35

 若者はユベール・シャニョンと名乗った。ごく目立たない容姿をしているが、明るい紅茶色の髪と翡翠の瞳は、東国では少々珍しい色合いであると云えるかもしれない。

「予定よりもだいぶ早かったんだね、リオネル」

 穏やかな笑みを浮かべたシャニョンは、その容貌に似合わぬやや掠れた声でクザンにそう言葉をかけて、彼の労をねぎらった。いちいち外見を裏切る男のようだな、とエヴラールは思った。

 少年のようにほっそりとした身体つきをしたシャニョンは、翡翠の眼差しをまっすぐにエヴラールに据え、エヴラール・ジェルマン殿下でいらっしゃいますか、と礼儀正しい口をきいた。

「そうだ」

「おそれながら、はじめてお目にかかります」

 商家の息子であるという割には優雅な物腰で、シャニョンは礼の姿勢を取ってみせた。

「僕もこちらに失礼しても?」

 顔を上げたシャニョンはやわらかく微笑みながらエヴラールに問いかけた。もちろんだ、とエヴラールが答えると、シャニョンは軽く一礼してから、エヴラールの正面の席に腰を下ろした。

「なにやら私に話があるとか」

 エヴラールが口火を切ると、話などと、とシャニョンはいささか大げさなほどに首と手を振った。

「殿下がこの北の地へいらしているという話を伺いましたので、一度お目にかかることができればと思い、リオネルにそんな話をしたのです。彼は王都に、王城学問所にもいたことがあるので、なにかそういった伝手でもあるのではないかと浅はかなことを考えまして」

 そうなのか、とエヴラールは頷いた。クザンの話しぶりから想像していた革命軍の指導者とはずいぶん違うシャニョンの様子に、どこか毒気を抜かれたような気分になる。

「会ってなにを話したかったのだ?」

「王家の方々のお心を」

「心?」

 訝しむエヴラールに向かって、はい、とシャニョンは頷いた。

「どういう意味だ?」

「お心という云い方が迂遠であれば、いまの世のあり方をラ・フォルジュがどうお考えなのか、と云い換えても結構です」

「それを聞いてどうする」

 革命軍などと呼ばれてはいますが、とシャニョンは、まるではにかむ少年のように照れくさそうに笑ってみせた。

「僕は暴力で国のあり方を変えることを、正しいやり方だとは思っていないのです。できることならば穏やかな話合いの末に、改革を進めていきたい」

 ですが、とシャニョンは笑みを消した。

「いまのわが国のありようでは、われわれは自分たちの考えをラ・フォルジュの方々にお伝えするどころか、そのお考えを伺うことすらできない。話合いなどもってのほかです」

 僕は、とシャニョンは云った。

「王都でリオネルがどんな目に遭わされたかを知っています。彼を訊問した官吏は、これこそがラ・フォルジュの意志だ、と云いながら彼の爪を剥いだそうです。悪逆しか綴ることのできぬ指など不要だろう、とも云われたそうです」

 殿下、とシャニョンはエヴラールに向かって呼びかけた。

「ラ・フォルジュに対し疑問を投げかけることは、それ自体が悪逆なのですか。あなたがたは国の頂点に立つ王の血統ではありますが、一方でただの人間でもあるはずです。人である以上、そこには過ちもあれば、邪もあるでしょう。それに対し疑問を投げつけることは、人生を破壊されるに値するほどの悪なのでしょうか」

 学問を志していたクザンにとって、ペンを握る指を潰されたことは、あるいは死よりもつらい罰であったのかもしれない、とエヴラールは思った。罪に対する自覚がなければ、たしかにその罰は理不尽なものとしか感じられないだろう。

「過ちは正されるべきです。悪は裁かれるべきです。われわれと同じように、ラ・フォルジュもまたそうでなくてはならない。なぜならばわれわれは等しい重さの命と価値を持った、貴ぶべき存在なのですから」

 違いますか、とシャニョンは云った。

「正論だ」

「ですから僕は、一度でいいので、ラ・フォルジュの方とお話をしてみたかったのです」

 なるほど、とエヴラールは水色の瞳に冷たい光を浮かべた。まるで笑んででもいるようで奇妙な迫力に溢れたその表情は、しかしシャニョンに対してはなんの力も発揮しないようだった。

 まるで星の光を掴もうとでもしているような気がする、とエヴラールは思った。シャニョンという男は、それほどまでに掴みどころがなかった。いかにも曲者といった風情のクザンのほうが、よほど扱いやすいように思える。

「それで、殿下はどう思われますか」

「どう、とは?」

「先ほどの僕の話を、です。われわれひとりひとりの民とラ・フォルジュとは、価値を同じくする平等な存在だという話です」

 そのとおりであろうな、とエヴラールは答えた。シャニョンが深く微笑んだ。

「おまえの云うとおりであろう。私とおまえとはともに等しい人間であろう」

「ではなぜ、この国はラ・フォルジュが支配しているのですか」

 シャニョンは微笑んだまま、語気だけを鋭く変えてそう尋ねた。

「東国の政治の頂点に、ラ・フォルジュだけが立ち続けることのできる理由がどこにありますか。この国に君臨するのはひとつの家の血統でなくてはならないと、誰が決めたのですか」

 いいえ、とシャニョンは首を横に振った。明るい紅茶色の髪が乱れる。

「たとえ誰かが決めたことだとしても、それを変えてはならないという道理はないはずです。ましてや、その道理を唱えただけで、生きる希望を奪われるようなことがあってはならないはずだ」

 エヴラールの前に現れてからはじめてシャニョンは感情を乱し、拳を卓に叩きつけた。

 自分の話であることが明白であるにもかかわらず――そして、それを察することのできないような男ではないにもかかわらず――、クザンは表情を動かすこともなく端然としてそこにある。

「歴史の重みというものを知っているか、ユベール・シャニョン」

 激した感情に氷水をかけるような冷ややかな声に、シャニョンの取り澄ました表情が崩れた。拳を握ったときですら、わずかに笑みを形作っていた唇の端がわなわなと震える。

「……歴史?」

「そう、歴史だ」

 まだ若いおまえには想像もつかないか、とエヴラールは云った。エヴラール自身、シャニョンとそう変わらぬ歳であるのだが、背負うものの重さが、ときおり彼に年齢に似つかわしくない言葉を使わせる。

「国とは、政治とは、一朝一夕に成るものではない。数多の天変地異を、戦を、飢饉を越え、わが国はいまここにある。夥しい量の血を吸い、腐敗する骸で埋め尽くされた大地の上にわれらは立っているのだ。わかるか」

 シャニョンは唇を引き結んでエヴラールと対峙している。少年のように潔癖なラインを描く頬がやや青褪めて見えた。

「その、腐臭漂う骸の山を築いたのは、われらラ・フォルジュだ」

 シャニョンとクザンが同時に目を見開いた。エヴラールの表情は先ほどからまったく変わらない。

「なんのためにそんなことをしたか。国を護るためだ。民を守るためだ。われわれがいま生きる現在を、われわれの子孫が生きる未来を永劫のものとするためだ。われらラ・フォルジュがこの国の頂点にあるは、その覚悟をもっとも強く持っていたからだ。手を汚し、身を穢しても、この国と民とを守りたいと、強く強く願ったからだ」

 エヴラールが口を閉ざしても、シャニョンはひと言も発することはなかった。

 クザンもまた黙ったままエヴラールを見つめていた。やはりこれもラ・フォルジュの血か、と彼は思った。やさしそうな顔をしていても、ただのやわな王子さまじゃないってわけだ。

 いつまで経っても口を開かないシャニョンに見切りをつけたのか、エヴラールがふたたび口を開いた。

「東国の歴史はラ・フォルジュの歴史。そして、ラ・フォルジュの歴史は、国と民とを守り続けてきた歴史だ。重みとはそういうことだ」

「……傲慢だな」

 吐き出すようにそう云ったのはリオネル・クザンだった。どういう意味だ、とエヴラールが眼差しだけで問う。

「国とはなんだ? ……国とは民だ」

 クザンの眼差しは、それ自体が刃であるかのようにぎらぎらとしている。

「王なき国はあっても、民なき国はない。国とは民だ」

 押し殺した声は意外なほどによく響いた。

「国を作るのも民だ。国を護るのも。ラ・フォルジュなどではない」

「われらもまたこの国の民だ」

「民の生血を吸って寄生しているくせにか」

 寄生だと、とエヴラールは地の底を這うような低い声で問い返した。

「過去にはたしかにラ・フォルジュの、貴族の恩寵はあっただろう。幾多の国難に立ち向かってきた歴史は尊ぶべきだ。だが、いまのこの戦もなく飢えもない世で、おまえたちがなんの役に立っているというのだ」

「戦も飢えもないように国を導いているのは誰だ?」

「おまえたちでないことはたしかだな」

 なんだと、とエヴラールは眉をひそめた。

「いいか、よく聞け。王族も貴族も、いまを生きる連中は、先祖が築いた偉大な仕組みの上に胡坐をかいているだけだ。たしかにおまえたちの祖は、戦をやめ、民の暮らしをよくし、国を強くするための産業を育てた。俺だって歴史は敬う。だが、おまえたちは歴史なんかではない。おまえたちは、ただの寄生虫だ」

 エヴラールは口を噤んだままでいる。

「歴史はおまえたちだけのものではない。民のものでもある。だから俺たちは考えた。おまえたち王侯貴族が独占している国を動かす仕組みは、俺たちの手にあってもいいんじゃないのか、と」

 クザンはずっと不思議に思っていた。幼い頃はただの商人であったはずの父親が、苦労して築いた莫大な財をつぎ込んでまで、なぜ爵位など買ったのだろうか、と。地位や名誉などで食えるほど世の中は甘くない。こどもの俺にでもわかることを、父親にわからぬはずがないだろうに。

 しかし、やがてクザンは悟る。父親はやはり正しかった。いくら金を持っていても、地位や名誉でしか贖えないものはあるのだ、と。

 そのひとつがクザン自身に施された教育である。

 東国では、金銭的に豊かで、本人に資質と能力がありさえすれば、王立学問所には誰でも通うことができる。だが、その先にある王城学問所に出入りしようとすると、そこには高い壁があった。

 生まれ育った街で、特別に賢いこどもとして有名だったクザンは、周りのこどもたちよりもずいぶん早く王立学問所に通うようになった。学問所の講師たちはこぞってクザンの才能を誉めそやした。これで貴族の子だったらなあ、というただしつきで。

 当時、商家の息子であったクザンは、どれほどの才を発揮しても王城学問所に入所を許されることはなかった。それはつまり、どれほどの才能があろうとも、貴族の血を汲んでいなければ、当代一流の講師陣に教えを乞うことはできない、という意味でもある。

 明らかに自分よりも才の劣る貴族の子弟が、貴族であるという理由だけで王城学問所への出入を許されて王都へと出ていく姿を、クザンは幾度も見送った。

 悔しく思った。同時に莫迦莫迦しいとも思った。本当の才能はここにあるんだ、と叫んでやりたかった。貴族だってだけで王都に出ていくそいつは、俺の書いた論文を半分も理解できないんだぞ。

 父親が金で爵位を手に入れたことにより、王城学問所への出入を許されたクザンは、鬱屈した思いを抱えたまま王都へと出ることとなった。さらに進んだ教育を受けられることは嬉しかったが、父親が似非貴族と揶揄される姿は耐えがたかった。

 クザンがそう云うと、父親は、おまえのためなんかじゃない、気にするな、と朗らかに云ったものだ。俺も一度、お貴族さまってやつをやってみたかっただけだ。

 嘘だとわかっていた。

 商魂だけでここまでやってきたような父親が、貴族になんてなりたいはずがなかった。学のない母親が、貴族同士の付き合いに苦労していることにも気づいていた。

 けれど、クザンはふたりの言葉に甘えた。

 遠く離れた王都にあるあいだは罪悪感もほとんどなかった。家族に苦労をかけていることはわかっていたから、罪の意識を抱く代わりに王城学問所では誰よりも熱心に研究に取り組んだ。

 専攻したのは法学と政治学である。

 国中の秀才が集まる学問所にあっても、その頭角をめきめきと現したクザンは賞賛とやっかみの的だった。そのどちらもクザンは意に介さなかった。そうした態度が生意気に取られ、親しい友人はほとんどいなかったが、フィデール・レミュザだけは別だった。

 飄々としていながら時折しつこいレミュザのおかげで、クザンは完全に孤立せずにすんでいたのだと、いまになればよくわかる。

 互いの専攻が異なっていたせいもあってか、人一倍自尊心の高いクザンも、レミュザには本音を明かすことができた。――いつもではないにしても、友誼を交わすに必要な程度には。

 クザンが学問所を追われたときにも、彼のことを一番気にかけてくれたのはレミュザだった。官吏による執拗な尋問に心身ともに痛めつけられ、歩くこともままならなくなったクザンを、どうにか動ける程度にまで介抱してくれたのも彼だった。

 私は家督を譲った身だから、とレミュザは云った。王城に睨まれても怖いことなんてないんだよ。

 そんな彼にろくな礼も云わず、歩けるようになってすぐに王都を――レミュザの家を――出たのは、レミュザに累が及ぶことをおそれたから、ということだけが理由ではなかった。たとえ家督を手放したとはいえ、生粋の貴族の生まれである彼のことが、どうにもこうにも妬ましかったのだ。

 もともとクザンは過激な論者だった。それでも、王家ラ・フォルジュに対する直接的批判は命取りになると知っていたから、彼としてはほどほどで筆を抑えていたつもりだった。それでもとうとう耐え切れずに問題となった論文を書いてしまったのは、学問所の中にさえ蔓延っていた貴族主義にほとほと嫌気が差したからだ。

 実力が同じ程度であれば、実家の格が出世を左右するし、講師として派遣される先の条件までもが異なった。金で爵位を手に入れた似非貴族の息子など、講師の口をあてがわれることさえ滅多になかった。

 学問の前に人は平等であるはずだし、そもそもここには実家から切り離された者たちばかりが集まっているはずなのに、とクザンは思った。だのに、なんなのだ、この不平等は。

 なまじ優秀だっただけに、単なるやっかみに収まることのなかったクザンの怒りは厄介だった。彼の不満は正論で、しかし正論は疎まれる。怒りゆえに疎まれ、疎まれるゆえにさらに怒りは深くなる悪循環。貴族主義への反感が、その貴族の頂点に立つ王家へ向かうまでに、たいした時間はかからなかった。

 学問所から追い出され、失意のうちに故郷へと戻り、しかし実家に帰ることはできなかった。王家に叛意を抱くような息子を、貴族社会に生きるようになった父も母も――本意はどうあれ――家に上げるわけにはいかなかったのだ。

 クザンには父を恨むつもりはない。母を憎むつもりもない。彼の怒りが向かう先は王家ラ・フォルジュ、ただひとつである。

 己が受けた屈辱は、そのままに民の受ける屈辱であるとクザンは思っている。歴史の重みも理解してはいるが、大切なのはいまを生きる民の最大幸福だ。このような屈辱を与えられながら、幸福になれる民などない。

 爪を剥がされながら、俺は思ったんですよ、とクザンは云った。クザンの口調と同じように、彼の言葉を聞くエヴラールの表情もまた、もとの穏やかなものに戻っている。

「ラ・フォルジュによる支配の歴史は決して悪しきものではない。王家がなければ乗り越えられなかった危難はたしかにある。俺もそう思います」

 エヴラールはなにも答えずに水色の瞳を眇めた。

「歴史は重たい。ですが、いまの王家や貴族どもこそ、その重みに耐えられなくなっているのではないか、と」

 なるほどな、とエヴラールは言葉にはしないまま瞑目し、小さな闇の中でヴァレリーのことを思った。生まれ落ちたそのときから国を背負うことを宿命づけられた、不自由で哀れな従兄のことを。

 ヴァレリーこそは王家による国の支配が孕む、歪みの象徴なのかもしれない。

 王太子というなにひとつ不自由のない身分は、彼に不自由をもたらした。好いた女とまっすぐに向かい合うこともできず、かといって諦めることもできない不自由。耐えきれなくなった女が逃げ出すまで追い詰め、そのことに罪悪感を抱いているくせに、なおも彼女を追わずにはいられない不自由。

 人としての幸福を求めることを許されずに人としての則を犯した王太子は、しかし、同じその身で誰よりも国を思い、誰よりも国のために尽くそうとしている。

 おまえたちは、とエヴラールは目蓋を合わせたまま口を開いた。クザンとシャニョンは、刹那、眼差しを交わしあったのちにエヴラールへまっすぐに視線を向けた。

「いったいなにを求めるのだ。ラ・フォルジュを斃すことか。権力をほしいままにすることか。おまえたちが求めるものはなんだ?」

「国を導くことです」

 はっきりとした口調はシャニョンのものだ。エヴラールは目を開けて正面に座す男の顔をじっと見つめる。

「国を導く権力が欲しいのか」

 淡々と言葉を返したエヴラールの声音は、まるで聞き分けのないこどもを教え諭すような調子だった。シャニョンはあからさまにむっとして、僕たちは権力などに興味はない、と云った。

「求めているのは、民が導き、民が生きる国だ。権力なんかじゃない」

「その、民を導く力というのが、つまりは権力と等しいものであってもか」

 エヴラールは口元を歪めた。

「みなの声など聴いていては、まつりごとは政にならぬ。物事を前へと進めて行くためには、みなが等しく持っている力を削ぎ取り、それをどこかひとつへと集めねばならん。集まった力を使うことが、すなわち権力を揮うことだ。国を導くとはつまりそういうことだ」

 人はみな、己の身を己で処する権利を持っている。どこで誰となにをして生きるか、それは誰もが自由に決めてよいことだ。否、決めるべきことだ。

 だが、国を国として保つためには――つまり、数多の人間がひとつの土地に集まり、大きな争いなく暮らすためには――、個人の自由は制限されなくてはならない。国としての形を保つために必要な費用をみなで負担しなくてはならないし、殺さぬこと、盗まぬこと、犯さぬこと、罪のありようを定めることもしなくてはならない。限られた土地を分け合うための制度を定め、ともに生きるために必要な不文律を築かなくてはならない。

 そうしたさまざまが定められれば、人はその決まりに従っていろいろなものを諦めなくてはならなくなる。あるいは納得し、あるいは憤りながらも、そういうものだと諦めなくてはならなくなる。

「権力の正体とはつまり、そうした規律を定めることだ。そういう意味では、権力なしに国を導くことは叶わない。云い直せば、権力を欲さぬ者に国が導けるわけがない。そんなこともわからないくせに国を語るな、青二才」

 エヴラールの言葉は厳しかった。シャニョンの顔にさっと朱が差し、クザンの顔が苦く歪む。

「権力を持てば、そこにはおのずと批判も集まる。すべての者が等しく同意する策などありえないからだ。民の声を気取るおまえたちが、同じ民から寄せられる不満や非難に耐えられるとは思えないがな」

 エヴラールは緩く微笑み、だから、そう焦ることはないではないか、と付け加えた。

「おまえたちが思うほど、王家は暗愚でもなければ鈍感でもない。民の思いにも気づいている。時間はかかるかもしれないが、おまえたちとも……」

「気づいているのならば、なぜあらためないのです?」

「あらためる?」

「税は年々増え続け、仕事は減り続けている。身分は固定化され、ものの値は上がる一方だ。おかげで貧しく生まれた者はますます困窮し、富める者はますます豊かになる。官吏はただ定められたことしかせず、すべては国王陛下の仰せのままにと、目の前で飢える幼子や年寄りを平気で見捨てる。いまの政にあらためる余地はないと、本気で云うつもりか」

 先ほどとは違い、激する感情を抑えたシャニョンの声には迫力があった。だが、それがなにになるというのだろう、とエヴラールは小さなため息をついた。こんなところでなにを云っても、所詮は絵空事にしかすぎぬというのに。

 エヴラールは空言を唱えることを好まない。

 己の役割は与えられた領地を治めることで、その分を越えてはならないと思っている。やがて国を導くことになるであろうヴァレリーを補佐することは吝かではないし、もしも、その役割を求められたならば、喜んで務めようと思っている。そして、そのときには学問所を出なくてはならないだろうと覚悟もしている。

 学問と政とは両立しないとエヴラールは思うからだ。

 政は綺麗事ではない。数多の民はみな己のために生きている。ひとりが満足すれば、別のひとりには不満が生じる。――必ず。

 人はどこまでいっても己を捨てることはできず、それゆえに孤独だ。己と同じものを見る者はなく、同じ音を聞く者もない。言葉を尽くし、わかり合おうとしたところで、結局はわかり合えないということを互いに悟るのがせいぜいだろう。ひどいときには、おまえが間違っていると、わかり合おうとした相手を憎むことすらある。

 他者の正義は己の正義にはならず、他者の不幸は己の幸福である。

 この理を覆すことはできない。

 それでも人が国を築き、街を作り、家庭を持とうと考えるのは、人はひとりでは生きていくことができないからだ。生きていくために、人は、己の正義と他者のそれとにどうにかして折り合いをつけ、己の幸福と他者の幸福とを無理矢理にでも同一視しようとする。

 政とは理想では語れない、いまそこにある現実との勝負だ。争いなき世を実現するために、血で血を洗うような戦を繰り広げなくてはならないときもある。放っておけば勝手なことばかりを云う者たちを力で、あるいは理で従わせるような暴力と無縁ではいられないときもある。おまけにそうしたすべてが、流れゆく時間との勝負でもある。

 学問は違う。学問が向き合うのは、いつだって過去だ。そこに勝負はない。過ぎ去った現実を、あとからならばなんとでも云えるからだ。もちろん学問の積み重ねは、いつかの未来で役に立つだろう。しかし、常に現実に向き合う政とは根本が違う。

「理想を語るだけならば誰にでもできる。実際に政を動かすには想像を絶する力がいるのだ。学問で鍛えた軟な理想など一瞬で崩壊する力が、な。おまえたちがそれに耐えられるとは、到底思えん」

 エヴラールはそう云ってシャニョンを見つめた。

「私には不思議でならない。おまえたちは革命軍を名乗り、いったいなにがしたいのだ。理想に曇った目では現実など見えぬ。しかし、現実を見れば、民が争いなど欲していないことはすぐにわかろう」

 にもかかわらず革命などと謳って、国を乱し、民を混乱させたいだけとしか思えぬのだが、と云ったエヴラールを、シャニョンとクザンは言葉もなくただ見つめる。

 エヴラールもまた、ふたりの男をまっすぐに、しかし、やわらかく見つめ返した。

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