05
厩番頭のアランと身分を偽る王太子ヴァレリーが、エリシュカとともに馬の早駆けに出かけた朝は、その季節にふさわしい、ぴんと張りつめるような寒気に満ちていた。
ヴァレリーが跨る月毛馬も、エリシュカが騎乗するテネブラエも、その身体から湯気が立ち上るほどに疾駆して、いまはほどほどの満足を得ているのか、ゆったりとした歩みで草原を進んでいる。
朝靄の晴れた晩秋の草原は、冷たい青空の下、やや枯れた緑に覆われ、ときおり北風に煽られるままにうねりを見せている。東国への旅の途中ではじめて見た海が、ちょうどこんなふうに見えていたっけ、とエリシュカは目を細めた。
五日ぶりの早駆けにまだ完全には満足していないテネブラエは、同行する者があることが気に入らないらしく、先ほどからしきりにひくりひくりと耳を動かしている。エリシュカの華奢な掌が首筋を撫で、そんな彼の不機嫌を宥めようとしていた。
ヴァレリーを乗せた月毛馬は、身体の色そのままに
「エリシュカ」
呼び止められたエリシュカは、鞍の上で身を捻って厩番頭に返事をした。
「おれは少し疲れた。あの木の下で休んでいるから、そなたたちは好きなだけ駆けて来るといい」
テネブラエの不満を感じ取ってくれたのに違いない、とエリシュカはその命令に感謝した。おおいに駆けてくるがいい、と許されたことを悟ったテネブラエは、行こう、と囁くエリシュカの声を聞くや否や、全身の筋肉を大きくしならせて駆けだした。
ヴァレリーが見守る前で、それまでエリシュカがかぶっていた厚手の外套の
ヴァレリーの邪な眼差しを振り返ることもなく、エリシュカの背中はテネブラエを駆ってあっというまに小さくなっていく。枯れた緑のなかにときおり煌めく銀色だけが彼女の居場所を示す標となるまで、そう長い時間はかからなかった。
全力で駆ける美しい青毛。それを操るエリシュカは、平素のどこか儚げな姿と違い、活き活きとして躍動的だ。テネブラエが見るのと同じ景色をまっすぐに見据える薄紫色の瞳は、そこにはないなにかさえも見通そうとしているかのように鋭い。陽の光を受けて輝く銀髪と相俟って、その姿はまるで一条の光のようにさえ見える。
あの光はおれのものだ、とヴァレリーは目を細めてエリシュカの姿を追った。
エリシュカに惹かれはじめたのがいつだったのか、ヴァレリーはもうはっきりと思い出せない。つい最近だったような気もするし、もうずいぶんと経っているような気もする。
女遊びにはたいそう熱心だったヴァレリーだが、じつはさほど女が好きだったわけではない。女とともに時を過ごすことは、ほかでは味わえない快楽を貪るためであって、精神的な充足を得るためではなかった。
数多の政務と軍務に忙殺される王太子ヴァレリーの精神的な支えは、自身が率いる近衛騎士団と愛馬たちである。
騎士たちを率いるときのヴァレリーは、王太子であると同時にみなを統率する団長として誇り高くあり、その威厳を忘れたことはない。剣技にも体術にも秀でている彼は、近衛といえども荒っぽい者の多い騎士団にあっても彼らを上手くまとめ、導いてきた。
力強く逞しい騎士の長。ヴァレリーは常にそうあることを望まれていたし、自らもそうあるよう努めてきた。そんな己を誇りに思ってもいる。
一方、馬に親しむことは、政治的にも肉体的にも厳しい世界に生きるヴァレリーに与えられた、ほとんど唯一の安らぎだった。自ら厩舎に赴き馬の世話をすることは、ヴァレリーが幼いころからの習慣のようなもので、厩舎の男たちはそんなヴァレリーに親しんでいる。
王城にあるときのヴァレリーは第一王位継承者たる王太子だが、厩舎にあるときの彼は馬を愛するひとりの男である。ヴァレリーは厩舎の男たちにだけは己をアランと呼ばせ、決して特別扱いをさせなかった。厩舎にいるときの彼は王太子であることを忘れ、自ら襤褸を拾い、寝藁を運び、餌を用意する。馬の身体を洗い、ブラシをかけ、必要であれば出産の介助や遺体の埋葬もした。
そんなヴァレリーが、王太子妃の輿入れとともに厩舎に姿を見せるようになったエリシュカの存在を知ったのは、じつは婚儀からかなりの日数が経ってからのことである。華やかな宴や格式張った挨拶、そのほかの儀式がこまごまと続き、さすがのヴァレリーも日常の政務と軍務に加えたそれらの儀式をこなすことに手一杯で、なかなか厩舎にまで顔を出すことができなかったのだ。
だがひとたび日常が安定してしまうと、夜の営みを拒む王太子妃シュテファーニアのおかげと云おうかなんと云おうか、ヴァレリーは結婚前と同じように早朝から厩舎に顔を見せるようになった。そして、そこで働くエリシュカと顔を合わせたのである。
大きな馬の身体の陰に隠れるようにして、神ツ国から連れてこられた馬たちの世話に励んでいたエリシュカに対し、咄嗟に厩番頭を名乗ったことに深い理由はない。ただ、彼女の出自を問い質した結果、シュテファーニア付の侍女であることがわかって、急に王太子を名乗る気がなくなった。――それだけのことだ。
主の夫であるというつまらない線引きをされたくなかったのだ、とヴァレリーはふとエリシュカと出会った朝のことを思い出した。
あの朝、見慣れぬ白馬にブラシをかけている薄い背中に目を止めたヴァレリーは、傍にいた厩番のひとりに、あれは誰だ、と低い声で尋ねた。
エリシュカですよ、と厩番は答えた。
「王太子妃殿下付の侍女のひとりで、厩仕事もするとかで」
「侍女?」
厩舎の仕事をする侍女など聞いたこともない。ヴァレリーは俄然興味――それは妻となったばかりのシュテファーニアに対するよりもずっと強烈な――を引かれ、エリシュカに歩み寄っていった。
エリシュカは低い声でなにごとかを囁きかけながら、おとなしい白馬の身体に丁寧にブラシをあてていた。
「見ない顔だな」
背後からそう云うと、侍女の仕着せに身を包んだエリシュカは小さく飛び上がり、おまけに手にしていたブラシを取り落としさえした。顔が見えぬほどに深く礼を取り、はい、と答える声はうわずっている。ヴァレリーはむっとした。そんなに驚かれるような声を上げたつもりはない。
「顔を上げろ」
はい、とエリシュカは礼を少しだけ浅くして、しかしなおもヴァレリーを見ようとはしなかった。
「顔を見せろと云っている」
エリシュカは怯えた声で、はい、と返事をしてようやく顔を上げた。そのときのヴァレリーの声は、ほかの厩番たちが、いったいなにごとか、と集まってくるほどに大きく響いていたのだが、彼はそんなことには気づいていなかった。折り曲げられていた華奢な体躯を伸ばしたエリシュカに見惚れていたからだ。
まず目を奪われたのは薄紫色の瞳である。綺麗な弧を描く薄墨色の眉の下、こぼれ落ちそうなほどに大きく見開かれたその瞳は薄い涙の膜を湛えており、吸い込まれそうな引力さえ感じた。
次に目を引いたのは輝くような銀色の髪だった。少し長さがあるのだろう、その髪はうなじのすぐ上で小さくまとめられていた。
透きとおるように白い肌を舐めるような眼差しで見つめ、少しでも力をこめれば折れてしまいそうにほっそりとした身体つきに思わず目を細めた。
「名前は?」
そう尋ねた声が浮ついていなかったかどうか、ヴァレリーは思い出すたびに頬が熱くなるような気がする。
「エリシュカと申します」
「何者だ」
「王太子妃殿下付の侍女の末席を汚す者でございます」
ヴァレリーはなおも目を細めてエリシュカの顔を眺めた。ひとめ見たら忘れられないようなこんな美貌が、あの女に付き従ってきた者たちのなかにいただろうか、とヴァレリーは輿入れの際に引き合わされた正妃付の侍女たちの顔を思い起こす。
シュテファーニアは故国から侍女だけを伴って輿入れしてきた。下女までを連れてくることは東国が許さなかったからだ。輿入れのたびに下働きが増えたのでは、王城の財政が破綻してしまう。本来であれば侍女の人数ももっと限りたいところであったが、親兄弟も、それまでの習慣も、なにもかもを捨てて嫁いでくる相手に、それはあまりにも酷であろうという温情が、かろうじてそれを躊躇わせていた。
シュテファーニア付の侍女は十五人とされていた。彼女たちの名はきちんと一覧にされ、王城付の侍女として数えられている。あの者たちをすべて覚えているわけではないが、とヴァレリーは考えた。
「そうか」
ヴァレリーは意識的に声の調子をやわらかく変えてエリシュカに微笑みかけた。そうやって笑顔になると、いつもはどこか冷たく見えるらしい自分の容姿が、女にとって魅力的なものに変わることをヴァレリーはちゃんと心得ている。案の定、エリシュカの顔にはどこかほっとしたような気配が滲んだ。
「この白馬の名は?」
「ルクス、と申します」
「見慣れぬ馬だが、誰のものだ」
「王太子妃殿下の愛馬にございます」
エリシュカはふたたび
「エリシュカ」
顔を上げろ、とヴァレリーはなぜかかすかな苛立ちを覚えて眉間に皺を寄せた。
「おれはただの厩番頭だ。そんなふうにいちいち頭を下げる必要はない」
エリシュカが誰に対しても頭を垂れ、腰を折るのだとは露ほども知らぬヴァレリーである。
王太子がひとめでエリシュカを気に入った一方で、当のエリシュカが見慣れぬ威圧的な男に怯えていることを悟った厩番のひとりが、ふたりに近づいてこう云った。
「エリシュカ、こちらはアランさまだ。ときたまこうして厩舎においでになる。そう怯えなくてもいい」
はい、と蚊の鳴くような声でエリシュカは答えた。
厩番からしてみれば、ヴァレリーに対し敬称を付したことで、彼がこの厩舎にとって特別な存在――すなわち王太子――であることを、もうすっかりエリシュカに知らしめたつもりでいた。だが、厩番の想像に反してエリシュカは、己の主であるシュテファーニアの夫の顔はおろか、その名前さえも知らなかったのである。
賤民でありながら侍女の地位を賜って故国より随行してきたエリシュカだが、主であるシュテファーニアからはその立場をまったく認められていなかった。下女を連れてきてはならぬという東国からの通達を守るため、シュテファーニアは賤民であるエリシュカに侍女の身分を与えはしたものの、実際には彼女を下女――あるいはそれ以下の存在――として扱っていた。それゆえに夫となる王太子との顔合わせの挨拶の際にも同席させなかったし、彼の名をわざわざ知らせるようなこともしなかった。つまり人として数えてさえいなかったのである。
それは、故国神ツ国ではまったく当然の扱いであったが、エリシュカについて、あれは何者か、と詰め寄る東国王城の奥を取り仕切る侍女長ジョゼ・セシャンに向かって、シュテファーニアは、ああ、あの子のことは忘れていたのですわ、と云い捨てた。
忘れていたとは、とエリシュカの扱いに戸惑う侍女長に、神ツ国の身分制度について説明し、エリシュカをそれなりに――東国王城の秩序に照らし、しかし主の意志を損なうことなく――遇するよう取り計らったのは、シュテファーニア付第一侍女であるツェツィーリアである。
ツェツィーリアの取りなしによって、侍女と同じ仕着せを纏いながら下女と同格の扱いを受けることになったエリシュカは、ここへきてようやく厩舎や庭番小屋、洗濯部屋や縫物部屋に馴染んできたところだった。
ヴァレリーは少々間の抜けた厩番とは違って、エリシュカが自分の正体に気づいていないことをきちんと感じ取っていた。その後も、よくもまあこれだけ始終顔を合わせていて気づかぬものだ、と呆れながらも、しかしやがて毎朝のようにエリシュカの姿を探し追うようになる。
誰よりも懸命に馬たちの世話をし、同時に深い見識を持って厩番たちと意見を交わすエリシュカに、ヴァレリーは素直に惹かれていったのだ。どこかおどおどとして自信なさげな様子がなくなることはないが、馬のことについてなにかを主張するときの彼女は容易なことでは納得したりせず、同時にいつでも馬のためだけを考えて行動していた。
シュテファーニアの随行は女ばかりであり、彼女たちが馬に騎乗する機会は少ない。自然、放っておけば馬たちは運動不足になってしまうのだが、エリシュカは少ない時間を見繕っては彼らに運動させてやることも忘れなかった。
紆余曲折があったものの、やがてすっかり厩舎に馴染んだエリシュカが、ほかにも多くの勤めを抱えて非常に多忙であることを知ると、厩番たちはこぞってエリシュカが担当する馬たちの運動を引き受けてやるようになった。替わってやるよ、と声をかければエリシュカは微笑みで応え、微笑みかけられた厩番はその日一日をいい気分で過ごす。
そしていつのまにかすっかりエリシュカに逆上せあがったヴァレリーが、そうした図に耐えがたいほどの苛立ちを覚えるようになるまで、さほど長い時間はかからなかった。
あいつがいてよかった、とヴァレリーはルナを繋いだ木の下から草原へと眼差しを向けた。北風が抜けていく草原を疾走する銀色を載いた黒が見える。
テネブラエ。
闇の名を持つ彼の馬は、気位が高く、気性が荒く、エリシュカ以外を決して近寄らせない。なんでも生まれたばかりの仔馬のころからエリシュカがずっと面倒をみてきたとかで、彼女の前では膝を折って自ら横たわることもあるのだというから驚きだ。馬とはよほどのことがない限り、眠るときでさえも立ったままでいるいきものである。
ほかの馬たちは厩舎の男たちの手によって適当に運動をさせることができるが、テネブラエは違う。エリシュカ以外の者に手綱を引かれると歯を剥き出しにして怒り、ときには蹄を振り上げて暴れたりもする。その暴君っぷりには熟練の厩番でさえも音を上げ、結果としてテネブラエはごくたまにこうして早駆けに連れ出されることとなった。
まだうっすらと宵闇が残る暁のころに厩舎を訪れるエリシュカが、誰にも内緒でテネブラエを早駆けさせていることに気づいたとき、ヴァレリーの心は妖しく揺れて歓喜した。
エリシュカを絡め取る方法が見つかったと思ったのだ。
テネブラエに
俯くエリシュカをほとんど抱き寄せんばかりにして、黙っておいてやろう、とヴァレリーは囁いた。いまだ薄暗い夜明けのいま時分にこうしてひっそり寄り添うおれたちは、人目を忍んで逢引を重ねる恋人たちのようにみえるかもしれない、と目を細めたりもした。
おれを一緒に連れて行くならな、と続けたヴァレリーをエリシュカが振り仰いだのは、きっと心底驚いたからだろう、といまのヴァレリーにはよくわかる。見開かれた薄紫の瞳に目を奪われながら、ヴァレリーは穏やかに微笑みかけた。
簡単なことだ、とヴァレリーは言葉を重ねた。おれと秘密を共有すればいい。
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