生い立ち(三)

 四郎と共に、高遠家中に家老を送り込んだ晴信であったが、高遠家を取り込むための策はそれだけに止まらなかった。晴信が目を付けたのは高遠家の家老、保科弾正忠正俊であった。高遠頼継の家老であるはずの保科弾正を、晴信は直接躑躅ヶ崎館に招致した。武田の御屋形様が、自分のような猪武者になんのご用件かと訝しみながらも出頭した保科弾正は、府第大広間にて驚きの目を瞠った。目の前の三宝に、甲斐黒川金山から産する碁石金がうずたかく積まれていたからであった。晴信はこの碁石金によって保科弾正を買収し、高遠に置く諜者とするつもりなのであろう。保科弾正は晴信の意図を過たず汲み取った。

 高遠頼継自身が武田に服属しているのであるから、広義には保科弾正も武田の家臣には違いなかったが、晴信から見れば陪臣であってその扱いには高遠頼継を経由するのが筋であった。その保科弾正を、晴信は陪臣ではなく直臣扱いしようというのである。このような関係が成立すると、保科弾正は武田家と高遠家の両方に仕えることになる。保科弾正の立場からすれば、いずれの命令に重きを置くか、考えるまでもない。こうやって直臣化されていった高遠諏方家の家臣は少なくなかった。なので武田が隆盛するのと反比例するように、高遠頼継の力は衰退していった。武田はこのようにして、併呑した信濃各氏の力を削いでいく政策をとったのである。

「兄者、武田の専横目に余る」

 そう言って不満を吐露したのは紀伊守頼継の舎弟高遠諏方民部であった。保科弾正が武田高遠両家に両属する立場になったことは、高遠諏方家に危機感を抱かせた。

 武田家は高遠を併呑しようとしている。

 四郎を養子に送り込んできたことも、その付家老を高遠に送り込んできたことも、そして今また保科弾正を武田高遠の両属としたことも、武田家による高遠諏方家取り込みのための策と民部には見えたのであろう。そして、それは事実であった。無論そのことに気付かぬ頼継ではない。頼継は高遠城において四郎と面謁した時のことを、その屈辱的な感情とと共にはっきりと覚えていた。

 面の前に大人しく座し、一応父子の礼をとる四郎。晴信から

「諏訪の血を引く子だ」

 と言われて養子に迎えたものではあるが、後嗣たる男児に恵まれなかった頼継が四郎を目の前に抱いた感慨を想像して欲しい。この子の母親は自らが晴信と共謀して滅ぼした諏方頼重の娘であり、父親はの武田晴信なのである。頼継は今や高遠諏方家の支配者となった甲斐武田家から、

「高遠諏方の名跡は武田と諏方惣領家の血を引く四郎に継がせる。心安く滅びるがよい」

 と、言外に宣告されたような心持ちになった。民部も同じであった。

(なんとかして高遠諏方家の名跡を遺さねばならん)

 兄弟にとっての、これが至上命題であった。兄弟は謀叛を画策した。兄弟には成算があった。このころの武田家は佐久或いは下伊那に一挙に領土を拡幅している時期に当たっていた。新たな支配者として君臨する武田に反発する勢力も一定数あることが容易に想像できる時節であった。相互に疑心暗鬼に陥り、連絡を取り合うことが出来なかった人々を動かそうと思えば、支配者武田の圧倒的な力を恐れず他家の叛旗翻すを恃みに自らが率先して武田に戦いを挑むより他に道はない。家名存続を賭けて、高遠紀伊守頼継はその道を選んだ。

 高遠兄弟は連日秘かに談合を繰り返して謀叛の策を練った。叛旗を翻したとして、一体幾人が落ち目になった自分達兄弟に合力するであろうか。二人は連夜角を突き合わせて談合した。この連日連夜の談合は

「高遠兄弟は何やら談合を繰り返している。謀叛の企てではないか」

 と噂話になった。武田に買収されていた高遠諏方家家老の保科弾正は、噂話の域を出ないこの話を、

「高遠紀伊守は連日連夜御舎弟民部殿の私邸に通い、人も近づけず何やら談合を繰り返しております」

 と晴信に注進した。高遠兄弟に謀叛の兆しありと聞いた晴信は開口一番

「証拠はあるか」

 と確認したがそういったものはなかった。

 晴信は保科弾正からの報告だけでは証拠とするに足りないと考えて旗本衆のうちから横目付をみつくろい高遠へと放った。しかし証拠となるべき文書や、謀叛の談合を実際に耳にしたという人証は得られなかった。晴信はそれでも高遠兄弟を府第に呼び出した。高遠頼継は躑躅ヶ崎館大広間において、武田の一族譜代重臣が彼を囲む中、晴信より

「府中に呼び出される心当たりはないか」

 と、腹の底に響くような低い声で頼継を問い詰められた。それは虚言を許さぬ、威厳に満ちた声であった。しかし頼継はしらを切り通して自供しなかった。次に取り調べを受けたのは高遠民部であった。民部も兄同様晴信に問い詰められた。頼継がひとつも顔色を変えることなくしらを切り通したことのと比べると、民部はその点人間が正直だったのであろう。みるみる顔色が青ざめて、額に大粒の脂汗が浮き出てきた。

「左様仰せであれば我等兄弟の談合、ある程度知れているものと思います。確かにそれがし、兄に謀叛の企てを打ち明けたことはございます」

「一度や二度ではあるまい」

「ここひと月あまりは連夜。しかし兄はがえんじませなんだ」

 民部は謀叛の企みは白状したが、兄紀伊守頼継はこれに同意しなかったこと、したがって自分と兄以外に謀叛の企てを知っている者などいないことを付け加えた。もとより確たる証拠をとって高遠兄弟を招致した晴信ではない。謀叛を白状した高遠民部に切腹を命じたが、兄頼継に対しては

「高遠民部の不逞の企てを知りながら注進せざるは許しがたいが、兄弟の情もあり理解できぬ心情ではない」

 として刑一等を減じる措置をとった。なおこのとき目付からは、御屋形様(晴信)の御諚と前置きして

「四郎養父ゆえに刑一等を減ずる」

 と付言された。頼継は自分の子にではなく、なんの思い入れもない他人の子供――憎き武田晴信と諏方頼重娘との間に生まれた子――に、命を救われる形になった。高遠紀伊守頼継はもはや二度と立ち上がることが出来なくなった。それは政治的に失脚したという暗喩でもあったし、屈辱のため胸塞がって病を得、本当に足腰が立たなくなった直喩でもあった。

 切腹を免れた頼継であったが、その最期の時は周囲が驚くほど早く来た。臨終の枕許で、死が頼継から明瞭な意識と視界を奪おうとしていた。呼吸も言葉もままならず、考えもまとまらない。意識は混濁と回復を繰り返し、しかも意識が飛んでいた時間の長短も頼継にはよく分からなかった。くたびれ果て疲れ果てて、自分の意識とは関係なく体が睡眠を欲しているのに似た感覚であった。

 短い意識混濁から目を覚ましたとき、頼継はその枕頭に礼儀正しく座する男児を見た。四郎であった。その姿を目にした頼継の脳裏に、これまでの苦闘の日々がありありと甦った。夢ともうつつともつかなかった先ほどまでとは、頭脳の明晰さが明らかに異なっていた。

 武田晴信と協働して諏方頼重を弑虐したこと。

 頼重を討ったあとの領土分割に不満を抱いて晴信に挑み、敢えなく敗れ去ったこと。

 このため、男児を持たない自分が四郎を養子として迎え入れることを唯々諾々と受け容れなければならなくなったこと。

 謀叛を企てたが、恐らく高遠家中の何者が通知して晴信の知るところとなり、弟民部が切腹の憂き目を見たこと。

 今や高遠諏方家は、紀伊守頼継を最後にその血脈が途絶えようとしていた。跡を襲うのは自分とは縁もゆかりもない、武田晴信と諏方頼重の血を引くこの男児なのだ。諏方惣領職奪回を目指して戦い続けた自分の生涯は、その全ての時間が無駄だった! 

 そのように思い至ると、頼継は無性に悔しくなった。悔しくて悔しくて、目の前にちょこんと座る男児を一刀のもとに斬り捨てたい衝動に駆られた。頼継は左手を伸ばした。四郎の襟首を引っ摑んで抱き寄せ、脇差にて刺し貫こうと考えたためであった。だが頼継には七歳の男児を組み敷く力も既に残されてはいなかったし、その右手に脇差が握られているということもなかった。四郎に向かって血走った目を見開きながら左手を差しのばす頼継の姿は、傍目には嗣子に後事を託す姿にでも見えたかもしれなかった。四郎はしかし、鬼気迫る頼継の最期の姿に、座しながら思わず後ずさった。頼継と四郎の間に信頼関係など微塵もないことを知っていた四郎の付家老安部五郎左衛門が、頼継と四郎の間に割って入った。五郎左衛門に阻まれた頼継の左手は虚しく中空を掻き、そしてぱたりと落ちた。

 時に天文二十一年(一五五二)八月、高遠紀伊守頼継は高遠諏方家の血脈を遺すことなく無念のうちにこの世を去ったのであった。惣領諏方頼重の横死からちょうど十年後のことであった。

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