手取川の戦い(三)

 もうひとつは軍規に違犯し無断で陣払いした羽柴筑前守秀吉の話である。良人おっとが帰陣したと聞いた於祢おねが、長浜にて秀吉を出迎えて訊いた。

「こんたびはどれほどなお手柄を挙げなすった」

 いつもであればこう訊かれて法螺交じりの手柄話を披露する秀吉だったが今回ばかりはくすりともしない。それどころか不機嫌そうに

「手柄もなんもあったもんか。今日を限りに暇をやる。俺は腹を切るよってに汝は早々に尾張へけぇれ」

 と、わけを説明することもなく言い放つと、具足の紐も解かずに眠り込んでしまった。

 なにやら食欲をそそる馨しさに秀吉が目を覚ますと、広間にはいつもより豪勢な夕餉と、それに酒肴が調えられていた。於祢は女中衆に交じりながら忙しく立ち働いている。

(何がそれほどまでに楽しいのか。楽しいことなどあるものか)

 秀吉はいよいよ不機嫌も極みに達し、

「なにをやっているか。暇を告げたであろう」

 と咎めたが於祢は酒宴の準備をやめる様子がない。それどころか

「ささ、あんた。堅苦しい身形みなりを解きなされ。おっつけ上様から切腹の御使者もお越しでしょう。どうせ切って空っぽになる腹です。今のうちにたんと召し上がって、その腹満たしなされ」

 などと言いながら盃に酒を満たし勧めてくる有様である。おっつけ切腹の御使者がなどと口にしたところを見ると、於祢は軍規違犯の件を家中の誰かしらより聞き、それを知った上でこのように振る舞っているのであろう。そう知ると、秀吉はなにやら肩の荷が少し軽くなったような気がした。秀吉は盃に注いだ酒に映る自分の顔を見て

「なんて不景気なつらだ。呑み干してしまえ」

 と言うと、ぐいとあおって酒盃を空にしてしまった。それからは連日のどんちゃん騒ぎであった。

 秀吉の戦線離脱を聞いて最初は

「軍規に違犯するなど以ての外である」

 と憤怒の極みにあった信長であったが、諸敵が蜂起し畿内を奔り廻っていた時節であって猫の手も借りたいなか、自ら好んで家中より人を放逐する余裕など到底なかったころである。出来れば適当な落としどころを見つけて騒動にけりを付けたいと考えていたところに、どんちゃん騒ぎの噂が届いた。長浜城の蔵から備蓄の米や酒を運び出して連日飲めや歌えの大騒ぎ、秀吉自らひょっとこの面を被り、家中衆を前に珍妙な踊りを踊って見せているそうだ。於祢はそんな良人を手拍子で囃し立て、果ては自分もその躍りに加わって、夫婦揃って阿呆のように踊り狂っているというのである。謀叛に及ぶつもりならば敢えて城の蔵から米や酒を出しはしないだろう。物資を節約して籠城に備えるのが常道だ。秀吉がやっていることはその真逆の行為であった。なので信長は秀吉が連日宴会騒ぎにうつつを抜かしているという噂を耳にして

(謀叛の心根なしと釈明しておるわけか。あの禿ねずみめが)

 と思い至ってにやりとした。そこで信長は秀吉に使者を遣った。いよいよ切腹のお達しかと諦めの境地にあった秀吉だったが、使者の口上伝こうじょうづてに大目玉を喰らった後、案に相違して

「大和信貴山の松永久秀久通父子を攻める。軍規違犯の件もあるので手抜かりのないように。懈怠あらば斬る」

 との命令を得た。秀吉には

「これまでどおり忠節を尽くすなら赦免する」

 という信長の言葉が聞こえてくるようであった。秀吉は発奮し、松永攻めで挙げた軍功ひとかたならぬものがあった。軍規違犯について赦免され、騒動は一応のけりが付いた。

 戦後、秀吉は於祢に訊ねた。

「お前、こうなることを見越して俺に酒宴を勧めたのかえ」

 陰に籠もって本拠地に逼塞などしておれば、かえって謀叛の疑いをかけられ成敗されただろう。連日の酒宴で阿呆のように踊り狂ったことで、信長の警戒心が失せたのだ。少なくとも秀吉はそのようにとらえていた。しかし秀吉からそう訊ねられた於祢は

「なにをええように考えとるんよ、おめでたいねあんたは。んなわけねぇでしょ。ええ暮らしさせてもろうたけど贅沢ももうこれでお終いやと思うと、最後くらいど派手に騒がにゃ損じゃと思うただけですわい」

 と、カラカラ笑いながら言い放った。

「そりゃあまことか。今さらながら背筋がさぶうなっとるわ」

 秀吉はそう言いながら大袈裟にぶるっと震える仕草を見せたのであった。

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