第八十五節  二度とその手を離さない

 耳に届いてきた声に、これは夢なのかと一瞬考えた。だってそんな、こんなにも都合良く彼が現れてくれるものかと。

 それでも、伸ばされたその手に届けと、レイも彼と同じように腕を伸ばす。


「ラント!!」


 届け、届いてくれ。

 もう二度と振り払わないから、離さないから。

 たとえ彼が夢だとしても、幻だったとしても。

 もう一度会えるのなら、自分はもう二度と。


 身体は重力に従い落ちていく。

 それでも彼に縋るように必死に腕を伸ばした先。


 確かにその手を握られる感覚を覚え、身体は降下を止めた。


「ッ、ぐ……!!」


 そのリアルな感覚に、意識がハッキリと覚醒する。自分は、助かったのだろうか。

 ゆっくりと上を見上げれば、レイの手をしっかり握りしめてこちらを見下ろしている、ラントの姿が網膜に焼き付いた。彼は苦悶の表情を浮かべながらも、握っているその手を離すまいと、力を込める。


 ……夢じゃ、ない。確かにそこにいるのは、自分が恋焦がれたその人だ。


「レイ!大丈夫か!?」

「ラント……!?どうして!?」

「お前を迎えに来たんだ!絶対に、ここから連れ帰るからな!」


 ラントの力強い声に、胸が切なく締め付けられる。再会したら彼に伝えたいこと、言わなければならないことが沢山あるというのに。どうにもそれらの言葉が口から出ない。なんでこんな、こんな時に来てくれて嬉しいと感じてしまうだなんて。

 しかしその気持ちを押し込めて、レイはラントに告げた。


「もういいラント!俺のことより、弟さんのことを大切にしたいんだろ?だからスパイしてたんだろ!?それなのに俺を迎えになんて、来るなよ!」


 口をついて出るのは、ラントを責めてしまうような言葉ばかりだ。本当はこんなこと、言うつもりではないのに。


「俺は女神の巫女ヴォルヴァで、世界を守らなきゃならなくて、でも俺のことを助けてくれる人はいないって、わかったんだ!もういいんだよ!俺のことなんて見捨てて、弟さんと今まで通り生きていけばいいだろ!?」


 だからこれ以上期待させないでほしい。希望を見せないでほしい。

 俯きながら言えば、ラントは叫ぶ。


「レイ、聞け!!」


 彼の叫びに、おずおずといった様子でレイはラントのことを見上げた。ラントに今一度しっかりと手を握られ、まるで言い聞かせるように言葉を並べた。


「確かに俺はお前のこと騙してた、裏切ってた!ずっと傷付けてきた!けど俺は、お前のことを諦めたくなんてない!!女神の巫女ヴォルヴァだとかツェルトのことだとか、そんなのは全部関係ない!俺はお前を、誰よりも守りたい!お前をもう泣かせたくない!!」

「ラント……」

「……ほんっと、虫のいい話ばかりだよな。でも俺は、お前のことが大好きだ。誰よりも、何からも、お前のこと守っていきたい。ずっと、そばにいるから」


 だから、とラントがレイの手を握る。


「俺はもう二度と、この手を離さない!!離してたまるかッ!!」


 彼の決意にも似た叫びに、心臓を鷲掴みにされるようだ。ラントの言葉が、今はすんなりと心に響く。

 彼は、それほどまでに自分のことを想ってくれているのか。都合のいい夢なんかじゃなく、確かな現実と思っていいのか。こんな状況なのに、ラントにこんなにも自分は、愛されていると感じても、いいのか。


「待ってろレイ、今すぐ引き上げて……ッつあ!?」


 彼の悲鳴に、レイは驚き顔を上げる。ラントの右隣で土煙が舞っている。何事かと反対側を見上げれば、ルヴェルがラントに攻撃した後であろう姿が見て取れた。

 ルヴェルは高笑いしながら攻撃を仕掛けようとしている。


「そうか、お前も私から去ってしまうのだなラント!ああ、残念でたまらないな!」


 笑いながら術を展開しようとするルヴェル。だが彼が攻撃を仕掛ける前に、コルテの銃撃がルヴェルを牽制する。それをものともせず、ルヴェルはラントの左隣へと攻撃を放ってきた。本人に直接攻撃するのではなく、その近くばかりを狙うとは。


「この!!」


 レイが空いていた手で杖を持ち、反撃しようとするが──。


「レイ・アルマ、忘れてもらっては困るな。キミは、私の玩具だということを」


 ルヴェルの宝玉が光を放つ。それを前に、レイは無力だった。女神の巫女ヴォルヴァの力が抜ける感覚に、レイの集中力は阻害されてしまう。ラントの手を握る力も、徐々に失いつつあった。


「っ、ラント!手を離せ!このままじゃお前まで落下に巻き込まれる!」

「冗談抜かせ、絶対に離さないっつったろ!諦めんじゃねぇ!!」

「けど、ッぅああ!!」

「ぐっ!!」


 ルヴェルの攻撃が、今度はレイとラントが互いに握った手を直撃する。どうすればいい、このままでは本当に二人揃って、命綱なしのバンジージャンプをする羽目になってしまう。それだけは駄目だ、どうにかして脱出しなければ。

 そう考えを巡らしている間も、コルテの銃撃とそれを躱しつつ攻撃を仕掛けていくルヴェルの動きは止まらない。ラントがいる場所も、いつ崩れてしまうかわからない。崩落してしまえば、ここまで来るための全ての行動が水の泡。

 窮地に追い込まれたレイの脳裏に、ふとある記憶が甦る。



 ──『まぁまぁ。万が一のために持ってて損はないでしょ?』



 コルテから手渡された、使い捨ての空間転移の陣の輝石。そうだ。あれを使えば、ここから脱出できるかもしれない。レイは杖を物質変化の術で懐にしまってから、軍服の胸ポケットにしまっていた赤い輝石を取り出す。


 これを、壊せさえすれば。

 ぐ、とそれを掴んでからに見せつけるように、レイは輝石を握った手を掲げた。


「コルテッ!!」


 レイの叫びに反応して、コルテがこちらを見下ろす。一度でもそう動けば、手にしている赤い輝石のことが見えるはずだ。説明しなくても、コルテならわかるだろう。そう賭けて。

 彼はレイの意図を理解してくれたのだろう、返事をした。


「いい判断です!わかりましたよ!!」

「させるか!!」


 ただし、レイの目的にルヴェルも気付いてしまったのだろう。強力な術で、ラントがいる場所を穿つ。

 ビキと一際大きな音を立てた直後。とうとう衝撃に耐えきれず、場が崩落してしまう。当然、そこにいたラントも崩落に巻き込まれ、連動してレイも落下していく。


「レイくん!!」


 コルテの声に、咄嗟に空間転移の陣の輝石を己の下へ投げる。

 銃声が一つ届き、背後の輝石に確実に当たる。パキン、と小さな悲鳴を上げた後に背面に展開する赤い光。

 ラントの手を握りしめる。やがて陣に迎え入れられたレイたちは、その場から離脱できたのであった。


 ******


 次に感じたのは背中への衝撃ではあったものの、思ったよりも受けた痛みは少ない。ふさ、としたその感覚に、どうやら砂浜のようなものの上に落下したのかと、呆然とそんなことを考えた。

 自分の上には覆いかぶさるように、ラントがレイの上に倒れていた。レイの右手は、しっかりとラントの左手に握られている。


 耳に届くさざ波の音。天上に広がる淡い青の空。


「……朝焼けの、空……?」


 ぽつりと呟く。


「いてて……どこだ、ここ。俺たち、脱出できたのか……?」


 もぞ、と自分の上に覆いかぶさっていたラントが身を起こす。

 ラントが、生きている。自分も、生きている……?

 脱出、できた?


「え、レイ?どうした!?悪い、どっか打ったか!?」


 慌てるようなラントの声にようやく、自分が泣いていたのかと気付く。ラントに身体を起こされ、心配そうにのぞき込む彼に、ふるふると首を横に振る。

 離されそうだった手を握り返し、縋るようにラントに言葉を漏らす。


「違う、違うんだラント。だって、俺……俺、ラントに、お前のこと、その」


 言葉がうまく紡げない。言いたいことがまとまらない。そんなレイをあやしてくれるかのように、ラントに優しく抱きしめられる。彼の腕に抱かれると、どうしようもなく切なくなって。でも暖かくて、安心できて。


「……本当にごめんな、レイ。今までずっと、お前のこと傷付けてて。二年前に出会って、お前が俺に失恋したって笑いながら言ったあの時から、ずっと迷ってた。お前のことこのまま騙してて、本当にいいのかって」


 ラントの懺悔を、レイは穏やかな気持ちで聞くことができていた。


「お前が泣いてるとどうしようもなく苦しかったし、どうにかしてやりたいって思ってたのに、俺はずっとお前を裏切り続けてた。弟のためだって言いながら、お前のこと何回も殺してた」

「うん……」

「でも、もうそんなのはやめる。さっきも言ったように、俺はお前が標的だったからだとか、女神の巫女ヴォルヴァだからだとか、同情からじゃなくて、お前自身のことが大好きだ。誰にも渡したくないくらいに大好きで、お前のことを、一番に愛してる」


 ラントの言葉に嘘偽りはないと、その時のレイは確信ができた。彼の本当の想いを聞いたレイも、ぽつりぽつりと、彼に尋ねる。


「本当に……?」

「本当だ」

「これ、夢渡りとかじゃ、ないよな……?」

「これは現実で、夢なんかじゃないぞ」

「……俺のこと、本当に好き……?」

「わからないなら、何度でも言ってやるよ。お前のことが、大好きだ」


 その言葉が身体に、心に、染み渡る。

 もう感情も涙も、抑えられなかった。


「俺、俺も……俺もラントのこと、大好きなんだ!大好きだから、お前に裏切られて騙されてって知ったとき苦しくて、突き放されたって思って。俺また、一人ぼっちになっちゃったって思ったら、怖かった!本当はすごく怖かった!」

「ああ……」

「本当に、そばにいてくれる?俺のこと一人にしないって、約束してくれる?」

「ああ、約束する。俺からは絶対に、お前のそばから離れない。お前がどこに行こうとしても、たとえ死のうとしても、この腕引っ張って連れ戻す。絶対にだ」


 ぎゅ、と一段強く抱きしめられて、レイは子供のように泣き叫ぶ。ラントの肩口に顔を埋めながら、わんわんと泣く。


「ラント、ごめんなさい!あの時ひどいこと言って、本当にごめんなさい!!」

「もういいんだ、レイ。俺の方こそ……本当に、ごめんな」

「俺も、俺も本当は、ラントのことが誰よりも大好きなんだ!でも恋とか愛とか、よくわからなくて!でも俺はラントと恋をしてみたい、愛し合ってみたい!」

「本当か?」

「こんな時に嘘なんて言うかよ、バカ!」


 半ば八つ当たりのように叫んで、強く抱きしめ返す。ラントから笑って礼を告られげ、頭を撫でられる。


「わかった、俺が悪かったから。もう泣くな、レイ」

「泣かせたの、お前だろッ……!」

「確かにな。……どうすれば、俺は許されるんだ?」


 ラントの問いかけに、こう答える。


「……キス、しろよ。ちゃんと、恋人同士みたいに」

「……わかった」


 ラントはレイを肩口から離し、彼を見る。レイもラントをゆっくりと見つめ、二人はやがて惹かれあうように唇を重ねた。

 ルヴェルにされた時とは違う、甘くて蕩けるような感覚。胸の奥が温かくなるようなキス。


 ラントがレイの唇を軽く啄み、それに応えてレイも同じく唇を軽く食む。小さく開いた口の中へ、ちろりと舌を入れてみて。驚いたようなラントの目を見つめ、反応を待つ。

 その目を緩ませ、レイの誘惑に応えるラント。手を取るようにレイの舌を絡め、軽く吸い上げた。


「ぁ……」


 もっと味わいたいと思えた接吻だが、ラントが離れる。レイの心情を表すかのように銀の糸が垂れた。どうしてやめるのかと拗ねてみれば、これ以上してしまうと抑えが利かなくなる、なんて言われた。


「……ちぇ、もっとしたかったのに」

「また今度でいいだろ?もうこれからは、ずっと一緒なんだから」


 な、とコツンと額を当てられる。そんなラントにレイは笑顔で返す。


「そうだな。もう、恋人同士なんだもんな」


 なんだか、久し振りに心から笑った気がする。握られたままの右手を見つめる。満たされる感覚に、それまで抱いていた不安が消えていくのを、確かに感じたのであった。

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