第百十一節 戻れない過去にサヨナラ
「他愛ないものですね」
第四階層の闇が晴れる。その中を進んでいたエダは、足元に倒れていたエイリークを静かに見下ろしていた。彼女の手には、ある球体が収められている。
球体の中では、エイリークが己の師らしき人物と、楽しそうに食事をしている風景が映っている。
これがエダの技の一つ。
対象の意識を眠らせ、甘い夢の中に閉じ込める精神操作の一種の術。対象はそれが夢だということを、徐々に忘れていく。やがて肉体は朽ち果てても、魂は未来永劫出口のない幸せな夢の中。気付いた時にはすべてが手遅れという、厄介な技なのだ。
「これで、ルヴェル様の障害が一つ消える。さようなら、愚かなバルドル族」
エダが手刀を構え、エイリークに振り下ろす直前。
彼からごう、と風が吹き、彼女は吹き飛ばされる。何事かと前を見据えた。
意識を失っていたはずのエイリークが、ゆらりと立ち上がる。大剣を握って、一度俯く。やがて彼は、ゆっくりと顔を上げた。その目に宿っていたのは、深みに嵌りそうなほどの狂気。
もう一人のエイリーク──裏人格であり戦闘を好む人格が、そこにいた。
そんなエイリークを見て、初めてエダに緊張が走った。狼狽えた様子を隠せず、彼の変化を信じられないと窺っている。その頬に、汗が一筋流れた。
「な……」
「ありがとよクソ女。テメェのお陰で、ようやく表に出てこれたぜ」
「そんな……魂は確かに夢の牢獄に幽閉したはず。貴方は、誰ですか」
「ぁあ?俺様もエイリーク・フランメに決まってんだろ!まぁ、さっきまで出ていた甘ちゃんエイリークとは違う人格っていやぁ、わかるかぁ?」
ケラケラ、と裏人格だと告げてきたエイリークは笑う。彼から言葉を聞いても、エダはありえないと呟く。
「テメェも女神の
"双極種族"とは、バルドル族の別の呼び名のことだ。彼らには強靭な力を持つ凶悪な人格と、そんな凶暴な性格とは全く正反対の心優しい性格の、二つの人格を生まれながらに持っている。
通常のバルドル族は、朗らかな性格を邪魔なものとして考え、そちらを封じ込めている人物が多い。しかし稀にインヒビジョンという、性格を抑制する薬を常用し、人間の真似事をするバルドル族もいる。
先程まで戦っていたエイリークを見る限り、彼は恐らく後者のタイプのバルドル族だったのだろう。しかし心優しい性格の人格は、その理性があるがゆえにバルドル族の力を存分に使えないのだ。でも──。
「そんなの、ありえません!」
「物分かり悪いなテメェ!こうして俺様がいる時点で、間違いなんざ一つもねぇんだよ!」
「いいえ、いいえ!貴方は、誰ですか。本当にバルドル族なのですか!?」
「喧嘩売ってんのかクソ女ァ!!」
「ありえません!バルドル族が双極種族だなんて事実は、存在しないのですから!!」
「あーウッゼェな!もういい面倒だ。直接テメェの身体に刻んでやっからよぉ!!」
吠えるや否や、裏人格のエイリークはエダへと向かってきた。
******
夢の中、翌日。
今日は天気がいい。空は青々としていて、村を吹き抜ける風はこんなにも、心地良い。ああ、平和だな。そう感じているのに、何かが足りないような、欠けているような気持ちになっているのは、何故だろう。
「エイリーク、今日は炭焼きの仕事だっただろう!」
庭に出て日光浴していた自分に、マイアが声をかけてきた。その声に我に返ったエイリークは返事をして、そういえばと尋ねる。
「師匠、今日って何日だったっけ?」
「ん?今日は6の月12の日だよ」
それがどうかしたかと尋ねられる。
6の月12の日。その日付に何か引っかかるようなものがあるような気がしたが、特段気にする必要もないかと軽く頭をふるう。炭焼きに必要な道具を持って、仕事場に向かう準備を整えた。出ていく前に、マイアが作ってくれた昼食も忘れずに。
「いや、なんでもない。それじゃ、炭焼き小屋行ってきます」
「ああ、気を付けて行っておいで」
彼女の言葉を背中に受けながら、エイリークは村から少し離れた炭焼き小屋へと向かっていく。村の中を歩いていると、村人たちが元気そうに声をかけてくる。
炭焼きか、頑張れよ、帰りに寄りに来なよ、等々。彼らの言葉に笑顔で返す。本当に平和そのものだ。世は全て事もなし。
炭焼き小屋に到着したエイリークは、早速作業に移った。今日は原木を切り出して窯の大きさに整え、それらを窯の中に詰めていく作業だ。
力仕事は得意だ。次から次へと斧で原木を割っていく。薪を窯の大きさに合わせて切りそろえる作業に夢中になって、気付けばお昼の時間が過ぎていた。
腹の虫が鳴いた音でようやく、空腹に気付く。ここいらで昼食にしよう。マイアの握ってくれた握り飯が美味しい。
でも、こんなに美味しいのに。こんなに平和なのに。
これが何処か空虚に感じるのは、何故なんだろう。
じっと見つめれば太陽の光に反射したそれが、チカチカとエイリークの目を刺激する。一段と強い光が差し込んで思わず目を閉じると、脳裏にある光景が濁流のように押し寄せた。
茶髪の青年に、黒い女性。黄緑色の青年と、それから。
白い花のように綺麗な、傍にいるだけで、とても穏やかな気持ちになる青年の姿。
出会い、戦い、別れて、再会して。
希望を抱いて絶望を知って、願いを抱いて約束を交わして。
「あ……」
感情が、記憶が、一緒くたになって混ざり合う。
それは夢なんかじゃなかった。
これは現実なんかじゃなかった。
夢であったら、どんなに良かっただろう。
現実でなければよかったと、どれほど思っただろう。
──そう、全部思い出した。
忘れられるはずもない。6の月12の日。自分の誕生日が一週間後に差し迫っていた、その日は。
己の今までが終わり、すべてが始まった炎の日だった。
自分のために、師が作ってくれた昼食を膝から落としてしまっても。エイリークはその場から駆け出さずにはいられなかった。
魔物たちに強襲され炎に包まれているであろう、村へと。
ああ、本当に。
この幸せな夢が、いつまでも続いていればよかったのに。
******
走って走って辿り着いたブルグ村。魔物たちは未だその中を闊歩し、逃げ惑う村人たちを襲っている。
エイリークはマイアの家へ急いだ。扉が壊れるほど強めの力で開けば、マイアが丁度そこから出ようとしていたのだろう。運良く彼女と鉢合わせる。
彼女は焦りながら、それでも自分の無事を確認すると安堵の息を漏らす。
「無事だったか!よかった……。ならばすぐ用意せい。村を守らねば!」
焦りを隠せない彼女に対して、エイリークは冷静に伝えた。
「……ごめん、師匠。それは、できない」
「な、何を言っておる!?この村で戦える人など、おらなんだぞ!?」
「でも俺、行かなくちゃならないんだ!どうしても今すぐ、戻らなきゃいけない場所があるんだ!だから……ごめんなさい。そこに行かせてほしい!」
「たわけ!この村を見捨てるつもりか!?」
「そうさ、見捨てるよ!見捨ててでも大切なものを見つけたんだ……!心から守りたいものが、できたんだ!」
強く言い返すエイリークに、マイアは押し黙った。炎は勢いを増している。
ごうごうと、村の外からは泣き声が聞こえてくる。助けてと悲鳴が届いてくる。
「……それが、お前の見つけた道か?」
「うん……」
「どうしても、ここから去ると言うのか?」
「……はい」
答えの後、数分の沈黙が流れる。やがてマイアは魔術を使い何かを取り出したようで、エイリークを呼んだ。
「エイリーク」
「なに、ししょ……うわっ!?」
顔を上げると同時に、自分に向って何かを放り投げたマイア。どうにかキャッチして見下ろせば、それは自分がいつも使っている大剣だった。強くあれ、欠けることなかれ、そして真っ直ぐとあれと願ったマイアの祈りが込められている、唯一無二のもの。
訝しそうにマイアを見れば、彼女は笑っていた。
「ちいと早いが、それはお前の誕生日プレゼントじゃ」
「え……?」
「ようやっと渡せたわい。これでせいせいするもんだ」
「師匠……?」
「……もう二度と、こんなところに帰ってくるんじゃないよ。それを持つということは、お前を一人前として認めた証拠だ。わかったらこんな辺鄙な村にいないで、何処にでも好きに行ってしまえ、この馬鹿弟子が」
笑って小言を言い放つマイアに、こみ上げそうになるものがある。ぐっとそれをしまいこんで、一礼する。最後に、言いたかった言葉を口にした。
「師匠……。今まで、ありがとうございましたっ……!」
それだけ告げると、エイリークはマイアの家を飛び出す。もう二度と振り返らないように、すべてを拭い去るように、一心不乱に駆ける。
目指す場所は村から少し離れた場所にある崖。そこから飛び上がり、天井に瞬く星の中で、異質に煌めく一点の星を穿つために。
ほんの少しの間だが、彼女と過ごした温かい日々を、思い出すことができた。口うるさいと思っていた小言の裏に隠された愛情を感じた。
なにより、あの時──己の師匠を失ったときに言葉にできなかった、伝えられなかったことを伝えることができた。
そのことがずっと苦しかった。ずっと後悔していた。ずっと情けなく思っていた。今でもそれは、変わりないかもしれない。
ぼろぼろと双眸から流れる感情と感謝。ぐい、と腕で顔を拭う。もう振り返らないと決めたんだ。だから泣くなエイリーク、と。
崖の先が見える。そこから駆け出しても落ちるとは思わない。大丈夫。
ぐ、と踏み込んでから、エイリークはそこから大きく跳躍した。
狙うは一点。大剣にマナを込める。炎が刃を包む。
この一撃に、すべてを込める。
ありがとうと、さよならを。
「
炎の攻撃は、狙っていた異質な星を完全に捉えた。
粉々に砕け散る星から、光が炸裂して。
エイリークは、その光に包まれた。
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