68
しばらくのあいだ、誰ひとり言葉を発しなかった。
ヴァレリーは複雑な思いで、トレイユの云ったことをひとつひとつ思い起こしている。彼の言葉は、聞きようによっては、幾とおりにもとらえることができた。
側妃ルシールを愛していたのなら、その思いを貫けばよかったのだ、とも。
彼女とは別に正妃を定めたのなら、その正妃をこそ愛するよう努力するべきだったのだ、とも。
せめて子だけでも、正妃とのあいだに為すべきだったのではないか、とも。
だが、どんな意味であっても、最後にはたったひとつの結論へと辿り着くことになる。
――国王として生まれてこなければよかったのに、と。
それはつまり、王家が王家でなければよかったと云っているのと同じことだ。
何度も考えたことだ、とヴァレリーは思わず唇を噛んだ。
エリシュカとの旅の最中、その仮想は甘い誘惑となって幾度も幾度もヴァレリーを苛んだ。
――王太子でなかったなら。
――ただの男としていられたなら。
父もまた同じように思ったというのだろうか。正妃と母との間で揺れ動き、王座を捨てられたらと、そんなふうに願ったというのだろうか。
そうか、とヴァレリーは思った。
母はきっと、そんな父を知っていたのだ。自分と正妃、国と王座、友と弟、あらゆるもののあいだで揺れ動き、惑い、心を痛め、最後にはいつもいつも国王であり続けることを選んだ父のことを、よく知っていたのだ。
よく知って、――そして、支え続けてきたのだ。父が望むままに。
そしてそれは――父を支えていたのは――、エヴェリーナ王妃陛下もまた同じであったのかもしれない。
神ツ国の巫女姫として、エヴェリーナはいずれ他国へ嫁ぐことを当然とされていたのであろう。ヴァレリーの元妻シュテファーニアがそうであったように。
シュテファーニアは心に抱く望みを叶えるためになにがなんでも生国へ帰ろうと足掻いたが、エヴェリーナはそうではなかった。この地へ残り、国王を支え、なんの所縁もないはずの異国の政を安定させるための礎となる覚悟を決めたのだ。
みながみな、己の幸せの前に国のことを考えて――。
それでいいのか、とトレイユは云った。それはつまり、そんな時代はもう終わりにするべきだ、という意味なのかもしれない。
王家とそれにかかわる者が、国のためにすべてを犠牲にすることをやめる。
それはすなわち、王家が王家であることをやめる、ということと同義だ。国王も王太子もいなくなり、国は民のものになる。
「いずれは、と思っていたのだがな……」
ヴァレリーがふとこぼした言葉は、トレイユの笑みを誘ったらしい。老将軍はやわらかな表情で王太子を見つめる。
「考えなかったわけではない。いや、むしろ、父上が議会を招集されたことも、官吏を広く民から登用するようにしたことも、いずれは国政を民に委ねるおつもりがあってのこと。父上は
「存じておりますよ」
「なにも急ぐことはあるまい」
そうですかな、とトレイユはなおも穏やかに云った。
「私がこの時機を選んで王都に上がりましたのは、己に死期が迫っているというじつに個人的な理由が発端でした。ですが……」
そこで言葉を選ぶように口を噤んだトレイユに、ヴァレリーは眉をひそめてみせる。
「時はとうに熟しているのではないか、いや、すでに王家は遅きに失しているのではないかと、そんなふうに思ったのです」
「なぜだ」
「ユベール・シャニョンやリオネル・クザンと話をしたからですよ」
「そなた……!」
ヴァレリーは思わず椅子から立ち上がり、トレイユに迫った。
「クザンと話をしたのか! やはり、謀反を……」
「彼らは未熟で浅慮な若者たちだった。小賢しいことを云いはしても、小金を流してやったところでたいした人数を集めることもできない、力のない者たちです。私が少々の手助けをしたところで、殿下率いる正規軍には傷ひとつつけることはできなかった」
当然ですな、とトレイユはヴァレリーを見上げる。
「ですがそれでも、彼らの理想は私の老いた心臓に喝を入れてくれましたよ。自分たちが生きるこの国は自分たちのものだとね、そうした言葉を貴族ではなく民の口から聞くことができて、本望だとさえ思った」
ただ利用するだけのつもりで彼らのことを探らせ、声をかけたつもりでしたが、いつしか彼らの云うところの革命に肩入れしてもいた、とトレイユは苦く笑った。
「叶うはずのない夢だと、口先ばかりの理想論だと、けれど、心のどこかでは期待してもいたのです。もしかしたら、彼らは本当に国を変えてくれるかもしれない。頑なな貴族の心を、いや、ロランさまのお心を動かしてくれるかもしれない、と」
振り返ったヴァレリーは、そこに寂しげな顔をした父の顔を見ることになる。
「結局のところ、なにも変わりはしなかったのですがね」
「民を扇動し、資金を与え、策を授けることは……」
「謀反ですな。謀反にほかならない。できないとわかっていても、国を覆そうとしたのですからな」
どんな理由も云い訳にはならない、とトレイユは云った。
「私はこの国が、この国の体制が、王家が気に入らなかった。学生たちを煽り、革命を企図して、謀反を考えたのですよ」
「友である、父のためにか」
意図して口にした言葉ではなかった。だから目の前でトレイユが静かに笑んだとき、ヴァレリーは、自身が発してはならない言葉を口にしてしまったことに気づく。
「そうだと云ったら、どうなさいますかな、殿下」
アドリアン・トレイユ、リオネル・クザン、それからエヴラールがかかわっている今回の事件についての公正な裁きは、国王から与えられたヴァレリーの使命だ。真実を明らかにし、罪には罰を与え、二度と同じような過ちが起こらぬよう民を導かなくてはならない。
だが、トレイユが述べた真実は、ヴァレリーにとってどうにも受け入れがたいものだった。それはきっと、民にとっても同じだろう、と彼は思う。
「国王のために国王を斃そうとしたと、そなたはそう云うのか、トレイユ将軍」
はい、とトレイユは躊躇うことなくはっきりと答えた。
こんな莫迦莫迦しい真実を前に、誰の目にも正しい裁きなどできるはずがない。
「すべてはロランさまに対する友誼の証。ロランさまはそのことを正しく理解しておられる。それゆえ、あなたさまに裁きを委ねられたのです」
意外なことを云われ、ヴァレリーは今度は父に詰め寄ることとなる。
「真実ですか、父上」
父はなにも答えなかった。だが、答えない、ということがすでに答えとなっている。
父上は知っていらしたのか、とヴァレリーは椅子の上に崩れ落ちるように腰を下ろした。なにもかも、知っていらしたのか。
クザンらの背後にトレイユがいるということも。
トレイユの意図が奈辺にあるのかということも。
そして、彼らの裁きに自分がこれほど迷うということも。
「……なぜですか」
ヴァレリーが漏らした呟きは問いかけではなかった。それは、糾弾だった。
なぜ、と彼は、父を、トレイユを詰っていたのだ。
そんなふうにすべてを互いに承知していたのなら、なぜ止めなかった。なぜ捕らえられた。
なぜ、裁かれることを選んだ――。
トレイユを、クザンを、エヴラールを裁くことは、すなわち父を裁き、王家を裁くことと同じであるとヴァレリーにはすでにわかっている。そしてそれはつまり、自分を裁くに等しいということも。
そこにどれだけの痛みを伴うか、父ならばわかっているはずだろうに。
「アドリアンは私を解放しようとしてくれた。私はそれを甘んじて受け入れた。おまえはすでにそのことを深く理解しておる。われらの意図は、わかるな」
ヴァレリーはのろのろと顔を上げた。いけないとわかっていても、自分につらい役目を押しつけた父を恨んでしまいそうだった。
「王家に幕を引けと、そう仰せなのですか」
国王もトレイユも頷かなかった。だが、ヴァレリーは自分の答えが間違っていないことを知っている。
「王制に終焉を告げる最後の王になれと、そういうことなのですか!」
ヴァレリーはなかば叫ぶようにそう云った。
いつかは、と覚悟していたことだった。やがては、と理解していたことだった。
けれど、まさか自分が、その最後の王になるとは思ってもみなかった。
ひどい、とヴァレリーは両手で顔を覆い、膝に肘をついて俯いた。
「……父上はひどい」
父が自分よりも多くの痛みを味わってきたことを、ヴァレリーは知っている。愛する女を悲しませ、弟といがみあい、友を遠ざけなくてはならなかった。
トレイユが父のためにと汚れ役を引き受けてきたことも理解した。臣や官吏から疎まれ、民からは軽んじられ、中央からは遠ざけられた。
すべては、なにもかもすべては、国のために。
彼らに比べ、自分が失ったものはとても少ない。まだろくなものを手にしていなかったせいもあるが、せいぜいあったかもしれないエリシュカとの時間くらいのものだ。それとて、己がはじめから正直であれば、失くさずにすんでいたかもしれないのだ。
それでも、自身の誇りであった王家の歴史に自ら幕を下ろすなど、自分で自分の腹に刃を突き立てるようなものだ。冗談ではないと思う。
ひどいというのは、つまりそういう意味だった。
「許せ、アラン」
私に意気地がなかったばかりにな、という苦笑いを含んだ父王の声が高いところから聞こえてきた。頭を撫でる大きな掌――幼いころに感じて以来のぬくもり――が、冷たい覚悟をうながすように感じられて、ヴァレリーは厭々と幼子のように首を横に振った。
父上に意気地がなかったわけではないだろう、と彼は思った。
時が熟していなかっただけだ。まだ他国との争いの火種を多く抱えていた父の時代、神ツ国からエヴェリーナ妃を迎えることは避けて通れないことだった。同時に、心慰める唯一の存在であった母を手放すことのできなかった父の想いもまた、いまのヴァレリーにはよく理解できる。おれとて、結局はエリシュカを諦めることができずに――彼女に苦労をかけることがわかっていて――、王城へ連れ帰ってきてしまったのだからな。
父は国を乱すことができなかった。ともすれば西国に攻め入られ、多くの命や国土を失うことになってしまうのだから。
民を守るために父は――。
「父上は、たったひとりで戦禍を引き受けられたようなものなのですね」
頭を撫でていた掌が動きを止めた。
「痛みも苦しみもなにもかも」
「いいや、ひとりではなかったよ」
ようやくのことで顔を上げたヴァレリーの目を覗き込むようにしながら、父王は穏やかに笑った。
「おまえの母もジャンも、ここにいるアドリアンも、エヴェリーナもまた、ずっとずっと痛みや苦しみを引き受けてきた、ともに戦ってきたのだ」
そして、おまえもな、とピエリックは片手を伸ばして息子の頬に軽く触れる。ごく短い時間で離れていったぬくもりはかすかに震えていた。
「それが王である私の、王家の一員である者たちの務めであると思っていた。アドリアンが云うように解放されたいと思ったことはなかった。一度もな」
だが、と父は続ける。
「おまえに私と同じ痛みを味わわせたいかと問われると、答えは否だ。おまえやおまえの愛した者、それからジェルマンには、私たちが味わったような苦しみとは無縁であって欲しいと思う」
そのためにわれらは王家という軛を断ち切らねばならん、と国王は云う。
「ラ・フォルジュの歴史はおまえで終わる。東国は生まれ変わり、新しい国になるのだ」
その日の夜、ヴァレリーはひさしぶりにエリシュカの元を訪れた。
夜着に着替えることもなく、私室にてヴァレリーの訪いを待っていたエリシュカは、昼間、彼の身に起きたことをなにも知らないくせに、綺麗な色をした酒と舌を癒やす甘い菓子を用意して待っていてくれた。
硝子の杯に幾度か注がれた酒精はごく弱く、言葉もなく傾けているうちに穏やかな眠気に誘われる。ヴァレリーは隣に座るエリシュカの腰を緩く抱きしめる。
「ここでの暮らしにはだいぶ慣れたか」
空いたほうの手で艶やかな銀色の髪を撫でながら、ヴァレリーはなんとはなしに尋ねた。
「はい」
短い返事に満足できず、どのようにして過ごしているのだ、と問えば、学ぶことが多くて、と笑いを含んだ答えが返ってきた。
「わたしは知らないことが多すぎますから」
王家の一員として恥ずかしくないようにいたしませんと、と続けられる言葉は、たしかに以前に比べると幾分上品になったようだった。
「王家か」
水滴を落とすようにこぼれた言葉につられ、心の憂いが思わず口を衝いた。
「そなたはこの国の最後の王妃となるのだな」
「……最後の?」
エリシュカの声はごく穏やかだった。だからヴァレリーは、秘していたはずの心を明かしてしまったことに、すぐには気づけなかった。
「いや、そ、それは……」
動揺して続く言葉を見つけられずにいるヴァレリーの腕の中で、エリシュカが囁いた。
「アランさまは最後の王となられるのですね」
最後の王、というのは忌むべき言葉だと思っていた。なのに、エリシュカの口から聞かされると、なぜだか希望の言葉であるように聞こえる。
「驚かぬのか」
エリシュカは薄く微笑んでヴァレリーを見上げる。その笑みは、以前彼に絶望と焦燥を与えたそれととてもよく似ていたが、いまの彼は言葉にならぬエリシュカの想いを感じ取ることができる。
どうかなさいましたか、とエリシュカは問うていた。
ヴァレリーは昼間のこと――父とトレイユと三人で話したこと――をそっくりエリシュカに話して聞かせた。
心の動揺を表してか、決してわかりやすくはないヴァレリーの話に最後まで耳を傾けていたエリシュカは、すべてを聞き終えると腕を伸ばし、愛する男の手を両の掌でそっと包み込む。
ヴァレリーが己の身体に流れるラ・フォルジュの血と歴史を誇りに思っていることを、エリシュカはよく知っている。その誇りこそが彼女自身を苦しめたからだ。
それでもエリシュカはそんなヴァレリーの矜持を憎んではいない。それどころか、なににも代えて守ってやりたいと、いまはそう思っていた。
「アランさまは唯一の王でもいらっしゃるのですね」
「唯一の王?」
どういう意味だ、と問うヴァレリーに、エリシュカは顔を上げ、はい、と笑みを見せた。
「血統と歴史ではなく、己の意志によって民の前に立つ最初にして最後の、ただひとりの王という意味です」
ラ・フォルジュが退いたあとの国政は、やはり民が担うことになるのでしょう、とエリシュカは云った。
「中央神殿で過ごしていたとき、姫さまに教えていただいたのです。この大陸にはさまざまな政の形式があると。西国や東国のように世襲される体制だけではなく、南国のように民が自ら選ぶ
「民主政、というらしいな」
民が政の主となる、とはよく云ったものだ、とヴァレリーは苦笑いをする。
「最後の王であると宣言されれば、いつか政はラ・フォルジュの手を、アランさまの手を離れるでしょう。そのことを承知されてなお、いえ、政を民の手に渡すためにアランさまは国王として立たれることを選ばれた。己の意志で」
これまでのどんな国王もそうではありませんでしたでしょう、とエリシュカは、驚きに目を瞠るヴァレリーに微笑みかける。けれど、わたしは、これまでのどんな国王の偉業よりもアランさまのなされることを誇らしく思います。
「国とは民であると、であればこそ、政は民のものであると。預かっておられた政を、その権力をアランさまは民にお返しになる。ほかの誰も、なすことのできなかった決断です」
民を守り、慈しみ、育み、それが国王の務めであるのかもしれませんが、しかし本来であれば、民は自ら立たねばなりません。自ら国を国となさなくてはならない。わたしたちが己の生を己で生きねばならぬように。
「アランさまは民に政を、国を返し、この国を本来の姿へと戻されることになる。それこそが国王という位に課せられたまことの務めであるとわたしは思います。それをなすことのできる方こそが、最初で最後、唯一の真の国王であると」
そう思ったのです、というエリシュカの言葉の終わりを待たず、ヴァレリーは彼女の身体を思いきり抱きしめた。小さな悲鳴が聞こえるのもかまわず、髪や額や頬にくちづける。自分はまだ間違っていたのか、と彼は思っていた。
エリシュカを求め、求めることを許され、あまつさえ彼女もまた自分を求めてくれていることがわかったとき、ヴァレリーはこれ以上ないほどの歓喜を知った。なにがあっても手放すまい、なにがあっても傷つけまいと誓った。
けれど、そう思う一方で、どこか心許さぬ部分を残してもいた。政にかかわること――つまり、ヴァレリーにとっては王太子であることそのもの――がそれである。
神ツ国で元妻を前に思ったこと――悲しみに暮れるときも、恐怖に震えるときも、苦痛を耐え忍ぶときも、ひとりきりでなくてはならない。肉親も腹心も、本当の意味では寄せつけてはならない。そうでなくては、いざというときに切り捨てることも利用することもできなくなる――は、己に対する戒めでもあった。
為政者である自分は、愛する女のこともいつかは切り捨てる、そうしなければならないとヴァレリーはどこかで思っていた。エリシュカに誓った永遠は、だから、政の障りにならぬ限り、というただしつきのそれであったのだ。
「すまない、エリシュカ」
そんな想いこそが誤りであったと、ヴァレリーは小さく詫びる。話したこともないはずの彼の心中を、しかし、わかっている、と云うかのようにヴァレリーの背を撫でるエリシュカの掌があたたかい。
ああ、もうひとりではないのだ、とヴァレリーは思った。
どれほどつらくとも、どれほど悲しくとも、決して誰にも悟られてはならなかった。凍てつく風に嬲られようとも、凍る大地に足を取られようとも、王太子である自分は常にあたたかい光の中にあると思われねばならなかった。
悲痛の叫びも苦しみの涙も、誰にも悟られてはならない。
どんなときでも笑顔でいなくてはならない。
それは、――想像を絶する孤独に生きるのと同じことだ。
そんな思いが伝わったのだろうか、エリシュカは、大丈夫ですよ、とばかりにヴァレリーの背をやわらかく撫で続ける。アランさまのお傍にはわたしがおります。
「いつでも、どんなときでも、おそばにおりますから」
生きるとはよいことばかりではない。実りの秋ばかりを歩むわけにはいかないのだ。
苦しいこともある。悲しいことも、憤ることもあるだろう。氷雪の冬があるように、酷暑の夏があるように、顔を上げていることさえつらいときがあるだろう。
けれど、足を止めるわけにはいかない。俯いているわけにはいかない。
迫りくるものを見つめ、戦い、ときに打ち倒して、前へと進まねばならない。
そこに恐怖など、悲痛など、悔悟など、いっさいないかのように、顔を上げて歩き続けなくてはならない。
まだ冷たい風の中、したたかに芽吹く淡い緑のように。
それはまるで、――春を征くように。
「つらいときこそ、苦しいときこそ、わたしを思い出していただきたいのです。決して、アランさまをひとりにはいたしませんから」
ラ・フォルジュの歴史に幕を引く覚悟を決めたとき、民の前で玉座から降りる日のことを考えて、まるで死を思うような絶望を感じた。そのときおれはなにもかも失うのだと、もしもこの先、子を為すことがあったとしても、その子に遺してやれるものはなにひとつないのだと、そんなことさえ思った。
けれど、違った。そうではなかった。
たとえ、王太子でなくなったとしても、国王でなくなったとしても、おれはなにも失くしたりはしない。
ともに歩む者がある限り。
ともに征く者がある限り。
エリシュカが傍にいる限り、おれはおれでいることができる。
「エリシュカ」
「はい、アランさま」
愛しい女の身体をきつく抱けば、抱きしめ返してくれる腕に強い力が込められた。
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