09

 下級侍女とはいえ、王太子の寵姫付であったクロエが実家へ帰され、そこで謹慎せよとの命を受けたのは、なにも彼女自身の咎に拠るところではない。クロエが世話係を命じられていた王太子の寵姫エリシュカが、恋人の留守の隙を狙って王城から出奔したせいである。

 クロエからしてみれば、留守の隙に逃げ出したくなるような相手と色も恋もへったくれもないと思うのだが、高貴なお方の趣味とはわからない。厭よ、厭よと逃げ回る相手を追うのが趣味であるのか、あるいはそうやって逃げ回ることで相手の気を惹こうとしているのか、いずれにしても悪趣味だと思うだけだ。

 王太子の寵姫エリシュカに仕える身であったクロエだが、エリシュカが直接クロエになにかを命じることはなかった。彼女はいつだって周囲の云うなりで、誰の云うことにも俯いてばかりの自己主張のない女だった。

 けれど、彼女は美しかった。この東国では目にすることもない銀色の髪と薄紫色の瞳は、見慣れない目には神々しくさえ映ったし、繊細に整った面差しは、女ながらに思わずうっとりと見惚れるほどだった。華奢な身体つきもおとなしやかな性質も、なにもかもが誰かの庇護を受けるためにあるかのようで、王都の下町で多くの弟妹を抱えてがさつに育ったクロエは、羨ましくもあり妬ましくもあり、といった複雑な思いでエリシュカを見ていたものだ。

 おとなしくて美しくて、けれど、――所詮はただそれだけの、つまらないひと

 つまりはそれがエリシュカに対するクロエの本音だったわけだが、そうした気持ちはあくまでも自身の中に納めておくべきものと心得ていた彼女は、エリシュカの前では特別な反感も親愛も示すことのないまま、務めを果たし続けた。

 まあ、同情というか、憐憫というか、そういう気持ちはなくもなかったけどね、とクロエは思う。愛しく思う気持ちが根底にあるとはいえ、人ひとりをひとつ部屋に閉じ込めて、おとないといえば身体を繋ぐときばかり、というのは、いくら王太子とは云え、やりすぎだ。

 クロエの上役であるモルガーヌやデジレがどう考えていたのかは知らないが、あんな扱いをしていれば、早晩エリシュカは心を病むか身体を壊すかして、王城にはいられなくなっていたことだろう。

 自分やモルガーヌの隙を突いて、王城を逃げ出したエリシュカを腹立たしく思う気持ちはたしかにあるが、それも仕方のないことだろうと同情を寄せたくもなる。だいたいあんなふうに人を寄せず、世の中も見せず、ただ己が掌で囲うようにして閉じ込めることの、いったいどこが愛情だというのか。

 高貴なお方の考えることはまるでわからない、とクロエはまた思った。ああ、まったくもって莫迦げているとしか云いようがない。このままお城勤めなどやめてしまおうか。

 まだ幼い末の弟が腹を出して昼寝をしているさまをぼんやり眺めながら、クロエはそんなことを考えた。

 給金の貰いはぐれだけはなかろうと、そんな理由だけで選んだ勤め先だ。期待するほどの高給がいただけるわけでもなく、そのくせ高貴な方々に囲まれての勤めは気疲ればかりが溜まっていき、発散する場もない。上役のモルガーヌさまはいい方ではあるけれど、今回の失態に対する処遇次第では、どうなるかわかったものではない。

 そう云うあたしだって、悪くすりゃ打首かもね、とクロエはまるで他人事のように思った。まるで実感がわかないのは、こうして実家に戻ってしてしまうと、王城でのできごとは、なにもかもすべて遠い夢の中のことのように思えてしまうからだ。

 けれど、城のなかで起きたことは、たとえどれほど遠い世界のことであっても夢などではない。

 その証に、末の弟の腹に毛布をかけてやっていたクロエの名をけたたましく呼びたてながら、すぐ下の妹であるアンヌが部屋の中へと走りこんできたのはそれからすぐのことだ。

「姉ちゃん! 姉ちゃん姉ちゃんッ!!」

 うるさい、とクロエは云った。

「ジェロームが寝てんの、静かにして」

 それどころじゃないよッ、と妹は喚いた。

「お城から騎士さまがお迎えにいらしてるんだよッ!」

「お迎え?」

 あたしに、とクロエは間の抜けた質問をした。この家で王城に縁があるのは自分だけだとわかっている――そして、できればほかの家族には、王城になどかかわってもらいたくないと思っている――くせに、思わずそんな疑問が口をついて出てしまうのは、アンヌの云うことがあまりにも意外だったからだ。

「あったりまえでしょ。姉ちゃん以外に誰の迎えにくんのさ」

 わかってるってば、とクロエは心持ち不貞腐れながら部屋を出て、迎えに来たとかいう騎士のもとへと急いだ。

「バローさま……」

 クロエの呼びかけに、顔見知りの警護騎士は長身を翻して一礼した。

「カスタニエどののお云いつけでお迎えにまいりました、クラヴリーどの」

 クロエは瞬時に表情を引き締めた。警護騎士シプリアン・バローがモルガーヌの使いで来たということは、彼女に対する処遇が確定し、今後の身の振り方が決まったということなのだろう。そしてそれはそのまま、クロエの今後も決まったという意味でもあった。

 ほんの一時お待ちいただけますでしょうか、とクロエは王城で働く者にふさわしい丁寧な言葉でバローに告げた。先ほどまでの姉とは別人のような口調に、アンヌが戸惑いを見せる。

 バローは、むろんです、と静かに頷き了承の意を示した。

 クロエはすぐに踵を返し、家の中へと取って返す。その背を追うアンヌは、興奮のままに、姉ちゃん姉ちゃん、と先ほど同じ調子で喚きたてた。

「静かにしなって云ってるだろ!」

「お城へ戻るの?」

 そうだよ、とクロエは答えた。そしてそのまま母が繕い物をしている奥の部屋へと歩みを進めた。おまえはだめ、とクロエはアンヌを押しとどめ、ひとり母の傍へと近づいていく。

 あまりクロエには似ていないふっくらとした頬を綻ばせた母が、どうしたんだい、クロエ、とにこやかに尋ねてきた。

「お城から迎えが来たからさ、あたし、勤めに戻るよ」

 そうは云ったものの、実のところ明日のわが身すら知れぬクロエである。母ともこれが今生の別れになるかもしれない、とふとそんなつまらないことを考えた。

 そうかい、となにも知らぬ母は頷いた。

「今回はずいぶんゆっくりとお休みをいただいたみたいだからねえ。戻ったらせいぜいお勤めに励むんだよ」

 わかってる、とクロエは頷いた。

「うちみたいななんでもない家の娘にもちゃんと休みをくれるんだから、お城ってのはやっぱりありがたいお勤め先じゃないか。さ、お迎えを待たせるんじゃないよ」

 母さんはきっと、今回の休暇がただの休暇じゃないってことに気づいてるんだ、とクロエは思った。そして、お咎めなしに放免されるにしろ、罰を受けるにしろ、あたしがもうお城の勤めなんか辞めてしまいたいなんて思ってることも、きっとわかってる。

 だけどさ、クロエ、と母はいつもと変わらぬ調子で娘に呼びかけた。

「厭だったらいつでも辞めていいんだよ」

 クロエはびっくりして目を見張った。母は先ほどと変わらぬやわらかな笑顔を、ふくふくとした顔に浮かべたままで言葉を続けた。

「お城のお勤めなんてのは、貴族のお嬢さまとか意地悪な婆さんとかに囲まれて、気ばっかり使う仕事なんだろ。そりゃあお給金はちょびっとばかしいいみたいだし、うちはそれにすごく救われてきたよ。情けないことに」

 だけどさ、クロエ、と母の手がクロエの髪をそっと撫でた。こんなふうに母さんに頭を撫でてもらうのなんて、いつ以来だろう、とクロエは思った。

「金はあれば、そりゃありがたいさ。だけど金は金だ。それ以上でもそれ以下でもない。大事な娘を犠牲にしてまで手にしたいとは思わない。父さんとあたしがたくさん、おまえたちが少しずつ、みんなで頑張って稼いでいけば家族が食べていけないなんてことはないんだよ。クロエひとりが頑張らなきゃいけない道理なんてないのさ」

 わかるかい、と母は云った。

「母さん……」

「なにかすごく厭なことがあったんだろう」

 そういう顔をしてるよ、おまえ、と母はクロエの頬を撫でた。

「おまえは我慢強い子だからねえ。ついついあたしたちもあてにしちまうけど、おまえはうちの大事な娘なんだ。なにを忘れてもそいつを忘れないで、自分を粗末にはしないでおくれよ」

 母親の勘というものはときにおそろしい、とクロエは思った。エリシュカのことは、自分が首を差し出してどうにかなるようなことではないにしろ、命じられればそうするしかないんだろうな、とどこか投げやりになっていた気持ちを見抜かれていたのだ。

「わかってる」

 あたしは働きに行くんだ。それはお給金をいただくためであって、命をかけるためじゃない。そこんとこを忘れちゃいけない。

 クロエが深く頷くのを見届けた母は、自身も大きく頷いてから手元の針先に目を落とした。

「じゃ、行っといで。身体には気をつけて」

 素気ない挨拶だったが、いつもの母に戻ったようで、クロエはうれしく思う。

「わかってる。行ってくるね」


 侍女の仕着せを身につけ、髪をきちんと直したクロエがバローに導かれて訪れた場所は、王城の内部とはいえ、これまでに彼女が一度も足を踏み入れたことのない一帯だった。

 休暇の終わりを告げるためだけにバローが寄越されたのではないことには薄々気づいていたクロエだが、見慣れぬ廊下を歩む彼に従っているうちに、だんだんと不安が募ってきた。その不安は、まさに質実剛健というにふさわしい、とある部屋に通されたときに最高潮となる。クロエは知らず震える身体を、これまた無意識のうちにバローに寄せた。

「落ち着かれるがよい、クラヴリーどの」

「あの、ここは……?」

 バローがクロエの問いかけに答える間もなく、ふたりがいましがた入ってきたばかりの扉が開く音がした。

 素早く背後を振り返ったクロエは、そこにモルガーヌの姿を認め、迂闊にも涙ぐみそうになる。そして、エリシュカが姿を消した朝のことを思い出した。

 あの日、モルガーヌとクロエは、ふたりがかりでさんざんに城内を駆けずり回った。城内のどこにもエリシュカの姿がないことが確認できたのは、普段であれば、午後のお茶の用意をはじめなければならないような時刻になってからのことだった。

 クロエにとってその日は、本来は休暇であった。いつかとは逆にクロエの自室――城内に与えられている四人部屋――にまでやってきて部下を叩き起こしたモルガーヌは、青褪めすぎて白茶けた顔色で、お嬢さまがいなくなりました、と告げた。

 云われたことの意味がわからず、いなくなった、と寝ぼけた声で問い返したクロエを咎めるゆとりもなかったのか、モルガーヌは、そうです、とまるで首を揺らす人形のようにゆらゆらと頭を動かしていた。

 モルガーヌの異様に目を覚まさせられたクロエは、すぐに身支度を整え――こんなとき、短い髪はとても便利だ――、すぐに厩舎とお庭にまいりますよ、モルガーヌさま、と叫んだ。

 クロエの声にわれに返ったモルガーヌは、すぐに、手分けをしましょう、と返事を寄越した。ふたりは各々に見て回る場所を決めると、そのまま右と左に分かれ、エリシュカが立ち寄りそうな場所に次々と訪れた。

 すぐにほかの侍女や下女たちにまで声をかけなかったのは、いたずらにことを大げさにしたくなかったからだ。さんざんに騒ぎ立ててしまったそのあとで、エリシュカが城内にとどまっていたことが明らかになれば、クロエたちの評判だけでなく、エリシュカの評判まで落とすことになる。

 王太子の庭、洗濯室、図書室を巡ったのち、クロエは命じられていたとおり、モルガーヌの自室へと足を向けた。そして、そこでデジレと顔を合わせることになる。

 クロエは、いつもしかつめらしい顔をしているデジレ・バラデュールのことが苦手だった。仕事には厳しいけれど明朗快活で融通もきくモルガーヌと違い、デジレはいつだって王太子第一の四角四面でクロエに接するのだ。

 デジレの云うことに間違いはないとわかっていても、些細な言葉遣いひとつ、扉の開け閉てひとつのことで、五分も十分も小言を食らうのだからたまらない。デジレさまのおっしゃることにも理はあるのよ、という言葉には、それがたとえモルガーヌのものであっても頷くことはできなかった。

 朝から一体なにごとです、とデジレはじつに高圧的な口調で云った。なにがあったかなんてあたしにもわからない、ただエリシュカさまのお姿がお城の中のどこにも見当たらないだけだ、とクロエは思った。そして、ついでにこうも思った。知ってたって誰が答えるもんか。

 結局、デジレとクロエはそろってモルガーヌの私室へと足を踏み入れ、そこで青白い顔色の部屋の主と対面することになった。

 エリシュカさまはお城の中にはおられない、とモルガーヌは云った。やはり、と拳を握り、奥歯を噛み締めたクロエとは対照的に、デジレはぽかんと口を開けた。なにを云っているのですか、モルガーヌ。

 お嬢さまがお世話をされている青毛馬が厩舎におりませんでした、とモルガーヌは答えた。厩番たちも、庭師も洗濯婦も、誰ひとりとして今朝のお嬢さまと顔を合わせてはおりません。

 王太子の寵姫ともあろう者の行方を尋ねるには、あまりにも身分の低い者たちばかりである。デジレは、そんな者たちの云うことなど、と鼻先で笑い飛ばそうとしたが、エリシュカが仮初めにも親しくしていると云えたのは彼らだけであることを思い出したのか、片眉をきつく吊り上げただけで口を噤んだ。

 いま、警護騎士に城門の出入りを調べてもらっています、と云ったときのモルガーヌの声はすでに震えていた。

 ヴァレリーの留守中、エリシュカの身を守るべく――あるいは、捕らえておくべく――厳命を受けていたモルガーヌは、そのときすでに己の命運は尽きたものと考えていたのかもしれない。警護騎士からの報告を待つこともなく、モルガーヌはデジレに向かって謹慎を申し出た。クロエも慌ててそれに倣った。

 デジレは、そんな必要はない、と必死になってモルガーヌを思いとどまらせようとしたが、モルガーヌの意志は固く、そのまま自室に閉じこもってしまった。そして、クロエ自身はそのまま城を出され実家へと戻されたのだった。


 あの朝以来だ、とクロエはモルガーヌに向かって頭を下げた。モルガーヌは、ご苦労さまでした、とバローを労い、そのあとで、不安な思いをさせたわね、とクロエに声をかけた。

 とんでもありません、とばかりに頭を振るクロエを微笑んで見つめたモルガーヌは、しかし、すぐに表情を引き締めてクロエとバローを見据えた。

「今日ここへ来てもらったのは、ほかでもありません。この私とあなたがたの処遇に関する話があるからです」

 クロエの表情が硬くなったことを見て取ったモルガーヌは、大丈夫ですよ、と笑いかける。

「王太子殿下は寛容でした。私たちが咎めを受けることはありません。部屋を出て行かれるお嬢さまを見逃したあなたもです、バローどの」

 クロエの隣でバローが大きな身体を屈めて腰を折った。

 エリシュカが部屋を抜け出した日の明け方、彼女の部屋の護衛にあたっていたのはシプリアン・バローである。

 ヴァレリーの正妃であったシュテファーニア・ヴラーシュコヴァーが故国への旅の途に就いた日から、彼の警護担当区域は、それまでの正妃の間からエリシュカの私室へと変更されていた。モルガーヌとバローが顔見知りであったことや、バローがエリシュカの顔を見知っていたことがその主な理由であったが、いずれにせよ彼は、着任早々にエリシュカの出奔を見逃すという大失態を犯したことになる。

 侍女であるモルガーヌが、自ら謹慎することで反省の態度を示すことができたのに比べ、警護騎士であるバローには、そうした勝手な振る舞いは許されなかった。彼は己の罪に対してくだされるであろう沙汰を待ちながら、今日の日まで通常の勤めに邁進するよりほかなかったのだった。

「クロエについては云わずもがなです。あの日のあなたは休暇を取っていた。咎めだてするいわれはない、と王太子殿下はそう仰せです」

 はい、とクロエは神妙に返事をしながら、内心おおいに戸惑っていた。王太子殿下はあたしたちに対し、寛容な処分をくだされたとモルガーヌさまはおっしゃった。ならば、なぜモルガーヌさまは――。

「私の装いがそんなに珍しいですか、バローどの」

 笑いを含んだモルガーヌの声に、クロエは思わずバローの顔を見つめてしまう。クロエの隣で直立するバローは、眉間に深い皺を刻み、ご無礼を、と呟いた。

 バローさまの気持ちは痛いほどによくわかる、とクロエは思った。あたしだって、さっきからモルガーヌさまのお姿から目を離すことができないのだ。

 上背のあるモルガーヌは、そのほっそりとしてしなやかな身体を、見慣れない黒い制服で包んでいた。

 失礼ながら、とバローは云った。

「その装いは監察府の官吏のものであったように記憶しております。カスタニエどのがいったいなぜ……?」

 クロエの眉間に、バローと同じように深い皺が刻まれる。バローさまは、いったいなにをおっしゃっているのだろう。

「そのとおりです、バローどの」

 モルガーヌの声音はじつに明快だった。

「本日をもって、私、モルガーヌ・カスタニエは東国王城付侍女の任を解かれて監察官となりました。そして同時に、王太子殿下の寵姫であるエリシュカさまをお迎えに上がれとの命を承りました」

「監察官……」

 あまりの言葉にクロエは茫然としてしまう。

「それで、そんなご衣裳を……」

 モルガーヌは小さく頷いてみせる。クロエはなおも小さく頭を振って、そんな、莫迦な、とどこへも続かぬ呟きを漏らした。

 クロエが、総身を黒で覆うモルガーヌの装いを、見慣れぬものと感じるのは無理のないことである。王城にかかわるあらゆる者たち――王族、貴族は云うに及ばず、侍従や侍女、下男、下女、それから数多の官吏に至るまで――の中で、その身に黒を纏うのは監察官だけなのだ。

 そして監察官は、滅多なことでは人前に姿を現さない。王城にかかわる者たちの不正を取り締まることを務めとする監察官は、全員が監察府に所属する官吏であるが、その職務の特性から、身分を秘匿されることも珍しくなかった。同僚だと信じていた隣席の男が、じつは、その部署で行われている不正の調査にあたっていた監察官だった、という話を聞くことは珍しくない。

 不正の調査を行う監察官は、決して本名を名乗らず、身分を明かさず、ただ己の職務のみに忠実にあるという。国王や王太子など、国の中枢を担う数名を除けば、じつは監察府長官が何者であるのかさえも知らされていない。

 警護騎士のひとりにすぎぬバローや、同じく王城付侍女のひとりにすぎないクロエが、監察官の姿を――その正体を知りながら――目にする機会は、ほぼ皆無と云ってよかった。

 多くの者たちにとって生ける伝説とも云える監察官は、しかし、その身に黒を纏うことだけは有名であった。

 侍女や侍従の仕着せは濃茶、下男や下女の仕着せは濃鼠、官吏の制服は濃藍と、王城に勤める者たちがその職務にあたる際に纏う色には、厳密な決まりがある。それ以外の色を身につけることができるのは王族や貴族たちで、ゆえに彼らは濃茶、濃鼠、濃藍を身につけることはしない。そして同じ理由から、黒をもまた纏うこともなかった。

 黒――。

 なにものに染まることもないその色は、あらゆる不正に厳粛な態度をもって臨む高潔を表し、監察官だけが身につけることを許された特別な色であるのだ。

「殿下は私に命をお与えになると同時に、あなたがたふたりに対する処遇についても、私にお任せくださると仰せになったのです」

 私は、とモルガーヌは続けた。

「あなたがたに罪があるなどとは考えていない。それはきっと殿下も同じです」

「では、モルガーヌさまとて、なにもそんな……」

 クロエは腹の前で指先を握り合わせ、モルガーヌに向かって訴えかけた。

「監察官などにおなりになることはないのではありませんか。そのようなご衣裳を着て、お嬢さまの行方を追われるなど……」

 クロエ、とモルガーヌの声が厳しいものに変わった。

「なんという云いようですか、クロエ。私はお嬢さまを追ったりなどいたしません。お出かけになられたお嬢さまをお迎えにあがるだけですよ」

「でも……」

 なおも云い募ろうとするクロエをとどめたのはバローである。バローはクロエの顔の前に厚い掌をかざして、彼女の言葉を遮った。

「それで、カスタニエどののご意志とは?」

「私はあなたがたを咎めるつもりはありません。ですが、私の任務を手伝ってもらいたいとは思っています」

「それは、私どもにも監察府の官吏となるように、という意味ですか」

 いいえ、とモルガーヌは首を横に振った。

「バローどのは警護騎士のまま、クロエは侍女のまま、私の手伝いをしてほしい、と云っているのです」

 私はなにも罰として監察府の官吏となったわけではありませんよ、とモルガーヌはついでのように云った。

「それは監察官という職に対し、あまりの侮辱です」

 バローの掌の陰でクロエは赤面した。侍女であったモルガーヌがその身分を官吏に変えたことを、王太子によってくだされた罰だと思ったことにはさしたる理由などない。云うなれば、ごくごく曖昧な感覚によるものにすぎなかったのだが、よくよく考えてみれば、なにかの職に就くことを罰だと考えることは、すでにその職にある者を貶めることにほかならない。

 あたしだって、誰かが、なにかの罰として掃除婦にさせられたのだ、と云ったりしたら、それはそれはおもしろくない気持ちになったことだろう、とクロエは思った。たとえ、掃除婦の仕事をそれほど愛していたわけではなかったとしても。

 クロエが自らを恥じたことを悟ったモルガーヌは、それ以上クロエの失言を追及しようとはしなかった。

「私は王太子殿下の密命を受けて、急遽監察官となりました。私が官吏となったことは、国王陛下と王太子殿下、監察府長官しかご存知ではありません。おこがましいことに、わが父には知らされているようですが」

 モルガーヌの言葉に込められた感情に気づくことなく、では、とバローが焦茶色の瞳を眇めた。クロエをとどめるために上げられていた彼の手は、いつのまにか下ろされている。

「バローどののお考えのとおりです。王太子殿下はほかの誰にも気づかれることなく、私にお嬢さまをお迎えにあがるようにと仰せになられました。お嬢さまのご不在を知る者は、王族がたを除けば、デジレさまやクロエをはじめとするごく限られた侍女たち、それからバローどの、あなただけです」

 そんな、とバローは呟いた。

「誰にも知られることなく、城から逃げた者を連れ戻すことなど不可能です」

 モルガーヌは瞳を眇めはしたものの、バローの言葉を訂正することはしなかった。

「エリシュカさまが王城を出られてから、すでに六日が経っています。ずっとお世話をされていた青毛を連れているのであれば、相当程度遠くへ行かれているでしょう。街々の衛士らへの知らせですら間に合うかどうかというときに、秘密裏にことを運ぶなど……」

「そうしたことを、殿下がお考えになっておられないとでも思うのですか」

 バローは息を呑み、モルガーヌは笑みを覗かせた。クロエはただただふたりのやりとりを見守るばかりである。

「衛士たちへの知らせは、すでに殿下が発しておられます。公にするのではなく、衛士たちだけに知らされるように」

 それはつまり、とバローは切り込むように尋ねた。

「エリシュカさまの出奔は、それ自体が内密のことだと、そういうことでしょうか」

「お嬢さまは出奔などされておられませんよ、バローどの。ただ、そうですね、お出かけからのお帰りが遅れているだけ。それだけのことです。お嬢さまは、わが東国の地理には不案内でいらっしゃる。王城への帰り道がわからなくなってしまったとしても、それはお嬢さまの罪ではありません。ですが、殿下は大層心配しておられますし、このままではおかしな噂にならないとも限らない。そこでわれわれがお迎えにあがると、そういうわけなのです」

 すべてを理解したバローは口を噤んで立ち尽くした。このときの彼は、権力を背に微笑むモルガーヌのことを心底おそろしいものと感じていた。

 バローはエリシュカのことをよく知らない。彼女の私室の警護を担当するようになってから顔を見知り、ごく儀礼的な挨拶を交わすにすぎない関係であった。

 きちんと言葉を交わしたことすらない相手であっても、エリシュカが並よりもずっとおとなしい性質であったことはわかるし、そんな彼女が王城を抜け出すとは、よほどの覚悟を決めてのことであったのだろうと思う。

 だいたい、もともとは異国の民であるエリシュカさまを、強引に己が手元に引き止めようとしたのは王太子殿下である。故郷へ帰ることを許されずに望まぬ場所にとどめられ、さらには、部屋を出る自由すら与えられずに望まなかったであろう地位を押しつけられ、エリシュカさまの悲しみはいかばかりであっただろうか。

 そのことを考えると、バローは己が仕える王太子ヴァレリー――いずれはこの国の主となる男――の我儘勝手に、胸が軋むような気持ちになる。

「それで私とクラヴリーどのに、ご自身の手足となれ、とそうおっしゃるわけですか」

「もちろん無理に、とは申しません」

 それはクロエも同じことですよ、とモルガーヌは云った。

 急に矛先を向けられたクロエは戸惑って俯いた。これが命令だったならば簡単だ、と彼女は思った。なにも考えず、云われたことにただ従えばいい。

 けれど、モルガーヌは命令だとは云わなかった。自分で考え、自分で決めろ、とそう云っている。

 卑怯だ、とクロエは思った。

 モルガーヌはクロエをエリシュカの世話係とし、閨の支度を調えさせ、逃げ出さぬよう見張りまでさせた。それらはすべて命令で、クロエは逆らうことを許されなかった。なのに、エリシュカを連れ戻すことについては、自分で決めろ、と云う。

 卑怯ではないか。これまでなにを云われても逆らうことをせずにモルガーヌさまに従ってきたあたしが、彼女の言葉に異を唱えるなどできないことを知っていて、選ばせてやる、などと云うなんて。

「あなたはさぞかし優秀な監察官となられることでしょうな、カスタニエどの」

 そう皮肉るバローは、クロエと同じ気持ちだったに違いない。――断ることなどできるはずもないオレたちを、そうと知りながら試すような真似をしやがって。

 ふたりの反感を、モルガーヌはやわらかな笑顔で受け止める。

「ご協力に感謝いたしますわ、バローどの」

 あなたはどうするの、と云わんばかりに自分を見つめてくるモルガーヌに、クロエはただひと言、はい、と答えた。いまさらなにを云われようとも、この苛烈な元侍女に逆らう言葉など、もとよりあるはずもないのだから、と思いながら。

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