第百十四節 もう見失わない
……沈んでいく。真上に見える光から、もうこんなに遠い。手を伸ばしても届かない光は、粒のように小さくなっていく。身体中に纏わりついていた淀んだ魂たちとやらは、レイがここに沈んでからは消えてしまった。
沼のいたる場所から、声が聞こえてくる。
「苦しいのはもう嫌だ」
「疲れることに疲れた」
「怖い思いはしたくない」
「痛い目に遭いたくない」
「もう休みたい」
「何も考えたくない」
ねっとりと木霊する声たち。ルヴェルはさっき、この沼は淀んだ魂たちと同じものだと言っていた。そうか、これは。堕落に落ちた魂たちの声なのか。
耳を貸しているわけではないが、沈んでいくとその声が自分の中へ入ってくる。声が染みついて離れなくて、先程まで湧いていた気力が削がれていく。
魂に身体の自由を奪われていない今なら、身動きをとることはできる。しかしもう、指一本すら動かそうという気が起きない。もう何もしたくないと、考える。
「なんで頑張らなきゃいけないんだ」
「なんで自分ばかりが大変な目に遭うんだ」
「なにもかも押し付けないで」
「いつもいつも頼りにしないで」
そんな声が自分の背後から聞こえる。気付けば誰かから抱きかかえられていた。振り返るのが面倒で、前に回ってきた腕を見れば、自分と同じユグドラシル教団騎士の軍服が見えた。それでもしかして、と思う。これは、自分自身ではないかと。
暗い声をした自分自身──もう一人のレイが話を続ける。
「誰もかれもが俺を女神の
「そんな人たちが大勢生きる世界、どうしてガキの俺が救わなきゃならないんだ」
「自分は高みの見物で、手を貸してくれるでもないのにさ」
「それで世界が救われた途端に、さすが女神の
「そんなの、もう懲り懲りだ」
「俺は俺の人生を生きるのに疲れたんだよ」
「だから、なぁ。もうこのまま、何もしないでいようよ」
「それが一番楽だし、責任負わなくていいんだから」
深く響いてくる自分自身の声に引っ張られていく。
違う、と反論する気さえ起きてこない。鼓膜で反響する言葉がひどく魅力的に思えてきて、思わず聞きこんでしまう。何もかも投げやりになりそうになる。
怒りが沸かない。
憎しみが消える。
希望が消える。
楽しみが遠ざかる。
歓喜が起きない。
愛が沈む。
苦痛が和らぐ。
遠くなっていく思考で考える。
やっぱり、無理だったのかなと。
自分はやっぱりどこまでも半人前で、弱いままで。誰かを救うこともできないで、仲間を巻き込むことしかできなくて。一人じゃ何にもできなくて、取り戻すなんて夢のまた夢でしかなくて。大切なものを守れない、こんなちっぽけな自分が。
世界を、仲間を、救うことなんて。
そんな大それたこと、できるわけがなかったんだ。
プツ、と何かが切れた音がする。しゅるりとそれは首の辺りから外れて、沼の上へ浮かんでいく。ゆっくりと見上げる。
(あ……お守り代わりの、ペンダント……)
いつの頃からかずっと身に着けていたペンダント。何をするときも一緒だった、お守り代わりの品。いつも一緒だった。何処へ行くにも、誰と一緒でも──。
『怖いなら怖いって言っていいんだよ、不安ならそれをぶつけてもいいんだよ。俺はレイと違うから、レイの言う役目を変わることはできないけど……。それでも、ちょっとでも恐怖心を一緒に持つことは出来るんだから』
誰かの声が、脳裏に響く。それはとても力強くて、炎のように暖かい声。
『では、今度は僕も手紙を書きますね』
別の誰かの声。甘い香りと、花のように綺麗で優しい声。
『責めているわけではない、自惚れるな』
次に聞こえてきたのは女の声。いつも厳しくて、でも研ぎ澄まされた凛とした声。
『……昔、ヤクから聞いたからな。お前がその巫女の力をどう使うかは、お前が決めることだ。でもな、俺だってあいつと同じ気持ちでいる』
また別の声。まるで自分の背中を見守ってくれているような、安心感のある声。
『……私はな、レイ。お前が捻くれることなく、お前のまま育ったことには評価している。ミズガルーズの路地裏で捨てられていたのにも関わらず、他人を憎むことなく育ってくれた』
男性の声。それはなんだかとても懐かしくて、安心感を覚えさせる声。
『……ほんっと、虫のいい話ばかりだよな。でも俺は、お前のことが大好きだ。誰よりも、何からも、お前のこと守っていきたい。ずっと、そばにいるから』
次に聞こえてきた声からは、とても、包まれているような気がした。
暖かくて、優しくて、自分を誰よりも愛すると言ってくれた、人。彼の名前は……。
「……ら……ん、と……」
そう、名前は確か、ラント。ある目的のために自分を裏切っていたけど、それ以上に自分のことを好きだと言ってくれた。何からも守ると言ってくれた。
自分にとって、最もかけがえのない存在。
「……っ!ラント!!」
我に返る。目に光が戻り、力が身体に戻ってくる。思考が戻ってくる。
しがみついていた自分自身を振り払い、お守りのペンダントに手を伸ばす。それを掴めば、今までの出来事が自分の中に戻ってくるような感覚がした。
そうだ、忘れちゃいけなかった。
自分が今まで頑張れたのは、自分を信じてくれる仲間がいたから。
自分がここまで来れたのは、自分を育ててくれた人たちがいてくれたから。
そんな自分が今、やりたいことは──。
一度閉じた目を開くと、レイは沼から這い上がろうと上へ上へ登ろうとする。足元から自分自身の声や、他の淀んだ魂たちの声が這い上がってくる。
「どうしてそんなに苦しみに行くの」
「なんでそんなに必死になろうとするの」
「その先には苦痛しかないのに」
「汚い世界があるだけなのに」
淀みきった声に負けないようにと、レイは声を張り上げる。
「知るか!!誰かのためにとかそんなの、関係ない!!誰のためでもじゃない、俺自身のためにここから出る!!」
そう、関係ないのだ。自分がここから出る理由、それは──。
「俺は、俺の大好きな人たちが生きている世界で!生きるんだ!!」
豆粒程度の大きさだった光が、ふわりと広がっていく。そこへ届くようにと、レイは必死に手を伸ばす。やがて包まれるようにして、その光に吸収されていくのであった。
******
現実世界、ルヴェルの城内謁見の間。
静寂だったはずの空間内に、突如として変化が現れる。今しがたレイが沈んだはずの場所から光が発し、床のタイルを割るかのように輝く。
目が潰れそうなほどの強烈な光が放出し、謁見の間全体に広がった。
地に足が立っている感覚が分かる。風が頬を撫でる感触が、そこが現実世界だということを知らしめてくる。どうやら自分は、あの底なし沼から脱出できたらしい。
確かに沼に沈んでいたレイ・アルマは、強い光をその双眸に宿し、その場に立っていた。
「なんだと……!?」
狼狽えるルヴェルをよそに、レイは再び杖の先端に光のマナを集束させて槍の穂先を作り出す。そのままルヴェルではなく、黄金のリンゴへ向かって駆け出した。
レイは、あることを考えたのだ。
ルヴェルが持つ「聖なる宝玉」は、複数個存在しているのではないかと。あの巨木にある光は、女神の
しかし力を吸収するだけで本当に彼が言う、女神の
まず一般論として。魔術を行使するにはマナを集束し、放出させる行為が必要になる。「集束」と「放出」という二段階の過程を重ねることで初めて、見えない力──空間上に漂うマナ──を物質化させることが出来る。この過程で生まれる結果こそが、ひとえに魔術と呼ばれるものだ。
そして現時点であ、これ以外の方法で力を「物質化させて結晶体にする」のは、事実上不可能である。
マナを他者から吸収するだけでは「放出」の段階を踏むことは出来ない。「放出」されないということは力がその場に溜まり続けるだけということであり、「物質化」に至ることが出来ないのだ。
集束と吸収。この二つの言葉の意味合いは大きく異なる。一点に力を集めることを集束と言い、外から内に取り入れて自分のものにすることを吸収と言う。
ルヴェルが、レイたちから奪い取った女神の
だからルヴェルは、考えたのだろう。巨木から女神の
あの「聖なる宝玉」は、中に対象となる人物に近しい触媒──体液や髪の毛など──を入れることで、その人物のマナに直接作用させられるパイプを、強制的に繋げる宝玉。
奪った力を最終的に「物質化」させるため、まず「聖なる宝玉」に、対象である女神の
巨木という一点に吸収したマナは、宝玉の効果によって「放出」されることで、マナの「物質化」が行われる。つまり結晶体にすることも可能になるということだ。
この可能性を信じて、レイはそれの破壊を思い付いた。もし核が黄金のリンゴの中になるのならば、それを破壊すれば奪われた力を取り戻せるのではないかと。
それに果実を育てるには、種が必要だ。
「
未だ動揺を隠せないでいたルヴェルに攻撃を仕掛ける。マナで編み出した、光り輝く複数の球体。まるで星々のようなそれらを、流れ星のように降り注がせた。一瞬でもいい、自分から注意が逸れるように。
ルヴェルの足元に着弾した光の球体が、炸裂しながら発光と爆発を繰り返す。それに包まれたルヴェルは、身動きが出来なかったようだ。
その一瞬を狙う。彼の横を通り過ぎると、玉座を蹴って。
黄金のリンゴへと、飛び向かった。
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