手取川の戦い(二)

「七尾城に赴いても詮ない」

 勝家は茫然自失そう呟くと、一瞬の虚脱状態の後、全軍に退却を下令した。折から川が増水していたころのことである。火縄や弾薬を水に濡らさぬよう、やっとのことで渡河したばかりの手取川を、もう一度引き返さなければならぬと聞いて上方軍役諸衆は士気の低下甚だしいものがあった。

 一方謙信はこれより少し前、柴田勢が手取川を渡河しつつあるとの報を得て、全軍に出陣を命じた。七尾と末森の二城を立て続けに陥れて連戦の越軍二万であったが、謙信は残りの衆には

「後で着いてこい」

 とのみ下知しただけで、自らが「定式じょうしきの八千」と定めた精鋭八千名とともに戦域へと急行した。敵は四万の大軍と聞いてはいるが、もとより兵数の寡多を問題にする謙信ではない。如何に人数を取り揃えようとも、自らの采配が行き渡らないようでは意味がない。動きが鈍るだけだ。信玄や信長など当代屈指の弓取は敵に優れた兵力を戦地に投入することに腐心した。これはこれで兵法の常道であり、率いる兵数こそ彼我の戦力の優劣を見定める最も分かり易い目安には違いなかったが、謙信は戦力というものをそのようには考えていない。戦力を最大限発揮して自らの軍略を体現するためには、多すぎる人数がかえって仇になると考えていた。そしてその謙信が、自分の手足の如く意のままに操ることができる兵数として定めたのが「定式の八千」だったわけである。

 自らの手足の如くに操ることを意図しているので、謙信の用兵はいささか乱暴である。この一年とって見ても、能登攻略の兵を起こしてから関東方面への出兵、二度目の七尾城包囲、末森城攻略戦を立て続けに戦っている。定式とされた八千の越後軍役衆はその間、欠かさず武具を手入れしなければならなかったし、出師が布礼出ふれだされるのは決まって唐突であったから深酒をすることも許されない。戦地に赴けば主謙信の采配に従って武具を担ぎ諸方を駆け巡って休む暇もないほどであった。しかし軍略神域に達し、生前既に武勇日本一と讃えられた謙信の手足として立ち働くことは、彼等軍役衆にとって至上の名誉でもあった。そのため、軍規に違犯するなどして定式の人数から外されることは、彼等越後軍役衆にとって切腹よりも厳しい罰とされた。越軍の士気は極めて旺盛であったのである。

 増水した川を目の前に再びこれを渡るのか、とげんなりしていた上方勢の前に、この士気旺盛な一軍が軍神に率いられ出現した。撤退の柴田勢、その先頭が増水した手取川の半ほどに達していたころのことである。未だ河畔にも至らぬ後方の衆から

「敵襲!」

 という声が上がった。勝家は退却を下令したばかりの全軍に対して今度は

「敵襲だ! 取って返せ!」

 と命令を翻すこと二度に及んだ。河中にあって押太鼓の打ち鳴らされる音を聞いた上方勢はしかし、水量の増えた河中で踵を返すのもままならず、その眼前で河畔の味方部隊が次々と越軍の鑓にかかっている様を見て、ただでさえ薄かった戦意を全く喪失してしまった。それでも軍規違犯の咎を恐れる一部の衆は越軍に打ち掛かろうと増えた水に足を取られながら河畔目指して取って返したが、越軍から矢弾が撃ちかけられ撃ち落とされ、空しく川の流れに身を流す者数多あまたに及ぶ。長柄を揃えた越軍はひとかたまりとなって、手取川河畔で分断され右往左往する上方勢に打ち掛かった。

「背後は川だ。何処へ逃げようというのか。戦え」

 勝家は声を涸らして味方諸衆を励ましたが、一度崩れ始めた味方を押し止めることなどできようはずもない。意図せずして背水の陣を敷く形となったが、これなど味方の士気が旺盛であることが前提なのであって、もはや戦意を喪失した柴田勢にとって背後に川が流れている状況で敵襲を受けたことは絶望的といってよかった。水かさの増した川を目の前に逡巡した者は逃げ遅れて越軍の鑓に掛かったし、逃げようという者は慌ただしく河中に乗り入れて溺死する惨状であった。勝家は敗軍の責を負うつもりで討死覚悟のうえ得物を取って敵中に乗り入れようとしたが、馬廻衆は彼を抱え、味方諸衆が続々打ち斃される様を尻目に戦域から逃げ去った。

 京畿に拠って立ち、長篠に武田を破り、旭日の如き勢いを誇った織田勢が久々に被った手酷い敗北であった。世に言う手取川の戦いである。

 柴田勢の中核を成していた敗残の若狭諸衆が領国に流れ込み、京畿は織田勢敗北の噂で持ちきりとなった。洛中では織田方の敗北を皮肉る有名な落首


  上杉に 逢うては織田も 手取川

  はねる謙信 逃げるとぶ長


 が掲げられ、京童の間で唄われたという。なおこれまで陳べてきたように、上方勢の大将は柴田修理亮勝家であって信長は在陣していなかった。いなかったが手酷い敗北が噂を呼んで信長にとっても外聞の悪い話ではあっただろう。

 手取川合戦の規模については大小諸説あるが、この戦いを経て謙信が

「上方の兵は思ったより弱く、この分なら上洛も容易い」

 との所感を抱いたのは事実である。曾て好敵手信玄が望んで果たせなかった北陸道を経由しての上洛の道が、謙信の前に拓かれようとしていた。

 ここからは後日談である。ふたつある。ひとつは兄続連の命を受け安土城へ救援要請に走った長連龍である。彼は信長来援を告げて城方を励ますために七尾城へと返す道中、石川郡倉部浜において兄続連をはじめとする綱連、則直、連常、連盛等一族の首級が晒されていることを知る。綱連末子で信長在所に同道した菊末丸以外、ちょう氏は内応者遊佐続光によって族滅の憂き目を見たのである。連龍は柴田勝家麾下に参じ、七尾城陥落の翌年、謙信死没直後で動揺甚だしい加賀能登方面に歴戦し、仇敵遊佐を執拗に付け狙って討ち取っている。連龍が復讐を果たした後、ほどなくして信長は本能寺に横死した。連龍は引き続き柴田勝家に仕え、彼が没落した後は加賀前田家に仕えて江戸幕藩体制下にその名跡を残すこととなる。

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