長篠の戦い(九)

 眼前に居並ぶ甲軍を前に、人々が土塁を築き、或いは尺木を組み上げていく中のことだ。弾正山上に腰を据えた家康本陣に、顔を真っ赤にして怒鳴り込んできた男がひとりあった。酒井忠次である。

「長篠城の直近まで出張っておきながら敵を討つこともなく、この場にて落城を傍観なさるおつもりか。殿はそれでも良いとお考えか」

「そのようなことはない」

 十四も年長の忠次に対し、家康も負けじと怒鳴り返す。

「そのようなことはないが、動かぬものは致し方ないではないか。織田家の兵は飽くまで他国からの援軍。なにもかもお頼み申すというわけには参らん」

 長篠城救出を強く進言する忠次に対し、家康はそのように言い返したのであった。

 家康が言ったとおり、この戦いは徳川と武田の間でおこなわれている戦いであった。信長の兵は飽くまで援軍であり、主として戦うべきは戦いの当事者たる徳川家、というのが建前である。その建前を差し置いて信長の兵に出血を強いるような依頼を出来るわけがなかった。

 だがそもそも、徳川が単独で武田に抗し得るというのなら信長に後詰を求める必要はなかったのであり、それだけに頼みの織田兵が長篠城を目の前にして、土塁と尺木の向こう側に逼塞したことは、俄然家康以下徳川諸将を慌てさせた。

「その、頼みづらいことを依頼するのが国主の役割ではございませんか」

 忠次は噛みつかんばかりの勢いでなおも家康に詰め寄る。

「蒸し暑い! そのように間を詰めるでない」

 家康は手で蠅を追い払うように払って、忠次との間に距離を取った。

 中空を睨みながら家康は、左手の親指の爪を噛み始めた。何ごとか考え込んだり、酷く苛立ったときに家康が見せる悪癖である。忠次は家康のこの癖を嫌い、普段であれば見咎めて、主従の立場も忘れ怒鳴りつけてでもめさせるのであるが、このときは止め立てしなかった。信長を動かすために、なにごとか考えを巡らせているのではないかと思われたためであった。

 ひとしきり考え込んでいた家康は爪を嚙むことを止めて口を開いた。

「ひとつ問うが、もし余が信長公にご出馬を依頼して断られたら、当家で信長公を動かすことの出来る者は他に誰かあるか」

 この問いかけに、忠次は黙り込むよりほかなかった。

 これは家康の言うとおりで、徳川にとって頼みづらいことを頼まなければならぬ立場上、徳川家当主たる家康は、信長と交渉する上で最後まで温存しておくべき切り札であった。忠次が言ったように、国主の役割だからといって最初に切ってしまう手札ではない。家康自ら乗り出した交渉ごとに失敗すれば、徳川としてはそのあとがなくなるからであった。

 この家康の言葉は正論であり、忠次はしぶしぶ

「分かり申した。それがしが信長公陣中に赴き依頼しましょう」

 と言うと、家康は急に生き生きした表情を示しながら

「そうか、行ってくれるか」

 と忠次の両肩に手をやった。

 どうやら家康は、難しい仕事を忠次に押し付けることが出来て上機嫌になっている様子であった。破顔する家康とは対照的に、忠次は苦虫を噛みつぶしたような表情である。

 しかしほどなくして家康は真顔に返り

「して、どのようにして信長公に動いてもらうつもりだ」

 と忠次に問うと、もとより妙案なく、ただ家康経由で信長を動かそうと考えていた忠次だけあって、

「拝み倒します。それでも駄目なら公の眼前にて腹さばいてでも・・・・・・」

 と、勢いのみで以て拝み倒すつもりであることを暴露し、何ら妙策は持ちあわせていない様子であった。

 家康は忠次の言葉を聞きながら

「拝み倒す? 本尊でもあるまいに、拝まれたとて公はお喜びにはなるまい。目の前で腹など掻っ捌かれても迷惑なだけであろう。やめたがいい」

 と冷えきったこたえである。

「では何か他に妙案はおありか」

 忠次は苛立ちを隠すことなく憮然として家康に問うと、家康は

「我等も兵力を割かねばなるまい。自らが主体となって動かねば、信長公は兵を貸しては下さるまい」

 と前置きして続けた。

「信長公は飽くまで後詰のお立場である。余が信長公の立場であれば、徳川の主体的な動きを差し置いて自ら采配することを遠慮するに相違ない。濃尾、畿内の兵の手前もあるだろう。我等が積極的に動く意向を示さねば、信長公とて兵を動かすに動かせないお立場なのだ」

 と前置きした。

 家康の発言はもっともなことで、本戦役は詰まるところ武田と徳川の合戦に他ならなかった。たとえ信長個人として、この戦いによって武田を叩こうと考えていたとしても、武田家と直接的に何ら利害関係を有さない畿内や濃尾の軍役衆を場中ばなか(激戦地帯)に投じる行為は憚られるものであった。強いてそうするというのであれば、本戦の主役たる徳川が作戦を提唱し、しかも徳川が率先してその最前に立つのが筋である。

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