長篠の戦い(十)

 家康はかかる認識を示した上で、忠次に問うた。

「甲軍の、最も弱体なのはいずれと考えるか」

「それは、無論鳶ヶ巣山砦近辺の城塞群に構える牢人衆でござろう」

 忠次は目の前に拡げられた絵図面で、そこを指差しながらこたえた。

 たしかに一門譜代、それに勝頼旗本は精鋭中の精鋭で、信長の後詰を得た上は数に優るとはいえ、一朝にして討ち滅ぼすというわけにはいかない部隊である。それらと比較すれば城塞群に籠もるとはいえこれら牢人衆は、比較的与し易い相手と思われた。甲軍もそのことを自覚してか、付城に籠もらせるばかりで主戦場と目される設楽ヶ原にこれらの部隊を呼び寄せてはいなかった。

「別働隊を編成してこの鳶ヶ巣山砦一帯の武田を駆逐することを献策するというのはどうだ」

「それが出来れば苦労はしません」

 家康の言葉に対して、忠次は即座に否定的な返事をした。

 確かに敵の最も弱体な部分を衝くというのは兵法の常道ではあった。しかしこれを攻めるとなると、常識的には設楽ヶ原は古呂道坂ころみつざかを東進し、鳶ヶ巣山を攻め囲むということになろう。しかし甲軍主力は既に連吾川左岸にずらりと居並んでいるのである。古呂道坂に至ろうと思えば、眼前に展開する甲軍主力を押し破っていかなければならない。まさに、それが出来れば苦労することなど何もなかった。

 忠次はその疑問を家康に呈した。

 すると家康は

「古呂道坂を行こうとするからそうなるのだ。鳶ヶ巣山を南から迂回して、尾根沿いを攻めればよろしい」

 と言ってのけたのである。

 これには忠次もたまげて

「山の間道を分け入って攻めよと仰せか」

 と思わず驚きの声を上げた。

 家康は尾根沿いを攻めればよろしいなどと簡単げに口にはするものの、これがどれほどの難所か本当に主人は知っているのか。忠次は言外にそう含めて叫んだのであった。しかし家康に冗談を言っている様子はない。

「砦を築こうというだけあって山は難所です。殿はよう鷹狩りをなさるからご存知でしょう。ここが如何なる難所か」

「左様、知っておる。知っておればこそ、斯く言うのだ。予期せぬ場所から攻め寄せなければ奇襲になるまい」

「だからといってこれは・・・・・・」

 忠次は絶句した。

 踏破したことのない道なき道であったが、目的地である鳶ヶ巣山一帯の城塞群に到達しようと思えば半日はかかる行程となることは容易に想像できる難所続きの道であった。

「我等の長篠城救援に賭ける意気込みを示さねば、信長公を動かす能わず。行け忠次。信長公本陣へ」

 忠次は家康から授けられた、無謀ともいえる作戦案を引っ提げて、しぶしぶ信長本陣へと赴いた。いうまでもなく、鳶ヶ巣山城塞群への迂回攻撃を提案するためであった。

 家康本陣からの使者と聞いて、最初は丁重にもてなした信長であったが、居並ぶ織田の諸将を前に忠次の口から迂回奇襲の作戦案を聞くや

「どのような妙案かと思えば奇襲などと。小手先の業を弄する児戯に等しい愚策。天下の大軍を率いて東西の雌雄を決する大いくさをおこなう我等が採るべき策に非ず。不愉快だ。下がれ!」

 と大喝して一顧だにせず退けた。

 忠次は恥じて信長本陣を退出しようとしたところ、信長近習森蘭丸が駆け寄せ忠次を呼び止めた。

 何ごとかと聞くと、信長が呼んでいるというのだ。

 先ほど退出するよう大喝されたばかりであるのに何用か、まさか切腹を仰せつけられるのではないかと青ざめながら忠次が出頭した先は、先刻まで諸将が居並んでいた席よりも更に奥まった場所に位置する本営の奥の奥であった。

 信長は急遽出頭した忠次に言った。

「軍議の席は人が多くてどうもいかん。先ほどの案、ここで詳しく聞こう」

 忠次は家康から授けられた作戦案を事細かに述べた。

 忠次自身が不安を感じた山道の案内の件も、家康がこの方面において鷹狩りをおこなった際に知った、道に詳しい者の助力を得さえすれば何とか踏破可能であることを説明し、また狙いは武田方において最も弱体と思しき牢人衆の部隊であること、南からの迂回攻撃は敵方にとって想定外であろうこと、そして更に、徳川家中の有力な武将多数を、鳶ヶ巣山砦攻撃隊として差し向けることを付け加えると、信長は喜んで

「よろしい分かった。徳川殿が家運を賭けてこの作戦をおこなうという覚悟を余は見出した。そうと決まれば助力しない我等ではない」

 と、本作戦に賛意を示し、織田家中の有力武将である金森長親に兵二千と鉄炮五百挺の戦力を預けたのであった。

 戦いに参加することを期待されていたとはいえ、織田方は名目上は軍監の立場であった。翻って徳川方では、表向きの提唱者である酒井忠次を筆頭に松平康忠、松平伊忠これただ、松平家忠などの一門、それに甲軍への復讐に燃える野田城主菅沼定盈、更に長篠城将奥平九八郎貞昌の父定能など、士気の高いこれも二千ばかりの兵が別働隊として編成され、その戦力は合計四千にも達した。

 この四千人は、月の入りを迎え、ただでさえ真っ暗闇のなか、折から降りしきる雨中の山道へと踏み行った。鳶ヶ巣山砦へと向かう、半日にも及ぶ行軍の始まりであった。

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