御館の乱(一)

 天下の堅城と喧伝された能登七尾城を陥れ、手取川に上方勢を痛撃した謙信は戦後、

「織田勢は思ったよりも弱く、この分なら上洛も容易い」

 との所感を漏らした、という話は前に陳べた。

 天正五年暮れ、謙信は国内軍役衆の名簿を作成し、更に翌年二月には佐竹義重に対して

「近く越山するつもりである」

 と書き送っている。

 この文書は関東出兵を明示しているが、果たして額面どおりに受け取ることは妥当だろうか。なにしろ軍事行動に関わる文書である。表裏比興は世の常で、軍事行動ともなれば尚更であった。実際越中方面への出兵に先立って、その目標を北信だと惑説を流したこともある謙信である。関東出兵を喧伝しておきながらその実、上洛の軍を起こすつもりだったとしても不思議な点はなにもない。

 しかし謙信による天正六年の軍事行動は幻と消えた。謙信が突然死したのである。

 謙信が倒れたのは天正六年(一五七八)三月九日のことであった。同月十五日の出陣を前に軍役諸衆を召集して、過去に類例のない大軍約六万人が越後府中にたむろする折のことであったという。

 実城みじょう(春日山城本丸)では酒宴が催されていた。間近に迫った出征において必勝を期しての宴だったものだろうか。その出征の目的が上洛だったとしたらと考えると、打倒信長に向けた謙信の自信の一端が垣間見えるようで想像力が掻き立てられる。

 謙信は宴席を中座した。用を足すためであった。

 群臣が宴に興じるなか、

「御実城様はまだ戻らんのか」

 という声が上がったので、群臣のうちの一人が厠の外から声を掛けたが返事がない。

 不審に思った彼が意を決して扉を開くと、謙信は厠において昏倒していたという。呼び起こしたが返事はない。春日山城は宴会どころではなくなった。越後内外から当代の名医が呼び寄せられて懸命の治療が施され、国内社寺には謙信快癒の祈禱が命じられた。

 治療の甲斐あってか、群臣が病床を取り巻くなか、謙信はうっすらと目を開いた。人々は喜んだが謙信はそれ以上に恢復することがなかった。上体を起こすどころか言葉を発することが出来ず、意思疎通もままならない。

 謙信を襲ったのは「不慮之虫気」なる症状であった。

 謙信が酒を好んだことはよく知られている。夜毎一升(約一・八リットル)を飲み干し、采配を握りながら飲酒するために馬上杯なるものまで作らせた。寿像(生前に描かせる肖像画)を描かせれば、自らの陰影に酒盃を描き込ませたとまで伝えられている。想像の及ばぬ構図である。酒肴は小皿に盛った塩や梅干しだったという。孤高の天才にとっては酒が無二の親友で、その閃きには欠かせない存在だったのだろうか。

 この、過度な飲酒と塩分摂取を伴う生活習慣、それに諸記録に遺る病態から見て謙信の死因は脳卒中などの脳血管障害ではないかと推測されている。

 治療が施されているなか、病の恢復を祈った人々であったが、いよいよその死を覚悟したものであろう。群臣は謙信闘病の枕頭に集った。そこへ重臣直江景綱後室が進み出るや、虚ろな目でとこに伏す謙信の顔を覗き込みながら

「跡継ぎは誰になさいますか。景勝様でよろしいですか」

 と問うと、謙信は安堵したような表情を浮かべ首肯したので皆安心した、と伝えられている。

 この逸話を載せる「上杉家御年譜」は米沢藩の公式記録である。藩祖景勝の家督継承の正統性に疑義が生じる事実を排除して編纂された可能性は大いにある。この逸話にしてからが景勝の正統性を主張する上では相当に怪しい。他の選択肢が挙げられておらず、文字どおり景勝ありきのやりとりにとどまっているだからだ。

 公式記録ですらこの有様なのだから、生前謙信は後継者を明示していなかったのだろう。

 三月十三日、謙信は死亡した。享年四十九であった。

 なお謙信が辞世の句

  四十九年 一睡夢

  (四十九年の一生は一睡の夢)

  一期栄華 一杯酒

  (一生の栄華は一杯の酒)

 を詠んだことを根拠として

「辞世の句を詠めたくらいなので、脳卒中ではなかった」

 などと言われることがあるが、死因が脳卒中かどうかはともかく辞世の句は必ずしも死の床で詠まなければならないものではない。文字どおり死に臨んで詠む場合もあったし、生前に準備しておく場合もあった。謙信の辞世を例に挙げると「四十九年」の部分に享年を当てはめるようあらかじめ申し含めておけば良いだけの話である。

 ともあれ酒を主題に、終生これを好んだ謙信らしい辞世ではある。

 以上は余談でしかない。話を戻そう。

 謙信には子が二人いた。生涯不犯を貫いたという伝承を裏付けるかのように、いずれも実子ではない。

 一人は喜平次、後の上杉景勝である。坂戸城を本拠とする上田長尾氏当主政景と、謙信異母姉綾姫との間に生まれた謙信甥である。謙信が景勝に宛てた手紙が現存しており、その中で謙信は景勝が書いた文字が上達したことを賞している。手紙の内容からは慈父の表情が垣間見えるようだ。かわいがられたのであろう。

 入嗣前の景勝は長尾顕景と称して、父政景の死後は上田長尾家の家督を継承した。なお長尾政景の死因については、舟遊びに興じていたところ折から泥酔していたため足を踏み外し水中に転落して溺死したという事故死説と、舟上で斬り捨てられたという暗殺説とがある。景虎の越後統一戦で打ち立てた軍功ひとかたならず、弘治二年(一五五六)には武田晴信の硬軟織り交ぜた大攻勢の前に突如出家を言い出した景虎を高野山まで追い掛けて連れ戻したのは政景であったと伝えられている。これだけならば暗殺される筋合いもない忠臣のように聞こえるが、天文十六年(一五四七)に、府中長尾氏の家督を巡って景虎とその兄晴景が争った際には晴景方に与力しているし、天文十九年には景虎の家督継承になおも反対して挙兵してもいる。翌天文二十年には景虎の姉、綾姫を正室として迎えて正式に景虎と和睦したものであるが、二度までも謙信に楯突いた前歴から、三度目の謀叛を疑われた末の暗殺だったかもしれない。

 もう一人が上杉景虎で、彼は信玄が駿河攻略の軍を起こし、これを打倒するため北条氏康が謙信と結んだ翌年の永禄十二年(一五六九)に、人質として北条家から上杉家に預けられた氏康実子であった。異母兄は北条氏政、異母妹はりんという血筋である。仮名けみょうを三郎と称した。越相の同盟は本来の目的であったはずの対武田戦においてまともに機能することなく終焉を迎えたが、謙信は三郎が殊の外利発であったことから本国に還すことなく養子として迎え入れ、越後で養育した。その際三郎は謙信より自身の初名「景虎」を与えられ、上杉景虎と称することになる。

 現在、謙信が跡目相続をどう考えていたかについては主に三説あって一致を見ていない。

 第一は景勝単独継承説である。養子に迎え入れたとはいえ敵国北条の血族である三郎景虎と比較して、血筋で有利な景勝に家督を相続させようとしていた、とするものだ。現代に伝わる文書のなかで、景勝は謙信の「御実城様」に類似した「御中城様」と表現されているというのも、その補強材料として挙げられる。

 第二は景虎単独継承説。これは軍役状に景虎の軍役が記載されておらず、景虎は軍役を課される側ではなく課す側だったのではないかというのがその根拠である。また謙信の初名である「景虎」を賜っているという事実を以てこの説を唱える人も多い。

 興味深いのは第三説で、

「上杉家家督と弾正少弼の職は景勝に、関東管領職は景虎にそれぞれ相続させる」

 という分割相続説である。実際天正三年(一五七五)、謙信は景勝に弾正少弼を譲っているので一見説得力を持つが、いくら関東管領職を継承したからといって、後の経緯から見ても景虎が自らの出身母体である小田原北条氏を攻撃したとは思われぬ。興味深い説ではあるが現実的とは言えまい。

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