15

 王城から逃亡した寵姫エリシュカを追って西方への旅に出ていた東国騎士ギャエル・ジアンが、己の務めと仲間をすべて放り出して叛乱勢力と合流し、その後、蜂起の狼煙をどうにか絶やすことなく王都の西端へと辿り着いたのは、秋の迫る夕暮れのことだった。

 短く寒い夏は、あっというまに過ぎ去っていった。通り過ぎてきた街や町では、不吉な話を聞かされた。小麦が全滅した村もあれば、小魚一匹上がらなくなった港もあった。農夫も漁夫も、みな大きな街へと出稼ぎに出てこようとしていたが、国中がそうした状況にあるために、人手はすぐに足りてしまう。働きたくとも働けない者たちは街角に溢れ、食い詰めた者たちによる不満は、もう爆発寸前まで膨らんでいた。

 事情は大いに異なれど、不満が溜まっているという意味ではジアンらにしても似たりよったりである。

 北方の地で蜂起した仲間たちと呼応するように勇ましく行軍をはじめたジアンらだったが、王都への道を半分も進まぬうちにユベール・シャニョンらが率いる本隊の壊走を知ることになった。

 叛乱の首謀者のひとりであるリオネル・クザンが捕縛され、仲間の大半が逃げ出すか捕らえられるかしたようだ、と知らされたときの僕たちは、まるで水をかけられた蟻の列のようにみっともなく取り乱したものだ、とジアンは思い出す。

 知らせを受け取ったジアンらは、しばらくそのとき滞在していた小さな村にとどまらざるをえなくなった。行軍を続けるか否か、仲間同士、意見が分かれたからである。

 話合いは長く続いた。

 ある者は、叛乱は失敗に終わったのだ、と云った。北方へ王太子が向かったのと同じように、西方にいるわれわれに向けても鎮圧のための軍勢は送られているだろう。犠牲を出す前に解散し、故郷へ戻ろう。

 だが、ある者は、行軍は続けるべきだ、と主張した。捕らえられたのは事務屋のクザンひとりで、真の指導者であるシャニョンはまだ無事でいるはずだ。彼はどこかに潜んで時を待ち、必ず再起する。われわれはたとえ捕らえられ、殺されたとしても、最後までシャニョンとともに戦うべく、備えなくてはならない。

 また、どうにかしてシャニョンらと合流し、ともに時を窺おうと云う者や、もはやわれわれはシャニョンやクザンらとは関係ない、新たな革命を起こそうではないか、などと云いだす者まで、さまざまだった。

 次々と噴出する意見に不満が混じりはじめたころ、最初の逃亡者が出た。それもひとりやふたりではない。一度に五人もの者が旅列を離れ、姿を消した。次の夜には三人、その次の夜にも四人。逃亡者が増えるにつれて一団の空気は荒み、滞在していた宿からも追い出されそうになった。

 シャニョンらの消息は杳として知れなかった。最初の知らせが届けられて以来、北方の様子を知ることはいっさいできていなかったのだ。様子を探ってくる、と云ってそのまま行方を晦ます者が現れ、やがて旅列はほんの七、八名ほどにまで人数を減らしてしまった。

 逃げそびれた、と思っている者がほとんどだったはずだ、とジアンは思う。僕たちは所詮、寄せ集めの烏合の衆にすぎなかったのだから。

 ジアンとて、機会があれば逃げ出そうと考えていた。途中で放棄したとはいえ、僕はまだ東国騎士としての籍を持っている、と彼は思っていた。いざとなれば王城へ戻り、適当な云い訳を並べて隊に復帰することだってできるはずだ。

 もしも、あのクロエとかいう侍女が余計なことを云っていたとしても、云い訳はどうとでもできる。叛乱勢力の様子を探るため、恥を忍んで間諜行為を行っていたのだ、とか、はじめは唆されてその気になったが、途中で改心したのだ、とか――。

 けれど、結局ジアンは一団を離れることはできなかった。

 仲間たちに己が騎士であることを吹聴し、強く印象づけてしまったせいで、いつのまにか西方の叛乱の首謀者のような位置に祭り上げられてしまい、身動きが取れなくなってしまっていたのである。

 調子に乗って演説なんかぶつんじゃなかった、とジアンは何度も後悔した。あの寂れた酒場で酔った勢いに任せて調子のいいことを云ったばっかりに――。

 いいときばっかり仲間ヅラで、悪いときにはさっさと逃げるか、いい気なもんだ。自分だって同じことをしようと考えていたくせに、逃げそびれたジアンは人目を忍んで街道を歩みながら、うまくいかない状況にさんざん悪態をついた。

 途中、鎮圧のための軍勢と行き会った折、数人ずつに分かれて彼らをやり過ごすことにしたのだが、そのときには、そのまま逃亡してしまおうか、と一緒にいた者たちに誘いをかけたりもした。

 聞かなかったことにしておいてやるよ、とそのときジアンの言葉を聞いた男――眼鏡をかけた線の細い学生――は生真面目な口調でそう云った。厳しい試練に見舞われれば誰だった迷うことくらいあるからね。きみは騎士の職にありながら、王家の横暴を許しがたく思って革命に参加した有志の者だろ。負けるなよ。へこたれるな。

 なにが負けるな、だ、とジアンは思った。もうとっくに僕たちは負けてるんだ。いい加減、現実を見ろよ。

 けれど、それを口にすることはできなかった。卑怯者と罵られることは、たとえそれが真実を突いていたとしても彼の矜持が許さなかったし、いまここで逃げ出して復隊したところで、仲間たちには素性を知られているのだ。容易く報復されるだろうことは想像がついた。

 でも、それを云うなら僕だって、おまえの素性は掴んでいるんだからな、とジアンはそんなことも思っていた。どこか大きな街の裕福な商家の息子だろう。父親と母親に甘やかされて育った世間知らずの坊ちゃん。その懐に、仲間には内緒の金をたんまり隠し持っていることだって知っている。

 ジアンと残された数少ない仲間たち――もしも彼らを仲間と呼べるのであれば――は、そうやって互いに互いを縛りながら、衛士の目を躱し、追手に怯えつつも街道を歩んだ。人数が減ったぶんだけ歩みが早くなったことが幸いしたのか、予定よりもだいぶ早く王都の西端へと辿り着くことになった。

 そしてそこで彼らは、思いがけぬ相手と出会うこととなったのである。


 東国の数ある街のなかでも、王都は特別な街である。それは、王城を擁するゆえの特殊性もあるが、極端な人口の多さに起因するところも大きい。

 各地に点在する街や町、村は、擁壁に囲まれ、そこを出入りするための街門を衛士が守っているのが、基本的な形である。人々は擁壁の内側に暮らし、他の町や村を訪れる用でもない限り、街門をくぐることはない。街の中心は領府であったり、市場であったりさまざまだが、その形は大きく変わることはなかった。

 しかし、王都は違う。高く聳える頑丈な擁壁に囲まれているのは、王城を囲む中心地だけである。その擁壁に設えられている街門は閉ざされることはなく、人々は自由に中心部と辺縁部とを往来することができた。

 むろん王都も、当初は他の街と同じように擁壁の内側でのみ繁栄していた。だが、時を経るうちに人口が増え、合わせて家や店が増え、学校や市場が増え、としているうちに、擁壁の外側にまで、街と呼ばれる範囲が拡大していくこととなったのである。

 ジアンらがたどり着いた王都の西端とは、そうやって拡がった市街地の西の辺縁であった。

 王都の中へ潜り込むのは、そうむずかしいことではない、とジアンは仲間たちにそう話していた。

 王都では、ほかの街のように出入りするのに衛士たちの目が光っているわけではない。むろん、街中に衛士は多いが、国王のお膝元であるこの国の都では、まっとうに暮らす者だけではなく、ならず者も多い。治安は決してよいとは云えず、下町では犯罪も少なくなかった。必然的に衛士たちはいつも多忙で、目立って不審な動きを見せなければ、とくに咎められることはないだろうと思われた。

 僕たちは手配されているわけでもないみたいだし、とジアンは云った。この目印さえ、人目につかないようにしておけば大丈夫だと思うよ、と彼は胸元にしまっておいた黄土色の腕布をわずかに覗かせ、すぐにしまった。

 分散して宿を取ろう、とジアンは続けて提案した。叛乱勢力の中心が学生であると知れたいま、その年頃の男どもが数人固まっているだけで目立つからね。

 仲間たちはジアンの意見に賛同し、ふたりと三人ずつの計三組に分かれて王都の下町に宿を確保した。それから各々街中へ散り、情報収集に努めることとしたのである。

 ジアンはそれまでも行動をともにすることの多かった学生――エリク・フォルタンというのが彼の名だ――と一緒に、王都の中心地まで行ってみることにした。

 本当に大丈夫なのか、とフォルタンは不安そうにジアンに尋ねた。

「捕まるのが怖いのか?」

 ジアンはどこか意地悪気にそう問い返した。

「流血の革命をもおそれぬ有志の徒が捕縛を怖がるとは、王城に捕らえられ、それでもなお意志を貫く同志リオネル・クザンに恥ずかしいと思わないのかい?」

 言葉だけならなにを云うも自由だな、とジアンはひそかに自嘲した。僕だって捕縛されるのは厭だ。厳しい取調べや拷問、家族への非難は避けられないし、職だって剥奪されるに違いない。罪が明らかになれば、重たい罰も受けることになる。いまの東国では、王家に対する叛逆はその理由を問わずに悪とされ、その罰は死刑ひとつと定められている。

 だいたい、すでに捕らえられたというクザンが黙秘しているのかどうかも、ジアンには定かではない。話に聞く彼ならば、そうするのではないかと思っただけだ。

 クザンの名前を聞くや、フォルタンはそれまでの不満顔を引っ込め、急に生き生きとした表情になった。この現金さが若さゆえのものなのか、愚かさゆえのものなのか、ジアンにはよくわからなかった。

 誰かを敬い尊ぶことは悪いことではない。その誰かの行いを真似ることも、滑稽ではあるが間違いではない。だが、勘違いしてはならないのは、誰かをどれだけ真似たところで、自分がその誰かになることは決してない、ということだとジアンは思う。

 ユベール・シャニョンの叫ぶ理想に惹かれ、伝え聞くその姿に憧れもしたが、現実的なジアンは、己がシャニョンのように誰かを導けるとも、高潔であるとも思っていなかった。それでも、彼が示す政の形には心惹かれるものがあったし、そうした理想が叶えられる世の中であればいいとも思っていた。

 自分がかくあれと思い描く理想の己と、実際を生きる己とには天と地ほどの隔たりがある。憧れるだけなら勝手にすればよいが、それを拗らせればろくなことにはならない。こいつはきっと、まだそのことには気づいていないんだろう、とジアンはフォルタンに冷めた眼差しを向けた。フォルタンはたぶん、己もまたシャニョンのようになれると、まだそんな幸せな勘違いをしたままなのだろう。

 わかった、とフォルタンは答えた。志のためだ。ぼくにはなにも怖いものはないよ。

 へえ、そりゃすごい、僕には怖いものだらけだよ、とジアンは思ったが、なにも云わずに微笑んで見せ、王都の中心地へ続く路地を歩きはじめる。見目のよいジアンの笑みは同じ男であるフォルタンにも有効に作用したのか、若者は先ほどまでの不安を忘れたかのような勇ましい足取りでジアンの背中を追いかけてきた。

 なんだか厭な気配がするな、とジアンが気づいたのは、そうやってふたりが市場の喧騒に紛れ込んで、しばらくしてからのことである。

 ――誰かに見られている。

 ジアンは隣を歩くフォルタンに話しかけたり、居並ぶ屋台に気を取られているふりをしたりしながら、素早く周囲に注意をめぐらせた。

 いったい誰だ、とジアンは考えた。知り合いではない、と彼はまず真っ先に考えついた可能性をさっさと除外した。

 王都にいるジアンの知り合いは同じ騎士の連中だけである。故郷から出てきて騎士見習いとなり、最初の訓練を終えたばかりの彼には、仲間と呼べる者の数はそれほど多くはなかった。それに、叛乱勢力の蜂起に王太子の遭難と、大きな非常事態に国が揺れるいま、騎士である彼らが職務を離れて王都をふらふらしているはずがない。

 叛乱勢力の一味であることが露見したのだろうか、とジアンは次の可能性を考える。けれど、それならばこれほど長く行動を見張ったりせず、さっさと捕縛にかかっているに違いない。

 では――、とそこまで考えたジアンは、ふと商店の硝子に映った背後の人影を目にして、あることに気がついた。まさか、と彼は勢いよく身体を捻り、建物の陰に身を隠した人影を追いはじめる。

 慌てたのは、そのときジアンから少し離れたところにいたフォルタンである。

「ま、待って、ジアンっ!」

 人前では決して名を呼ぶな、と云われたことも忘れ、フォルタンは急いでジアンを追いかける。追われたジアンは忌々しげな舌打ちをしたが、いまは彼にかまっている場合ではない、と思い直し、逃げる人影を追うことに集中することにした。

 人影は追われていることがわかっているのか、ときどき背後を気にする仕種を見せながらも、細い路地を右へ左へ折れながら、奥へ奥へと進んでいく。

 ずいぶんとこのあたりに詳しいな、とジアンは警戒心を高めた。影を追って角をひとつ曲がるたび、人の気配は確実に少なくなっていく。

 これ以上追うのは危険か、とジアンが足を止めようとしたそのときだった。消えたはずの角から影が戻ってきて、ジアンの前に立ちはだかる。さらに背後にふたつの気配が現れ、フォルタンの鈍い悲鳴が聞こえた。

 ジアンは咄嗟に両手を肩の高さまで持ち上げ、非抵抗の意を示した。

「誰だ?」

 追っていた僕が誰何することになるとはね、とジアンは可笑しくなる。だが、こうして向かい合ってすら相手の正体の見極めのつかぬ自分とは違い、相手は自分を知っているような気がした。名前や出自ではない、その素性を。

「離してやれ」

 目の前に立つ男のひと言で、背後にいたフォルタンは拘束を解かれたらしかった。引き攣れるような悲鳴がひとつ聞こえたそのあとは、ぶるぶると身体を震わせる気配だけが伝わってくる。

「僕らを知っているんだな?」

 ジアンの問いに男は低い声を立てて笑った。目深にかぶった広いつばのある帽子のせいで目許の表情は窺えないが、心底可笑しくてたまらないというような愉快そうな声だった。こんな場面には似つかわしくない声だ、とジアンは思い、どこかが振りきれてしまっているように思える男の精神を不気味に感じた。

「知っているんだな?」

 確かめるようにもう一度問えば、男は笑いを止めて、きみこそ、と云った。

「僕を知っているはずだと思ったんだけどね」

 男は帽子を脱ぎ去り、紅茶色の髪を軽く振った。翡翠の瞳が笑顔にそぐわない鋭い光を湛えてジアンをじっと見据えている。

 まさか、とジアンは思った。――まさか、彼なのか。

「シャニョン!」

 ジアンの背後で細い声が上がる。フォルタンが震える指先を前へと向け、鳶色の瞳を何度も瞬かせていた。

 振り返ったジアンは咄嗟にフォルタンの手を掴み、指先を下ろさせる。失礼な振る舞いだと思ったからではない。この剣呑な存在に積極的にかかわらないほうがいいと思っただけだ。

 ユベール・シャニョンとはこんな男だったのか、とジアンは思っていた。

 ジアンが叛乱勢力に加担したのは、王都で通っていた酒場で知り合った男に誘われたのがきっかけだった。男は自分を教師だと云った。田舎町の小さな学校で教鞭をとっているんだ、と。

 その教師はシャニョンのことを穏やかな人物だと評していた。会ったのは一度だけなんだがね。見た目も口調も柔和そのものでね。それだけに彼が語る理想には、ほかの誰にもない説得力があるように思えて仕方がないんだよ。そうは思わないか。

 派手な言動パフォーマンスで人を惹きつけ、過激な言葉で人を煽る者は王都に限らずどこにでもいる。ジアンはそういう連中をたくさん知っていたし、そのほとんどが――否、すべてが――理想とすら呼べぬ夢物語さえまともに語れないことをよく知っていた。

 ジアンは現実的で冷笑的な男だった。それまでの彼は、国を変えよう、という志を鼻で笑いこそすれ、それに傾倒などするはずがなかったのだ。

 だが、その教師から聞かされたシャニョンの言葉には、なぜか心を惹かれるものがあった。特別ななにかを感じたわけではない。教師の語り口が上手かっただけかもしれない。

 それでも――。

 もしかしたら、とジアンは思った。シャニョンという男ならば、彼が率いるという勢力ならば、あるいはこの国を、この国の仕組みを変えられるのかもしれないと、そう思ったのだ。

 それはジアンにとって、自らの手で断ち切ってしまった家族との絆を取り戻すための希望でもあった。


 ギャエル・ジアンが生まれ育ったのは、東国の西部に位置する小さな村である。彼自身がクロエに語ったように、どこからも、誰からも忘れ去られたように存在する貧しい故郷。ジアンはそこで鳥撃ちの息子として生まれ、鳥撃ちとして生き、鳥撃ちの息子を残して死ぬはずだった。村で生まれたこどものほとんどがそうであるように。

 だが、ジアンはそうはならなかった。王都に出て騎士となった。

 それは、彼の故郷の村ではどんな年寄りの記憶にもないほどに珍しいことで、だからジアンは実家の父と母の誇りであり、同時に――、恥でもあった。

 東国のこどもは誰でも――どんな僻地においても――、読み書きと計算の勉強をするため、数年間の教育を受けることができる。生まれた土地に学校がなければ、近くの街にある学校の寮――その運営にかかる費用は、ほとんどが国費で賄われる――に入ることもできた。

 ジアンの村には、年老いた教師がひとりでなにもかもを教えてくれるような小さな学校があった。目はしょぼつき、声もろくに通らないほどに年老いた教師は、しかし、人を見る目はたしかだった。

 教育課程の最初の一年を終えたところで、教師はジアンの両親に、ジアンには勉学をする才能がある、と云った。一を聞いて十を知るような聡さと、自分の聡さを知る賢さがある、と。そして、こう続けた。もしもその気があるのなら、領府のある街の学校でよく学ぶといい。儂が紹介状を書いてやろう。

 そして、ジアンに対してはこんなことを云った。大きな街の学校でよい成績を修めれば、その上の学校に進むことができる。ゆくゆくは官吏か騎士となり、国のために働くこともできるようになる。

 国のために働くとか、官吏になれるとか、ジアンにしてみればそんなことはどうだってよかった。彼にとって大事だったのは、領府のある街の学校へ通うことにすれば、このつまらない村を出ていける、ということだった。

 ジアンは、いい学校に行きたい、と両親に訴えた。あれほどの熱意で誰かの心を動かそうとしたのは、あれが最初で最後だった、とジアンは思い出す。いま、このときで人生が決まると、あのときの僕にはちゃんとわかっていたんだ。

 ジアンの言葉に、父は渋い顔をしていたが、母は早々に彼の希望を受け入れてくれた。あんた、こんな名誉なことはないじゃないか、と母は父に云った。ねえ、先生さまのお話じゃ、ギャエルはたいそう優秀だそうじゃないか。もしかしたらこの子は、この村から出る最初の騎士さまになるかもしれないんだとよ。

 鳥撃ちの息子として生まれ、自身も鳥撃ちであることになんの不満もなかった父親は、騎士さまねえ、と首を傾げた。そんなもんにならなくたって、雉は撃てるし、家族は養える。読み書きなんざ、鳥の前ではなんの役にも立たねえよ。

 そうは云っても、平凡以外のなにものでもない自分の息子が優秀だと云われることは嬉しかったのだろう。頑固な父も最後には折れ、ジアンを領府のある街へ送り出すことに賛同してくれた。

 父と母は、おまえのことを誇りに思う、と云ってくれた。きっとそれはいまも変わらないのだろう、とジアンは思う。――心のどこかでは。

 大きな街の学校でも、ジアンはあっというまに頭角を現した。彼の賢さは本物で、はじめのうちこそ田舎者だと莫迦にしていた級友たちも、すぐに一目置くようになった。教師はこぞって上級の学問所への進学を勧め、ジアン自身ももちろんその気でいた。故郷へ帰る気などさらさらなかった。

 だが、父と母にとってはそうではなかったらしい。もっと大きな街の――もしかしたら王都の――学問所へ進学できるかもしれない、との知らせを書き送ったジアンに寄越された返事は、いまの学校を終えたらすぐに帰郷しろ、という素気ないものだった。おまえと同じ歳の連中はとっくに猟銃の扱いを学んでいる。おまえは出遅れているんだぞ。

 猟銃の使い方なんてどうだっていい、とジアンは思った。僕は王都に出て騎士になるんだ。

 学校が休暇になるたびにジアンは故郷へ戻り、両親との話合いを続けた。ときには教師までもが故郷の村へと出向き、説得の手伝いをしてくれた。それでも頑固な父と母は、決して首を縦に振らなかった。

 騎士さまになれるかも知れないって、母さん、そう云って喜んでくれてたじゃないか。ジアンが云っても、母は、だってねえ、といかにも愚鈍そうな――ジアンにはそう聞こえてならなかった――声でゆっくりと言葉を選んだ。川の傍の青い屋根の家に住んでるおばさん、憶えてるだろ。あそこんとこの娘がね、もういい歳頃になるんだよ。前々からねえ、おまえの嫁にどうかってそういう話があってね。学校なんか行ってたら、よそのどっかに貰われちまうかもしれないし、そうでなくたって嫁は若いほうがいいんだからさ。

 まるで見当違いにしか聞こえない母の言葉に、返す言葉すら見つからないジアンの前で、父は何度も頷いていた。鳥撃ちとして未熟なおまえに嫁いでもいいと云ってくれてるんだ、いい娘じゃないか。立派な尻をしているし、あれはいい子をたくさん産むぞ。

 羞恥と怒りと失望でジアンの目の前は真っ赤に染まった。隣に座っている教師の顔を見ることもできなかった。なんだ。なんなんだ。僕は進学の許可をもらいにここまで来てるのに。なにが鳥撃ちだ。なにが嫁だ。挙句にいい尻だと。こどもだと。もういい加減にしてくれ。

 帰りましょう、先生、とジアンはすっくと立ち上がった。こんな人たちは父でもなければ母でもない。義理を尽くそうと考えた僕が莫迦だった。学のひとつもない田舎の鳥撃ちに、王都の学問所で学べることがどれほど名誉なことかなんて、理解できるはずもなかったんですよ。

 戸惑う教師の腕を強引に引き、ジアンは怒ったり戸惑ったりしている両親を振り払うようにして家を出た。

 ――あんたたちのこどもに生まれたことを、僕は心底恥ずかしく思うよ。

 ジアンはそのまま村を出て行った。冷たく吐き捨てた言葉に立ち竦む両親の顔など見ようともしなかった。

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