第九十節   湯けむりで一息(女湯編)

 宿屋に到着し今日はもう各々休息をとろうと話が落ち着く。グリムは後で一人で温泉にでも入ろうかと、着替えながら考えた。人のいない時間帯に、ゆっくりと。もともと群れることが嫌いな彼女は、一人で過ごす時間を好いていた。

 しかし同部屋になったアヤメが女将から聞いたんすけど、と温泉の貸し切りについて話した。だからなんだと適らったが、アヤメは一緒に行こうと言ってきかなかった。人間と慣れあうつもりはない、と釘を刺すも効果はなく。アヤメに腕を掴まれ、強引にも彼女のことを女湯まで引っ張ったのであった。


 そこまでされたグリムはこのアヤメという人間の女に対しては、自分の態度を今一度改めなければならないと反省した。今までは人間に対して冷たく当たれば、相手は自分がデックアールヴ族だということもあって、離れていくのが普通だった。


 デックアールヴ族たちはみな、邪悪で強い力が宿っている武器──魔術具──を使っている。神々へ贈り物として捧げる武具や武器に、そのような物を差し出すとは何たる冒涜か。そんな種族は生きていてはならん、存在していてはならん。

 大昔に人間たちから、そんな謂れのない罵倒を受け虐げられていた。その罵倒が言い伝えられていくうちに変化していき、今は人間を忌み嫌う種族、戦いをもたらす種族だというレッテルを張られてしまっている。


 本来デックアールヴ族はそのような種族ではないと、彼女はとある人物から教えてもらっていたが。それでも今や世界中に人間が蔓延っている世の中だ。わざわざ訂正するほどのものではあるまいし、ましてやそも攻撃を仕掛けてきたのは、人間たちの方からだ。そんな種族たちにどうして、自分が歩み寄らねばならないのか。


 グリム自身も幼い頃、人間に虐げられた過去がある。そんなことも相まって、彼女は人間を毛嫌いし、避けて生きてきた。仲間内であるレイやラント、出会った軍人たちとは仕方なしに付き合ってはいるものの。余計な関係を持つ必要はないと考え、行動してきた。アヤメに対してもそのように接している、はずなのだが。


「おおお、貸し切りだなんて贅沢っすね!?あ!見てくださいグリム!あれって滝湯っすよ!?テンション上がるぅー!」


 当のアヤメ本人はグリムの冷たい態度をものともせず、寧ろ冷たくすればするほど自分にかまってきていた。邪魔だとか煩いとか、こちら側がその行動が迷惑だと指摘しているのに、アヤメにとってはそんなことはなんのその、といった様子。

 ここまで自分に対して積極的に、パーソナルスペースにぐいぐいと入り込んできた人間はほかにいない。先日会話を交えたレイでさえ、ここまで強引に入ってくることはなかったというのに。


 アヤメの態度に頭を抱えはぁ、とため息を吐けば、それを目敏く見つけたアヤメがグリムの背に回る。


「あ、ため息吐くと幸せが逃げるって言うっすよ?こーんな贅沢させてもらえるのに、楽しまないなんて損っす!ほらほら温泉に入りましょーよ、ね?」


 そう言いながら、強引にも背中をぐいぐいと押される。彼女の細腕から、どうやってこんな力強さが出されるというのか。


「ッ!貴様、いい加減にしろ!」

「こんなところで突っ立ってるグリムが悪いんすよ?身体冷えちゃうっす!」

「貴様に言われんでも湯には入るわ馬鹿者!私に構うなこの、人間が!」

「いーやーでーすー!ウチはグリムと楽しみたいんですから、我儘言わないの!」

「貴様のとて十分に勝手であろうが!」

「ウチのはお願いです!グリムのそれとは違うんすからねー!?」


 ほらほら、とやはりここでも強引に彼女のペースで物事が進んでしまっている。どうしてこうなった、そう考えざるを得なかった。


「いい加減にしろ貴様!さもなくば殺す!」

「ああ、大丈夫っすよ?ウチ逃げ足に関しては誰よりも負けないっすから!それにウチもそれなりに強いから、簡単には殺されないっすもんね~」

「この……!」

「そんなことよりもほら、折角の温泉なんだから入りましょーよ!入らないなら、このまま背中押してダイブさせるっすよ?」


 そんなの嫌でしょ、と言われてしまうくらいには、グリムはアヤメに翻弄されているのであった。苛立ちを隠さずに舌打ちして、仕方なしに彼女は湯に浸かった。こんなことでは、取れる疲れも取れないというものだ。アヤメも同じ湯に入り、ほうと息を吐く。しかも広さもそれなりにあるというのに、グリムの隣まで来てそこから動こうとしない。グリムのストレスゲージは溜まっていく一方だ。


「ああ~極楽っす~」

「黙れ人間」

「えーちょっとー、前はウチのこと"忍の"って呼んでくれてたじゃないっすか。あの呼び方の方がいいっす~」

「黙れと言っているのがわからんのか」

「それとも……もしかして、ウチのこと名前で呼んでくれるとか!?そんな淡い期待をしちゃってもいいんすかね?ね!?」

「チッ、いい加減黙らんか忍の」

「むぅ……名前呼びされなかった……」


 しょぼーん、と。あまりショックを感じていないように見える、安い三文芝居。空を見上げれば、きれいな橙色の空が天上を覆っている。白夜が多い大陸であるからこその光景だ。時間帯的には夜なのだが。


「あ、そうだ!ねねね、聞きたいことがあるんすけど」

「貴様と話すことなぞないわ」

「ダメっす話してもらうっす!ほら、例の辻斬りの犯人かもしれない人って、グリムの知り合いなんすよね?どんな人か教えてほしいっす!」

「何故貴様に言わねばならん」

「ウチの個人的な興味からっす!」


 その返答に軽蔑の眼差しを送れば、慌ててそれだけじゃないと告げる。


「あと、大事な情報になるかもしれないじゃないっすか!接し方をどうするかとか考えられるし、色々対策とかもろもろ、ね?」


 だからそんな目だけで殺そうとしないで、と懇願される。

 アヤメの言葉に、確かに容姿については仲間内全員が知るところとはなったが、どのような人物かは、彼女たちは知らないのだ。特段言う必要もないと感じていたから黙っていたが、このアヤメは興味津々、と目を輝かせている。さらに彼女にはグリムの脅しも効果は無効だ。もし答えなければ、彼女はきっと何度でもこの話を蒸し返すだろう。その度に周りをうろつかれては、たまったものではない。こちらが折れるしかなかった。


「チッ……」

「それは仕方ない、聞いてやるって意味の舌打ちっすね?」


 何故分かった。


「へへ~、あざまっす!んじゃあ、名前から知りたいなーなんて!」

「……名はキュシー。ファミリーネームは知らん」

「キュシーさん、かぁ。グリムよりも年上の人っすか?」

「ああ、私よりも6つばかり上だ。確か……今年で27になるか」

「ウチより年下なんすか!?」


 アヤメは一度グリムに背を向けると、若いってずるい、いいな、ともごもご独り言を呟き始める。話を聞きたいと言っていたのに、この行動は何だろうか。別に話さなくてもいいのなら、無駄話をする必要もないので楽なのだが。しかしアヤメはグリムの考えに反して、咳払い一つで独り言を終わらせ再びグリムを見た。


「どんな人なんすか?」


 アヤメの質問に、グリムはまず空を見上げた。自分にとってのキュシーとは、と思いを巡らす。彼女との出会いは、グリムが人間に虐げられ、世界保護施設に売り飛ばされそうになった時のことだった。


 グリムはその昔、人間と共に暮らしていた。笑い、遊んで、仲睦まじく暮らしていたその時だけが、グリムの中にある人間に対して明るい記憶だった。しかしある日突然、その温かい日々は終わりを告げた。

 それまで楽しく共に暮らしていたはずの人間たちからの、急な手のひら返し。自分は人間と違うから、粗暴な種族であるから、そして珍しいから。自分と共に暮らしていた人間たちは、大金と引き換えに彼女を世界保護施設に売り払おうとした。その時に助けてくれたのが、キュシーである。


「……あ奴は、私にとって育ての親であり、唯一の姉のような存在だ」


 彼女はグリムと同じデックアールヴ族の一人であり、グリムと出会うまでは一人旅をしていたと聞かされた。そんな中でグリムを見つけ、世界保護施設に売り払われて実験動物にされてしまう前にと、彼女を救った。

 その後は彼女の育ての親としてグリムを育ててきたが、今から6年前のある日。彼女は突然グリムに自身の武器の一つであった大鎌を渡して、目の前から失踪してしまったのだ。その理由を知るため、グリムは旅を始めてエイリークたちと出会い、今に至る。


「……私があ奴を追うのは、私を捨てた理由が知りたいからだ。何故、どのようなわけがあって私を捨てたのか。それさえ知れれば、私はそれでいい」


 そう言葉にしてから、グリムは我に返った。何故、こんなことを口走ってしまったのだろうか。少なくとも、アヤメに言うつもりは毛頭なかったというのに。温泉に浸かったことで、知らず知らずのうちに気が緩んでいたのか。迂闊だった。


 一人頭を抱えたグリムに対して、アヤメは何を言うでもなく答える。


「なるほど……教えてくれてありがとうございます!そんなことなら尚更、辻斬り犯をとっ捕まえなきゃっすね!」

「うるさい黙れ、今の話は忘れろ」

「言うつもりなかったんすか?」

「当然だ!誰がこんな話など……!」

「じゃあ、ウチはこの話のことは誰にも言わずに黙ってるっすね」


 その言葉に、グリムは横目で睨んで様子を窺う。


「知られたくないことを意図せず聞いちゃったんすから、ウチは知らないフリしときます。聞かれなかったら、ずっと秘密にしておくつもりだったんでしょ?」

「……」

「でも、ウチはそれが知れてよかった。これで共犯者になれて、グリムともっといろんな話ができるっすからね!」

「訳が分からんぞ」

「まぁいいじゃないっすか、別に秘密をバラそうって魂胆じゃないんすから。大人同士の約束っす!」

「は……?」


 聞き間違いだろうか。今この女は何と言ったのだろう。大人だと?

 怪訝な表情を隠しもせずにアヤメを見るグリム。その視線に何を感じたのか、アヤメは胸を張りながら宣言した。


「なんすか?ウチだって大人っすよ!?グリムよりも辻斬り犯よりも年上っす!」

「なに……?」

「ウチこれでも29っす!まだギリ20代っす!間違えても30代じゃないっすからそこんとこシクヨロっす!」

「……世も末だな」

「ひーどーいー!グリムがクールすぎるんすよ!世の中の20代後半がみんなクールかと思ったら大間違いなんすからねー!?」


 それに、とアヤメはまだ何かを言おうとする。彼女がいた方を見ても、目の前にアヤメはいない。どこに消えたのかと辺りを見回そうとして、あろうことか彼女に背後から胸を鷲掴みにされた。その感覚に、一瞬遅れて気が付く。


「ウチより年下なのにこんなにあるのがズルいんすよー!少しくらい分けてくれてもいいじゃないっすかー!」

「きっ……貴様何をする!?放せこの痴れ者が!!」

「うぇええん何を食べてどうして生きればこんなパイオツカイデーなチャンネーになれるんすかぁあ!?」

「いい加減にしないかこの!くっ、揉むなこのド阿呆!!」


 アヤメを振り払おうとするが、案外しぶとく抱き着かれている。密着されているうえに温泉の中ということもあり、うまく動けないでいた。その間もアヤメの手は止まらずに、むにむにと胸を揉まれ続けられる。


「わぁあん貧乳の恨みを思い知れっすー!こんな吸い付きのいいブツもってるグリムが悪いんすからねー!?」

「ふざけるなこの変態人間が!放せ今すぐ殺してやる!!」

「殺せるものなら殺してみろー!!でもまだ堪能してやるっすー!」


 先程までのクールさはどこへやら。貸し切りであることが幸いして他の客に自分たちの痴態が目撃されることはなかったが、災難な日である。その日はもうアヤメに何を話しかけられても、グリムは無視を決め込んだのであった。

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