27

 いつまでも黙り込んだままでいるソランの態度に、モルガーヌは云い知れぬ不安を覚えた。監察官としてのはじめてのまともな任務からくる重圧に負け、つまらないことを口走ったといまさらながらに後悔する。なにが、叛乱を成功させる気はない、だ。トレイユが叛逆の心を抱いていることはたしかなのだ。

「あの、申し訳ありませんでした。つまらないことを……」

「私の目に狂いはなかった」

 はあ、とモルガーヌは素っ頓狂な声を上げた。ソランがなにを云いたいのか、さっぱりわからない。

「おまえを監察府に迎え入れた私は正しかった、ということだ。王太子もたまにはいい仕事をする」

 なにやらものすごく莫迦にされたような気がする、とモルガーヌは思った。私も殿下も、いいえ、それだけではない、この国のすべてが。

「莫迦になどしていない。褒めたのだ。喜べ」

 くつくつとソランは喉の奥で笑った。まるっきり悪人のような笑い方に、モルガーヌは半眼になって上司を睨み据えた。

「なにをおっしゃりたいのか、私にはまるでわかりかねるのですが……」

「わからないか」

 ソランは薄灰色の瞳をかすかに撓めてモルガーヌを見た。モルガーヌは黒い瞳を幾度も瞬かせながら、己の発言を顧みる。――だめだ、さっぱりわからない。この冷酷な鬼のような男の心の琴線に、私の発言のいったいなにが触れたというのだろう。

「おまえはとても勘がいい」

 ソランはいつのまにか笑うのをやめ、モルガーヌをまっすぐに見ている。立てられた指先が自分に向けられるのを見て、彼女は首筋がひやりとするのを感じた。

「自覚もあるのだろうが、実際はそれ以上だ。監察官として、これ以上の適性はない」

「勘、がですか?」

 云われるとおり、自分はたしかに勘のいいほうだとは思う。おまけに、侍女として働いていたとき――我儘なヴァレリーや気むずかしいデジレの相手をするとき――に、おおいに鍛えられたような気もする。

「勘とはな、ただの思いつきや閃きなどではない。人や状況をつぶさに観察し、緻密に思考して、大胆な仮説を組み立てることだ。いままさにおまえがやってみせたように」

 云いながらソランはモルガーヌに向けていた指をずいと突き出した。モルガーヌの眉根がぴくりと寄せられる。人を指差してはいけないというごく初歩的な礼儀も教わっていないのか、この男は。

「わ、私の云うことが正しいと、そうおっしゃるのですか、長官は」

「そうだ」

 そう断言したあとで、ソランはかすかに笑う。まあ、なにもかもが全部、というわけではないのだろうがな。

「だが、大筋では間違っていないだろう。トレイユの目的は叛乱などではない。革命でもない。あの男は命がけで国を変えようとしているだけだ」

「国を変える……?」

 それこそを革命と呼ぶのではないか、とモルガーヌは混乱する。

「国、と呼ぶのがふさわしくなければ、そうだな、あの男が変えようとしているのは王家だ」

「王家……」

「ラ・フォルジュを王位から退かせようという意味ではないぞ」

 はい、とモルガーヌは頷いた。ソランの云いたいことはわかるような気がするが、どこか曖昧としていて掴みどころがなかった。

「トレイユに死期が迫っているのかどうかはわからない。やつの身辺近くに仕えていた者たちは、おそらくみなやつに従っているのだろうからな。北の要塞に残っている連中は、トレイユの病のことなど知りもしないだろう」

 だが、もしやつが己の末期を悟っているのならば、なぜいまなのか、という疑問は容易に解決することができる、とソランは続けた。

「いましかない、とトレイユは思ったのに違いない。いまを逃せば、王家を変えることはもうできない、と」

「王家を変える、とはどういう意味なのですか」

 モルガーヌはとうとう耐え切れなくなり、はっきりと問いかけた。ソランは珍しくなにかを躊躇うように言葉を選んでいたが、やがて口を開いた。

「忠誠にはいろいろな形がある。主に寄り添いその意思に従うこと、決して目立たず主の影となって支え続けること、遠く離れた地で務めに励むことさえも、間接的に主に資することとなるのであれば、それもまた忠誠だ」

 はい、とモルガーヌは頷いた。それは自分にもよくわかる。侍女として傍近くでヴァレリーに仕えるのではなく、監察官として王家を支えていこうと決めたのは、どんな形であれ、それが彼に対する――ラ・フォルジュと東国に対する――忠誠であると思ったからだ。

「そしてときには、主と対立し争うことさえも忠誠となりうる」

「争うことが、ですか」

「そうだ」

 まさか、とモルガーヌは表情を険しいものへと変える。

「まさか長官は、トレイユがこれまでずっと国王陛下に対し、反抗的な態度をとり続けたのは忠誠心ゆえのことだと、そうおっしゃるのですか」

 そうだ、とソランは頷いた。やはりおまえは察しがいい。

「おっしゃる意味がわかりません」

 モルガーヌは頭にカッと血がめぐるのを感じながら、首を横に振った。声を抑えるのには相当の努力が必要だった。

 なにをどう考えればそんな結論にたどり着くのだ、と彼女は思った。主と争い、いたずらに彼を消耗させ、疲弊させることの、いったいどこが忠誠だというのか。

「東国において、国王とは国の元首であり、象徴であり、中枢でもある。国そのものだと云ってもいい。国のあらゆる機関、すべての民は、国王の前に逆らうすべを持たない。権力は絶対的で、いろいろと建前上の制約はあるが、そんなものはいつでも取っ払ってしまうことができる。つまり、この国は国王の掌の上にあるのだと、そう云うことができる」

 大臣や議会の承認が必要とはいえ、国王の罷免さえ可能にする権力を持つ監察府長官の言葉は重たかった。モルガーヌは絶句し、息を詰めるような思いで続きを待つ。

「国王が、賢く、勇ましく、温和で、ひとつの過ちも犯さぬような、ひとかけらの悪意も持たぬような人間であれば、国は末永く安泰であろう。だが、国王とて人間だ。そして、人間に無謬はない」

 人は誰でも過ちを犯す。悪意を抱く。そしてそれを、隠蔽しようとする。

 どんなに高貴な立場にあろうとも、どんなに大きな責任を負っていようとも、人が人である以上、逃れられない宿命のようなものだ。

「国王に誤りがあってはならない。それは国が選択を間違える、ということだからだ。多くの民の命と財産、そのすべては国王ひとりにかかっている。それがいまの東国だ」

 ですが、とモルガーヌは渇いた唇を必死になって動かした。貼り付いたようになっている喉を何度か鳴らし、言葉を並べる。

「国王陛下はたしかに大きな権力を持っていらっしゃいますが、多くの大臣や官吏に支えられてまつりごとを行っていらっしゃる。現に長官、あなたもそうした官吏のおひとりでいらっしゃるではありませんか」

 たったひとりにかかっているなどと、とモルガーヌは首を横に振った。

「いまの大臣や官吏がいったいなんの役に立っている。議会とてただの形式にすぎない」

 吐き捨てるようにソランは云った。

「国王の云うことにただ肯い、諸手を挙げ、追従を述べるだけの大臣や議会など、あってもなくても同じだ。いや、法に則った形を与えられているぶん性質が悪い。官吏とて似たようなものだ。俺が預かる監察府とて、そうやすやすと国王には手が出せない。迂闊なことをすれば、こっちの首が危ういからな」

 いいか、とソランは薄灰色の瞳に剣呑な光を乗せた。

「この国はそういう仕組みになっている。代々の国王と、王座を支えてきた貴族どもがそういう仕組みを作り上げてきた結果だ」

 モルガーヌは納得できないながらも、小さく頷いた。

「トレイユはそれを壊そうとしている」

 ソランの声はごく潜められ、ひどく聞き取りづらくなった。

「幸いにして現在の国王ピエリック・ロラン・ラ・フォルジュ陛下は聡明な方でいらっしゃる。民に対する憐憫の情も持ちあわせておいでだ。いささか優柔不断な面がおありではあるが、欠点となりうるほどではない」

 だが、先王陛下はどうであっただろう、とソランは云った。

「ピエリック陛下が即位されたのは、私が生まれてまだ間もないころだ。先王陛下のことは私もほとんど知らん。だが、養親に聞いた限りでは、民に対する憐れみの心など、欠片も持ちあわせていないような方であったらしい。勇猛で英明ではあったが、慈愛という言葉とは無縁であったのだろうな」

 他国を叩き潰す力がすべてであると信じられていた時代だ、とソランは云った。

「戦の続いた先王陛下の治世では、勇猛であることは国王に欠かせぬ資質であっただろう。トレイユの父親は先王陛下の片腕としてよく働き、一地方貴族にすぎなかった生家を、将軍職を拝するまでに押し上げた。トレイユはそんな父親のもとで育ち、いつかは自分も父のように国王とともに戦乱の世を切り拓くのだと、そう思っていたのかもしれない」

 だが、戦は終わった。長く続いた西国との争いに決着をつけ、以降の東国は工業国としての道を歩みながら、平和の中に生きてきたのだ。

「先王陛下が崩御され、現陛下が即位されたとき、トレイユはすでに軍の要職にあった。急速に縮小されていく軍の中で兵士らの士気を保ち、騎士らの地位を守るため、大きな苦労をしただろうことは想像に難くない」

 戦乱よりは和平を、混乱よりは平穏を、そう願うのはトレイユとて同じであったはずだ、とモルガーヌは思う。けれど、あまりに急激な変化は、たとえそれが正しい――と考えられていた――ものであったとしても、人の心に軋轢を生むものだ。

 軍属であることが誇りであった時代から、人を殺め傷つけることを生業とすることを恥とする時代へ、世の中は急速に移り変わっていった。

 多くの兵士が職を失い、多くの騎士が地位を失った。戦しか知らずに生きてきた彼らの中には生きるすべを失い、他の大陸へと流れた者や路頭に迷った者も少なくなかったであろう。彼らはいったいなにを思っていたのか。

 兵士になりたくてなった者ばかりではなかったはずだ。生きるすべとして武器を取り、心を殺しながら戦に出て、必死に平和を引きずり寄せてみれば、もう役目は終わりだと放り出される。心中決して穏やかではなかったはずだ。

 そうした者たちを多く抱え、軍の内部はきっとひどく荒れていたのに違いない。

「トレイユはそうした混乱期にあって軍をよくまとめ、兵士や騎士らを上手く率いていた。私が彼を知ったのは、すでに彼が将軍職に就いてからのことだったし、立場が違いすぎて直接話などできるはずもなかったが、御前会議においても議会においても、押すべきところと退くべきところをよく弁えた、感覚の鋭い一流の政治家だった」

 当時はまだ記録係として議会の末席に加わることを許されたばかりのソランであったから、発言など到底許されてはいなかったし、さまざまな雑用に走りまわらされ、すべての議論を聞くことができたわけでもない。端々を聞きかじっただけで全容が理解できるはずもないが、トレイユが決して愚かなだけの人物でないことはよくわかった。

「だが気がつけば、トレイユと国王陛下との確執はいつのまにか深まっていて、彼は北の地へと追いやられ、御前会議にも議会にも出席を許されなくなってしまっていた」

 おまえが侍女となったのは、そのあとのことだな、とソランは尋ねる。はい、とモルガーヌは戸惑いながらも頷いた。ソランがなぜ急にトレイユの過去について話しはじめたのか、その理由がいまひとつ掴めなかった。

「トレイユはふたつの時代を知っている。ふたりの国王を知っている。私たちとは根本が違う」

「根本……」

「時代は変わる、ということを、身をもって知っているのだ、あの老将軍は」

 多くの混乱と葛藤を抱え、自分が生き延びるだけではなく、属する組織をも生き延びさせようとしてきた、とソランは呟くように云った。

「国王の前に立つトレイユは、いつも冷静だった。ことさらに軍を誇るわけではなかったが、卑下するわけでもなかった。他国との交渉の場において強硬な手段を主張することが多かったのは、争いを避けようとするあまりに、極端な軟調に流れようとする他の大臣たちを牽制する意味合いもあったのかもしれない」

「牽制、ですか」

「いくら平和に、穏便にといっても、ものには限度というものがある。この大陸で東国という国を存続させていくつもりならば、国土を守り、民を守り、主権を守らなくてはならない。他国との交渉の場においては、ときには強硬な態度も必要になる。トレイユはそのことを陛下や大臣たちに理解してもらおうと、精一杯努力していたのだろうな」

 立場が立場であるだけに誤解も多かったのだろう、とソランは続けた。トレイユが強硬策を説けば、それは必然的に軍の出番となると、そう考える者も少なくなかったであろうから。

「トレイユの努力は実らなかった。国王陛下も大臣どもも議会も、誰も彼もが老いた将軍を疎んじ、忌避し、中枢から弾き出した。北の地へと追いやられ、謁見の機会も減って、トレイユはなにを思ったのだろうな」

「なにを……?」

「国や王家に対するトレイユの忠誠は変わっていないのだと、私はそう思う。戦乱の世も平和の世も、いずれも知る彼は、その時代に合わせてその形を変えただけだ」

「形を変える、ですか」

 そうだ、とソランは頷いた。

「軍人として戦に出向き、多くの首を上げることが忠誠であった時代は、やがて平和を重んじ、財政的な意味合いにおいて国を潤すことが忠誠となる時代へと変わった。トレイユは軍属の身に合わぬそうした時代においても、王家に対し、自分なりの忠誠を尽くすことを誓っていたのだと思う」

 上官の命令に従って戦うことから、国王に意見してより考えを深めてもらうよう仕向けることへ、とソランはどこか寂寞とした笑みを浮かべる。モルガーヌの胸もまた軋むように痛んだ。

「国王とは因果なものだ。なにを云っても、己の意見を肯定されることがあたりまえだ。下手に否定などすれば自分の首が飛ぶとわかっていて、異論を唱える物好きなどいない。勢い、御前会議も議会も、国王の意見には逆らわないという暗黙の了解のもとに運営されることになる」

 国王に誤謬があってはならない、とはそういう意味か、とモルガーヌは悟った。

「多くの大臣や官吏が国王を支えている体裁を取りながら、この国は国王による専制政治で成り立っているのが実態だ。トレイユはそのことに早くから気づき、身をもって国を正しい方向へと導いていた」

「正しい方向?」

「いまある東国だ。科学を発達させ、多くの工業製品を発明し、生産し、それを他国や他の大陸に輸出することで利を得る、いまのわが国だ」

 モルガーヌは思わず目を見開いた。――まさか。

「信じられない、という顔だな。だが、それが真実だ」

「どういう意味でしょうか」

 そうだな、とソランは乗り出すようにしていた上体を退いて、遠くから眺めるような目つきで部下を見遣った。まるでなにかを試されているかのようだ、とモルガーヌは思う。

「たとえば、おまえが私になにか意見を云おうとするとき、おまえはなにを考える?」

「な、なにを、とは?」

 ソランの意図がまたわからなくなった。モルガーヌは戸惑いながらも、ええと、と頭を働かせる。

「準備を、します。意見の根拠になるようなものとか、証拠とか、あとはほかの方の意見とかを集めて……」

「理論武装する」

 言葉を横から掻っ攫われ、モルガーヌは不満そうに頷いた。

「なぜだ?」

 なぜ、とモルガーヌは目を瞬かせ、それは、と健気に続ける。

「反論されても主張し続けられるように、だと思います。自分の意見を簡単には枉げたくないので」

「だが、相手が、自分に逆らわないとわかっている場合だったらどうする?」

 下準備などしないだろう、とソランは意地悪気に笑ってみせた。

「少々道理を枉げてでも自分の意見を押し通す。違うか、カスタニエ」

 まるで侍女であったときの自分をそばで見ていたかのようなソランの言葉に、モルガーヌはじわじわと頬が赤く染まっていくのを自覚した。

「国王も同じだ」

 ぴたりと時間が止まったような気がした。周囲のざわめきも、己の羞恥も、ソランの存在さえ消えて、モルガーヌは真っ白な空間に放り出されたような心地がした。

「国王とて人間だ。正しい道ばかりを選ぶわけではない。欲に目が眩み、保身に走り、利己的になることもあろう。たとえそうでなくとも、誰も己に逆らわぬ状況に慢心し、政に甘えを持ち込むかもしれん」

「甘え……」

「己の考えがすべてだという独善と云い換えてもいい」

 賢く、慈しみ深く、明朗で、勇敢。求められる資質をすべて満たし、非の打ちどころなどなくとも、強い権力を持つ者は独善に走りがちだ。否、非の打ちどころがないからこそ、周囲から非難を寄せられることもなく、そのことが無意識に彼の者を独りよがりに走らせることになる。

「万人を幸福にする政などない。どれほどの善政を敷いたとて、世の中には救いの手の届かぬ者が必ず存在する。為政者はこのことを肝に銘じなければならない。幸いあれと願って掲げた策は、必ず誰かを傷つけるということを、だ。だが、多くの者はすぐにこのことを忘れてしまう。国王も大臣も官吏も、みな」

 ソランはどこか遠くに思いを馳せるような目つきをした。


 ガスパール・ソランが、王都の辺縁にいまも残る貧民街の出身であることを知る者はとても少ない。ソラン自身が語らず、また、まだ幼いうちにいまの養親に引き取られたせいで、勉学にも行儀作法にも困ったことがなかったせいだ。

 だが、彼の実の両親は、日雇い労働と物乞いで身を立てる、その日暮らしの流浪の民だった。はるか西から彷徨い歩いた末に王都の貧民街に流れ着き、病に倒れたところをある篤志家夫妻に助けられた。

 病と酒と薬物とで命を削った両親は、貧民街の片隅でひっそりと死んだ。ソランの養親が運営する慈善施設でのことだった。天涯孤独の身の上となったソランを哀れに思った夫妻は、彼を養子のひとりとし――彼ら夫妻には十数人もの養子がいる――、躾を施し、学問をさせてくれた。

 いまの自分があるのは彼らのおかげだ、とソランは思っている。決して、――決して、国のおかげなどではない。

 実の両親を無辜の存在だと思ったことは一度もない。彼らは怠惰で自堕落で暗愚だった。臆病で惰弱で卑怯だった。積極的に悪いことをするわけではなかったが、善い行いをしたいとも考えていなかった。己が無知であることさえ知らぬような、いてもいなくてもいいような人間だったのかもしれない。

 けれど、それでも、この世に生きる人間だった。この国の民だった。

 ソランは知っている。

 怠惰や暗愚が罪であり、自堕落や惰弱が悪であることを。臆病や卑怯は咎められるべきだということを。

 そしてそれらは、すべての人の中に等しく眠っているものだということを。

 実の両親を庇うつもりはない。彼らの破滅は、彼ら自身の責任だ。

 己の不運を嘆くつもりもない。自分には幸いもある――養親に出会えたこと――と知っているからだ。

 ただ、彼は自身の生い立ちから、ひとつの真実とひとつの覚悟をその心に刻んでいる。

 この世にはどんな名君にも善政にも救うことのできない民がいる、という真実。

 いまは陽の当たる場所で朗らかに笑う者も、一歩間違えれば、陰鬱な路地裏を茫洋とした無表情で彷徨うようになる、それは決して自らも例外ではない、という覚悟。

 位人身をきわめようとも、生涯揺るがせにはしないと決めた、それはソランの誇りでもある。


「長官」

 遠い目をしたまま黙り込んでしまった上司を正気に戻すべく、モルガーヌが呼びかけた。ソランはゆっくりと瞬きをして彼女に視線を戻したが、すぐには口を開こうとしなかった。

「どうかなさいましたか」

 すべての者に等しく陽の光が降り注ぐ地などない。だが、恵まれた場所を譲りあうことはできる。あるいは、譲りあうような仕組みを作ることはできる。そこに独善は不要だ。たとえそれが国王のものであろうとも。

 ソランはようやく口を開いた。

「反論されれば、あるいはされることがわかっていれば、人は自分の意見の正当性について考えるようになる。トレイユが御前会議に出席を許されていたころ、議論はとても活発だった。国王の意見に盾突くことも怖れない彼のおかげで、無駄な増税や徴兵が何度阻止されたかわからない。熟考を重ねたという大臣や官吏の言葉を鵜呑みにしないトレイユは、彼らにとって煙たかったかもしれないが、よい重石にもなっていた」

 平和を重んじるという国の方針を、トレイユは一度も否定したことはなかった、とソランは云う。

「軍の縮小については、致し方ないことと心得てもいたようだ。だが、あまり急激にことを進めないでほしい、というのが彼の意見だった。軍の内部に渦巻いていた、王家や王府に対する反感や不信を少しでも抑えたかったのだと思う」

 つまりトレイユは憎まれ役を買ってでたということか、とモルガーヌは考えた。国の政策をよりよきものとするためにあえて反対意見を述べ、騎士や兵士らの不満を抑えるために御前会議で進言をした。だが悲しいかな、トレイユには味方がいなかった。彼は孤軍奮闘し、そして――、敗れたのだ。

「トレイユの想いは誰にも伝わらなかったのかもしれない。彼が最も信頼していた国王でさえも、彼の想いには気づかなかった。トレイユは司令官の職を解かれ、守護将軍として北の要塞へと赴任した。あとのことは、おまえも知るとおりだ」

 ソランは卓の上に置いた手を組み合わせ、モルガーヌを見つめた。これは、あるいは希望的観測なのかもしれないが、と彼は前置きをした。

「トレイユは、あのころとなにも変わっていないのではないかと私は思う。おそろしく損な役回りだとわかっていて、気むずかしい軍人を演じていたあのころと、な」

 死期を悟った彼は、最後の忠誠を尽くすべく王都へ向かって進んでいるのかもしれない、とソランは云った。国王に見え、彼に最後の言葉を捧げるべく歩んでいるのかもしれない、と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る