28

 オルジシュカから杖術を教えてもらえることになったエリシュカだったが、彼女の教えは厳しかった。それまで荒事を知らずにきたエリシュカは、厳しい労働の甲斐あって体力こそ充実していたが、身体の使い方を知っていたわけではない。

 オルジシュカはそんなエリシュカに、まず身体の動かし方を徹底的に教え込むことにしたようだった。基本的な動きを何度も何度も何度も、それこそ厨の仕事のないときにはずっと反復しているような気がするほど繰り返しても、オルジシュカの口から、次の段階に進んでもいい、という言葉を引き出すまでにはそれなりの時間がかかった。

 二日経っても五日経っても、素振りのため以外に杖を握らせてはもらえず、ひたすらに身体の動きを覚えさせられた。

 口答えはいっさい許されなかった。普段はおおらかで鷹揚で快活なオルジシュカだが、鍛錬のときの彼女はひたすら厳しく、激しかった。怒鳴り声を上げることも珍しくなかった。

 云われた言葉に従うことには慣れているエリシュカは、オルジシュカに逆らいこそしなかったが、杖術を覚えると決めたときの高揚感が少しずつ薄れていくことを感じていた。

 やっぱりわたしには無理なのかな、とエリシュカは少しずつ思いはじめていた。オルジシュカは親切だから、いいよ、なんて云ってくれたけど、本当は教えてくれるつもりなんてないのかもしれない。

 というか、ほんの少しばかり武術を習ったところで、自分で自分を守れると考えたわたしが浅はかだったのかもしれない。どんな力を学んでもわたしの非力には変わりないのだし――。

 エリシュカは気づいていなかった。

 オルジシュカが、エリシュカがその自覚――どんな暴力を覚えようとも、自分を過信してはならない――を持つまでは、決して力を学ばせてはならないと考えていたことには。

 足腰を鍛えるための動きを覚えさせながら、オルジシュカはエリシュカの様子を注意深く観察していた。そして、常の彼女にはない奇妙な興奮が抜け切るのをじっと待ち続けていた。

 オルジシュカがそろそろ実践的な杖の振るい方を教えようかと云いだしたのは、エリシュカが型どおりの鍛錬に飽きはじめた頃のことだった。それはつまり、彼女が自分の身体を使うことに慣れはじめたということでもあり、暴力のための鍛錬が日常に溶け込んだということでもある。

 エリシュカにとって、武術というものが特別なものではなくなったということを感じ取ったオルジシュカは、いまがその時機であろうと、その日、エリシュカのためにと用意しておいた杖を彼女に渡すことにした。

 樫の木から削り出して作られたそれは、堅く軽くエリシュカの掌によく馴染んだ。長さも太さも彼女の身体のことを考えて作られたそれが、オルジシュカのやさしさなのだとエリシュカは気づく。

「ありがとうございます」

 これまで幾度となく、誰彼となく、こうして礼を述べて頭を下げてきた。だけど、今日このときほど心からこの言葉を捧げたことが、いったいどれほどあっただろうか、とエリシュカは思った。

 オルジシュカとわたしの縁は薄い。通りすがりに助けてもらっただけのようなものだ。それも、ただただ一方的に世話になるばかり――。

 頭を下げるよりほか、いまのわたしにできることはない。そのことを悔しく思うのははじめてのことだった。

 他者の言葉に肯うことを当然と考えていたエリシュカは、同時に施しもまた受け取ることを当然と考えていた。己が身ひとつ自由に処することのできない者が、与えられる慈悲に縋るのはあたりまえのことだとも云える。

 だが、いまのエリシュカは違う。理不尽な仕打ちには反発することを覚え、親切な振舞いには感謝することを知った。

 そして、その気持ちをどうにかして相手に伝えたいと思うようになった。ただ言葉に変えるだけではなく、自分に親切にしてくれた相手に、自分もなにかを返したいと、そう思うようになったのだ。

 自分にできることはなにもない、とただ耐えるばかりの生き方しか知らなかった頃には、思いもよらなかったことだ。すべてはオルジシュカと海猫旅団の者たちのおかげだ、とエリシュカは思っている。

「礼にはまだ早いさ。あんたがそいつの使い方をちゃんと覚えて、役立つ日が来るまでは礼なんかいらない」

「違います、オルジシュカ」

 そうではないんです、とエリシュカは云った。

「この杖、わざわざ作ってくださったんですよね?」

 そうだよ、と答える代わりに、オルジシュカはひょいと両の眉を持ち上げてみせた。

「ありがとうございます」

「そういう意味か」

 はい、とエリシュカは頷いた。

「それだけではありません。助けてくださって、ここへ連れてきてくださって、杖術まで……」

「それはあんたが習いたいって云ったんだろう」

「それにしてもです」

 エリシュカは語気を強めて云い募った。

「なんの縁もゆかりもないというのに、わたしはなにからなにまでお世話になっていて、なにもお返しできていません」

 エリシュカの手に握らせた樫の杖を見つめながら、オルジシュカはゆるりと笑った。

「そういうことが云えるようになったんだねえ」

 え、とエリシュカは首を傾げる。いや、なんでもない、とオルジシュカはなおも笑った。

「世話になるだけは心苦しいかい?」

「心苦しい……?」

 とてもありがたく嬉しく思っているのに、なんともいたたまれないような申し訳ないような気持ちになることをそう呼ぶのだということを、エリシュカは知らなかった。はい、と躊躇いがちに頷くと、そうか、とオルジシュカは頬から笑みを消した。

「いいんだよ。なにも返さなくっていいんだ」

「でも、それでは……」

「ただ、その気持ちを忘れないでくれたらいい。受け取るばかりでいることは居心地が悪いのだと、その気持ちを忘れないでくれたら」

 それで、とオルジシュカはそこでもう一度笑うことを思い出したかのように微笑んだ。

「それでいつかそのときがきたら、今度はエリシュカが困っている誰かに親切にしてやればいい。見返りも報酬も求めずに、手を差し伸べてやればいい」

 エリシュカはオルジシュカを見つめ、小さく頷いた。いつだったか、シルヴェリオにも云われたことのある言葉だが、オルジシュカのそれに込められている誠実は比べようもなく重たく響く。

 オルジシュカもまた、遠い昔、いつかどこかで誰かに助けてもらったことがあるのかもしれない、とエリシュカは思った。そのときには返すことのできなかった恩を、彼女はわたしに親切にしてくれることで返そうとしているのかもしれない。

「家族以外に、こんなふうに親切にしてくださる方がいるとは思ってもいませんでした。オルジシュカの云うとおり、いまのわたしにはなにも返せませんが、いつかそういう日がくると思って、いまの言葉、忘れません」

 いつもは言葉数の少ないエリシュカが息を切らすようにして喋ることに圧倒されたのか、オルジシュカは一瞬虚を突かれたような顔をして黙り込んだ。

 オルジシュカ、とエリシュカが訝しげに名を呼ぶと、オルジシュカは、いや、と首を横に振った。どうしたんだろう、とエリシュカは思う。今日のオルジシュカはどこか様子がおかしいような気がする。

「……家族か」

 オルジシュカはまたもやエリシュカの手元にある杖を見つめて、ぽつりとそう呟いた。

「エリシュカは家族に会うために故郷に帰るんだと云ったな」

「はい」

 新しい杖を構え、教えてもらった型のとおりの動きをさらおうとしていたエリシュカは、肩越しに振り返って頷いた。

「楽な道行みちゆきではないとわかっているんだよな」

「はい」

「辿り着いたとしてもその先も、決して楽ではないと」

「はい」

「なぜだ?」

 なぜ、とは、とエリシュカはオルジシュカに向き直って問い返した。

「楽な旅ではない。帰ったあとも厳しい暮らしが待っている。そのことがわかっていて、それでも帰ろうとするのはなぜか、と訊いているんだ」

「家族が待っているんです」

「……家族」

 はい、とエリシュカは頷いた。薄紫色の眼差しに迷いはない。その眩しさにあてられたかのように、オルジシュカは、すい、と視線を逸らした。

「家族が理由か」

「オルジシュカ?」

 どうかしたんですか、とエリシュカはオルジシュカの顔を覗き込んだ。知り合ってからの期間はごく短いが、オルジシュカはいつでも――ほんのときおり憂いを覗かせるときですら――ある種の快活さを忘れたことはなかった。

 けれど、いまこのときの彼女にいつもの明るさを見て取ることはできなかった。

 薄暗い水の底から届かぬ空を見上げるような茫洋とした冷たい眼差しは、しかし、もしかしたらそれこそがオルジシュカの本性なのかもしれないと思わせるほど、彼女の気配に馴染んでいた。

「どうもしないよ」

「でも……」

「不思議に思っただけだ。エリシュカはあの国では賤民だったんだろう」

 エリシュカは思わず目を見開いた。

 オルジシュカが神ツ国の出身であるだろうということは、その名前から察しがついていた。それでも彼女の出自を確かめようと思わなかったのは、自身が賤民であることを知られれば――オルジシュカがたとえ同じ賤民の出であったとしても――厄介なことになると考えていたからだ。

 そして、オルジシュカもきっと同じように考えているはずだ、とエリシュカは思っていた。たとえ故郷を離れていたとしても、生まれた立場が違うことがわかれば、仮初の友誼は容易く崩れ去ってしまうものだからだ。

 神ツ国の身分制度は、生まれてから死ぬまで生涯を縛るものである。生まれた地を離れようと、故郷を捨てようと、賤民は賤民であり続ける。そしてそうでない者たちは、たとえ神ツ国から離れた場所にあろうとも、やはり賤民を差別し続ける。

 もしもわたしが賤民であることが知れれば、彼女は掌を返したように冷たく厳しくあたるようになるかもしれない。

 たとえ同じ賤民であったとしても、なぜオルジシュカがこの東国の地にいるのか、その理由に疚しいところがあれば――賤民とは、主なき地に生きるものではないとされているものだから、オルジシュカがここにいるということは、すなわちなにかしらうしろ暗いところがあるということになる――、やはり彼女の態度が変わってしまうかもしれなかった。

 エリシュカは、たとえどんな理由にしてもオルジシュカのやさしさを失いたくなかった。

 だからなにも云わずにおいたのに。――なにも尋ねなかったのに。

 知らず眉根を寄せて自分を睨みつけるような表情になってしまったエリシュカに、オルジシュカは穏やかに微笑みかけた。

「あたしもそうだからすぐにわかった。あんたは昔のあたしによく似てる。あんたの面倒をみたのはさ、本当はそのせいもあるんだよ」

「オルジシュカも……」

 故郷から遠く離れた地で同胞に会うとは思いもよりませんでした、とエリシュカは云った。

「それを云うならあたしも同じさ。故郷の人間なんて、あの国を出てから一度も会ったことがなかったっていうのに、よりにもよって同じ境遇のやつに出会うとはね」

 決して望ましい出会いではなかったのだ、とでも云いたげなオルジシュカの言葉に、エリシュカはまるで同意するかのように頷いた。

「だから不思議でね。せっかく楽に国を出られたっていうのに、戻りたがるあんたのことが」

 そもそも神ツ国の者が神ノ峰を越えて国外に出ることは稀である。賤民ともなれば、まずありえないことだ。

 エリシュカが東国へやってきたのは、シュテファーニアの輿入れに付き従ってのことで、決して彼女自身の意志によるものではない。そして、帰るときもまた同じはずだった。ヴァレリーがエリシュカを自らのそばにとどめようとしなければ、シュテファーニアの帰国とともにエリシュカもまた国へ戻るはずだった。

 エリシュカが、完全とは云えないまでも、自由の身となって東国にとどまることができているのは、彼女の本来の身分を思えばありえない僥倖だと云ってもよかった。その幸運をわざわざ苦労してまで手放そうとするエリシュカのことが、オルジシュカには理解できない。彼女がいまの立場を手に入れるまでの辛苦は、並大抵のものではなかったからだ。

 エリシュカのことを羨むつもりはない。そんなやわな心はとうの昔に手放した。けれど、自分が命がけで逃げ出してきたあの場所に、王太子の求めを振り切り、過酷な旅に耐えてまで戻ろうとするエリシュカの真意を知りたいと思うのは当然のことだろう。

「家族がいるから。ただそれだけの理由で、これから先の長い人生を決めてしまっていいのかと、あたしはそう思うから」

「それだけ?」

 ああ、とオルジシュカは頷いた。

「自由に生きることはなによりも尊い。あんたは簡単に手に入れたからそうは思わないのかもしれないけど」

 頭がカッと熱くなるような気がした。

 自由ってなに、とエリシュカは思った。国を出ただけで自由になれるなんて、ただの思い込みだ。現にわたしはただの一度も自由でなんかなかった。故郷から遠く離れた東国王城にあっても、周囲の人たちはわたしのことを賤民と蔑み、供物のように捧げられ、生贄のように貪られた。そんな暮らしのどこに自由があるというのか――。

 これまでのわたしをなにも知らないオルジシュカに、簡単に、などと云われたくはない。

 エリシュカは掌の中の杖をきつく握りしめた。これまで誰にも向けたことのないようなきつい眼差しをオルジシュカに向ける。

「簡単にもなにも、わたしが自由だったことなんて一度もありません。わたしの身はいつでもわたしではない誰かのもので……!」

「……いまは?」

 激昂に近い高ぶりを静かな声に遮られて、エリシュカは、なにがですか、となかば反射的に云い返していた。

「いまはどうなんだと訊いているんだ。いまのあんたは自由じゃないのかい?」

 エリシュカは言葉に詰まって顔を赤く染める。

「いまのあんたはどこへでも行ける。なんにでもなれる。東国を出てさえしまえば、王太子に追われることもないだろう。好きなところへ行き、好きに生きられる。なのにあんたはわざわざ神ツ国へ帰りたいと云う。手にした自由を捨てて、隷属を強いられる暮らしに戻りたいと云う」

 なぜなんだろうと思うじゃないか、とオルジシュカは云った。

 なぜなのだろう、とエリシュカは思った。あらためて問われてしまうと、言葉にできるような理由はないのかもしれなかった。主の許しがある限り、家族の生きる場所で自分も生きるのだと、ずっとずっとそれがあたりまえだったから、理由など考える必要もなかったし、考えたこともなかった。

 ヴァレリーの手を逃れ、家族のもとへ帰る。それはエリシュカにとって考えるまでもない、当然のことだったのだ。

 自由などと云われても、望んだわけでもないそれを手にいれたところで、どうしたらいいかもわからない。簡単に捨てるなと叱られても、その自由とやらを守るためになにより大切な家族に会えないのでは、不自由と同じことなのではないかと思ったりもする。

「なぜと訊かれても、そうしたいからだとしか云えません。家族のそばよりほかに行きたい場所はないし、家族とともに生きる以外の望みもありません。自由は尊いものだとオルジシュカは云いましたが、わたしにとってなにより尊いものは家族と生きることです。たとえ、厳しい暮らしが待っているとしても、かつてと同じに戻るだけのことです。特別なことではありません」

 そうか、とオルジシュカは目を細めた。まるで愚かな者を見遣るようなその眼差しがエリシュカの心をざわつかせる。

「わたしにはオルジシュカのほうこそ不思議に思えます」

「あたしが?」

「なんだってそんなことが云えるんですか?」

 そんなこと、とオルジシュカは云った。

「家族と、ほかのなにかとを秤にかけるようなことを」

 オルジシュカの肩がかすかに跳ねる。首筋を強張らせたオルジシュカは、しかし、なにも答えなかった。

「あなたが神ツ国の賤民の出だということはわかりました。それであればなおさら、わたしの云うことをわかってもらえると思っていたんですが、そうではないのですか」

 いまやオルジシュカは、奥歯を噛み締めてなにかに耐えるような顔をしている。すまない、とオルジシュカは云った。

「そういうつもりじゃ……」

「じゃあ、どういうつもりだったんですか」

 わたしに家族を諦めろと云いたかったんですか、とエリシュカは云った。

「そうじゃない」

「あなたにならわかってもらえると思ってました。誰も、アランさまもモルガーヌさまも決してわかってくださらなかったこの気持ちをあなたになら……」

「あたしになら……?」

「あなたが自由に生きているからです、オルジシュカ」

 心赴くままに生きることを自由というのなら、わたしの自由は故郷にこそある、とエリシュカは云った。父と母、兄と妹の傍にこそあるんです。誰も理解しようとしてはくれないけれど、王太子の恋人として生きるよりも神ツ国の賤民として生きることがわたしの自由なんです。

「あなたは自由ですよね、オルジシュカ」

 オルジシュカは頷かなかった。しかし、自分の心に向き合うことで精一杯のエリシュカはそのことには気づかなかった。

「心が向かう場所を自分で決めることができるあなたになら、わたしの心が故郷に向かうことも理解してもらえるんじゃないかと、そう思っていたんです」

 エリシュカは肩で息をしながら云い終えた。薄紫色の瞳に浮かぶ激情を見つめていたオルジシュカは、やがて静かに、そうか、と呟いた。

「……そうなのかもしれないな」

 よくわからないんだ、とオルジシュカは囁くような声で続けた。

「あたしには家族はいないから」

 エリシュカは思わず眉を顰める。自分たち家族が神ツ国では幸運な例外であることを知ってはいたが、それでもオルジシュカの言葉には首を傾げざるをえない。

 たとえ、主にめあわされた相手といえど、夫となり妻となった者を蔑ろにする者は賤民には少ない。厳しい暮らしを強いられる者たちは、豊かに暮らす者たちよりもずっと、自分と近くにいる者との絆を大切にする。親や子ともなれば、その絆の強さは並大抵のことでは切れることのないものとなろう。

 オルジシュカは、家族がない、と云った。どういう意味だろう、とエリシュカは思った。

 夫のいない女はいる。子のない女も。けれど、親のない子はいない。オルジシュカに夫や子がなかったとしても、親はあっただろう。彼女の年齢であれば、まだ存命である可能性のほうが高い。たとえ、不幸にもすでに亡くなっているとしても、家族に対する情を理解できないほどに疎遠であったのだろうか。

「いないって、でも、ご両親や……」

「いないんだ」

 それ以上の話はしたくない、とばかりにオルジシュカはきっぱりとした口調でそう云った。

 そんな、とエリシュカは首を横に振る。それまでのエリシュカであったなら、きっとそこで口を噤んでいただろう。周囲の言葉に肯うことしか知らず、自分の意思で誰かとの関係を築くことを知らなかった彼女であったなら。

 しかし、エリシュカは変わった。変えたのはオルジシュカと海猫旅団である。

「だけど、大切な方はいるでしょう。なにをおいてもそばにいたいと思う方です。故郷でなくてもいい、どこかに」

 わたしの想いはそれと同じです、とエリシュカは云う。

「なにもおかしなことはないと思いませんか。一緒にいたいと願う人のそばに戻りたいだけなんです、わたしは」

 エリシュカの言葉に、オルジシュカはふと目蓋を閉じる。聞きたくない、と彼女は思った。エリシュカの言葉をこれ以上聞いていたくない。

 このまま話を続けていれば、あたしはエリシュカを憎んでしまうだろう。彼女に罪はないとわかっていても、そうせずにはいられないだろう。――そんなことはしたくない。

 エリシュカ、とオルジシュカは瞳を閉ざしたまま、エリシュカに呼びかけた。

「悪いが、今日の鍛錬はひとりでやってくれ」

「オルジシュカ?」

「急に会わなきゃいけないやつを思い出した。その杖に慣れるまで、型と素振りを繰り返しておきな」

 いまのオルジシュカが自分と一緒にいたくないのだということは、エリシュカにもわかった。そしてそれは、エリシュカもまた同じ気持ちだった。いまのオルジシュカとは一緒にいたくない。

 エリシュカは、はい、と答えて、云われたとおりに素振りをはじめる。自分に背を向けたオルジシュカにはわざと視線ひとつ送らずに、立ち去る気配だけを追いかけた。

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