八幡原の戦い(一)

 釜無川の堤に並んで座る二人の姿がある。四郎勝頼と長老(後の武田信豊)である。長老は手にした小石を川面かわもに投げ捨てて言った。

「私も、早う初陣の芝を踏みとうございます」

「焦るな。どんなに嫌がっていても、通らねばならぬ道だ」

 四郎は長老と同じように手にした石礫を釜無川に投げ込んだ。水量はさほど多くなく、水しぶきもほんの挨拶程度にしか上がらない。ここ数年、甲斐は日照りと大雨を交互に繰り返して凶作が続いていた。今年は雨が少ない年だった。

「四郎様は初陣が嫌ですか」

「そんなことはない」

「そう言っているように聞こえます」

「馬鹿を言うな」

 長老は、四郎が初陣を指して

「嫌がっても通らねばならぬ道」

 と喩えたことを聞き、初陣が嫌なのかと咎めたものであった。

 間もなく元服を迎えるであろう四郎にとって、初陣の芝(戦場)を踏むということは、あと数年の猶予がある長老にとってよりも、一層眼前に差し迫った問題であった。これまで山本勘助や飯冨兵部など歴戦の武者にせがんで、戦場での手柄話を聞かせてもらったことがある四郎である。出来れば一日でも早くその日を迎え、戦陣に身を投じたいという思いは長老などと較べてもずっと強いものがあった。

 いずれ遠からず戦陣に至るという重圧が、

「避けては通れぬ道」

 という言い回しになって四郎の口から飛び出たのだ。

 それだけの話であって、四郎は殊更初陣を避けたいとは思っていなかった。しかし、差し迫った問題として捉えるには長老はまだ幼すぎた。

 四郎は

(こいつに言っても無駄だろうな)

 と論争を諦めて、何気なく遠く西の空を眺めた。

「あれは!」

 四郎は思わず叫んだ。

 見上げた西の空に、真っ直ぐ立ち上る狼煙を見たのだ。

 無論、狼煙台から立ち上る狼煙の意味を知らぬ二人ではない。

「長老は後から帰ってこい。俺は先に館へ帰る」

 四郎はそう言うと、あっという間に駿馬に跨がって躑躅ヶ崎館へと馬を駆ったのであった。

 騎馬を励まし府第(躑躅ヶ崎館)への帰路を急ぐ四郎。その後から、背の指物を靡かせながら一騎の武者が、あっという間に駆け寄せ四郎に追いつき追い越した。狼煙を上げた城砦から派遣された、使番と思しき騎馬武者であった。武者は追い越した四郎に一瞥もくれず府第への道を駆けていった。武者の馬術は巧みであって、近年ようやく馬を駆るようになった四郎とはその技量において雲泥の差であった。

(俺が戦場で相手をしなければならない敵も、ああいった連中なのだ)

 四郎はそう思うと、初陣が途端に恐ろしいもののように思われてきた。

(次にいくさがあったときは父に同道を願い出るのではなかったのか。何を恐れているのだ)

 四郎は騎馬を励ました。

 俄に立ち上がってきた恐怖心を振り払うためであった。

 四郎が目にした狼煙と、四郎を追い越した使番は北信海津城が上げた狼煙を甲斐府中にまで伝達するためのものであった。

 その意味するところこそ

「越軍見ゆ」

 との急報であった。

 四郎は依然元服も迎えておらず、具足召し始めの儀式も経てはいない身であって、初陣を踏む資格を備えていないことなど百も承知でありながら、父信玄に戦場への同道を願い出るつもりだったのだ。それは四郎がつい最近思い立ったものであった。

 信玄は越軍襲来と聞けば、すぐさま諸将を大広間に招集して軍議を開催するに違いなかった。軍議は出陣と一決するはずで、さほど時間もかからず終えるものと思われたが、そうと決まれば一刻の猶予もなく出陣の準備に取り掛からなければならなかった。あまつさえ敵方に先手を打たれての出陣であった。出師の準備にもたつけば、陣地や戦域の選定などあらゆる面で不利を強いられかねない。

(なんとか軍議が開かれる前に父に同道を願い出なければ・・・・・・)

 四郎は焦ったが、焦りばかりが募り、足がすくんで、どうしても父の許に赴くことが出来ない。父は諸将の参集を待つ間も、頭の中で必死に対応策を考えているに違いなかった。同道を願い出るなどという暴挙にも等しい行為をして、その父の邪魔をすることは四郎にも憚られたし、なによりも自分が同道を願い出て、まかり間違って許されでもすれば、以前より聞かされて、話の上では知っていた戦場というものを目の当たりにするのだと思うと、どうにも否定しようがない恐怖心がやはり内奥から湧き上がってくるのである。四郎は柱の陰から大広間をちらりと覗き見てはまた隠れる、というようなことを独り繰り返していた。

 頭巾を被った浅黒い肌の老人が、片脚引き摺りながら広間へと入っていく。山本勘助だ。続いて長老の父親にして四郎の叔父、典厩信繁が続く。四郎にとっては躾に厳しい、恐ろしい叔父であった。

 その他、綺羅星の如き諸将が続々と大広間に参集した。原隼人佑、穴山左衛門、小山田左兵衛尉、飯冨兵部少輔虎昌、同源四郎昌景等であった。四郎は彼等宿老が広間に入る前に父に同道を願い出る時宜を完全に逸してしまった。

 柱に寄りかかりながら溜息を吐いた刹那、四郎の背後から突如

「諏方四郎殿ではないか。このようなところで何をこそこそしているのだ」

 と、声を掛けてきた者があった。

 四郎が息を呑むほど驚いて振り返ると、そこにいたのは工藤源左衛門尉祐長であった。工藤源左衛門尉といえば、山本勘助の薫陶を受け、若手将校の中では一二を争う戦上手で知られていた。その実力を鼻にかけてか、未だ戦場に至ったこともない四郎に対する態度は尊大そのものであった。

 だがそれも無理のない話である。

 世を挙げての下剋上であった。武士とは即ち武をもっぱらとする者なのであって、戦場で挙げた手柄、本人の武勇こそが彼等の信じる唯一のものであった。これまで幾度も余人の及ばぬ手柄を挙げてきた工藤源左衛門尉が、国主信玄の実子とはいえ庶子、しかも他家の養子として出され、未だ初陣の芝も踏まぬ四郎を重んずる謂われがそもそもない。

「これより軍議しようという我等の足手まといになるようなことだけはなされますな」

 工藤源左衛門尉はそのようにいうと、広間へと消えていったのであった。

 四郎は諸将に先んじて広間に上がり込み、父信玄にこの度の出陣に同道を願い出る時宜を逸してしまった。そしてそれは、ひとり四郎勝頼が予てより耳にする戦場の様相に恐怖して二の足を踏んだからに違いなかったが、四郎勝頼は背後から突如声を掛け、殊更に自分を軽んずるようなことを言った工藤源左衛門尉祐長に邪魔だてされたからだと逆恨みの心根を抱いたのであった。

 四郎勝頼がひとり府第の廊下で地団駄を踏んでいると、思ったとおり軍議はあっという間に終わって諸将が緊張の面持ちで何処かへと散会していく。それぞれ本貫地や在番城に帰って出陣準備に取り掛かるためと思われた。四郎勝頼は信玄書斎を訪れる決心をした。

 既に忙しく立ち働いている近習ひとりを四郎勝頼はつかまえて

「父に拝謁したい」

 と申し出ると、その近習は信玄庶子が父の出陣に先立って無事と戦勝を祈る言葉でも贈るものかと考えて書斎の信玄に四郎来訪を告げると、間もなく四郎勝頼は書斎へと通された。

「如何した勝頼」

 普段は泰然としてある信玄も、さすがにこのときばかりは寸刻も惜しかったので「早う用件を述べよ」とでも言いたげである。そのことを読み取らない四郎ではなく、意を決して

「この度の出陣に同道つかまつりとうございます」

 と単刀直入に切り出した。

 信玄は驚きの声こそ上げはしなかったものの、甚だ困惑したてい

「そなたは未だ具足召し始めの儀も済ませてはおらんではないか。また当家は軍役衆に対し、幼年の者のいくさ場への同道を認めておらん。そなたを同道するということは武田の名の下に発した軍役状を自らないがしろにする行いであり、聞き届けがたい」

 と難色を示した。しかし四郎は引き下がらない。

「確かに私は未だ具足召し始めの儀も経てはおりません。そのような身でありながら芝への同道を願い出ることが前代未聞の所業であることもよく心得ておるつもりです。さりながら敢えて同道を願いでたる所以は、私は数年のうちに具足召し始めの儀を経る立場であって、そうなれば御父上様や、ゆくゆくは兄上(武田太郎義信のこと)の手足となって先陣承らねばならぬ己が立場をわきまえておるゆえでございます。時節が到来したそのときに、戦場での身の振り方も知らず、慌てふためくような醜態を私は晒したくはありません。したがって無理を承知でこのように願い出ているのでございます」

 四郎勝頼は思うところを隠すことなく言った。

 出陣準備と四郎からの思わぬ面謁の要請に、最初は困惑するばかりだった信玄であったが、その表情はいつもの泰然としてある父のそれに戻っていた。信玄は低いが、しかし腹の底に響くような声でこたえた。

「ならぬ」

げてお願い致します」

「ならぬものはならぬ。着到をつける側が禁を犯しては、他に示しがつかん」

「私の心根を汲んでいただきとうございます」

 いくら諭しても引き下がらぬとみたのか、信玄はそのままぷいと四郎に背を向けてしまい、もはや四郎に構わず、右筆を呼び寄せては各勢力に送る手紙をしたためめ始めた。信玄は右筆に向かって手紙に認めるべき内容を口述しながら立ち上がった。近習達はその信玄に群がって具足の装着を手伝い始めた。板の間に伏す四郎に構う者は誰一人いなかった。四郎はむなしく信玄書斎を引き上げるより他なかった。

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