御館の乱(三)

 反景勝派は諸方で蜂起し、或いは御館に参集した。

 御館に集まった彼等は口々に

「喜平次に将器なし」

「上田衆の流れを汲む喜平次の下風になど立てるものか」

 と怒号して気勢を上げた。

 景勝の父政景が二度までも謙信に楯突いたという過去の出来事が、上田長尾家に対する拒絶反応を引き起こした一面もあったわけだ。

 さしあたり御館に逃げ込んだ景虎には、新主景勝に命を狙われたことを契機として本国へ遁走するという選択肢もあった。景虎はそのことを念頭に、御館への遁走を手引きした上杉光徹に対して

「それがしは景勝殿に遺恨あろうはずもございません。妻子を連れて小田原へ帰ります。帰国してしまえば景勝殿がそれがしの命をつけ狙うことも最早ありますまい。御免」

 と申し出たが、光徹は

「待ち給え。一廉ひとかどの将であれば刺客を差し向けられて何もせず逃げ帰る道理はあるまい」

 と景虎を制した。

 もとより光徹とて単に景虎を憐れんで救ったものではない。逃がしてやるだけなら春日山城にほど近い御館おたてなどに入城させるわけがなかった。景虎を御館に入れ、反景勝派の御輿として担ぎ上げる。最初からその肚だったのである。

 光徹は帰国を申し出て渋る景虎の手を引きながら大広間を出ると、そこには具足に身を固めた諸侍が景虎からの下知を待ってたむろしているところであった。養子に迎え入れられた先での家督相続争いなどに興味のなかった景虎は光徹に手を引かれて嫌々ながら諸侍の前に出たものであるけれども、参集した彼等の目から見れば、御館の広間に前関東管領上杉光徹と景虎が並び立って、これよりまさに景勝放逐の檄を飛ばすようにしか見えなかったであろう。

 人々は静まりかえり、その視線が二人に注がれた。光徹は反景勝のために集った人々を目の前にして

「見よ三郎殿。貴公が起つと聞いてこれほどまでに多くの国衆がこの御館に参集したのだ。武家の子として生まれた上は群臣の支持を得て、これに優る冥加があろうか。思うに貴公は永年謙信公の御厚恩を被った身である。これに報いるには簒奪者景勝を誅するより他に道はないと思うがどうか」

 と殊更景虎を焚き付ける発言をした。

 景虎は多数の国衆を前に自己の運命を悟った。即ち自らの意向が那辺にあるかに関わらず、彼等が担ぎ上げた御輿に乗らなければならなくなった運命を自覚したのである。

 もし

「わしは景勝殿と争うつもりはない。国許へ帰る」 

 などと口走ったとしても、妻子ともども殺気立ったこれら軍役衆にこの場で捕縛されるか監禁されるかして、結局は御輿として担がれることは疑いがなかった。

 結局、選択肢は最初から一つしか用意されていなかったのである。

「さあ、賽は投げられた。上杉の家督継承をこの場で宣言されよ」

 光徹に促された景虎は気が進まないのを隠しながら、

「人心を失った景勝に家督を相続する資格はない。今日より余が上杉の当主である。簒奪者喜平次景勝を討たんと欲する者は我に続け」

 と宣言して景勝攻撃を下知すると、諸侍は拳を突き上げ盛大に鬨の声を上げた。

 この瞬間に、越後を二分する大乱「御館の乱」が勃発したのである。

 景勝は景虎が逃げ込んだ先の御館を囲んだが攻めきれず、翌日には三条町奉行東条佐渡守が景勝を見限って春日山城下に放火し、これを合図として御館の景虎方が春日山城を攻め囲んだ。景勝はこれを撃退し、双方短期決戦の機を逸して抗争は泥沼化していくことになる。

 このころ関東の情勢はどうだっただろうか。

 安房、下野など関東諸国を蚕食していた北条氏政に対抗していたのは常陸北部を経営する佐竹義重であった。鶴岡八幡宮において関東管領就任式を挙行してから十八年、連年越山して小田原北条氏と干戈を交えた謙信であったが、冬季は関東との往来が雪で閉ざされるという事情もあって関東方面に領土を拡大しなかった、という話は前に陳べた。

 このような状況が永年続くと北条氏の攻勢の矢面に立たされる関東諸将の間に謙信を見限る動きが出てきたとしてもおかしくはない。実際佐竹義重を中心として結城、宇都宮などが連合し、関東諸将が自主的に北条氏と対峙するようになった。謙信の目が西に向き始めたので、自分の身は自分で守らなければならなくなったのである。

 越後が神余親綱謀叛の疑いに揺れていたころ、佐竹義重等所謂東方之衆が北条方壬生城攻略を目指して連合し押し寄せた。壬生城後詰の必要に迫られた氏政だったが、謙信の死とその後の越後錯乱は小田原にも伝わっており、春日山城三の丸に居館を構える実弟三郎景虎の身の安全が気懸かりで、場合によっては越後に派兵して景虎を救出しなければならないと氏政は考えていた。壬生城後詰と景虎救出という両睨みの立場に立たされたのである。

 その氏政が愁眉を開いたのは

「三郎殿は春日山城を脱出して御館に入ったようです」

 という報せを得たからである。

 氏政は三郎景虎の無事を確認すると後顧の憂いも断たれたとばかりに

「いざ壬生城後詰へ」

 と、大軍を率いて勇躍東方之衆との戦地に赴いたが、その陣中、

「三郎殿が春日山城近郊にて景勝と一戦交えた模様」

 との知らせを聞くや、

「なに、三郎は小田原に帰ってくるのではないのか。喜平次と干戈を交えたとはどういうことか」

 と甚だ困惑した体で使者に問うた。

 使者は

「越後国衆に景勝を見限る動きが出ております。三郎殿はその越後国衆に擁立され、蹶起されたものです」

 と復命した。

 それを聞いて氏政は

(余計なことを)

 と内心秘かに嘆息した。

 景虎が景勝を放逐してしまったならば北条の勢力は一挙に越後まで拡大することになるので一見北条にとって好ましく見えるが、景虎が謙信遺領を引き継ぐということは、同時に謙信が晩年に開いた織田との戦端をも引き継ぐことを意味していた。景虎が対織田戦を戦うことになれば、北条として景虎に加勢しないというわけにはいかなくなるであろう。しかし氏政には信長と戦う気はない。氏政としては景虎の身柄さえ無事であれば良かったのだが、景虎蹶起の報告がほんの一両日遅れたために壬生城後詰を選択してしまったのである。軍は既に戦域に達して東方之衆を目の前に置いていた。越後に向かおうと踵を返せば背後から佐竹勢に痛撃される恐れがあった。目の前の敵を撃砕しなければ戦域から離れることすら出来ないのであるが、東方之衆は小川台と呼ばれる要害に布陣して安易に手出し出来ない。対陣は長期戦の様相を呈し始めていた。

「武田や葦名に景虎支援を要請しましょう」

 という群臣の献言を得るまでもなく、氏政にはこれ以外に採り得る策はなかった。北条は武田に宛てて越後への派兵要請の書状を書き送った。書状は典厩信豊の許にもたらされた。信豊はその氏政書面を携え府第へと赴いた。書面を勝頼に披露し、対応を協議するためであった。

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