、いえ、だからこそ、わたしはアランさまとともにありたいと思う、とエリシュカは唇を噛みしめる。せめてわたしとともにある時間だけは、本当の彼に戻ることができるように。

 素直でやさしいばかりでは、明るく穏やかなばかりではいられないアランさまをお慰めし、癒やして差し上げたい。できうるならば、そうやって彼を支えてあげたい。

 アランさまはずっと、そうした存在を望んでおいでだったのだろうから。

 エリシュカはふと、かつてモルガーヌに云われた言葉を思い出す。――お嬢さまもご存知でいらっしゃるように、王族の暮らしとは非常に過酷なものです。心身ともに厳しい規律に縛られ、数多の政務や軍務に忙殺されておられます。王太子殿下は未来の国王。御身にかかる重圧は想像を絶するものがありましょう。お嬢さまのお勤めとはそんな殿下をお慰めし、喜ばせ、癒やして差し上げることでございます。そして、できますればお子をお産みまいらせ、王室に繁栄をもたらすことでございます。

 あのときはまるで理解できなかった言葉が、いまはまるで自分の心の裡から湧き出たものであるかのように身に馴染む。

 王太子であるヴァレリーは国のために、民のために、心を押し殺して厳しい決断をしなくてはならないこともある。いや、きっとそういうことのほうが多いはずだ。――多かったはずだ。

 そんな彼に、ひとときでもいい、安らげる時間を与えてあげたい。

 エリシュカははたと足を止めた。

 東国へ戻れば、ヴァレリーは王太子に戻る。いずれは国王となり国の極みに立つ彼と、本当の意味で並び立てることは――、もうないだろう。

 いましかないのだ、とエリシュカは思った。同じところに立ち、同じものを見て、同じ気持ちでいられるときは、いましかない。

 会いたい。いま、会いたい。

 一緒にいたい。いま、一緒にいたい。

 いまのアランさまを忘れてしまわないように。心に刻んでおけるように。

 手にしていた燭台を、ぐ、と握り締め、エリシュカは無意識に通り過ぎてきた廊下を振り返る。このときになってはじめて彼女は、シュテファーニアとツェツィーリアの言葉の意味をようやく理解した。

 会いに行け、と彼女たちは云っていたのだ。気まずくないように不在にしておいてやるから、この隙に彼のもとへ駆けて行け、と。

 エリシュカは少しだけ恥ずかしくなった。

 わたしがなにを考えているのかなど、おふたりはすっかりわかっていらしたのに違いない。戸惑いも、迷いも、そしてそれを振り切ることまでをも含めた、なにもかもを。

 エリシュカは躊躇うことなく踵を返した。


 広い中央神殿の中のどこにヴァレリーの居室があるか、エリシュカは以前から把握している。ツェツィーリアが教えてくれたのだ。

 留学のためにやってきた神官を装うヴァレリーと神殿付下女を偽るエリシュカは、ともにここ中央神殿にいてはならない人間だ。万が一にもその正体が露見したとき、ふたりが互いを見失うことなくともに逃げられるよう、ツェツィーリアは、エリシュカにはヴァレリーの居室を、ヴァレリーには自室の位置をきちんと教え、覚えておくように、と云っていた。

 ツェツィーリアさまも、まさかこんな機会があるとお考えではなかったはずだけれど、とエリシュカは閉ざされた扉の前で、いまだ覚悟と拳を固めかねていた。迸るように溢れ出た気持ちのままにここまで来てしまったけれど、いったいなにをどうアランさまにお話しすればいいのか。

 だいたいわたしの云いたいことは、さっきあの史料室ですべてお伝えしたはずだ。アランさまについて東国へ行きたい。できることならずっとお傍に置いていただきたい。

 わかった、とアランさまはおっしゃってくださった。すぐに、というのが無理ならばあとからでもいいとまで――。

 一度は拒み、逃げ出したことを許し、わたしの気持ちを受け止めてくださった。

 ほら、もうなにも話すことなどないではないか。

 やっぱり戻ろう、引き返そう、とエリシュカは思った。こんなところにぼんやりと突っ立っていて誰かに見咎められでもしたら大変だ。

 肩の高さまで上げた手を下ろし、エリシュカが一歩を引いたそのときだった。ほとんど音もなく目の前の扉が開き、ヴァレリーが廊下に足を踏み出してくる。

 突然のことに驚き、あっ、と小さな声を上げて後ろに下がろうとしたエリシュカだったが、慌てたせいで足を縺れさせて倒れかける。背中を打つ痛みを覚悟してぎゅっと瞑った目蓋は、けれど、次の瞬間、誰かの腕に引き寄せられる思わぬ衝撃に大きく見開かれた。

「エリシュカ」

 驚いたようなヴァレリーの声がエリシュカの耳を打つ。おそるおそる視線を上げれば、かすかに眉を寄せて心配そうな表情をした男が、こちらを覗き込んでいた。

「どうしたのだ、こんなところで」

「あ、あの……」

「なにかことづかってでもきたのか」

 い、いえ、とエリシュカは俯いた。やはり来なければよかった。心のままに、などと慣れぬことをするから、こんなふうに恥ずかしいことになる。

 俯いたままの首筋をほんのりと赤くしているエリシュカの様子に、ヴァレリーはもしやと思った。掴んだままの二の腕をそのままに腰をかがめ、耳元で囁いた。

「もしや、おれに会いに来てくれたのか」

 エリシュカは弾かれたように顔を上げた。頬も耳も真っ赤に染まり、薄紫色の双眸は艶やかに潤んでいる。羞恥のあまりの表情だったが、ヴァレリーの目には毒にしかならない。ぐ、と喉を詰まらせて湧き起こる衝動をどうにか堪えた。

「あの、はい、ええと……」

 返事なのか躊躇なのかわからない声を絞り出し、エリシュカは困り果てて眉根をぐっと寄せた。ヴァレリーはもうたまらなくなって、エリシュカの身体を強く引きずり寄せると、胸の中に抱き止めながら部屋のうちへと引き返した。彼女が手にしていた燭台は素早く取り上げ、蝋燭の炎もさっさと吹き消してしまう。

「あ、アランさま……」

 扉に寄りかかったヴァレリーの身体に強く抱きしめられながら、エリシュカは自分の腕を伸ばして男の身体をしっかりと抱きしめ返した。

「エリシュカ」

 ヴァレリーの吐息が耳に触れ、ただでさえ熱くなっている耳朶が溶けてなくなるような気がした。エリシュカは首を横に振り、アランさま、と返した。

「どうした、エリシュカ?」

 殊勝に問いかけながらも華奢な身体をしっかりと抱きしめ、もう離すものか、とヴァレリーは思っている。先ほどは邪魔者ふたりに妨害されたが、いまこの部屋には誰もいない。ふたりきりだ。

 エリシュカと強引に引き離されたあげく、一緒にいたいと思う気持ちを踏み躙られるように部屋に戻されたものの、とても寝付けそうになかったヴァレリーは、ふたたび図書庫に赴き、眠たくなるような書物でも読もうかと部屋を出ようとしていたのだった。

 まさか扉の前に当のエリシュカが立っているなどとは思いもしなかったが、もしかしたらなにか感じるところがあったのかもしれない。どれほど寝付けない晩であっても、これまではただの一度も図書庫で時間を潰そうなどと考えたことはなかったからだ。

 扉に背中を預けて腕の中の重みを愛おしく思いながら、ヴァレリーは窓の外の明るい月を眺める。ほとんど満ちかかっている月は、燭台の灯りなどなくとも十分なほどに、部屋の中を薄明るく照らし出していた。

「アランさまのお顔が見たくて、あの……、その、お話が……」

 顔が見たかったなど嘘だ。

 話がしたかったなど嘘だ。

 こうして――、抱きしめてほしかった。

 エリシュカの拙い嘘など、ヴァレリーにはお見通しだった。

 うん、そうか、とやさしい声で答えながら、彼はエリシュカをしっかりと抱き直す。覚えているとおりのほっそりとした身体は、しっとりとした熱を帯びていて、それだけがかつての記憶と重ならない。

 エリシュカもおれを求めてくれているのだ、とヴァレリーは気づいた。一方的だったあのころとは違って、彼女もちゃんとおれを想ってくれている。

 そう気づいてしまったらもうだめだった。我慢などできるはずもない。

 強い力でしがみついてくるエリシュカの身体をわずかに離し、ヴァレリーは目蓋をきつく合わせたままのエリシュカの顔を間近からじっと見つめた。目も唇も、感情を伝えてしまう器官をすべて閉ざして、それでも彼女の心はちゃんと伝わってくる。震えるほどに力の込められた腕や、甘い匂いややわらかなぬくもりやなんかで。

「エリシュカ」

 指先で髪を掻きわけながらそっと囁きかけ、ヴァレリーは自分の唇でエリシュカに触れた。額、こめかみ、頬、鼻、耳朶、それから――、唇。

 熱い吐息が重なりあい、溶けあっていく。

 求めあって募る慾望は、ただの慾望ではないのだとヴァレリーは知った。

 欲しいだけではない。受け止めてやりたい。

 奪いたいだけではない。与えてやりたい。

 己のなにもかもを。エリシュカのなにもかもを。

 こんな気持ち、はじめてだ。きっとエリシュカもはじめてなのだろう。

 小さな身体が震えている。きっと心も震えている。

 なにもかも、おれと同じように。

 空が白みはじめるころ、エリシュカはふと目を覚ました。深い水の底からふわりと浮かび上がるような、自然な目覚めだった。

 仰向けになった身体は横からヴァレリーに緩く抱かれている。首の下と腹の上にまわされた逞しい腕、肩口に押しつけられている形のよい額、静かに呼吸するあたたかな身体。

 薄い掛布から剥き出しになってしまっている肩を覆ってやろうと身じろぎすると、逃げないでくれ、とばかりにしがみつかれた。

 アランさまはまだ怯えているのかもしれない、とエリシュカは思った。わたしがいなくなってしまうと、逃げ出してしまうと、そう怯えているのかもしれない。

 いまだけではない。きっと、ずっとそうだったのだ。わたしが王城に閉じ込められていた、あのころからずっと。

 なかったことにしましょう、なんて簡単には云えない。

 あのとき感じていた苦痛も、悲哀も、寂寥も、エリシュカはなにひとつ忘れてはいない。二度と味わいたくない思いだ。

 けれど、もしも、自分と似たような痛みや哀しみや寂しさをヴァレリーも覚えていたというのなら、もう二度とそんな思いを味わってほしくないとも思う。

 わたしがそばに居ることでアランさまのお心が満たされるのなら、それはわたしにとってもおおいなる喜びだ。わたしだって彼のそばにいることで、こんなにも満たされるのだから。

 なんという遠回りだろう、とエリシュカは少しだけ可笑しくなった。

 このぬくもりを、この重みを疎ましく思って逃げ出して、なのに、いつまでも懐かしく思い出して、また求めて。ふたたび与えられた同じぬくもりと重みを、いまはこんなにも愛おしく思う。

 こんなことならば、はじめから素直に受け入れればよかったではないか。

 そうすればわたしは、いいえ、わたしたちはふたりとも、身を引き裂かれるような苦しみも、胸を引き裂かれるような切なさも、心凍るような寂しさも知ることはなかった。

 エリシュカは安らいで眠る男の黄金色の髪を見つめるのをやめ、ふと窓の外へと眼差しを向けた。

 いつか見た空に似た色が薄紫色の瞳を染める。いつかの朝、悲しいばかりにしか思えなかった眩い紺青は、いまのわたしには満ち足りた夜を思い起させる幸いの色と映る。夜明けを告げる雲雀の声は、明日に繋がる希望の響きを伴っている。

 アランさまを想うことはもうないだろう、と思った、あのときと同じ色の空の下で、いまのわたしは、アランさまから離れることはもうしない、と誓う。

 そうか、とエリシュカは思った。

 きっと必要な痛みだったのだ。わたしたちが感じた苦痛も悲哀も寂寥も、この朝へと――この誓いへと――辿り着くために、必要な痛みだったのだ。

 エリシュカの頬にやわらかな笑みが浮かんだ。アランさま、と彼女は小さく呟いた。

「あなたに会えて、よかった」

 エリシュカの意識は、ふたたびゆるゆると融け出していく。愛しい女の声で目を覚ましたヴァレリーが自分を呼ぼうとする気配に気づかぬまま、彼女は眩しさに耐えきれずにそっと目を閉じた。

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