40
どうにかこうにか気を落ち着けたモルガーヌがソランのところへ戻ったとき、なんとそこにはもうひとり新たな監察官が合流していた。
「え、もうひとり?」
這いつくばったまま思わず声を上げたモルガーヌに、やたらに体格のよいその監察官は鼻の頭に皺を寄せて、なんです、こいつは? とソランに尋ねた。彼が携えてきたばかりの書状を開封しているところだったソランは、ああ、とおざなりに返事をした。
「新人だ」
あまりにもざっくりとした紹介を不快に思ったモルガーヌは慌てて立ち上がり、掌についた土を払いながら、モルガーヌ・カスタニエです、と自ら名乗った。ソランの隣に立っていた監察官は、ふうん、そう、と興味なさそうに頷いただけだった。
「そんなことよりもジュヴェ。なぜおまえが自らやってきた。留守居役を命じておいたはずだが」
彼がジュヴェか、とモルガーヌは思わず目を剥いた。監察府長官の優秀なる秘書官、またの名をソランの猟犬。いついかなるときも主の命令を絶対とする忠実なる部下、セレスタン・ジュヴェ。
ああ、ここにも犬がいる、王城はどこもかしこも犬だらけだ、とモルガーヌは思い、しかしこのジュヴェもトレイユもずいぶんとおっかない犬だこと、と少しばかり可笑しくなった。かつては私もデジレさまの犬と呼ばれていたけれど、彼らに比べれば私なんかよちよち歩きをはじめたばかりの子犬みたいなものだわ。
「私だってたまには外に出たい。そういったところで勘弁してもらえませんかね」
明らかに本心を濁すジュヴェの云い訳に、ソランは唇の片端を吊り上げてみせた。留守居役を放り出してでも駆けつけたがったジュヴェに、持ってきた情報の重みにたいしたことがなければ容赦はしないぞ、とその目が云っている。
しばしののち、ソランはふたたび書状に目を落とした。
「それで、カスタニエ。あちらの様子はどうだったのだ?」
不意に問いかけられたモルガーヌは、はい、と返事をしながら上司へと視線を向けた。だが、ソランの目は忙しなく文字を追っている。
しばらく待ってみたものの、ソランは顔を上げる気配がない。モルガーヌは仕方なくもう一度、はい、と重ねたあと、トレイユは心の臓を患っています、と云った。
「なに?」
書簡から目を上げたソランがまっすぐに見据えてくるのを、モルガーヌは正面から受け止めて、間違いありません、と付け加えた。
「しかも、相当重く」
「間違いないのか」
「珍しくはありませんが、完治はむずかしいと云われている病です」
ソランは薄灰色の双眸を眇めることで、モルガーヌに続きを促した。
「日ごろは丸薬を服用し、安静にしていることで悪化を抑えることができますが、疲労や心理的衝撃によって激しい発作を起こすことがある厄介な病です。落ち着いた静かな環境で穏やかに過ごすことができれば、すぐに命にかかわるようなことは少ないでしょうが、こうした旅路ではなにがあるかわかりません」
「おまえ、なぜ……」
「母が同じ病を患っています」
モルガーヌの母エルミーヌは、モルガーヌがまだ幼いころにトレイユと同じ病を発症した。多くの子を産むほどに健康であったはずの母が、見る見るうちに痩せていき、顔色も悪くなっていったことを、モルガーヌは幼いながらにしっかりと記憶している。当時の父は領主として多忙をきわめていたが、賑やかな街に住まうことが母の身体の負担になるのでは、と案じ、領地の奥に隠棲することを決めたため、領府は一時期大混乱に陥った。
「トレイユが服用するのであろう煎薬の臭いは、実家にいたころによく嗅いでいたものと同じでした」
ソランとジュヴェ、それにもうひとりの監察官はモルガーヌの報告に頬を強張らせ、身じろぎもしない。
「母は発症してからの手当がよかったために、いまもつつがなく暮らしています。ですが、トレイユは違う。日常的に激務をこなし、健康な者にも厳しい旅の途上、さらにはあの老齢です。彼の命はいつどうなってもおかしくない。そう考えたほうがよいと思います」
「長官」
ソランよりも先に口を開いたのは秘書官のジュヴェだった。
「使えますよ、これは」
ああ、とソランが頷いた。モルガーヌの眉間に深い皺が刻まれる。使える、とはどういう意味だ。
モルガーヌの困惑をよそに、ソランはジュヴェともうひとりの監察官に向かって、急ぎ城に戻れ、と言葉少なに命令を下した。
「戻ったらすぐに手筈を調え、云ったとおりにしろ。失敗は許さん」
はい、とふたりは声を揃えて腰を折る。
「行け」
ソランの声を合図に、ふたりはそれぞれ馬の背に跨り、あっというまにその場から駆け去っていった。モルガーヌに事態を理解する暇などありはしなかった。
突如として静かになった林の中に、モルガーヌとソランは向かいあって立っている。
「長官……」
なにがどうなっているのか、説明していただけますか、とモルガーヌは努めて混乱を抑えようとしながらそう云った。
いいだろう、とソランは答え、灌木の茂みの中、少しばかり拓けたところへ腰を下ろした。おまえも座れ、と彼は自身の隣を示し、珍しく小さなため息をついた。
「この職に就いてもう長いが、いまだにこうした感覚には慣れないものだ」
「こうした感覚?」
「事態がいっぺんに動き出すときの感覚だ」
モルガーヌは目を瞠った。秘書官であるジュヴェ自らが駆けつけてくるとは、なにかよほどの事態が起こったのだろうとは思ったが、ソランにこうまで云わせるとは――。
「ジュヴェの知らせは興味深いものだった。城に拘留しているリオネル・クザンの周辺に怪しい動きがあるというのだ」
「周辺、ですか?」
「クザン本人は相変わらず黙して語らん。自身の出身地すら云おうとしないのだと云うから立派なものだ。過去を少しばかり洗ってみたところ、どうやら拷問を受けた経験があるようだからな、思ったより手強いかもしれん」
では、動きというと、とモルガーヌは首を傾げた。
「かつての仲間が接触を図ろうとしているようなのだ」
「仲間……」
そうだ、とソランは頷いた。
「王太子軍の手を逃れたと云われているユベール・シャニョンとその一味だ」
「な、なぜ、そんなことが……!」
驚くモルガーヌをじっと見据えていたソランは、そこで思いもかけない名前を口にした。
「ギャエル・ジアン。この名前には聞き覚えがあるだろう、カスタニエ」
「ギャ、ギャエル・ジアン……」
とうに記憶に埋もれた名前とその素性を引きずり出すのに、モルガーヌは少しばかりの時間を必要とした。
「あ、あのろくでなし!」
そして思い出した瞬間に思わず口を衝いた言葉が、上司の苦笑を誘ってしまった。
「そう、そのろくでなしのギャエル・ジアンだ」
クロエを誑かしたひよっこ騎士。騎士団に身を置き、国の禄を食む身でありながら、叛乱勢力に加担していたという裏切者。
「あの男が、どうかしたのですか」
モルガーヌは慎重に問い返した。迂闊なことを云えばクロエの身に危険が及ぶ――。
クロエが職務放棄をした理由について、モルガーヌはデジレにすべてを報告しているわけではなかった。クロエがジアンと行動をともにした理由を、ついてこなければ身を害すると脅されたからだ、と云ってあるのだ。
まさかクロエが、ほんの刹那のこととはいえ、ジアンの考えに同調したなどということがデジレに知られれば、彼女はただでは済まされない。すぐさま身柄を拘束され、よくて解雇、悪ければ重たい処罰を受けることになる。
ほんの一時の気の迷い――それも、その一因にモルガーヌ自身の行動があるとなればなおさら――のせいで、クロエをひどい目に遭わせるわけにはいかない。
「でも、ジアンは……」
ギャエル・ジアンが叛乱勢力の一員であることは、デジレにもソランにも報告してある。モルガーヌが隠匿しているのは、クロエに関する事実だけだ。
「そう、叛乱勢力の一員だ。おまえの記憶のとおりな」
「ジアンがどうかしたのですか」
「ギャエル・ジアンは元の部署、つまり西部守備隊将軍の配下に復隊した」
え、とモルガーヌは言葉を失う。
「まさか! なぜ、どうやって……」
驚きのあまりに目を瞬かせる部下に、ソランはにやりと人の悪い笑みを見せつけた。
「おまえの報告を受けたあと、私が騎士団に依頼しておいたのだ。もしもギャエル・ジアンが復隊を願い出てきたら、四の五の云わずに受け入れて欲しい、すべての責任は私が持つ、と」
半分は賭けのようなものだったが、私は負けなかった、とソランは笑う。
「読みどおりジアンは復隊を志願し、城に戻った」
「なぜ、彼が復隊を申し出ると思われたのですか」
おまえにはわからなかったのか、カスタニエ、とソランは云った。
「私よりもおまえのほうが、あの男のことをよく知っていると思ったのだがな」
いえ、とモルガーヌは思わず俯いた。
「……申し訳ありません」
まあいい、とソランは云って、ジアンのことを思い出してみろ、と続けた。
「やつがおまえのもとから離脱するときに連れて行ったのは、ものの役にも立たぬ下級侍女ひとり。せめて騎士仲間のひとりでも連れていけば仲間にも恰好がついたものを、やつはそうはしなかった。なぜかわかるか」
クロエを悪く云われたことに腹を立てかけたモルガーヌだったが、ソランの問いに意気を挫かれる。なぜ、とは――。
「私もバローどのも、ジアンを相手にしなかったからでしょうか?」
そういうことだ、とソランは鼻先で笑った。
「ジアンはそういうつまらない男なのだ。自分よりも強い者には阿り、弱い者には威張り散らす。自分の頭で考えずに行動するから、行き詰って自棄を起こす。だが、無駄に矜持だけは高いから、己の負けを認められない」
そういう男が、いったん投げ出した職務にもう一度戻りたいと思うものだろうか、とソランは云う。
「百歩譲って、もしそう思ったとして、恥を忍んで復隊など志願するものだろうか。自身の裏切りを知っている相手に頭を下げて、もう一度雇ってほしいなどと、そんな真似をすると思うか。どう思う、カスタニエ」
「まず、ありえないかと」
そうだ、とソランは頷いた。
「私もそう思った。だから、もしも、万が一にもジアンが復隊を志願してきたら、それはやつ自身の意志ではないに違いない、と考えた」
他者の思考の先を読み、容赦なく追い詰めていくソランの冷徹さに、モルガーヌは思わず息を詰めた。
「では、誰の意志か。ジアンのように実力が伴わないくせに矜持ばかり高い男は、しかし、誰かに依存するとなると徹底して依存する。やつがいまもっとも心酔する相手、そいつがジアンになにかを云えば、やつはなにも考えずに従うはずだ」
「まさか……」
正解だ、とばかりにソランは笑ってみせた。獣が追いつめた獲物の喉笛に食らいつくとき、もしも笑みを見せるとすれば、それはきっとこんなふうなのだろう、とモルガーヌは思った。
「いまのジアンを操れるのはユベール・シャニョンしかいない。やつの行動の裏には、必ずシャニョンがいるはずだ」
「では、仲間からの接触というのは……」
ああ、とソランは頷いた。
「数日前、ジュヴェが、監察官と特別に認められた者以外の者の立入が禁じられている区域で、ジアンの身柄を拘束した。ジアンの云い訳に不審なものを感じたジュヴェは、いったんやつを解放して泳がせ、どこの誰と繋がっているかを調べることにした。ジュヴェの読みは当たっていた。ジアンは、ユベール・シャニョンの指示を受けてクザンの居所を探っていた。その日のうちにシャニョンに宛てて送られた書状には、ずいぶんと誇らしげな文句が書き連ねてあったそうだよ」
くくく、とソランはさも可笑しそうに喉の奥で笑った。モルガーヌは笑うどころではない。ソランにしろジュヴェにしろ、監察官という立場にある者たちの悪辣さに、胸が悪くなりそうな思いがした。
「この事実を掴んだとき、ジュヴェはクザンを落とせると、そう思ったそうだ。私も同じことを思った。なぜかわかるか」
「リオネル・クザンは仲間の、いえ、ユベール・シャニョンのために沈黙を守っている、から、ですか」
よくできた、と云わんばかりにソランが大きく頷いた。わかりたくもなかった正解に、モルガーヌの胸の底が昏く澱む。私もまた、彼らと同類だと、そういうことなのだろうか――。
「そして、おまえがさっき掴んだトレイユの先が長いものではないという事実。このふたつで揺さぶりをかければ、クザンは完璧に落ちる。事態は動くぞ、一気にな」
モルガーヌは今度こそ大きく目を見開いたまま絶句した。座り込んでいる林の中の温度が急激に下がったような心地がする。くらり、と視界が揺らいで、身体の横についた手で傾ぐ身体を慌てて支えた。
モルガーヌはクザンという男を知らない。トレイユのことも深く知っているわけではない。けれど、それでも彼女はクザンの仲間を想う心を、トレイユの命を、自身の務めのためだからといって平然と利用することはできない。
ソランのように、ジュヴェのように、冷酷にはなりきれない――。
「怖いか、カスタニエ」
なにが、とはソランは尋ねなかった。モルガーヌは頷きもせず、しかし首を横に振りもせず、頑なに俯き続ける。
「だが、これが、監察官の仕事だ」
ソランの声はあたたかかった。それが、よけいに堪えた。モルガーヌは奥歯を食いしばって震えをこらえようとする。
「ジュヴェは王城に戻り、すぐにクザンの尋問を再開する。クザンがトレイユとの関係に言及すれば、その場ですぐにトレイユ捕縛に必要な令状が発行されるよう手配しておいた。早ければ次の定時連絡で令状が届くだろう。そうなれば、なにを待つことなく、トレイユを逮捕する。わかったな、カスタニエ」
はい、と応じる自分の声がやけに遠くに聞こえたような気がして、モルガーヌは思わず耳を覆った。不規則な鼓動が喉のすぐそこまでせり上がってきているような気がする。
怖い、とモルガーヌはそのときはじめて、ごく端的にそう思った。監察官というのは、とても怖い仕事だ。
どんな仕事にも、他人に見せたくない、あるいは見せられない暗部はあるものだ、とモルガーヌは思う。侍女であったときもそうだった。
仕える主と対立する者の不幸や不運を喜んだことがないと云えば、それは嘘だ。主にとって有利になるよう振る舞うだけでなく、相手に不利が生じるように行動することもあった。故意をもって誰かを陥れることは、決して楽しい仕事ではなかったが、主のためならば仕方がないと割り切ってきた。
けれど、誰かに降りかかった不運をひそかに喜ぶことはあっても、誰かに不幸が忍び寄ることをひそかに祈ることはあっても、それらをあからさまに利用するような真似はしたことがなかった。
たとえば、誰かの病を取引の材料のひとつに使うなど――。
たとえば、誰かの心を切り裂いてそこから必要な言葉を取り出そうなど――。
怖い、とモルガーヌは思う。
そうしたことがあたりまえにできてしまう監察官という存在を。そしてなにより、自身もまたそうした存在のひとりであることを。
ヴァレリーに命じられ、侍女を辞する決意したときのモルガーヌは、監察官という職を正しく理解していたとは云い難い。
王府に仕える官吏、広い意味で国王を補佐する者。強い権限を持ち、貴族や王城で働く者たちの不正を取り締まる正義の番人。
そうした上辺だけの理解で、己にも務まるはずだと――傲慢な思い上がりではなく、真摯な決意として――、そう考えただけなのだ。
モルガーヌにはまるでわかっていなかった。
監察官が守るべき正義と、彼女個人が守りたいと思う正義とが必ずしも一致しているとは限らない。監察官が選択すべき手段と、彼女個人の良心とは必ずしも同じであるとは限らない。
監察官としての正義に殉ずることは、モルガーヌ・カスタニエの正義を殺すことであり、監察官として正しい選択をすることは、モルガーヌ・カスタニエの手を汚すことである。
監察官の誰もがそうした現実と向きあい、苦しみ、克服してそこにある――清廉と高潔の証である黒を纏って――ことを、彼女はまるで理解していなかったのだ。
モルガーヌの心に、あらゆる恐怖が大波のように押し寄せてくる。
己の手と心を汚さなければならないことへの嫌悪。
己の正義を曲げなくてはならないことへの悔しさ。
すべてを飲み込み、腹に納め、なおも毅然としていなければならないことへの重圧。
それはつまり――、己が変わってしまうこと、変えなくてはならないことへの怯え。
まさかこんなときがくるとは思わなかった。職業としての正義と、個人としての正義とが相容れないことがあると、知るときがくるとは――。
私はとても幸せだったのだ、とモルガーヌは思った。家族に愛され、大切に育てられ、仕事にも恵まれていた。思いどおりにならぬことなど、ひとつもなかった。口うるさい両親も兄姉も、みながモルガーヌを深く愛し、気むずかしい上司でさえ、彼女のことを大切にしてくれていた。
傷つかぬように。心を痛めぬように。曲がってしまうことのないように。
私はそのことに少しも気づいていなかった。いまの自分があることを、誰かのおかげだと考えたことなど、一度もなかった。恵まれた暮らしや豊かな教育や厳しくもあたたかな指導を受けること、行動や言葉を信頼してもらえることに感謝したことなど、ただの一度もなかった。
すべては己が努力して手に入れたものだと、そう思っていたのだ。
違うのだ。そうではなかったのだ。
私が常に正義でいられたのは、守られていたからだ。私の思う正義に、誰かが――父さまと母さまが、兄さまがたと姉さまがたが、デジレさまが、クロエが――合わせてくれていたからなのだ。
なんと、愚かな――。
そうか、とモルガーヌは気づく。おそろしいのは監察官という職業ではない。自分だ。ぬくぬくと守られ、愚かで、自分の愚かさにさえ気づかぬほど愚かな、自分自身だ。
考えてみれば当然のことではないか。
悪を犯した者を捕え、調べ、裁くのが監察官の職務であるとして、しかし、その悪とはあくまでも国――否、国王――から見た悪である。
だが、その悪は誰にとっても等しく悪であるかといえば、そうではない。
叛乱を起こそうと立ち上がった若者たちが己こそが正しいと信ずるように、独自の忠誠を貫こうとするトレイユが己のやり方を枉げぬように、正義とは決してひとつではない。
同じなのだ、とモルガーヌは思った。彼らとわたしたちとが折り合わぬように、わたしの思う正義と、監察官が掲げる正義とがひとつであるはずがないのだ。
頭を抱え、蹲るように身体を丸めていたモルガーヌは、少しずつ顔を上げた。
林の中は静かだった。
枝々の隙間から仰ぐ空は眩しかった。
目に映る世界はなにも変わっていない。
おそろしいことは、なにもない。――愚かであるよりほかには、なにも。
そう、正義とはひとつではないのだ、とモルガーヌは片方の手で長套の胸元をきつく握りしめた。ならば、と彼女は思った。
ならば、私が抱くことのできる正義も、ひとつきりであるはずがない。
いまなすべきは、監察官としての任務――、トレイユの捕縛。
そのために必要なことであるならば、誰の不運も、誰の不幸も、すべて利用し尽くしてみせる。
けれど、絶対に忘れない。
誰かの不運を、誰かの不幸を、そうやって踏み躙ることは決して許されることではないと、私はそう考えている、ということを絶対に忘れない。
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