八幡原の戦い(二)

 領内に不気味な噂が広がっていた。噂には様々な種類があった。北信川中島は八幡原で越軍と激突した甲軍が、上杉政虎の痛撃を受け這々ほうほうていで戦場を逃げ出したのだとするもの、激闘の末甲軍本営に斬り込んできた政虎によって武田信玄が討ち取られたとするもの、いやさ討ち取られたのは典厩信繁であって、信玄は無事であるが将卒の大多数が討ち取らたとするものであった。これらは押し並べて武田を不利とする噂であったが、一方で、甲軍は敵の鋭鋒を凌ぎきり勝ち鬨の儀を執行したとするもの、或いは甲軍本営に斬り込んだのは政虎本人ではなく荒川伊豆守であり、斬りつけられたのも信玄影武者だったとして、甲軍を有利とする風聞も流れており一定しなかった。

 もし川中島にて甲軍が敗れ去ったというのなら、その戦勝の勢いを駆って南下してくるであろう越軍を、信州のいずれかの地点で食い止めなければならないはずであった。本隊の帰還は大幅にずれ込むことになるだろう。

 しかし甲軍本隊が間もなく帰還するという報せは既に府第にももたらされており、四郎は少なくともこの報せによって、噂話のように甲軍が大敗して逃げ帰ってくるものではないと信じることが出来たのであった。

 ただ、府第の大手をくぐって帰還した本隊の多くは、覆い隠しようもないほどくたびれ果てていたことは事実であった。これらは在地の軍役衆などではなく、府第に詰める信玄旗本衆なのであって、こういった人々の具足がところどころほつれを生じ、或いは血染めの背旗を掲げているところを見ると、八幡原において旗本衆をも戦場に投入しなければならないほどの激戦が戦われたのだということが自然と想起されたのであった。


 本主殿に信玄義信父子を迎え、親族一同がこれを出迎える。

 その筆頭はいうまでもなく信玄正室にして義信実母三条の方である。

 続いて次男龍芳。四郎の異母兄にして信玄次男にあたるこの人物は、疱瘡によって両眼を失明していた。弘治二年(一五五六)九月吉日付瑜伽寺ゆかじ宛晴信願文によって、そのころまでに失明していたか、その危機が迫っていたことが知られている人物である。一時は信濃小県海野家の名跡を継いで海野信親と称したが、十六のころまでに失明して出家し、その政治力は失われていた。

 これに続くべきは三男三郎信之であったが、天文二十二年(一五五三)ころまでに病で亡くなっている。同年没とすれば享年十一歳だったことになる。なお異説として、実は三郎信之は死んでおらず上総武田家に入嗣しており、武田豊信と名を変えていたのだとするものがある。武田豊信は自らの出身母体である甲斐武田家を滅ぼした織田家と、その後継政権である豊臣家に敵愾心を抱き続け、天正十八年(一五九〇)におこなわれた小田原征伐において北条方に与し敗戦、切腹したという説である。

 二十世紀に入って編纂された房総叢書所収の「上総武田氏系図」武田豊信の項に

「実ハ信玄三男」

 と注釈が附されており、かかる異説が唱えられたものではあるが、これなど伝承の類を注釈として附したものであって、史料的裏付けのある話ではない。

 いずれにしても永禄四年当時には三郎信之は在府していなかっただろうから、龍宝に続いて信玄義信父子を出迎えたのは、信玄次女で後の見性院であった。

 四郎の席次はこれに次ぐものであったが、上述のとおり二人の兄は家中における政治力を失っており、実質的な次男といえる立場にあった。

 更に出迎えの一門は続き、信玄の子を腹に宿し臨月の側室油川夫人を筆頭に、三女眞理姫、この年五つの五郎(後の仁科五郎盛信)、四つの菊姫、三つの十郎(後の葛山信貞)。次いで禰津元直娘禰津御料人が、昨年生まれたばかりの七男大勝(後の武田信清)を抱いて四郎の後にずらりと並ぶ。

 

 後世の創作では、信玄と正室三条の方は折り合いが悪かったのだとするものが多い。後に信玄が義信を生害したことで、このような説がまことしやかに唱えられたのであろう。しかし信玄と三条の方との間には、太郎義信、龍宝、三郎信之の他に長女で既に小田原北条家氏政の正室として嫁いだ黄梅院、それに次女見性院があり、また眞理姫も、実は油川夫人との間の子ではなく三条の方との間に生まれたのだとする説もあって、だとすれば信玄は、三条の方との間に三男三女計六人の子をもうけていることになる。仲が悪かったとは到底思えない。

 油川夫人との間でも二男は確実、女子については、先述の眞理姫を三条の方の子とするか、油川夫人の子とするかで違いは出てくるが、少なくとも二女(菊姫と松姫)は確実にもうけているわけであり、このように概観すれば、信玄が諏方御料人(於福)と禰津御料人との間にもうけた子がそれぞれ四郎勝頼と大勝だけだったということの方が異例である。

 禰津御料人は兎も角、於福にとって信玄は、父諏方頼重のかたきであった。三男三女(または三男二女)をもうけた三条の方との不仲を疑うよりも、於福との不仲を疑う方が蓋然性は高いというわけである。但し於福の病がいよいよ重篤であると知った信玄が、当時犀川において対陣していた長尾景虎と、殆ど得るところのない和議を取り結んで陣払いし、上原城の於福を見舞ったという逸話もある。於福は直後に亡くなってしまうから、不仲を云々するよりも生来病弱だったのであり、二人目以降を望めなかったとした方が正しいだろう。

 

 さてこのように一門がずらりと並んで信玄義信父子を迎える中、帰還の祝辞を述べるのは信玄正室にして義信実母三条の方のいつもの役割であった。

「御屋形様におかれましては、御戦勝を重ねられ、まことにおめでとうございます」

 一門は三条の方が祝辞を述べ終えるのを合図に、一斉に伏した。

「余が不在中、大事なかったか」

「はい。みな心を一つにして、御屋形様と太郎義信殿の御無事と御戦勝を祈っておりました」

「うむ」

 信玄は満足そうに頷くと、それまでの硬い表情を途端に崩し、

「五郎、十郎、それに菊。仲良くしておったか」

 というと、油川夫人との間に生まれたこれらの幼子おさなご達は、待ってましたとでも言わんばかりに、未だ具足も解かぬ信玄の膝に無邪気に飛びつきじゃれついたのであった。その小さな子供達を担ぎ上げたりくすぐったりする信玄。長陣を終えて帰還したときには、毎度このように子供達と戯れる姿を、信玄は隠すことがなかった。

 その光景を眺めながら四郎は、自分はいつの頃からあのように父にじゃれつくことがなくなったのだろうというようなことをぼんやりと考えていた。あまりにぼんやりとしていたものだから、四郎は信玄の隣に座する義信が、冷え切った眼で父を睨んでいることに、全く気付くことがなかったのであった。

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